勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

カテゴリ: TDLの歴史

最後に、ちゃぶ台返し……オタクで突っ切る?

ここまで東京ディズニーランド(TDL)=TDRがディズニー・オタク=ディズヲタによってアキバ・ドンキホーテ的なごった煮状況を現出させ、それがテーマを失った異様な空間を現出させて一般客の興を殺ぎ、客離れを起こすような環境を作り出しつつあることを考えてきた。そこで、ディズヲタ以外の一般のゲストを呼び戻すための一提案として伝統文化的な要素を盛り込むことの必要性を考えてみた。

一番最後に、ちょっとちゃぶ台返しを。それは、ここまで展開してきた議論をちょっと否定してしまうようなパターンになるのだけれど。

TDL=TDRの戦略については、実はもう一つパターンがある。しかも、とっても日本文化的なやり方が。それは……いっそのこと消費文化を徹底してしまう、つまりアキバ・ドンキホーテ化で突っ切ってしまうというものだ。この際だからどんどんオタク化を進めて一般客を寄せ付けないような環境にしてしまい、「ディズヲタのワンダーランド」にしてしまうのだ。で、このオタクのニーズに対応して、パーク内もどんどん変更してしまう。そうすると、これは完全にテーマ性が失われアキバ・ドンキ化する。必然的にディズヲタ以外にはものすごく気持ちの悪い空間が出現する。だが、そういった環境はディズヲタにとっては完全な、そして究極の「聖地」となる。まさにアキバ化、乙女ロード化、中野ブロードウェイ化、そしてドンキ化。でもって、こういった「ごった煮的な環境」というのは、実はものすごく日本的なものとも言える。

日本の伝統文化は「消費文化の形式」を永続させること

僕が最後に逆説的な考えを提示したのは以下の理由による。日本の、このごった煮的な消費文化って、その中身こそどんどんと変更されていって何も残らないのだけれど、ごった煮状況の中身がどんどんと入れ替わるという構造=形式それ自体はずっと維持され続けてきた。ということはこの形式、つまり「消費文化という形式」こそが、実は恒常的な伝統文化ではないのか?ということなのだ(実際、日本の街並みって、どんどん変わってしまい、おおむね過去を残さない。原則木造住宅だからスクラップ&ビルドが繰り返される。必然的に痕跡を見つけるのが限りなく難しい)。だから、これを突き詰めていくと多くのゲストは去って行くけれど、その分を消費文化の形式を歓迎するオタクが補完し、結局、現状の集客力を維持するということになるとも考えられるのだ。もちろん、もうここにはディズヲタしかやってこなくなるのだけれど。

「世界のディズヲタの殿堂化」というのも、ありかも?

そう、それでも実は構わないとも考えられる。というのも、この消費文化=オタク文化の究極化は、海外からすれば日本を象徴する文化として位置づけられるようになる可能性があるからだ。なんといっても、もはや外国人環境客に日本を紹介するガイドブックの巻頭がアキバやコスプレになるような時代なのだから。いいかえれば、TDRは世界中のディズヲタの「オタクの殿堂」になっていく。こうなったとき、TDL=TDRは見事にクレオール化、つまり日本独特のディズニーとなる。つまり「オタク・ディズニー」というクレオール文化(そして本家本元とは一線を画した消費の究極としてのディズニー世界)を確立し、世界に情報発信をするようになるのだ。で、世界のディズヲタたちは、もはやアナハイムではなくTDL=TDRこそをディズニー世界、つまりディズヲタの殿堂=聖地と位置づけるようになる。そうすると世界のディズヲタがTDL=TDRに大挙して「参拝」する、つまり押し寄せることになる。これが消費文化の究極としての日本独自のディズニー文化の世界発信ということになるわけだ。これって、ある意味とっても日本の伝統文化らしいと考えることも出来る。

さて、TDL=TDRの未来はいったい、どっちだろう?

