勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

カテゴリ: 音楽

デジタルコピーの時代~0年代の音楽メディア受容

CDによって出現したもの。それはコピー文化のさらなる進展、そしてカセット・テープとウォークマンの終わりだった。当初CD-ROMは音楽専用のように扱われていたが、これがパソコンのデータを扱うディスケットとして装備されるようになる。しかも、それもまたCD-ROM=読み込み専用からCD-R/CD-RWへ、つまり書き込み可能なドライブへと変化する。もちろん、これで音楽のデータを取り込むことも可能。それは要するにCDの音質を全く落とすことなく、しかも素速くコピーすることを意味していた。

カセットは音質的にCDやレコードにはかなわない。レンジは狭く、ノイズも常態となっているし、聴き続けていけば次第に音は劣化する(高音がボケ、低音がボヤボヤし、ノイズが増え、最後はタイル張りの風呂場で流す音みたいになる)。一方、CDにはこれがない。しかしカセットにはコンパクト=つまり可搬性が高いという利点があった(CD出現当初はCDに比べはるかに廉価でもあった。生CD一枚1000円なんて価格だったのだ。カセットは数百円程度)。だからCDドライブが普及し始めた90年代後半ではあっても、まだカセットが主流だった。つまりCDからカセットへコピーしてウォークマンで聴くというのが一般的だった。

だが、CD再生形態の攻防の中で、カセットという録音メディアの牙城が崩れていく。要は、遙かに音のよいCDをどう携帯するかが次世代音楽ハードの存在条件となり、これをクリアしたものが覇権を握るということになったのだ。SONYはこれを察してウォークマンの次の世代、ウォークマンのCD盤であるディスクマン(後にCDウォークマン)を発売している。これだと音はよいし、コピーしたCDも聴ける。ただしディスクは直径12cmもあったので携帯性ではカセット(10cm×6cm)に劣っていた。またMD(ミニディスク。直径6.4cm)というメディアも登場し、こちらもSONYはMDウォークマンを発売したりもした(ただし、メディアが高価だった)。しかし、これらはいずれも音楽データをハードメディアに置き換える際に手間がかかるという点についてはカセットと同様だった。つまり「面倒くさい」。

iPodの出現

カセットそしてウォークマンの終わりは2001年、Apple(当時はアップル・コンピューター)がiPodを発表したことに始まる。iPodは音の劣化がほとんどなく(AIFFからMP3あるいはAAC形式に変換するため実際には音質が落ちたが、素人の耳にはほとんどわからない)、ハード・ディスクにコピーする形式だったので大量のコレクションを収めることが出来た(当初は1000曲程度)。つまり、ウォークマン以来の“伝統”だった「ハード・メディアをいちいち入れ替える必要」がなかった。また、パソコンのソフト・iTunesを経由して音楽データを取り込むので、そのコピーはあっという間だった(同期が自動的に行われた。それ以前の音楽プレイヤーソフトは操作が煩雑で、一般には馴染まないものだった)。iPodはカセット、CD、そしてMDに対し全ての面で圧倒的なアドバンテージを備えていたのだ。しかも、これがウォークマン以上に小さな筐体に収められたのだから、まさに「鬼に金棒」状態だった。

レンタル、仲間内の貸借、そしてダウンロード

そして、この「鬼に金棒」状態を決定的にしたのが2003年のiTunesWindows版の無料配布開始で、逆にこれでウォークマンの終わりも決定的になる。圧倒的なユーザーを誇るWindowsマシン上でiTunesとiPodが連携するようになれば、もはや誰もが前述したような容易な音楽ソースの確保、コレクションが可能になる。iPodは瞬く間に普及し、覇権をウォークマンから奪い取り、Appleの主力商品にまでなっていった。ちなみにiTunesの場合、レンタルCDはもちろん、ネット上から取り込んだMP3ファイルもライブラリーに加えることが出来る。そこで若者たちはCDレンタル、仲間との貸借、そしてネット上からのダウンロード(YouTubeやダウンロードサイト、ダウンロード・アプリ等)によってiTunesに次々とコレクションを登録。これをiPodで楽しむというスタイルが一般化したのだ(その一方でiTunesはダウンロードの乱用から音楽販売を守るという、逆説的な役割も果たしたのだが。つまり子供はコピーで大人はダウンロード購入という棲み分け)。

この流れはさらに2008年以降のiPhoneをはじめとするスマートフォンの普及で決定的なものとなる。それは言うまでもないことだがカセット、そしてカセット型ウォークマン(CD型、MD型も含めて)の死を意味していた(iPodのようなデジタル・プレイヤーとしてのウォークマンは2006年に発売されているが、利便性(データの取り込みなど)でiPodよりは劣っている。また発売時点でデジタル・プレイヤーの覇権はすでにiPod=iTunesに握られていたため、もはや入り込む隙間がなかった。だから、かつてのカセット型のような力を持ち得ていない。音質的にはウォークマンのほうがiPodよりもよいのだが、素人の耳にはやはりほとんど区別がつかない)。

そして2015、今度はiTunesがアブナイ?~音楽を所有するという習慣が消滅する?

