勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

カテゴリ: TDLの歴史

ディズニーランドのポストモダン、それはトゥーン・タウンに始まった


テーマ・パーク性の崩壊?

リテラシーの高まったディズニーファン。そして質、量ともに膨大な情報群を形成するディズニー世界。これは、パーク開園以来、積み上げてきた結果に他ならなかった。ディズニー側と日本人ディズニーファンが共有するディズニー世界に向けたたえまない努力が続けられてきた十数年間。90年代に入り、遂に両者は蜜月を迎えたかに見えた。しかし、パークはあらぬ方向へと先を進めていく。いやもっと明確にいえば、あらぬ方向へと先を錯乱させていく。それはモダンを突き詰めた先に現れた別種のテーマ・パーク、テーマ・パークであってテーマ・パークでなく、テーマ・パークでなくテーマ・パークであるといった焦点がぼけた環境の出現に他ならなかった。90年代半ば過ぎからディズニーランドは別の顔を見せ始め、やがてその新しい顔(顔のない顔?)がパーク全面を覆い尽くしていく。その始まりはトゥーン・タウンに始まるといっても過言ではないだろう。

物語性の存在しないトゥーン・タウン

トゥーン・タウンは95年4月、トゥモウロウ・ランドとファンタジー・ランドの間にオープンする。ここはもともと大きなスペースが空いていた(グランド・サーキット先は広々とした草むらが広がっていた)。そのスペースとグランド・サーキット・レースウェイの一部を削り取ることで、テーマランド並みの大きな空間が確保できた(グランド・サーキットのコースは改修、短縮化された)。そしてテーマはカトゥーン、つまりアニメ。言い換えればアニメランドというテーマランドの出現であった。ランド内はアニメ仕様のデザイン、スラップスティック風の演出が施されていた。建築物のすべてはデフォルメされ、またアニメのお約束があちこちにちりばめられた。たとえば、柱は真ん中が大きく膨れあがっていた。またアトラクションのひとつで、目玉でもあったライド、ロジャー・ラビットのカトゥーン・スピンの入り口のドアは、ここのホストであるロジャー・ラビットが慌てて家から飛び出したがために、ドアが炉ジャーの形で穴が空いているといった具合。

アニメで統一した空間。ただし、このランドは他に比べてある側面が決定的に欠けていた。しかもそれはランドであるためには必須の項目である「物語」の不在である。トゥーン・タウンのアトラクションはミッキーの家とミート・ミッキー、ミニーの家、グーフィーのはずむ家、ドナルドのボートといった、ほとんど物語性のないものでうめつくされた。そこにあるのは設定だけ。例えばミッキーの家とミート・ミッキーでは、とにかくミッキーと会って写真を撮るという「萌え行為」がメイン。「はずむ家」「ボート」に至っては、単にキャラクターの冠をつけただけの子供用の遊技施設でしかない。とにかくそこにあるのは雰囲気だけなのだ。焦点は完全にぼけているのだが、まあ設定にあたらずとも遠からずならいい、といったイイカゲンな設定が大幅に採用されていく。

勝手に萌えるディズニーファン

にもかかわらず、ここのテーマランドも盛況を見せる。とりわけ人気のアトラクションはミッキーの家とミート・ミッキーだった。ミート・ミッキーでは撮影途中のミッキーと楽屋裏で会えるという設定で、ここでゲストといっしょに写真撮影をするだけのアトラクション。楽屋はSteamboat Willie(蒸気船ウイリー)、Band Concert(ミッキーの大演奏会)、Through the Miller(鏡の国のミッキー)の三つで、どれにあたるかは運次第。だからすべてのミッキーと写真を撮影するために何度もアトラクションに通うことになったのだ。とはいうものの、一番大きかったのはミッキーと独占的に写真を撮影できること。パーク内に現れるミッキーは見つかれば観客に取り囲まれてしまい、独占は不可能。だからファンにとってはたまらないアトラクションだった。

このアトラクションに言えるのは「楽な商売」といったところだろうか。ゲストの方の知識が上がり、勝手に盛り上がってくれるので、ディズニーランド側としては何もしないで待っていればいいと言うわけだ。つまり、ここでディズニー側は教育することをやめ、ゲストの勝手な「萌え」に運営を委ね始めたのである。部分部分においてはゲストの知識の方が送り手側より多いという状況が出来上がったのだ(ただし、これはゲストがディズニー的世界全体を把握していると言うことではない。それは情報量の膨大さゆえ不可能な行為である)。