オタク、いやマニアをキャストに配置する

TDL=TDRをディズニーオタク=ディズヲタから取り戻すための戦略を考えている。その具体的な方策として現在のディズヲタに向けた消費文化(消費されれば消えてしまう文化)的な戦略に加えて伝統文化(未来に永続する文化)的戦略を追加することを提案した。前回はそのハード面について取り上げた。これは施設にテーマ性に基づいた物語の関連づけを復活させ歴史的・知識的コンテクストを流し込むことによって可能になることを指摘しておいた。

ではソフト面、とりわけキャストについてはどうだろう?これもハードと同様「大人のディズニー」向け、つまりディズヲタと子ども向け以外のキャストを用意すればよいだろう。しかも、そこに配置するのは、なんとオタクのキャストだ。いや、厳密に言えばウォルト=ディズニー原理主義のマニア(ディズニーについてのジェネラルな知識を持ち、そのいわれを物語ることのできるキャスト。オタクは情報量が多いが「物語」を語ることが出来ない)と表現するべきだろう。当然、そういった人材はある程度、高年齢の人間ということになるけれど。

キャスト、実はそこそこのホスピタリティしかできない

TDRのキャストについては、パークのイメージを構成する重要な要素としてしばしば語られるところだ。つまり、あの痛快なりきりで、笑みを絶やさないホスピタリティがパークを彩る重要な要素になっているという指摘だ。実際、キャストのすばらしさについてはかなりの文献が出版されているほど、その評価は高い。

しかし、よくよく考えてみると、このキャストは文献やメディアが絶賛しているお陰で「そうでもない」という側面が常に隠されてきたのも事実だろう。キャストたちはよく教育されているということは確かだけれど、一定レベルでしっかり管理されているということも確か。その管理のされ方は、いわば「80点主義」とでも表現したらいいのかもしれない。キャストたちは、原則マニュアルにあることしかすることを許可されていない。たとえばジャングルクルーズのガイド・スキッパーを例にとってみよう。彼らの語り、実は30年間、ずっと同じだ。「今から珍しいものをお見せします……滝の裏側です」であるとか、最後に「それでは、最後にみなさんを一番恐ろしい場所にお連れします。……それは文明社会です」といった台詞は一切変更されていないのだ。もし、ディズニー世界をゲストたちにもっと楽しませたいと思うのならば、スキッパーたち全員に同じことを喋らせるのではなく、それぞれのアドリブを生かさせて自由に語らせた方がよっぽど面白いはずだ。だが、こういったことは一定の範囲以上は許されてはいない。その理由が「80点主義」なのだ。

キャストたちは、しょせんバイト。だから数年もすれば辞めていく。そんな連中にディズニー世界を徹底的にたたき込んだとしても費用対効果的にメリットはない。しっかり教育を施した挙げ句、去られてしまうからだ。だったら、同じ喋り、同じ対応で品質を揃えてしまった方が全体のクオリティをアップし、そのレベルを維持することが可能になる。これはトヨタのクルマがよく出来ているけど面白くない、ヤマザキのパンが安くてそこそこ食べることができて飽きが来ないけど決して「すごくおいしい」とはいえないというのとおなじ。要するに人間をパッケージ化して動きをコントロールしているわけだ。

で、パーク内で働くキャストの多くは二十歳前後の若者。まだ社会的スキルが身についている年齢ではないので、ディズニー的世界観は持ちにくい。それは言い換えれば、自らの視点でアドリブを飛ばすようなことはちょっとむずかしい人間たちだ。なんなら、キャストたちにいろんな質問を浴びせてツッコミを入れてみるといいだろう。十中八九はフリーズしてしまうはずだ。だから80点主義で徹底管理してしまえばいいというわけだ。だが、それはまさに消費文化的な「感情労働」「パフォーマティブ労働」。その対応に奥行きは一切感じられない(だから、彼らのパフォーマンスはせいぜい、大仰な紋切り型のパフォーマンス程度になる)。そして、こういったパッケージ化された「企画もの」そして「規格もの」の対応、つまり奥行きのないホスピタリティは「大人のディズニー」にとってはふさわしいものとは言えない。底が浅すぎて、そのスキルの低さがミエミエになってしまうからだ。