ここまで、ジュークボックス/電蓄/セパレートステレオ(レコード)→オーディオ(レコード、カセット)→ウォークマン(カセット、CD)→iPod/スマホ(MP3などのデジタル・データ)という「音楽受容機器の変容」をたどってきた。じゃあ、iTunesがこれからも覇権を握り続けるのか?いや、そんなことはない。iTunesさえも、安泰ではいられないのだ。というのも、メディアの重層決定はエンドレスだからだ。言い換えれば、音楽聴取スタイルの変容はとどまることを知らない。

iTunes販売に陰り~音楽所有の終わり

2014年、今度はiTunesのダウンロード販売が頭打ちになり、下降線を辿っている。これはSpotify、Sony Music Unlimitedなどの定額聴き放題サービス、いわゆるサブスクリプション・サービスの普及に基づいている。これらでは1000万曲を超えるコレクション(最大のSpotifyは1600万曲)をストリーミング、あるいはダウンロードによって聴くことが可能になる。これに馴染んだリスナーたちは、遂に音楽をコレクションする、所有するという考え方自体を放棄しつつあるのだ(サブスクリプションは、いわば「図書館」。言い換えればコレクションはすでにそこにある)。80年代からCDのコピーを巡って繰り広げられてきた音楽受容の攻防は、iTunes=iPod/スマホによってCDそれ自体を駆逐、つまり消滅させようとしているが、今度はサブスクリプションが「音楽所有=コレクション」という概念を消滅させようとしているのだ。つまりレコード、カセット、CD、iPod(この場合ハードディスク、あるいはメモリー)という物理的なハードメディアを不要とし、音楽だけを純粋に楽しもうする習慣=音楽聴取スタイルの誕生の兆しが見えている。

こうなると、今度はデータであったとしても、あくまで音楽を「販売する」というビジネス形態を採っているiTunesの雲行きがあやしくなってくる。iTunesはデータのダウンロード販売といっても、そこには依然として音楽所有=コレクションという認識が前提(つまり「音楽を購入する=所有する」)されているのだから。いやはや「メディアの重層決定」、なんととどまることを知らないことか(ちなみにSONYが現在志向している高音質再生機器、いわゆるハイレゾ・マシーンだが、これがヒットするかどうかは未知数だ。もはやiPodレベルの音質で一般ユーザーはすっかり満足しているのだから。また、これも「所有」という概念にとらわれているのだから)。

Beats買収はiTunesの次の一手

もちろん、Appleも音楽受容の新たな変化に対して手をこまねいているわけではない。次世代の「コレクションの認識無き音楽視聴スタイル」への適応へ向けて次の一手を考えていることは、もうご存知の方も多いだろう。Appleは今年5月、そのデザインと音質(ドスドスと響く低音強調がウリ。分解能力を基調とするモニター音が好きな僕は一切魅力を感じないが)で若者に絶大な人気を誇るヘッドフォンメーカーのBeatsを30億ドルというAppleとしては過去最大の金額で買収した。だが、AppleがBeatsを買収したねらいはヘッドフォンではなくBeatsが所有するサブスクリプション・サービスのBeats Musicにあると考えた方がよい。つまりAppleはiTunesにBeats Musicを組み込み、サブスクリプションを始めようと画策しているのだ。

もし、現在圧倒的なシェアを誇るiTunesがサブスクリプションを始めたとしたら(一説には来年の5月と言われている)、恐らくサブスクリプションによる音楽聴取スタイルは一気に進んでしまうだろう。Appleのことだから、iTunesやiPhoneをリリースしたときと同様、ものすごく簡単にこれにアクセス可能になるようなインターフェイスを用意することは間違いない(ちなみに僕は現在、Sony Music Unlimitedのサブスクリプション・サービスを利用しているが、実に使いづらい。重いし)。そしてiTunesは現在覇権を握っている。ということは、つまり、あなたのスマホにインストールされているiTunesに、ある日、突然サブスクリプション・サービスの機能が加わり、チョコッとアカウント・サービスをいじることで、これまでと同じようにiTunesを操作しながら、膨大な音楽のコレクションの海に身を投げるという事態をとんでもなく膨大なユーザーたちが始めるのだ。で、これによって他のサブスクリプション・サービスが駆逐されていく。Appleとしてはこんなシナリオなのではなかろうか。

そうなれば、またもやここでわれわれの音楽聴取形態はさらに変容してしまうだろう。もちろん、それがどうなるかは未知数だ。ただし音楽のパーソナル化を何らかのかたちで一層進めること。これだけは間違いないだろう。

80年代、カセット、カセットデッキ、オーディオも安泰ではなくなっていく

ここまでジュークボックスの隆盛と衰退を引き合いに、70年代における、音楽にまつわるメディア・テクノロジーと聴取形態の変容について考えてきた。で、カセット、デッキ、FM、オーディオの出現と、それとクロス・フェードするかたちでのジュークボックスの衰退を確認してきた。こういった70年代における音楽メディアの変容、意外と語られていないんじゃないだろうか。

だが、こういった変容(つまりオールド・メディアとニュー・メディアが攻防を繰り広げる「重層決定」)は、その後、80年代以降の音楽受容・聴取形態の変容と、ある意味相同性をなすと言ってもよいのかも知れない。つまり、その後、やはり同じような図式が繰り返される。しかも、何度も何度も。そして、それがいまだに続いている。そこで、今回、特集のまとめとして80年代以降の変容について考えてみたい。