因みにトゥーン・タウンは子どもの遊び場として使うにも便利なところだった。グーフィのはずむ家は床がエアマットばりになったアトラクション。その中で132cm以下の人間、要するに子どもが一定時間飛んだり跳ねたりするだけ。ドナルドのボートは手の込んだ公園の遊戯施設、チップとデールのすべり台は手すら込んでいない普通の公園の滑り台(しかも事故が発生し、すべり台は中止。すべり台は階段になりチップとデールのツリーハウスと名前を変え、ただただ単に上って降りるだけの普通の公園以下の遊戯施設となった)。

世代交代、大人も子どもも萌える

まあ、どーしようもないのだが、それでもゲストは押し寄せる。この時代、ディズニーのゲストは知識を上昇させるとともに世代の重層化が始まってもいた。つまり十年がたち、オープン当初にディズニーランドに馴染んだ若者たちが大人となり、結婚して子どもができて、今度は子どもをディズニーランドへ連れてくる側へと回ったのだ。しかし、彼らは親になったからといってディズニーを卒業したわけではない。だから、子どもに勝手にディズニーを布教し始めた。で、子どもを連れディズニーランドへやってくる。そんなときトゥーン・タウンは便利な子どもの遊ばせ場所となったのだ。トゥーン・タウンに子どもをあずけ、自分たちは他のアトラクションと言うことも十分に考慮に入れてのことだったろう。ちなみに、この頃から夜といえども子どもがわんさかいるのがディズニーランドは当たり前になり始めた。以前は、親にとってディズニーランドは子どもを遊ばせるところ。一方、親の自分はそう言う仕事をする役割。それゆえ、夕方ともなると、明日のことを考え、早めに子どもを連れてパークから去るというのが一般的なパターンだった。

ところが、今や子どもも親もディズニーランドとは遊ぶところになったのだ。だから、子どもが眠かろうが疲れていようがお構いなく、クローズまでは徹底的に遊び尽くすというのが親のパターンだから九時すぎても子どもでいっぱい。年パスを持っている家族などは慣れたもの。子どもも夜九時でも元気いっぱいという状態になった。

トゥーン・タウンは、テーマ性を実は内部から破壊してしまったもの。それにもかかわらず成功した要因はこういった外部的要因によると考えるのが妥当だろう。

ゲストとディズニーランドの美しき融合~ウルトラモダンの完成

ディズニーの充実、ディズニーランドの充実

80年代後半。ゲストは次第にディズニーに関するリテラシーを上げていった。ディズニー側もアトラクションをビッグ・サンダーマウンテン、キャプテンEO、スター・ツアーズ、スプラッシュ・マウンテン(その他アリスのティーパーティ、アメリカン・アドベンチャー、ショーベース2000、シンデレラ城のミステリーツアー、スイスツリーハウス、ディズニーギャラリーなどがオープンしている)と充実。イベントもまた教条主義的なものから、より自由な発想に基づいたものへとコンセプトを変更している。とりわけイベントは既存のスタイルを踏襲しながらジャパン・オリジナルといった側面を強調し始めた。おそらくその最たるものは10周年記念でおこなわれたビッグ・イベント、It's Magicalだろう。平和な世界に悪が現れるが、最後にミッキーが愛と夢と勇気の力で悪を退散するというスタイルが、この辺りで確立されたように思う。そう、ミッキーを頂点としたディズニー世界のヒエラルキースタイルがここで固定化し、ゲストに定着していったのだ。

さらに、ディズニーそれ自体が大変革を遂げていく。80年代の乗っ取り大騒動(ホリエモンのフジテレビ買収みたい騒動があり、直系(ウォルトの愛娘の夫)のCEOロン・ミラーの首が飛び、マイケル・アイズナーに交代することでこの騒動は収束する)の後、ディズニーはアイズナー指揮の下、大変革を遂げ、単なる映画、テーマパーク運営の会社から巨大なメディア企業へと変貌を遂げるのだが、その中でアニメも第二の中興とでも呼ぶべき活況を呈する。アニメ部門の統括者であるジェフリー・カッツッェンバーグによる大ヒットの連発がここで発生するのだ。リトル・マーメイド、美女と野獣、アラジン、ライオンキング。すべてが記録ずくめの大ヒットを遂げ、古びたディズニーのキャラクターをリニューアルすることに成功。現在のディズニーの姿が形成される。

