勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

カテゴリ: TDLの歴史

東京ディズニーランド以前、日本でディズニーはどう受け入れられていたか


六十年代前半、ディズニーは、結構知られていた。


戦後、日本には大量のディズニー作品が流れ込んでくる。もちろん映画を上映するというかたちをとって。ただし、人口に膾炙するのは60年代、アメリカテレビ局ABCの番組"Disneyland"が放映されたことに端を発すると言っていいだろう。金曜夜八時、日本テレビ、三菱電機提供でこの番組は放映されていた。僕は1960年生まれだが、この番組がとても待ち遠しかったことをよく記憶している。ただし、この番組は全日本プロレス(馬場、猪木が在籍していた)の番組とも重なっており、隔週でプロレスとディズニーが放映されていた(もう少し厳密に言うと、これに野球中継が加わると、ディズニーランドは月一回ということもあった)。

ただし、年齢も低いゆえ、その作品内容についてはほとんど覚えていない。ただ、オープニングの眠れる森の美女の城(ディズニーのトレードマーク)に、ティンカーベルが飛んでくるところ、続いて、書斎があらわれウォルトが現れ作品の紹介をするところだけははっきりと記憶している。いちばんよく覚えているのは、番組がはじまっていつものようにウォルトが登場してきたとき、下にテロップが流れ「○月×日。ウォルトディズニー氏が亡くなりました」と表示された時だ。66年のことだが、とにかく一瞬ボーゼンとしてしまった。もっとも、なぜそうなったのかは記憶にない。そして、まもなく、この番組も放映が終了された。

ディズニー映画については、かつての作品がちょくちょく上映されていた。大作一本(例えばバンビやピーターパン)とミッキーやドナルドが主演する五分もののセット上映だったように思う。これらには必ずと言っていいほど「文部省推薦」と銘が打たれていた。当時はゴジラやガメラなんて怪獣ものは絶対文部省が推薦することはなかった。いや、たとえば後に日本アニメの名作といわれた「長靴をはいた猫」ですら文部省が推薦することはなかったのだが、なぜかディズニー作品だけはOKだったのだ(完全にアメリカ翼賛体制だったからか?)。だから「教育上よろしい」と言うことになって、親が安心して子どもを映画館に連れて行くことが出来た。で、僕も親に連れられていくのは必ずと言っていいほどディズニーだった。ただし、子どもとしてはもうゴジラやガメラが見たいわけで、友だちと行くならこっち、親と行くならディズニーだった。

また、講談社はディズニーのアニメをそのまま絵本にしてシリーズとして発売していた。映画やディズニーランドで放映された作品のセル画で構成された絵本は、その他に歌の歌詞や楽譜、ディズニーキャラクターの小話で構成されていた。一例として『みにくいアヒルの子』の構成を見れば、本編の他にドナルドの小話が掲載され、表紙の裏側には壺井栄(『二十四の瞳』の作者)の推薦文が坪井の写真入りで載っていた。また巻末にはカラー写真でディズニーランドが紹介され「いけたらいいね」というコピーが施されていた。そう、当時、ディズニーランドなどは日本人には決して行けるようなところではなかった。海外に出かける日本人など1万にもいない時代だったからだ。だからこそ「いけたらいいね」というコピーは、子供心にグサリと胸に突き刺さったと同時に、アメリカという消費大国のリッチな暮らしに妙な妄想を抱いたりもしたのだった。

忘れ去られていくディズニー

しかし、その後ディズニーは日本人の記憶、とりわけ子どもの記憶、そして経験からは姿を消していく。ディズニー自体もウォルト死後、アニメ作品を作ることを減らしていき、70年代以降にはほとんどアニメを作らないという状態に(80年代初頭になってやっとオリジナル作品『きつねと猟犬』を制作。しかしこれは日本ではピーターパンとの二本立て。しかも単館上映(有楽町みゆき座)だった)。むしろ70年大日本で人気を博したアメリカのキャラクターはスヌーピーを中心としたピーナッツだった(ツルコミック社が、月刊誌「SNOOPY」を発行している)。そして日本でもサンリオがハロー・キティをデビューさせている。

これはアメリカでも同様で、70年、フロリダにウォルトディズニー・ワールドをオープンしたのはいいが、ディズニー的世界それ自体はオールドファッションとして扱われていた。ニューシネマの時代。現実が複雑化する時代。脳天気なディズニー作品など、見ている場合ではないというムードがアメリカにも蔓延するのだ。ディズニーの価値が再び認められるようになるのは70年代半ばルーカスやスピルバーグが登場しディズニーをリスペクトして以降だ。ただし、スピルバーグとてディズニー作品はオールドファッションなものとして扱うようなシーンを映画の中に盛り込んでいる。76年のスピルバーグ作品『未知との遭遇』の中でR.ドレイファス演じる父親が子どもたちの前でピノキオを絶賛すると、子どもたちがノーを突きつるシーンがあったり、『1941』では、ダンボに涙する軍の長官が登場したり。

子ども時代にディズニーに親しんだ60年前後生まれの子どもたちも、次第にディズニーは記憶の片隅にやられ、また後続世代はディズニーのことをほとんど知らない。そんな、もはや「ディズニーなど知らない」状況の中、東京ディズニーランドはオープンする。

なんだかんだで関わり続けた24年間

82年、浦安に移り住み、翌年オープンしたことで、なんだかんだと長きに渡り関わり合いを続けてきた東京ディズニーランド。初年度はオープニング・キャストとしてアトラクション、グランドサーキット・レースウェイで働き、彼女(現カミさん)をデートに誘い、その後、アトラクションやレストランがオープンするたびに出かけ、ショーが変わるたびに出かけ、年パス買ってヒマつぶしに出かけ(仕事をするのがイヤで、気分転換にラッキー・ナゲット・カフェにパソコンもって作業をしに行ったことがあった。これじゃ傍目からは完全にオタクと思われただろうなあ。ちなみに、この時、パソコンをカタカタ叩いている自分の肩を突然揉まれた。揉んでいたのはグーフィだった)……。都合300回くらいは遊びに行っているのかなあ?大学の講義すべてをディズニーだけでやってみたりもした。

気がつけばあっという間に24年。こっちの年齢も四十代。

で、今回は年末年始特集?として、東京ディズニーランド(そして東京ディズニーリゾートも含めて)の24年をメディア論的な視点から振り返ってみたい。

しかしその前に、ディズニーランドがやってくる前、日本でディズニーがどうやって受け入れられていたのかについて考えてみたい。ただし以降の文面は、あくまでも僕が個人的に調べたもの、そして個人的な経験によるものの二つに拠っていることをお断りしておく。だから正確性については、やや怪しいと言うことを踏まえておいてもらいたい。(続く、次回はディズニーランド以前からランドオープンまで)

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