ウォークマンがもたらしたサウンド・スケープ的聴取スタイル

70年代、わが世の春を迎えたオーディオとデッキだったが、80年代になると次世代の音楽メディアが登場する。言うまでもなく、ウォークマンだ。ウォークマンはオーディオ機器から録音機能とスピーカーを取り去り、ヘッドフォンあるいはイヤホンで聴くという、音楽機能の削減を行ったメディア機器だったが、これがリスナーたちに音楽の携帯化に伴う「サウンドスケープ」という聴取行動を誕生させ、大ヒットを遂げる。この概念自体はM.シェーファーが提唱したもので、一般に「音の風景」と呼ばれるが、ウォークマンでは音を持ち歩くことによって、任意に風景に対して音の意味づけ(あるいは音に対する風景の意味づけ)を行う視聴スタイルととらえられた。『ドラえもん』のひみつ道具になぞらえれば、ウォークマンはさながら「ムード盛り上げ楽団」として機能したのだ。だが、これによってオーディオ=コンポーネント・ステレオに対する人気は後退する。音楽聴取がデッキやラジカセで録音し、最終的にウォークマンで聴くというスタイルに転じたからだ。もちろん、これはさらなる音楽聴取のパーソナル化でもあった。つまり1.ジューク・ボックス=共同聴取、2.セパレート・ステレオ=家庭内共同聴取、3.カセット・デッキ/ラジカセ=個室内でのパーソナル聴取、4.ウォークマン=パブリックな空間でのパーソナル聴取という流れ(初代ウォークマンにはライン・ジャックが二つあった。またホット・ラインというスイッチもあり、これを入れると本体に内蔵されたマイクを通してヘッドフォンを装着した2人が会話可能となった。ただし、これは明らかにミス・マーケティング。ウォークマンを2人で聴くというシチュエーションはほとんど成立せず、二世代目には外されている。ウォークマンは端からパーソナル・メディアだったのだ)。そして、これらの流れは、要するに音楽のパーソナル化が、今後も不可逆的に進行していくことを意味していた。

オーディオの小型化、デッキとの一帯化

80年代、ウォークマンを軸とした音楽聴取の普及は、70年代にカセットやFM果たしたのと同様、音楽を巡るメディア環境を変容させることになる。

まずオーディオとデッキ。これはウォークマンで聴くためのコピー・マシン的な位置づけとなった。もちろん家庭でオーディオが聴かれないようになったわけではない。ただし、音楽聴取としてはウォークマンの脇役的な位置に置かれるようになる。その結果、オーディオはウォークマン同様、よりパーソナルな環境で楽しまれるようになる。それゆえ、小さな音で聴かれるようにもなった。ガンガン鳴らすほど住宅環境はよくなかったし、その辺のオーディオで聴くよりウォークマンで聴いた方が音がいいという事実もあった。オーディオはこういった用途のために利用される道具と位置づけられ、どんどん小型化していった。やがてオーディオとデッキは一体化され、一般ユーザーからはカセットデッキ購入というスタイルが消えていく。

レンタルショップの出現

こういったオーディオの小型化とコピー・マシンとしての機能はレンタルレコードショップの出現、CDの誕生によって拍車がかかる。

先ず前者について。1980年、三鷹にレンタル・レコードショップ藜紅堂(立教大生による学生企業)がオープンする。レコードを一泊二日300円程度でレンタルするというビジネス。つまり、現在TSUTAYAがやっているビジネス方式の先駆けだったのだが、これがアッという間に普及する。このビジネスが成立したのは、言うまでもなくオーディオでコピーが出来るという必要条件に基づいていた。それゆえ、著作権を巡って揉めることになるのだが(85年に貸与権が成立して解決)、そんなことはお構いなしに全国中にレンタルレコード店が生まれ、それが結局、現在のTSUTAYAへと収斂していくことになる。

レンタルレコード店の普及はFMからのエアチェックという習慣を衰退させる。一枚300円程度でコピーできるならそんなに懐も痛まない。しかもレコードからの直接コピーだから、ノイズがありレンジの狭いFM音源よりは遙かに良質。費用対効果は高いと貧乏な学生レベルでさえも感じたからだ。だいいち、エアチェックはFM雑誌を購入して狙った音源がオンエアーされるのを待たねばならないし、お目当ての曲やアルバムが放送されるかどうかは未知数。一方、新盤が並ぶレンタルレコード屋へ行けば、こういった悩みは解消される。

CDの誕生

次にCDの誕生だ。82年から発売が開始されたCD。当初はメディア、プレイヤーともに高額で、マニアが手を伸ばす程度だったが、次第に廉価になり普及。86年には販売枚数でCDはレコードを追い抜くまでに至る。CDはレコードに比べてさらに音質が高く、ノイズもない。しかもその名の通りコンパクト。持ち運びが簡単だ。これは仲間内の貸し借りもレンタルも簡単ということ(レンタルしても傷が付きにくいのでトラブルになる可能性が低い)でもあった。ということは、こうやってあっちこっちからお好みの音楽をチョイスすれば自分のライブラリーが簡単に出来上がるということになったのだ。

しかし、こういった音楽ソース、コピー・ソース入手の易化は”諸刃の剣”でもあった。自分の好みをどんどん徹底していけばどうなるか。まずFMなどというものは完全にアウト・オブ・眼中になる。好みの曲がかかるなんてことが期待薄になるからだ。だから70年代みたいにFMに真剣に耳を傾けるヤツなんかいなくなる(言い換えればFMはAMと同様「聴き流すもの」になった)。次に貸し借り。これもまた嗜好が細分化したために、仲間であったとしても音楽に関する好みが異なってしまう。ということは、仲間が所有しているCDはもはやコレクション候補にあがってこない。そこで、結局、レンタル・レコード改めレンタル・ショップ、煎じ詰めればTSUTAYAへと日参するということになった。そう、80~90年代、音楽聴取のパーソナル化はさらに一歩進んだのだ。