モダンの完成、ファンテルージョン

そんな中、東京ディズニーランドはある意味、ウルトラ・モダニズ=モダンの完成とも言える姿を現す。それを象徴するのがショーベース2000(現ショーベース)で催されたマンマンズ・ドリームとエレクトリカル・パレードに続くナイトパレード、ファンテルージョンだった。

ワンマンズ・ドリームはその名の通り一人の男の夢、ハリウッドの世界で成功を遂げていく男の夢をストーリーとしたミュージカル。いうまでもなくウォルトの歴史を作品のハイライトなどで綴ったものなのだが、このアトラクションの完成度はこれまでの次元を超えていた。冒頭のシーンモノクロのミッキーとミニーが瞬時に色つきに変わる(ディズニーアニメが世界に先駆けてカラー作品(テクニカラーによる)を実現したことを象徴する)シーン、ピーターパンがウエンディとフライトする瞬間のサプライズ性(観客のほとんどが歓声を上げた)など、現在の言葉を用いれば「萌え要素」のオンパレード。ストーリーの明瞭性とメリハリの効いた演出は、多くのワンマンズ・マニアというファンを生み出していく。

僕は、このミュージカルが始められた当時、ある種、感動するシーンにこのシアターで遭遇したことがある。ショー終了後、感動した観客がスタンディングオーべーションを始めたのだ。拍手はいつまでも続く。ただし、これは規格が統一されたもの。アンコール対応するものはない。それでも、拍手に答えなければならい。そこで仕方なく、幕が再び開き、キャラクターが勢ぞろいして手を振るサービスをおこなったのだ。ファンは絶叫し、涙を流すものまで。キャラクターたちがとまどっている様子が感じ取られる不思議な光景であった。

このアトラクションは、ご存知のように95年に一旦終了された後、あまりのリクエストの多さに2005年ワンマンズ・ドリーム?・マジック・リブズ・オンとして復活する。しかも規模も拡大して(ただし、質は低下した(後述))

一方、ファンテルージョン。このパレードは完全なジャパン・オリジナル。しかも、ディズニーの悪役たちが主役という、きわめて変わった趣向。だが、フロートの構成は善→悪→善という展開をとることによってIt's Magicalに始まる、最終的に悪を滅ぼし愛と夢と勇気が勝利するというストーリー展開がくっきりと示された。まさにモダニズムの極致がここに実現したわけで、おそらく運営する側にとってもゲストにとってもこの時代のディズニーランドが、いちばんわかりやすく、リピーターであればあるほど親しめたのではなかろうか。ちなみにファンテルージョンは、日本での開催終了後、ディズニーランド・パリのナイトパレードとして移設された(ただし、物語性ははぎ取られ、規模もぐっと縮小されたお粗末なものなのだが)。また、05年のディズニー・オン・クラッシックでも全曲が演奏されている。それほどまでに、ファンテルージョンの完成度は高く、10年をかけてディズニーランドの日本への定着をここに見たといっても過言ではなかっただろう。

だが、それはモダン、あるいはウルトラモダンとしてのディズニーランドの終焉でもあった。キャスト=ディズニー側とゲストとの蜜月は長くは続かない。そして、90年代代半ば以降、ディズニーランドはポストモダンの世界へと突入していくのだ。

テーマ性を破壊するもの~千葉トレイダースとミート・ザ・ワールドの違和感

千葉トレイダースを知っていますか?