存在それ自体が伝統文化のキャストを配置する

そこで、これをもうちょっと含蓄のあるものにしてしまうのだ。アメリカのディズニーランドにはかなりの割合で年配のキャストが働いている。十年以上なんてのも結構ザラだ。たとえば僕が以前フロリダ・ウォルトディズニーワールド・マジックキングダムにあるシンデレラ城内のレストラン「シンデレラのロイヤルテーブル」でプライオリティーシーティングをした時のこと。その受付を担当していたのはものすごいおばあちゃんだった(だから予約を取るのにも一苦労したのだけれど。ほとんど志村けんが演じる「ひとみばあさん」状態だった)。で、このキャスト数年後にここを訪れたときにも、まだ働いていたのだ。こういったキャストたちは本人がディズニー世界の生き字引になるし(語りの面でも、また存在そのものの面でも)、また長年働いているから80点主義ではなく、自由に活動させてもディズニー世界を彩る存在になる。こういった年配の、しかも長年働き続けるキャストをある程度恒常的に配置することで、今度はソフト面でも「いわれ=歴史のシワ」を刻むことが可能になる。「あそこにいけば、あのおばあさんに会える」というわけだ(ちなみに、若干だが、最近は年配のキャストも現れてはいる)。

かつて、TDLにもパークの生き字引のようなキャストが存在した

ちなみに、こういった歴史のシワ、実はTDLにもかつて存在した。その典型がディキシーランドジャズを奏でていた外山嘉雄だ。わが国最高峰のディキシーランドジャズ・トランペッターにして日本人唯一のニューオーリンズの名誉市民である外山は、ロイヤルストリート・シックスとバーリーバンドでの活躍を含めてTDLで23年に渡り演奏を続けたTDLの名物的存在だった。70年代から彼のファンだった僕は80年代前半、パーク内で外山さんに遭遇してびっくり。以後、彼の演奏を聴くことはTDLを訪れる楽しみの一つとなっていた。

こういった外山的な歴史のシワを持った存在をある程度偏在させることで、消費文化=オタクのTDLと伝統文化=大人のディズニーは共存が可能になるのではなかろうか?ちなみに本格的な「大人のディズニー」戦略は、直近では費用対効果的には明らかにマイナスになるはずだ。つまり顧客に対する費用単価が上がってしまう。しかし、長期的に見た場合、これは顧客=ゲストを永続的に引き留めるための格好の手段となるのだから、実はビジネスとしては最終的には十分見合ったものとなる。そして、もっと大きなことはTDL=TDRといった娯楽施設が、日本においても伝統文化として認められるという点だ。もうそろそろTDR=オリエンタルランド側はこういったイノベーションを行う次期に来ているのではなかろうか。

でも、実は、まだもう一つTDL=TDRの未来を考えることが出来る。しかも、それはここまでの議論を全部ひっくり返してしまうものなのだけれど。最終回は、それについて考えてみよう。(続く)

伝統文化の取り込み

前回はゲストを四つのセグメント(一見客、一般のリピーター、ディズニーオタク(=ディズヲタ)、ウォルト=ディズニー原理主義者)に分類し、その内ディズヲタたちがパークを「オタクと子どものためのアキバ・ドンキホーテ化」していくがために、他のゲストたちの興を殺ぐ存在になっていることを指摘しておいた。現在2600万というゲストが毎年訪れているが、こういった状況が続けば、やがてディズヲタ以外のセグメントにあたるゲストの多くがTDRから離れていくということも考えられないこともない。そこで、今回はTDL=TDRは今後どうあるべきかについて考えてみたい。

「大人のディズニー」をホンモノにするために

TDRは、近年「大人のディズニー」というキャンペーンを展開しているが、前回確認したように、現在、実質的に推進しているのは「子どものディズー化」、つまり若年齢層の「本当の子ども」とオタクという「精神的な子ども」向けのパーク化ということになる。だが、もし一般の大人、成熟した鑑賞眼を持った大人、そしてディズニー世界を熟知した人間にTDRを楽しませようとするならば、つまりTDRが標榜するような「大人のディズニー」を実現しようとするならば、オタクはもちろんだが、当然、それ以外のセグメントに属する顧客層も取りこむような戦略を組むべきだろう。つまり、一見客とオタクと子どもと、そして大人の共存。これはどうやるべきか。