しかし、パーソナル化についてはまだ、いやまだまだ先があった。21世紀、今度はウォークマンにその消滅の運命が訪れたのだ。(続く)

FM放送の出現

ジューク・ボックスの消滅過程を糸口に70年代の音楽聴取形態の変遷について考えている。今回は第二回。「ジューク・ボックスの消滅」について。

70年前後、もちろん、レコード以外にも音楽聴取メディアは存在した。一つはラジオ聴取だ。1965年、NHKによってFMによるステレオ放送が開始され、1970年にはFM東京が開局。FM放送はAM(こちらは深夜放送などで若者に人気を博していた)よりも数段音がよく、しかもステレオ放送が聴ける魅力的なメディアとして出現する。この時期、放送を録音可能なテープ・デッキも存在した。つまり、これを録音すればコレクションを作成することは可能だった。ただし、それは映画フィルムみたいなテープを使ったオープンリール型のデッキ。高額であり、操作もややこしく(テープの取り替えが面倒、ライン端子がないなど)、しかも何のために利用するのかちょっと疑問なものでもあった(レコードをコピーするなんてことは現実的ではなかった。生テープが高いので、購入して録音するよりもレコードを購入した方が安かったのだ)。たとえば、一部のマニア(とりわけクラッシックの)が、NHK-FMが放送していた海外の音楽ライブを録音して楽しむなんて使い方のがあった程度(作家の五味康祐はバイロイト・フィスティバルで演奏された「ニーベルングの指輪」の全てを毎年録音していたことで有名)。だから、これらはまだまた一般的ではなかった。

オーディオブームとカセット・デッキ出現による音楽聴取の個人化

電蓄、ステレオ、そしてジューク・ボックス、三つのメディアの棲み分けが明確だった70年代初頭。ところが73年頃からこの構図が崩れ始める。これらがいずれも全く別のメディアに置き換えられていくのだ。また、それによって音楽聴取のスタイルも変容していく。それは、いうならば「音楽のパーソナル化」だった。

先ずカセット・テープレコーダー、それに引き続くカセット・デッキの普及だ。オランダ・フィリップス社はカセット・テープを60年代初頭に開発していたが、これが70年代になって質を上げ、TDKやSONYなどがテープを発売し始める。これによって録音という行為が一般的なものになっていくのだが、これをカジュアルかつ携帯可能なものとして重宝されたのがラジカセだった。ラジカセ自体もアイワが1968年に発売を開始していたが、ここに前述した高音質のFM放送が重なる。FMではコンテンツとして新譜が頻繁に放送された。放送ではシングルのみならず、場合によってはアルバム全て(多くの場合は片面=半分だったが)をそのままオン・エアーするというかたちを採用した。こうなるとFMの音楽放送をカセットテープで録音する習慣が生まれる。ラジオのソースをコピーすればライブラリーの出来上がりというわけだ。こういった行為は「エアチェック」と呼ばれ、あアッという間に若年層(下は中学生くらいまで)普及するようになる。また、これを煽ったのが『FM fan』『FMレコパル』といったFM情報誌だった(『FM fan』の創刊は66年。ただしブレイクは74~75年あたり。しかも当初はクラッシックとオーディオ(長岡鉄男の評論が人気だった)に特化されていた。『FMレコパル』の創刊は74年)。これら雑誌のウリは巻末のNHK-FMとFM東京の二週間分のプログラム。要するに、これを購入し、どの番組をエア・チェックするのかを吟味するというわけだった。

こういった、いわば「コピー文化」は、さらに一歩前進する。牽引車となったのはオーディオ・ブーム、そしてカセット・デッキの登場だった。これらは、よりHI-FIで音楽を本格的に聴きたいという輩にとっては、それまでの家具調ステレオが陳腐なものに見えてくる効果をもたらす。つまり「アレは音楽を聴く装置じゃなくて家具」という位置づけ。だからイケてない。そこでアンプ、チューナー、スピーカー、ターンテーブルを分離して機能美溢れるかたちで再生機器が売り出された。これらは組み合わせることから、総称してコンポーネント・ステレオと呼ばれた。そのメタリック調でメカニカルなデザイン、そして小ぶりなそれは、まさにセパレート型の家具調ステレオへのアンチ・テーゼとも言うべきデザイン。実際はともかくとして、いかにも「音質にこだわる」といった装いだった(コンポーネント・ステレオは安価なセット販売(SONYのListenシリーズなどが典型)と、それぞれを高額で別売りするスタイルへと分化する。前者は「シスコン」、後者はバラして売るので「バラコン」と呼ばれた)。以降、コンポーネント・ステレオは一般にオーディオという名で呼ばれることになるのだが、これが70年代前半のオーディオ・ブームへと結実する。電器メーカーはこぞって独自のオーディオ・ブランドを設立(ナショナル=Technics、日立=Lo-D、東芝=Aurexといった具合)。音楽機器専用のメーカー(サンスイ、アカイ、ナカミチ、ティアックなど)も隆盛を極めた。音楽再生機器は応接室に飾るものから、自室で音楽を聴くものへと変化したのである。

カセット・デッキが音楽のコレクション化を一般化させた

そして、こういったパーソナル化にさらに拍車を駆けたのがカセット・デッキだった。カセット・デッキはエアチェックに始まった「コピー文化」に新しいスタイルを植え付ける。