ここまでストイックにテーマ性を展開するのは、日本人の几帳面さゆえなのかも知れない。ディズニーのキッチリと管理するというシステムと日本人の労働倫理というのはどうもぴったり合っているみたいで、この厳密さ、実は前述したように、アメリカやパリ、そして香港のディズニーランドではちょっと見られないものだ(実際いちばん管理が行き届き、ゲストのモラルもいいのは東京ディズニーランドだろう。パーク内のほころびのなさや清潔さでは群を抜いている)。だが、それゆえにこそなのだろうか。テーマからはずれたものは極端な違和感を与えてしまう。そして、その典型が千葉トレイダース(現千葉物産館・美術工芸)とミート・ザ・ワールドという二つの施設である。

前者はアドベンチャーランドのシアター・ニューオーリンズ横にあるスーベニア・ショップ。扇子やこけし、凧、御輿の人形なんてものが販売されている。隣が中南米のスーベニア・ショップ、サファリ・トレーディング・カンパニーなので、その違和感たるや甚だしいものがある。こんなふうになってしまったのは、政治的権力の落とし子としてこのショップが成立したからだ。オープン時、当時の友納県知事(その前任の川上県知事はディズニー側と対立した後、念書事件で失脚させられている。これはディズニー(厳密には三井と京成の合弁会社で現在リゾートを運営しているオリエンタルランド)の陰謀という説もある)が「千葉なのに「東京」ディズニーランドはおかしい(つまり「千葉」ディズニーランドにしろというわけ)」とクレームをつけ、その権力に屈して「千葉的なもの」をパーク内に設けたいきさつがある。友納知事が実際にそう発言したかどうかはともかく、千葉県からの政治的な圧力によってテーマ性を破壊するものが建設されたのは事実で、オープン当初は千葉名物のピーナッツ(「落花生」といった方がそれらしいかも?)の砂糖漬けみたいなもが販売されていた。

まるで万博のミート・ザ・ワールド

一方、ミート・ザ・ワールドはトゥモウロウ・ランドにおかれていた、かなり大がかりなアトラクションだった。日本と世界の歴史的な関わりをオーディオ・アニマトロニクス、アニメ、実写を組み合わせた映像で見せるというもので、ウリはステージが変わるのではなくて客席自体(300人単位くらいだったろうか)が回転・移動することだった。ただし、この内容はきわめて教育的指導的な側面が強く、全くディズニー的ではなかった(実際ディズニーキャラクターは登場しない)。この施設は松下電器の全面的なバックパップの下、建設されたもの。もう少しはっきり言ってしまえば、当時まだ存命だった創設者の松下幸之助の肝いりで建築されたいきさつがある。だから、ショーの後には「未来の住宅」と称してナショナルの商品(試作品みたいなやつ)のショールームがあったりした。要するに、これはディズニーというより万博のノリで、違和感バッチリだった。つまりこれもまた政治的圧力の中で生まれたテーマ性を破壊するものだったのだ(松下電器はスポンサーとしてディズニーにさらに協力し87年にはミート・ザ・ワールドの隣にジョージ・ルーカスのプロデュースによるアトラクション、スター・ツアーズをオープンさせている)。

しかしながら、こういった施設はテーマの厳密性からすればきわめてマズい。だから千葉トレイダースの場合、施設それ自体が目立たないようにいちばん隅っこにひっそりと作られている。まるで「なるべく、ここには入らないでね」といった風情なのだ。そしてここではディズニーキャラクターは皆無だった。(現在はキャラクターをあしらった扇子が売られたりして、多少なりとも馴染むような工夫は、してはいるが……)。一方、ミート・ザ・ワールドに至っては90年代に入って、遂にアトラクションをクローズしてしまった。まあ、これもまた仕方がないのだが。不思議なのは、このアトラクションがいまだにリニューアルされていないことだ。現在はキャッスル前で催されるショーのチケット抽選会場になっている。

まさに「初期不良」という言葉がふさわしい、これらの施設だった。そしてそれ以降、こういった場違いなものが作られることはなくなった。ただし、ある意味完全に場違いなものが90年代後半から次々と平気で設けられるようになるのだが。(これについては後述)(続く)

疑似外国の演出のための日本的要素の排除


日本的なもの流入を防ぐ

テーマパーク概念の浸透の二つ目は日本的なものの徹底排除だ。まずパーク周辺すべてを土盛りし、外界=浦安が見えないようにする。これで「青べか物語」漁村の浦安市が消える。次にパーク内に日本的風景をおかない。そのためにオープン当初、パーク内で日本食は外見的には提供されていない体裁をとった。つまり、あからさまに日本食を提供するようなことをしなかったのである。ただし、実は一カ所だけ、クリスタルパレス・レストランで幕の内弁当が販売されていた。クリパレは当時バフェテリア形式。トレイをとって列に並び、好きなもを注文したりチョイスしたりする方式なのだが、料理が並ぶ列の片隅にひっそりと、これが売られていたのだ。