その適切なやり方は、やはり伝統文化=永続する文化の組み入れということになる(言い換えれば、ここまで展開してきたようにTDLのアキバ・ドンキ化はこの対極の消費文化=消費し尽くされてしまえば消滅する文化の徹底だったというわけだけれど)。具体的なやり方をハード面とソフト面で考えてみよう。今回はハード面を考えてみたい。

パーク内施設の関連づけを見直す

ハード面については、これはアナハイムのディズニーランドのように物語の重層性を考慮に入れることだろう。つまり新たなアトラクションやレストランなどの施設を建設する際には、以前のようにテーマランド内との整合性や、スクラップされる施設との関連性を考慮する。そうすることによって、そこにこの施設が新設されることの「いわれ=歴史のシワ」を付与するのだ。こういった設計をすれば、オールドファンたちも新しい施設を好意的に、そしてノスタルジーを抱きつつ受け入れるようになる(このアメリカの具体例については本ブログ「ウォルトが生きるロス・ディズニーランド~日米ディズニーランド比較1~3」http://blogs.yahoo.co.jp/mediakatsuya/64170723.htmlを参照されたい)。

歴史的・知識的な奥行きをレストランに盛り込む
これは飲食施設についても同様だ。オタクたちとって飲食物は「エサ」か「記号」として消費されるものだ。前者の場合、とにかく胃袋を満たせれば味はどうでもいい。だからハンバーガーとかでいい。後者の場合は飲食物に付与された情報を消費するもの。たとえば二月からトゥモウロウランド・テラスで発売されたミッキーの顔を形取ったどった「ミッキーブレッドサンド」をいち早く試しに行くというのがこれにあたる。つまり前者は純粋な機能的消費であり、後者は情報消費にあたる(そして両方を備えているのがパーク内のワゴンで販売されるさまざまな種類のポップコーンだ)。ちなみに、こういったニーズがあるため、TDRのメニューはどんどん増えると同時に、どんどん減るという現象が同時に発生している。「どんどん増える」とは、新しいレストランやワゴンが用意され、そこで新しい料理が提供されること(前述のポップコーンは現在TDLで8種類、TDSで7種類ある)。だからバリエーションが増えたように見える。「どんどん減る」というのは一つのレストランでのメニューは逆に削減されるということ。たとえばメディテレーニアン・ハーバーにあるレストラン、リストランテ・ディ・カナレット。ここはかつてはカルツォーネなどもメニューとしておかれ、ワインもある程度のバリエーションが用意されていた。しかし、現在提供されるのはピザとパスタが中心でラインナップは減らされた。ワインの種類も同様に減らされた。要するにこういった「てまひま」をかけると経費がかかるので削除されたのだ。そして、そのような運営方針はオタク層を考慮すれば当然ながら「何ら問題ない」ということになる。しかしセグメント2や4の層からすれば、それは「大人のディズニー」の要素が切り落とされたことを意味する。

この方針を改めるわけだ。つまり、昔のように料理のバリエーションも復活させ、費用対効果的に「合理的でない」料理を用意する。もちろん、これはなにもあらゆるレストラン、ワゴンにそうしろと言っているわけではない。一部のみ差異化を働かせて棲み分けを行えばいいだけの話だ。TDSなら前述のリストランテ・ディ・カナレットのようなテーブルサービスとプライオリティーシーティングを実施しているレストランをこのようなスタイルにする。そして、これらについては「老舗化」、つまり奥行きの深いレストランにするのだ。その一方でディズオタたちの機能的消費(=エサ代わり)、記号消費(=新しい商品の情報チェック)としての食べ物もちゃんと用意する(つまり、ポップコーンだったら種類をさらに増やしたり、ラインナップを変更していく)。

そしてこういった伝統の埋め込みについてはソフト=ホスピタリティについても実施すべきだろう。では、それはいったいどのようなものになるか?(続く)

前回まで東京ディズニーランド(TDL)とゲストの歴史がTDL→ゲストからゲストやTDLへの教育者の転換というかたちでまとめられ上げることを示しておいた。つまり、当初はディズニー・リテラシーの低かったゲストに対し、TDLがディズニー世界の知識を提供する役割を担っていたのだが、21世紀に入りゲストたちがリテラシーを向上させると、逆にTDLのあり方についてゲスト側が要求するようになった。ただし、それは大量のディズニーオタクを誕生させ、それが結果としてディズニーランドの基本であるテーマ性をどんどん破壊させて、パーク内がごった煮的なアキバ・ドンキホーテ状況を現出させた、と。じゃあ、これからTDLそしてTDRはどんな方向に進んでいくべきなのだろうか?