カセット・デッキにはスピーカーもマイクも標準装備されてはいなかった。じゃあ、いったい何に利用するのか。先ず一つ。デッキはオーディオをライン端子に接続し、FMから直接サウンドを取り込むためのものだった。ただし、これではラジカセと機能的には同じだ。ラジカセとの差異は音質だった。高級ゆえ(3万円くらいから価格は始まった)録音した際の音質はラジカセのそれではない。また、その多くにノイズリ・ミッター(録音時高音を上げて録音し、再生時には高音を下げて再生することで結果としてテープのヒスノイズを低減するという仕組み。DOLBYやANRSといった機能がその典型だった)が装備されてもいた。

だが、カセット・デッキがラジカセと圧倒的に異なっていたのはオーディオのライン端子を経由して「レコードを直接コピーできる」ことだった(ラジカセでも可能なものはあったし、高額なものはについては次第に標準装備されるようになった。ちなみにラジカセは70年代後半以降、次第に大型化し、ステレオスピーカー、ダビングが可能なダブルカセットが装備されたものも現れる)。それは、廉価かつ高音質で音楽コレクションが可能になることを意味していた。たとえば、仲間がレコードを購入した際などにこの貸し出しを依頼する。もちろん借りるのは2~3日だけだ。カセット・デッキでコピーするだけなんだから(TSUTAYAでCDレンタルするようなことをイメージしていただければ、わかりやすい。ありゃ、コピーするために借りてるんだから)。で、こうなると仲間のライブラリーは自分のライブラリー、自分のライブラリーは仲間のライブラリーということになり、音楽コレクションは突然、増大していったのだ。しかも、こういった貸し借りは、必然的に音楽を共有することになるので、コミュニケーションの地平を開くものでもあった。だからオーディオを購入した際にはカセット・デッキも同時購入するというのが所与となっていく。

こうして音楽はパブリックな空間で聴くと言うよりも、むしろ個人的なコレクションとして自室で楽しむものへと、そのメディア性を変容させていったのだ。音楽はみんなで聴くものではなく、先ずは個人で聴き、その後、その音楽を巡って貸し借りした人間間で音楽談義が繰り広げられるというスタイルになった(ただし、こういった貸借関係によるコレクションは結果として、同様のコレクションを仲間内に作ることになるので、音楽の嗜好が仲間内では類似のものとなる。だから若者たちの間では音楽は、いわば「派閥化」していった。70年代後半ちょっと過ぎくらいなら洋楽ならクイーン派、ベイ・シティ・ローラーズ派、バッド・カンパニー派みたいな感じで。で、面白いことに、こういった派閥は互いに敵対し合ったりもしたのだ(笑))。

ジュークボックス消滅はメディア変容の必然

さて、話をジューク・ボックスへ戻そう。なぜジューク・ボックスが5年の間に消滅したのか?もう説明の必要もないだろう。音質、コレクションの量、エコノミー、聴くための労力、どれを取ってもオーディオには全く太刀打ちできないことはもはや言うまでもないだろう。言い換えれば、音楽のパーソナル化という流れの中でジューク・ボックスは完全にメディアとしての機能を失ってしまったのだ。僕が修学旅行でジューク・ボックスを見たとき感じた懐かしさ、そしてライン・ナップが古いままだったという事実。この二つは、いわば「時代の必然」。メディアの重層決定の中でのジューク・ボックスというメディアのフェード・アウトと言うことで表現することが出来る。

ということで、とりあえずジュークボックスの話については終了。ただし、ここで扱っているのは音楽聴取=受容を巡るメディアの変容の全般。こういった変容は80年代以降もとどまることを知らなかった。今度は70年代に隆盛を誇ったカセット、ラジカセ、オーディオが衰退、消滅するという、70年代にジューク・ボックスが辿った運命と同じ道を歩むことになるのだ。もちろん「メディアの重層決定」によって。そして、ジューク・ボックスと同じようなパターンで。(続く)

ジューク・ボックスって?

ジューク・ボックスをご存知だろうか。70年代前半くらいまで喫茶店やゲーム・センター、ボウリング場、レストランに設置されていたミュージック・プレイヤーだ。いわば大型のレコード・プレイヤー(いちおうステレオだが、スピーカーが近すぎてほとんどステレオとしては聴けなかった)で、やって来た客がこのマシンにコイン(20円程度)を挿入して、楽曲リストの中から聴きたい曲の書かれている札(手書きの場合もあった)の横にあるボタンを押すと当該の曲を一曲だけ聴くことができる(ストック数は200くらい。ただしA面とB面を合わせて。B面なんか誰も聴かなかったが)。中には内部構造が透けて見えるようになっているものあり、これだとドーナツ盤(ジューク・ボックスでマシンがねらいを定めやすいようにレコードの真ん中が大きくくりぬかれた、さながらドーナツのように見えるレコード)をマシンがチョイスし、ターンテーブルにレコードを乗せてピックアップが落とされ、終わると元に戻すというギミックの一部始終を見ることができた。

東大大学院の片桐早紀氏によると、ジューク・ボックスはもともとアメリカ産だが、これが日本にやってきたのは50年代の米軍キャンプあたりで、その後ユダヤ商人たち(そのひとつは現在のタイトー。ちなみに、これはユダヤ人ではないがセガもジューク・ボックスを手がけた大手だった)がこれを国内のバーやクラブに売り込み、次第に普及していったと言うことらしい。

1960年生まれの僕はジューク・ボックス最終世代?