また、日本的要素をゲストが持ち込むことも禁じた。もし、ゲストがおにぎりとお茶とタコ足風に切ったソーセージとたくあんからなるお弁当をパーク内で広げたらどうなるだろうか。ノリとお茶の香りが周辺に漂い、辺り一面Japaneseなムードにつつまれてしまう。だからお弁当の持ち込みを許可しなかったのである。(もちろん、これにはパーク内の飲食店でお金を落とさせるという"ねらい"もある)

ただし、これは非常に評判が悪かった。また、そのためにディズニーランド外で珍現象が発生する。

当時は、まだJR京葉線がオープンしておらず(ということは舞浜駅はない)、ゲストは東西線浦安駅で下車し、さらにそこから通称"ディズニー通り"と呼ばれる、約300メートルの歩行者専用道路を歩いて、ディズニーランド行きバス乗り場に向かい、そこからバスに乗ってパークに出かけていたのだが、珍現象が発生したのはこのディズニー通りでのことだった。通りの両側にたくさんの露店が並び、さらに飲食店が次々とオープンしていったのである。たこ焼きや、お好み焼き屋、居酒屋、ラーメン屋、釜飯屋などなど。さながら縁日状態の世界がそこに展開したのである。

しかし、これは日本人の心性からすればきわめて納得がいくことだった。パーク内で朝から晩までバター臭いものを食べさせられていれば、胃はもたれ、帰り際にはさっぱりしたものを、あるいはソースがべっとりかかったジャパニーズ・コテコテなものが食べたくなるのは無理もないこと。こっちのほうが正直ホッとする。当然のことながら、夜ともなるとパーク帰りのお客でこれらの店は大繁盛した。

アクロバティックな日本食の導入

この評判の悪さに対処したのだろうか、ディズニーランドは86年、遂に日本料理をパーク内で提供するようになる。オープンしたのは和食レストラン・HOKUSAI。ただし、これもストイックなまでにテーマ性を維持するための工夫がなされていた。設置された場所はワールドバザール内。ただし、ここのテーマは20世紀初頭の典型的なアメリカの街並み、より具体的にはウォルトの育った街、マーセリーンの商店街。そこに日本料理店はどう考えてもおかしい。そこで、まず店のほとんどが二階におかれた。ただしそれでもテーマ性からすると不釣り合い。そこで、次のような説明が加えられた。

この街並みはビクトリア朝様式と呼ばれる建築様式。19世紀イギリスで流行した様式で、煉瓦がその建築素材として使われている。ちなみに日本で現存するこの様式の建物は東京駅丸の内側の駅舎や、横浜の倉庫街、門司港レトロで見ることができる。この様式が20世紀アメリカに輸入され、より簡素化されていったのだが、日本でもこれと同じ建築様式が展開された場所がないかとさがしてみると、それは明治大正時代の銀座の町並みにたどり着くことができた。

そこで、HOKUSAIには次のようなテーマ設定がなされた。"明治時代、銀座にあった洋食レストラン"。こうすればワールドバザールの街並みと和食の関係は一致点を見いだすことができる。というわけでテーマ性を崩すことなく日本料理を導入することに成功した。ただし、料理は松花堂弁当とか、かつれつ御前とかの"洋食"的な色彩を備えるものが強調された(たとえばうどん定食は、メニューでも一番下に目立たないように表示されている)。

なかなか無理矢理なテーマのすりあわせだが、これ以降、ディズニーランドの中には日本的なものが日本的な装いをはぎ取るかたちをとって少しずつ導入されていく。89年頃だったろうか、アドベンチャーランド内のアドベンチャーランド・ステージからジャングルクルーズへと向かう道の一部が改装されレストランエリアが設けられた。レストランエリアといっても、もちろんテーマ性を踏襲していなければならない。そしてこのエリアのテーマは「田舎の港町」だった。つまり冒険家=Adventurerが立ち寄るところ。そして二軒のレストランがオープンする。ひとつはボイラールーム・バーベキュー(現在、ボイラールーム・バイツ)、もうひとつはチャイナ・ボイジャーだった。そしてこの二つはともに日本的というか日本人に馴染みのある料理を提供した。とはいってもアドベンチャーとJapaneseはおかしい。そこで、やはりここでもテーマの統一が図られた。もちろんHOKUSAIと同じやり方でテーマ性を維持しながら。