伝統文化=米・ディズニーランドと消費文化=TDL

これを考える上で「消費文化」と「伝統文化」という言葉を持ちだしてみたい。
ディズニーランドはそもそも消費文化と呼ばれるカルチャーに属する(遊園地というカテゴリーに属するビジネスだから、あたりまえといえばあたりまえだけど)。消費文化は消費し尽くされれば、やがて世界から消えていく文化。だがウォルト・ディズニーが志向していたのは、消費文化としてのディズニー世界を伝統文化的なものへと転換すること、つまりディズニー世界を未来へと永続する存在へと昇華させることだった。そして、その方法論として捉えていたのが、消費文化から世界に認知されるアメリカの伝統文化へと昇華したハリウッド映画の世界の中にディズニー世界を埋め込むことだった。ウォルトが全財産をつぎ込んで”Snow White”や”Fantasia”を制作した理由にはこういった経緯がある(それまで、つまり1930年代前半まで5分程度の短編をもっぱらとしていたディズニーの作品群は、映画と映画の間の「箸置き」的な位置づけだった。アニメは純粋な消費文化としてしかみなされていなかったのだ)。

ウォルトは遊園地というカテゴリーにも同様に消費文化の伝統文化化を目論む。それがテーマ性を徹底させ、さらにそこに重層性を加味させていくディズニーランドというコンセプトだった。パーク内は統一した大きなテーマ=Magic Kingdomにサブテーマ=テーマランドを設け、それぞれの環境内をテーマに基づいて細部まで作り上げる。また、そのリノベーションにあたってもテーマ性との関連を持たせながらこれを行うというスタイルを貫いたのだ。こういった「テーマ性の徹底」は、ウォルト死後もアナハイムのディズニーランドでは踏襲し続けられ、その結果、アメリカにおいてディズニーランドは消費文化が昇華された伝統文化として、そしてアメリカ国民の「聖地」として位置づけられることになったのだ。

だがTDLは、こういったウォルトのコンセプトとは全く逆行した道を歩んでいった。つまり徹底した消費文化を貫いていったのだ。具体的には顧客=ゲストのニーズに基づいて、どんどんとその環境を変容させていったのだ。だから、そこには過去の痕跡はほとんど残されておらず、歴史の重層性はうっすらとしか感じられない。アナハイムが「ひたすら過去を振り返りながら未来が構築される」ものであるのに対し、TDLは「一切、過去を振り返らない」のである。

ゲストをセグメンテーション

そこで、TDL=TDRを消費文化の空間として、今後のあり方を、やはりTDRとゲストの関係から考えてみよう。
まず、ここでは顧客=ゲストのセグメンテーションを行ってみたい。ゲストは表層的にはリピーターとそれ以外というかたちで二分できる。これは既に統計的に明らかなように9:1の割合だ。ただし、これではあまりに大雑把。そこでリピーターの中身を三つに細分化させ、トータルで四つのセグメントに分けてみよう。1.一見さん、2.数回訪れたことのあるリピーター、3.何度となくやってくるオタク・リピーター(以下「ディズヲタ」)、4.ウォルト=ディズニー原理主義のリピーターだ。