僕は1960年生まれで、このジューク・ボックスにワクワクし、そしてその後、消滅していくのを経験した最後くらいの世代。60年代後半、ませガキだった僕は近所の高校生のお兄さんのお姉さん宅に勝手に上がり込み、彼らのレコード・コレクションをこれまた勝手にかけまくっていた(これが許されたのは当時、僕が住んでいた田舎・静岡県島田にはまだ共同体的な紐帯が残っていたから、そして僕がレコードを絶対に傷つけず、なおかつキレイに掃除して返していたから。なんのことはない掃除が好きだっただけなんだけど(笑))。また筋向かいの知り合いの家が喫茶店を経営していて、ここにも勝手に出入りし、ジューク・ボックスをいじることができた。加えて週イチのテレビ番組「ザ・ヒットパレード」(フジテレビ)をワクワクしながら見ていた(洋楽と邦楽がゴチャゴチャでランキングされていた)。なんて状態だったので、僕にとってジューク・ボックスは「夢の音楽箱」みたいな位置づけだった。テレビや近所で仕入れた新しい音楽(歌謡曲、そしてポップス、つまりビートルズやモンキーズ)をあらためて聴くマシンがジューク・ボックスだったのだ。いわば「ハレの音楽聴取」。60年代当時、一般家庭にあった再生装置は、いわゆる「電蓄」。モノラルか小さなステレオ・プレイヤーだった。それに比べるとジューク・ボックスは巨大で、メタリックな感じと演奏に至るメカニカルなギミックがHI-FI+テクノロジー的なアウラを放ち、たまらなく魅力的な存在に思えたのだ。音も家庭に置いてあるものに比べれば段違いによかった(まあ、とはいっても今聴いたら解像度の悪い低音がこもりながらボンボン出ているだけなんだろうが)。

ところが、その後(1971年)、田舎から東京に引っ越し、ジューク・ボックスは僕の身近な環境からは疎遠なものになってしまう。四年後の1975年、中学3年で修学旅行に伊豆に行ったときのこと。宿泊先の旅館のラウンジに、偶然一台のジューク・ボックスを見つけた。「おお、なつかしい」とばかり、近寄ってみると、そのラインナップはなんと遙か昔の曲がそのまんまだった。つまり更新されていない。言い換えれば、設置こそされてはいるけれど、ほとんど誰もジューク・ボックスなんかに目を留めないというメディアになっていたのだ。で、僕が思わず「なつかしい」思ってしまったのも同様。つまり70年代半ばにはジューク・ボックスは完全にオールド・ファッションとなり廃れてしまっていたのだ。でも、なぜなんだろう?実は、そこには音楽環境を巡るメディアの大きな変容があったのだ。

70年代、メディアと音楽聴取形態は大きな変容を遂げていた!
で、今回はこれを考えてみたい。ただし、もちろんメディア論的に。ジューク・ボックスの衰退、実は60年代末から70年代半ばにかけて音楽聴取形態のドラスティックな変化があり、その流れの中でこういった現象が起きたのではないかと、僕は踏んでいる。メディア論(とりわけカルチュラル・スタディーズ)の分野には「メディアの重層決定」という言葉がある。メディアが廃れたり新たにメディアが定着するにあたっては、たったひとつの要因ではなく、様々な要因、とりわけ関連するメディアとテクノロジーの絡みによってこれが発生するという考え方なのだけれど、ジューク・ボックスの衰退はまさにこの言葉がピッタリの現象なのではないか。

これまで音楽メディアと視聴形態の変容と言えば、専ら語られてきたのは80年代のウォークマン、0年代のiPodといったところなのだが、70年代についてはなぜか語られることが少ない。しかし、この時期、メディアと音楽聴取形態の変容はかなりドラスティックに発生していたはずだ。

というわけで、ジューク・ボックスの衰退を、この間の音楽聴取を巡るメディアシーンの変遷との関連で考えていこう。で、オマケでジューク・ボックス以降の音楽を巡るメディア状況も考えてしまおう。

60年代、電蓄、ステレオ、そしてジュークボックスの時代

60年代後半から家庭における音楽聴取は次第にポピュラーなものとなっていく。その形態は二つ。一つは前述した電蓄=レコードプレイヤーだ。原則EPレコード(直径17cm)に合わせたターンテーブルだが、ピックアップの軸、つまりプレイする針のアーム軸がちょっと離れたところに取り付けてあるのが一般的だった。これはLPレコード(直径30cm)も再生できるように配慮したため。スピーカーは一つ。それにスイッチとボリュームというのが最低限の組み合わせで、一台数千円程度で購入が可能だった(とはいっても、当時の物価からしたら消して安いとは言えない)。もう一つはHI-FIステレオ、あるいはセパレート・ステレオと呼ばれるもので、プリメイン・アンプとターン・テーブルが一体化したコンソール・ボックスが木製のスピーカーに挟まれた、巨大な、さながら食器棚・本棚みたいな装置だった。これはもちろん洋風化が始まった日本のリビング・ルーム(まあ、どちらかというと応接室だが)に家具、あるいは調度品、はたまたステイタス・シンボルみたいな意味づけで設置されるものだった。当然、これは安くても5万円以上だった。