先ず、ボイラールーム・バーベキューで提供された日本的なものは「焼きおにぎり」だった。正しくは「串焼きおにぎり」。なんでアドベンチャーとおにぎりに一致点があるのか。それは、こうだ。アドベンチャーといえばアウトドア・ライフ。アウトドア・ライフといえばバーベキュー。そこでおにぎりを串に刺し、焼いてしまえばそれは「バーベキュー」の仲間入りということになる、ということでOKというわけだ。

一方、チャイナ・ボイジャーではチャーメン(焼きそば)、チャーハン、杏仁豆腐といった典型的なJapanese中華が提供されていた。そしてここでもテーマはきわめて"アクロバティック"なやり方というか、無理矢理なかたちでで統一が図られている。

店内に中華っぽいものを感じさせるインテリアは少ない。壁の端の方に双喜のマークがあったり、部分部分、赤色の縁取りがある程度。むしろ目立つのは船のキャビンの備品。舵や船内の取っ手、魚の剥製、あちこちから送られたハガキ、魚を釣り上げたときのモノクロ写真。そして内装それ自体が船室。これにはこういった物語が与えられていた。「七つの海を航海した冒険家がリタイアし、この田舎の港町にたどり着く。そして余生を過ごそうと、自分の船を解体してこれを素材にレストランを建ててオープンした」と。もちろん、これだけでは全然アドベンチャーとは結びつかない。ところが、その冒険家が「中国人」だったということになれば、すべて問題は解決する。というわけでここでもテーマの統一は見事に図られたのである。(続く。次回は「それでもテーマを壊したもの」)

モダンの完成に向けて~ディズニーランドの熟成(80年代後半)


客層の変容~リピーターの誕生

オープン当初、キャストであったこともあって、お客の流れをちょくちょく僕はチェックすることが出来た。で、当時は自分がパークに遊びに行こうと思ったら、迷わず金曜日をチョイスしていた。というのも、金曜日はフルタイム・オープン、つまり9~22時の営業のため、夜のイベント(といっても当時は花火くらいしかなかったのだけれど)も見ることができる、にもかかわらずゲストの数が少なかったからだ。要するに当時、一般客が大挙して押し寄せるのは一般の行楽地と同様、土日だけ。にもかかわらずウィークデイにもかかわらずフルタイムでやっているので旨みがあったのだ。

ところが、これが80年代も後半となると様子が変わってくる。金曜日ががぜん混み出したのだ。そこで、今度は月曜日がおいしいということになった。これは単に月曜日が休日明けで客が少ないということだったのだが、これもまただんだんと混んでくる。挙げ句の果ては何曜日に行っても混んでいるというような事態となってしまった。

年間入場者数が毎年百万人ずつ増加していったこともあるが、こうなってしまったもっと大きい原因はリピーターの出現にあった。つまりリピーターたちは何度も通っているうちに、いちばん空いているのが何曜日なのかについての情報を自らの体験と口コミから入手するようになり、その結果、こういった穴場が穴場ではなくなってしまったのだ。

逆におかしなことも発生する。89年の5月5日。僕はダメもとでディズニーランドへいってみた。すると、午後三時以降、パーク内はガラガラだったのだ。「ゴールデンウィーク最後の日、しかもこどもの日。ディズニーランドに行くには格好の日ではないか、それなのに、なぜ?」。理由は明らかだった。情報が回りすぎたためだ。つまり5月5日はメチャメチャ混むから行くのを控えるべきだという情報がリピーターたちの間で広まり、遊びに行くのを控えてしまったためだ。インターネットが普及するまだまだ前のこの時代(インターネット元年は95年)。にもかかわらずディズニーランドに関する情報はマニアたちの間ではすっかり流通していたことをこのことは示している。そう、ディズニーという文化が日本に定着し始めたのだ。