他のセグメントの興を殺ぐディズヲタたち

この顧客層のうち3のディズヲタは、それ以外の顧客(とりわけ2と4)のニーズを奪ってしまうかたちになっている。ここまで示してきたように、オタク・リピーターたちはそれぞれのオタク的なディズー嗜好によってTDL=TDRを消費する。彼らがパーク内を散策する際には消費のレベルはきわめて「目的的」かつ「活発」だ。つまり、どのグッズを購入し、どのアトラクションに乗り、どの食べ物を食べ、どのイベントに加わるかといったことが問題となる。しかも「いち早く」というのがポイント。誰よりも先にTDL=TDRの知識を吸収し消費することがアイデンティティだからだ。だから事前に情報を仕込み(インターネットで新しい商品の情報とか、ニューアトラクションのスニーク・プレビュー(=オープン前の抜き打ち内覧会)などをチェックしている)、それらの目的を達成すべく、ある意味「目をギラギラさせながら」足早にパーク内を闊歩する。彼らの割合は過半数というわけではないが、かなり多い。消費活力も高く、またその行動によってきわめて他のゲストからすれば目立つ存在になる(TDR側からすれば、恒常的にたくさんのお金を落としてくれる「有り難い」ゲストでもある)。

だが、こういったディズヲタたちは残りのセグメントのゲストからすればノイズに他ならない。1と2のゲストにとってはTDLはフツーに楽しむ「夢の空間」だ。どんなアトラクションに乗ろうか、何か面白いものはないかと興味を抱いてパーク内を散策しようとするのだが、その前を目をぎらつかせたディズヲタたちが通り過ぎるのだ。非日常に浸ろうとするこういった一般のゲストからすれば、仕事のように、さながら「業績原理」でパークを動き回るディズヲタたちは非日常感覚を日常に引き戻すような存在でしかない「異様な存在」。だからディズヲタに遭遇することで、彼らは著しく興を殺がれることになる。で、気持ちが悪いので、もうあんまりパークに向かおうとする気持ちを持てなくなる。

4のディズニー=ウォルト原理主義のゲストからすれば事態は一層深刻だ。ディズニー世界を体感すべくやって来ているのに、パーク内を闊歩するディズヲタたちは興を殺ぐどころか、自らの世界観を破壊するものとすら映る。原理主義者たちからすればディズオタたちは「全くわかっていない連中」、そして「敵」なのだ。だから、原理主義的な考えを抱くようになればなるほど、パークに向かわなくなる。で、彼らにとってディズニー世界が存在するのはアメリカのディズニーランドということになる。

ディズオタたちが創造するTDL=TDRの危険性

現在、年間2600万の入場者を数えるTDRだが、もしこのままオタクランド化を進めていけば、その将来は少々暗いかもしれない。今のところTDRにディズオタが大挙して押し寄せていることに気づいている人間は少ない。だが、現在の状況に拍車がかかり、いずれここがオタク・ランドで一般の人間が近寄りがたい場所になることが一般に認知されるようになれば、セグメント2のゲストは大幅に減っていくだろう。そして既にセグメント4の層はTDRから大幅に撤退しつつあると僕はみている。もし、こういった状況が続いていけば、最終的に顧客層は一見とディズヲタ、そしてテーマ性を全く理解しない子ども=若年層ということになる。言い換えれば「年齢的にも精神的にも大人」の層、つまり子どもでもオタクでもないゲストにとってTDRは単なる「子どもが行くところ」ということになるのだ。つまり「フツーの遊園地」(ただしこれに怪しさがプラスアルファされるが)。これはウォルトが想定したものと正反対のディズニーランドということになる。ウォルトが考えたのはファミリーエンターテインメント、つまり老若男女すべてが楽しめることめざしたパークなのだから。ちなみに子どもは大人に連れられてやってくるけれど、これが大人になるにつれて二つの層に分かれていく。大人の鑑賞眼が芽生えたゆえにここから撤退するか(大人として子どもを遊園地に連れて行くという役割だけが残る)、ディズヲタになるかのどちらかだ。こういった方向へ進んだとき、現状の年間入場者が減少に転じることは十分に想定しうることだろう。

じゃあ、TDL=TDRがそうならないようにするためには、つまり永続し、大人も楽しめるものであり続けるようにするためにはどういった方策が考えられるのだろう?ただし、こういったディズヲタたちも取りこむかたちでという条件付きで……(続く)