で、これらはジューク・ボックスと競合すると言うよりも共存するメディアだった。前者の場合、ジューク・ボックスは音質、迫力とも圧倒的に優れていた。なので、僕がやっていたみたいに電蓄=リハーサル、ジューク・ボックス=本番みたいな棲み分けが出来ていた。また、セパレート・ステレオに対してには、最新の曲を聴くという点でジューク・ボックスにアドバンテージがあった。ステレオはあくまで家庭のコレクションを聴くものだったのだ。

だが70年代、この棲み分けに変化が始まる。それはどういったものだったのだろうか?(続く)

僕は現在50代前半。三十年前の大学生時代からバックパッカーとして海外をウロウロすることを趣味としてきた。バックパッカーなので安宿街(バンコク・カオサン、コルカタ・サダルストリート、カトマンズ・タメル、ホーチミン・データムなど)やチープなリゾート(タイ・コサムイ、コパンガン、バリ、フィリピン・ボラカイなど)などがその宿泊場所になるのだけれど、こういったところには必ずと言っていいほど旅行者向けのレストランやバーがある。提供されるのはサンドイッチ、ハンバーガー、ピザ、パスタと言ったいわゆる「インターナショナル・フード」。これにちょっとだが地元の料理メニューが並ぶ(ただしツーリスト向けに妙ちくりんな味にアレンジしたもの)。この状態はずーっと変わらない。

まあ、あたりまえと言えばあたりまえだが……ところがあたりまえではない変わらないものがある。

ビートルズ、クラプトン、ボブ・マリー、イーグルスの繰り返し

82年、インドを訪れたときのこと。リゾート(プリー)のレストランで流れていたのはエリック・クラプトンの「コカイン」だった(その横で旅行者がガンジャをやっていた)。
84年、アルジェリアのサハラ砂漠のとあるバスターミナルで耳にした音楽はマイケル・ジャクソンの「ビート・イット」そしてビートルズの「ウイズ・イン・ウイズアウト・ユー」だった。
86年、タイのサムイ島で流れていたのはボブ・マリーの「アイ・ショット・ザ・シェリフ」、そしてポリスの「見つめていたい」だった。
その他、こういったエリアでよく流れていたのはカーペンターズ、イーグルス、アバといったところ。
では90年代、これらの地域ではどんな音楽が流れていたのだろう。95年、タイのコタオで耳にしたのはやはりボブ・マリー、そしてクラプトンだった。間違いなく流れるのは「アイ・ショット・ザ・シェリフ」そして「コカイン」だ。加えて「ホテル・カリフォルニア」
0年代はどうだろう。バリやカオサンで流れていた曲は、やはりクラプトン、ビートルズ、ボブ・マリー、イーグルスだった。

つまり、全く変わっていないのだ。80年代以降の音楽はほとんど流れていない。

カウンターカルチャーとしてのロックの終わり

70年代前半くらいまでロックはある意味、商業主義に抗うことをウリにしていた。たとえば69年に開催されたウッドストックのライブは当時の若者世代による商業主義を排した、徹底的なカウンターカルチャーに彩られた祭典だったと評価されている(ただし、実際にはこれはイメージであってここに商業主義が全く関与していないというのは幻想に過ぎない)。そして最後に商業主義とバトルを繰り広げたのが70年代後半に登場したセックス・ピストルズで、それ以降、ロックは商業主義、つまりショー・ビジネスに完全に取り込まれていったとされている(94年に開催されたウッドストックⅡは、完全にショウビジネスの祭典だった。で、これに最初のウッドストックに出演した連中も登場した)。

ただし、こういったロックの教科書的な見解も、実のところ幻想だ。たとえばカウンター・カルチャーの最後っ屁と言われた前述のセックス・ピストルズは背後にマルコム・マクラーレン、クリス・トーマスと言った超有名なプロデューサーたちが仕掛けた「なーんちゃっって反体制」だった。マクラーレンはパンクファッションを世界的に認知させ、クリス・トーマスは70年代ビッグ・ネームとプログレッシブロックで暗礁に乗り上げていたシーンに「パンク」という新しい流れ=ショウビズ・ラインを作り上げた。つまり、ロックはセックス・ピストルズという「反体制」と「ビジネスの」両面を備えるユニットによって完全に商業主義に取り込まれたのだ。

産業ロック=文化産業としてのミュージック

代わって登場したのが、いわゆる「産業ロック」と呼ばれる徹底的にビジネスを突き詰めたジャンルだった。膨大な資本を投入し、完全に規格化されたものを大々的に売り出すというやり方で、その最たる存在がKing of Popことマイケル・ジャクソンだった。ジャクソン・ファイブの末っ子としてそれまでも人気を博していたマイケルだったが、これにクインシー・ジョーンズというジャズ界の超大物プロデューサーがつき、さらにMTVの開始に合わせてビデオクリップが作成されたのだが、これこそが「見る音楽」の元祖となった「スリラー」だった。製作担当は映画「ブルース・ブラザース」で知られるジョン・ランディス(その後のビデオクリップ「バッド」はマーチン・スコセッシが担当している)。ちなみに本作で、マイケルはロック界の大御所ポール・マッカートニーと「ガール・イズ・マイン」をデュエットするというオマケまでついている。何から何までチョー豪華だったわけだ。

そして、この産業ロックはシステム化していく。女性アーチストならマドンナあたりを嚆矢とするが、こういった文化産業=消費物としてのロックはその後のロックシーンの基本となっていくのだ。このシステム最先端がレディ・ガガであることは言うまでもない。