ゲストは10年かけてディズニーシステムを学習した

80年代、日本人とディズニーはモダンの関係にあった。そして両者の関係は、ある意味で常にディズニー優位だったのではなかろうか。わかりやすく言うとディズニー=教師、日本人=生徒という関係。ただし、サービス業的に考えれば、常にディズニー側が日本人側にすり寄り、ディズニー世界の知識を提供し続けていたということでもある。前述したように、当時の日本人はディズニー・リテラシー、つまりディズニーに対する認知が低い。だから知識的には圧倒的上位のディズニー側がその知識を日本人という生徒=お客に覚えてもらわなければならない。それゆえ丁寧な教師として、日本人にわかりやすく単純明快にディズニー世界を紹介するといったスタンスが成立していたのではなかろうか。

実際、ディズニーランドの催しの多くがディズニー世界、ディズニー的なシステムを紹介するというスタイルを採っていたように思う。しかもそのために一元的、つまりディズニーといった閉じた世界のイメージづくりを徹底した。これは具体的には二つあっただろう。

ひとつは、既存のディズニー世界の紹介。ショーはディズニーのキャラクターを全面に立てたものだった。もちろん、現在でもキャラクターを全面には立てているが、当時はミッキーそれ自体を紹介するといったようなショーがメインだったと思う。また、イベントもアメリカ直輸入という感じだった(その典型はきわめてバタくさかったクリスマス・ファンタジーだろう)。言い換えれば、終戦直後以来のアメリカ文化的なものの輸入ということでもあった。そして、そのイベントの最大のものは85年に始まったエレクトリカル・パレードだった。全編英語バージョンはバタ臭さの最たるものだったんではなかろうか(現在、催されているエレクトリカルパレード・ドリームライツはそれに比べると、日本語も入り、実に日本的にローカライズされている)。

もうひとつは、というかこちらの方が重要なのだが、テーマパークという概念の浸透。言い換えればディズニー的システムの紹介と学習だ。テーマパークとは一定空間をひとつとテーマに基づいて環境を作り上げたアミューズメント施設のことだが、この徹底によってディズニー的なシステムが日本人に浸透していく。

浸透の方法は二つ。ひとつはテーマ性の徹底だ。ディズニーランドはご存知テーマランドごとにテーマが設定されているが、その徹底度合いが本家などよりはるかに厳密に展開されたのだ。建築物の統一、トイレからキューイングのバー、ゴミ箱に至るまでデザインを統一することなどは当然のこととして、それ以上のテーマ性の徹底が図られた。例えば、窓に描かれた文字ひとつにも意味=物語を持たせるといった徹底さ(ワールドバザールの中にウォルトの父親の店の表示があることをご存知だろうか)。この徹底さはゲストだけに通底しているのではない。キャストの間でもテーマ性についてのモラルは徹底していて、ミッキー役の人間はキャストの前では絶対に顔を出してはいけない(つまりかぶり物をとってはいけない)、声を出してはいけない。たとえ、バックステージのスタジオでダンスのレッスンの際でも、それは守られるといった具合なのだ。また、ディズニー以外のキャラクター商品がパーク内で売られることなどない。これが例えばフロリダだと、ミッキー役は地下通路(シンデレラ城の周辺地下には通路が張り巡らされ、キャストはこの通路を使用して移動する。東京ディズニーランドも一部であるが地下通路がある)に入った途端、かぶり物を脱ぎ、右手でミッキーのアタマをぶらぶらさせながら歩いていたり(フロリダのマジックキングダム内バックステージ見学時に見た風景)、トゥモウロウランド内のUFOキャッチャーの景品の中にピカチュウがあったりする(アメリカっぽいな~)。

こういったテーマ性の徹底は、当時は、あらゆる施設にまだテーマ性という考え方がなかったゆえ、入場者たちには大きなインパクトが合ったことは間違いない。なんといっても、当時いちばんテーマ性のある施設とはファミレス、たとえばすかいらーくの茶色ずくめの内装が最も最先端だった時代だったから、ディズニーの施設のテーマ性にほとんどの日本人は驚き、それがパーク自体の魅力につながっていた。そしてこのテーマ性は90年代以降、一般の飲食店街やショッピングモールの中に取り入れられていき、日本の空間がある意味インチキっぽいテーマパーク空間で埋め尽くされることになるのだ。そして、その先鞭をつけたのが、他でもないディズニーランドだったのである。
(次回はテーマ性の続きとしての、日本的要素の排除)

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