クレオール化するTDL

第一回では、東京ディズニーランド(TDL)が83年の開園から20年間の間、もっぱらゲストにディズニー・リテラシーを涵養させるべく、啓蒙し続けたことについて展開した。しかし九十年代も後半に入るとディズニー世界は日本人にもすっかり定着し、ディズニー的なものはもはや国内のあちこちに偏在するようになる。当然、日本人の多くがディズニーのキャラクターを熟知し、ディズニーランドにも頻繁に訪れるようになった。TDL側の教育は見事に花開いたのだ。だが、こういったリテラシーの向上はTDLとゲストの関係性の逆転をもたらすようにもなっていく。

文化人類学の用語に「クレオール化」ということばがある。クレオールのもともとの意味は、中南米やカリブ海に生まれたヨーロッパ人を指すのだが、これが転用されて用いられるようになったのがクレオール化ということばで、文化が異文化に輸入された場合、それがそのまま異文化に定着するのではなく、当該の異文化の文化性と混ざり合って新しい文化として成立してしまうことを意味する(クレオールはヨーロッパ人、とりわけスペイン人であったのだけれど、中南米に住み着き何世代も後に生まれた世代のためにもはやヨーロッパ文化のことはよくわからなくなっている)。

わかりやすいように寿司を例にとってみよう。寿司は今や世界的な食文化として広く認知されているが、言うまでもなく発祥は日本だ。ところがこれがアメリカに輸入されることでカリフォルニアロールのような寿司が生まれ、また寿司にドレッシングをかけて食べるというようなスタイルも出現した。中でも「裏巻き」という海苔を内側に巻く寿司のスタイルはこのクレオール化の典型だ。海苔巻きの海苔はシャリを巻くもの。ところが、キリスト教的な視点からすると黒は悪魔の色で忌み嫌われる。だから黒い食べ物は食べない。だが海苔は黒い。そして巻物としては欠かせない。そこでシャリと海苔の巻き方を逆にして黒い色が見えないように工夫したといわれている。ところが、これが寿司としての新しいスタイルを生んでしまった。つまりアメリカ人からすれば寿司であるが日本人にとっては寿司ではないようなものが出来上がったのだ(もちろん、これが今や日本に逆輸入され、「裏巻き」というメニューとして一般化しているのだけれど)。

TDLの三十年は、まさに「ディズニーランドの裏巻き」を作る歴史だった。つまり、アメリカ生まれのディズニー文化が日本にローカライズされ、独自のクレオール的なものへと変貌していく過程だったのだ。そして、このクレオール化は21世紀に入りTDL=TDR側というより、ゲスト側の方から要請されたようなかたちで顕著に進行していく。

ゲストがTDLのリテラシーを涵養する

日本国内に横溢するディズニー世界に浸ることですっかりディズニー・リテラシーを向上させたゲストたちは、次第にTDLが提供する情報に従順ではなくなっていく。それぞれがディズニーに対して一家言を持ち、独自の世界観を展開し始めたのだ。これは社会が巨大化していく際に発生する「多様化の流れから生まれる価値観の細分化」といった事態に他ならない。ゲストたちは、ビッグ5(ミッキー、ミニー、ドナルド、グーフィー、プルート)のキャラクターを頂点とし、その背後にディズニーのキャラクターをみるという、それまでTDL側が提供していたツリー構造ではなく、膨大なディズニーキャラクターのそれぞれに嗜好を向けるようになる。もちろん、彼らは独自にディズニー・リテラシーを備え、ディズニーの世界観を抱えているのだが、嗜好が異なり、したがって当然指向性が異なるようになったゆえに、このツリー構造を支持しなくなっていく。つまり、リピーターたちはそれぞれが「マイディズニー」を標榜し、これを実現する場所としてTDLを位置づけるようになっていったのである。

だがこういったゲストは、さながら映画「グレムリン」に登場する生き物・モグアイに水をかけることで分裂して生まれる小鬼=グレムリンのような存在にほかならない。TDLから生まれTDLによって育てられたゲストは、次第に自己主張し始め、グレムリンとなって、今度は生みの親であるTDLにさまざまな要求を突きつけ、その変更を迫るようになっていったのだ。