ところが、こういった文化産業=産業ロックはスタンダードとしては定着することがなかった。その傍証が、実は今回提示したリゾート先に流れる音楽が70年代で止まっていることだろう。いわば、「尖ったとされる」ロックは70年代半ばくらいまでには終わってしまったのだ。そういえば21世紀に入ってからというもの安宿街やリゾートでマイケル・ジャクソンを耳にすることは、あまりなくなった(マドンナも)。

「尖ったロック」が、いまや究極の「産業ロック」になった

こういった現象は、現代の音楽シーンにメヴィウスの輪のような奇妙なねじれを発生させている。前述の「いつまで経ってもクラプトン」というのがそれだ。今や70年代までのイコン=ビッグネームはいつまでずっとイコンのままなのだ。何度も引退を表明しては日本にやってくるクラプトン。ライブチケットを売り出すたびにあっという間にチケットが売りきれる。ポール・マッカートニーに至っては2万円近くするチケットが完売する。今年は病気で講演中止になってしまったが、追加公演として武道館を加えたときには10万円の席が用意され、これが真っ先に売れ切れになるという状態だった。そう、70年代のイコン立ちには、昔みたいに、落ちぶれると言うことが永遠にないのだ。まるでゾンビのように何度でも生き返る(その一方で80年代以降のビッグ・ネームはどんどん落ちぶれていく(そういえば、M.C.ハマ―って、どうしているんだろう?)。

つまり、文化産業としての産業ロックの成立によって、かえってこの「70年代尖っていたといわれる連中」たちが、21世紀になってもひたすら莫大な売り上げを続けるという「メタ的な産業ロックの旗手」としてビックビジネスを成立させることに、結果としてなってしまったのだ。言い換えれば70年代半ばまでのロックはもはやクラッシック=古典となり「学ぶもの」となった。つまり「権威」。

その証拠をいくつかあげてみよう。こういった70年代ロックシーンに深く感銘を受け、一生懸命耳を傾けるティーンエイジャーがいま、結構いる。僕の教え子の中には「マイ・フェバリート・ミュージシャンは、やっぱりシド・バレット(ピンク・フロイドの初期メンバー、Mr.Crazy Diamond!)ですね」なんて、したり顔で答える者すらいる始末(この学生十代です)。これは、それが良いとか悪いとかという判断よりも、親がライブラリーを持っていて自然と馴染んでしまったとか、お気に入りのJ-POPミュージシャンが尊敬しているとかという環境を媒介にして若者たちがこの世界に足を踏み入れていった必然的結果だ。つまり、ロックはもはや円環している。大槻ケンジはテレビ番組「NHKアーカイブ」に出演した際、77年に放送されたキッスの武道館ライブ(「ヤング・ミュージック・ショー」)を振り返りながら「キッスは歌舞伎のように世襲制にすべきだ」とまで言い切った。つまり、これは「二代目、三代目のジーン・シモンズを用意しろ」ということだ。また皮肉屋のドナルド・フェイゲン(スティーリー・ダン)は、自らが2013年に繰り広げたライブ・ツアーを自著『ヒップの極意』(DU BOOKS)の中で振り返り、この活動を自虐的に「老人介護」と表現した。つまり、自分は後ろ向きの連中のためにやっているに過ぎない(自分も含めて)というわけだ。逆に言えば、これはどれだけ歳をとっても70年代ビッグネームは活動をやめさせてもらうことが出来ないということでもある。いやジミヘンやボブ・マリーのように死んでも生きたままみたいなイコンすら存在するのだけれど。

ジジイが新しいロックの芽を摘み取っている?

誤解してもらいたくないのは、これによってロックシーンが死滅したと僕が言おうとしているのではないことだ。こういった産業資本に支えられたゾンビなビッグネームの背後で、新しい世代が音楽シーンを切り開こうとしているという事実は、もちろんある。だが、これはビジネスシーンには馴染まない。そしてビッグネームたちが市場を塞いでいるがために、そして文化産業が音楽市場を支配しているがために、ここに入り込む余地を与えられないという構造化が起きている。だから、こういったミュージシャンたちは目立たないで、一部のマニアだけの間でロックがやりとりされている。その必然的結果が、少なくとも安宿街やリゾートという「メジャーな空間」ではクラプトンやビートルズ、ボブ・マリー、イーグルスばかりが延々と流されるということになっているわけで……。

今年8月、僕は例によって世界最大の安宿街、タイ・バンコク・カオサン地区にいた。カオサン通りを中心とするこの街は、その発展によってエリアをとっくの昔にはみ出し、拡大化された一大カオサン・エリアを構成している。僕が宿泊していたのは、カオサン通りの北を並行して走るランブトリ通りにあるビエンタイ・ホテル。かつて静かだったこの通りもレストラン、中級ホテル、そしてバーが林立するようになった。つまりカオサン化が進んでいた。もはや下の階の部屋ではライブの音がうるさくて夜眠ることすら出来ない。

ある日のこと、ホテルの前のバーでは例によってライブバンドの演奏が始まっていたのだが……やっていたのは……やはり定番の「コカイン」だった。するとすぐさま、今度はその二軒先のバーでもライブが……始まった演奏はここも「コカイン」だった。つまり「コカインの時間差攻撃?輪唱?」。やれやれと思いながら道を東に向かった僕。すると50メートル先のバーでもライブの演奏が。ギターをかき鳴らしながら、あまり上手くもないミュージシャンが歌っていたのは……「ホテル・カリフォルニア」だった。

止まってる!(止められている?)


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