そしてTDL側、つまりオリエンタルランドはこれに応えるようになっていく。というのも、こちらにも事情があったからだ。オリエンタルランドは脱ディズニー化を図り、独自の道を歩もうと努力してきたのだが、そのことごとくが失敗していた。いいかえればTDL側はオリジナルのディズニーからの脱却が自力では達成出来ていなかった。だが、ゲストたちは膨らみ続ける。そこでTDL=オリエンタルランド側はこのゲストの要求に従順になっていく。それが涵養される側の逆転、つまりTDL→ゲストではなくゲスト→TDLという教育者と生徒の交代に他ならなかった。

ゲストはオタク化し、TDRはアキバ・ドンキホーテ化する

こういったかたちでのクレオール化は、当然ながら本家本元とは異なった、いいかえればウォルトの理念からは逸脱したディズニー世界をTDR内に構築していくことになる。その典型がパーク内におけるテーマ性の破壊だった。各テーマランドはテーマに基づいてアトラクションやレストランなどの設備が配置され、それぞれを物語でつなぎ合わせることで統一した世界観が形成されていたのだが、この関連性がどんどんと失われ、さながらショップ・ドンキホーテの「ナンデモアリ」のようなごった煮的な世界がパーク内に現出するようになったのだ。それはいわばウォルトとビッグ5からなる「ツリー構造」から、さまざまなものが混在する「モザイク構造」への変容だった。また、人気のないアトラクションは次々と廃棄され、新しいものへと変更されていった。しかも、以前のアトラクションと新しいアトラクションとの関連性も全く考慮されることなく。

だが、こうやってクレオール化することでTDL=TDRは強靭な顧客層を取りこむことに成功する。その顧客層=ゲストとは……ディズニーオタクだった。オタクは細分化された趣味の領域の一つにタコツボ的に入り込み、これに熱狂する人々。これがTDL=TDRを担う主要なゲストとなったのだ。ちなみに、これを例証するデータがある。TDRゲスト一人あたりの売上高の推移だ。2006年から6年間の間にチケット収入は2.7%減であるにもかかわらず商品販売収入は逆に2.9%の伸びを示している(飲食販売収入は横ばい)。とりわけ興味深いのは2011年のデータで、この年度から入場料は5800→6200円と6.9%の値上げを行ったにもかかわらず、この傾向が続いたのだ。チケット収入は前年比とほぼ横ばい(42.1→41.9)だが、商品販売収入比率は36.2→36.7と微増している。しかも前年度の販売比率は前々年度よりも増加した状態を維持した数値だったのだ(34.7→36.2%。いずれもオリエンタルランド公表の数字http://www.olc.co.jp/tdr/guest/profile.html)。311があったにもかかわらず、である。言い換えればゲストたちの購買意欲は高い。つまりTDL=TDRはオタクリピーターたちが物品を求めてやってくるマーケットのような色彩を帯び始めているとも考えられるのだ。

そういえばディズニーのグッズをあちこちにまとわりつけた女の子の二人連れ(五年の間に女性入園者が4%近く上昇している)、ダッフィーをカートにいくつも乗せてパーク内を闊歩する家族、ダッフィやコスチュームに身を纏ったお一人様……こんなゲストの存在は、今や「非日常パーク内を彩る日常的な風景」になりつつある。

クレオール化の先に構築されたTDL=TDRのオタクランド化、アキバ・ドンキホーテ化という現状。これは、ディズニー原理主義、つまり本場アメリカのディズニーランドやウォルト的な理念を信奉するディズニーファンからすれば心地よいものではないだろう。彼らからすれば「あいつらはディズニーのことをわかっていない」と上から目線で訝るような状況だ。僕は以前、このブログで今回と同様、アキバ・ドンキ化するディズニーランドについて書いたことがあるのだけれど、それに対する反応の中にも僕のこの指摘に対して同意しながら、こういった現在の流れは間違っていると意見してくれたものがあった。そして、その指摘をしてくれた人の何名かは、なんとかつてTDLで働いたことのある人たちだった。彼らからするとTDL=TDRはディズニー世界を具現化する場所であり、オタクのものではないということになるのだろう。

しかし、TDLそしてTDSを含めたTDRは、こういったオタク化、アキバ・ドンキ化を推進することで入場者を増加させているということも事実なのだ。じゃあ、こういったクレオール化を踏まえると、これからのTDL=TDRにはどんな未来が開けているのだろうか?(続く)

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