勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

カテゴリ: 映画批評

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映画「エスケイプ・フロム・トゥモロー」の日本版ポスター。ミッキーの指が5本になっているところにご注目。



7月19日、ディズニー側に許可を得ることなくゲリラ撮影によって制作されたブラック・ファンタジー「エスケイプ・フロム・トゥモロー」が公開された。とにかくウリは「無許可」「ゲリラ撮影」であるということ。つまりディズニーという権威を勝手に借用していること、それから色彩豊かなディズニーの世界をあえてモノクロで撮影しおどろおどろしい空間にパークを変貌させていること、さらにディズニーが最も否定するセックスとバイオレンス、さらにはグロテスクな世界までもがパーク内で展開されることなのだが、こうなると第一印象は、どうみても「キワモノ」ということになる。

実際、プロモーションをする側も、とりあえずこういった「無許可」「アングラ」的なイメージで本作品を紹介しているのだが……意外や意外、この映画、かなりアカデミックで映画マニアを唸らせる側面を備えている。

「想像」を巡りディズニーと主人公・ジムが対決

あらすじはこうだ。
妻と娘息子、4人家族揃ってディズニーワールドにやって来た主人公のジムは、これからパークを楽しもうとする矢先、勤務先であるシーメンスからクビを言い渡されてしまう。しかし、バケーションはバケーション。それはそれとして遂行されなければならない。ヤケクソになったジムは、ここで一般とは全く異なった楽しみを展開しようとする。ディズニー世界の楽しみ方はファミリーエンターテインメント。家族揃ってW.ディズニーの想像した「夢は必ずかなう」のハッピーエンド的な単純でセックスレスの「健全」な世界に浸るところにある。ところが、この「健全」なパークの中でジムが想像(イマジネーション)するものはパーク内で出会った可愛いパリの女の子への性的=「不健全」なストーカー的妄想、そしてクビになった会社を破壊する妄想。

この逆立した二つの想像=イマジネーション(ディズニーVSジム)が対決する図式で映画は進行する。イマジネーション対決、果たしてディズニー世界が勝利するのか、それともジムが勝利するのか。

このハッピーエンドは誰のもの?

映画は最終的に2人のティンカーベル(ジムがストーカー的に追いかけたパリの2人の女の子が扮している)がパーク内に現れてハッピーエンドで終了する。しかし、だったらこのハッピーエンドは誰のものなのか?

その結末は映画を見た人間にも、はっきり言ってわからない。主人公のジムは猫インフルエンザで死亡してしまうのだが、その一方で最後に復活して妄想していた若い女性とホテルにチェックインするという正反対の二つの結果が描かれているからだ。つまり、ディズニー、ジムどちらの勝利=ハッピーエンドにもとれる(いや、実はシーメンス=管理社会の勝利にも見える)。なんのことはない、映画はひたすら観客をカオスの中に陥れてしまうのだ。言い換えれば多様な解釈、観客それぞれの解釈を許容してしまうということでもあるのだが。

困惑する観客たち

試写会を見終わったときの観客たちのリアクションは実に印象的なものだった。

「なんだ、こりゃ?」

というのが正直なところだろう。「よくわからない、ただし、何かを訴えていることはよくわかる。でも、それが、いったい何なんだろう?」

その一方で、当初の先入観「バイオレンス、エロ、グロ、ゲリラ」のイメージは崩される。だから、この作品を「クソ」と一蹴することが出来ない。このイメージについてはネット上のレビューでもまったくと言っていいほど同じだった。一部の高い評価と、ほとんどの最低評価(理解不能なので)といったかたちで評価は分かれている。

こうなってしまう理由は簡単だ。この作品、実に丁寧に作られているのだ。加えて、ディズニーランドのことも監督のムーアはものすごく研究していて、デズヲタでさえ文句の言えないレベルの緻密さでディズニーの情報が盛り込まれている。だから、この映画、エログロで虎の威を借る狐のはずなのに、否定することが出来ない。そして観客は色々と思いをめぐらすことになる。そう、ディズニーとジムの想像の戦いを巡ってもう一人、観客、つまり「あなた」が想像=イマジネーションを巡る戦いに参加することになるのだ。いわば観客参加型のメンタルレベルの3D映画、これが「エスケイプ・フロム・トゥモロー」の醍醐味と言える。


監督R.ムーアは買いだ!

実は、僕はこの作品のプロモーションの片棒を担いでいる。最初、オファーが来たときには、やはり「なんだ、このエログロ?ディズニー拝借主義?」と思ったのだが、試写を見て映画の出来に驚き、引き受けることにした。一般試写会では、この映画を制作したランディ・ムーア監督とも楽屋で顔を合わせている。エログロで、ディズニーを利用した商業主義を狙っているのならムーアは俗物そのものということになる。だが、ムーアそのものは実に紳士的、かつ学者的なクレバーな男だった。表面のエログロに対する、制作方針の端正さというアンバランス。監督本人と面会したとき、その疑問は氷解した。

「この男、ただ者ではない」

ちょっと、そんな感じをさせる人物だった。

この映画、おそらく日本でも大ヒットということにはならないだろう。正直、ちょっとハイブロウ過ぎる。10人の観客の内、9人はおそらく理解不能なのではなかろうか。ただし、ムーアのやっていることはキューブリックやギリアムの手法、哲学をキッチリ踏まえ、これを今日的レベルで展開している(詳細については僕が映画プログラムに執筆したエッセイをご覧いただきたい)。僕はムーアに「あなたの映画はキューブリックやギリアムみたいだけど、アイデアを拝借しているの?」と尋ねたのだけれど、僕のこの不躾な質問に、ちょっとうれしそうな顔をして首を縦に振ってくれた。

エスケイプ・フロム・トゥモロー、おそらく大ヒットというわけにはいかないだろう。おそらくディズニーをネタにしたところ、ゲリラ撮影を敢行したことが諸刃の剣となり「目立つが、さしてはあたらない」ということになるはずだ。ただし、である。おそらく映画通には絶賛されるだろう。メディア論、記号論的にも実に興味深い作品に仕上がっている。だから、今後予想されるのはムーアの次の作品がどのように展開されるか、というところになる。本作は一部の映画関係者に認められ、次回作でもっと大きなスポンサーがつく。で、その際には派手に映画を世界に向けて展開するということになるのではないか。僕はそんなふうに予想している。

「エスケイプ・フロム・トゥモロー」。青田買いの好きな映画通なら要チェックだ!

『アナと雪の女王』が『美女と野獣』を超えるヒット作に

現在、ディズニーアニメ『アナと雪の女王』(オリジナルタイトルは”Frozen”、以下『アナ』)が記録的な大ヒット中だ。オスカー二つ(長編アニメ映画賞、歌曲賞)を獲得し、メインの曲”Let It Go”がビルボードチャートランクを駆け上がり、関連映像がYoutubeに次々とアップされている。そして、現在、日本でも同じ現象が発生。ぶっちぎりの興行成績を上げている。

僕はこれを飛行機の中で見たが「なるほど、こりゃ、よくできている」と感心した。3回も観てしまったほど。この作品の優れているのは、きわめてディズニー的でありながら、時代に合わせて新たな要素を取りこみ、結果としてディズニー文化を昇華=進化させている点にある。今回は本作品がなぜヒットしたのかについてディズニー文化との関連でメディア論的に考えてみたい。

若干ネタバレになってしまうのでストーリーの詳細についてはなるべく伏せておくが(まあ、結構バラしてます)、『アナ』のディズニー作品としての踏襲性、そして新奇性は以下の点に求められる。いわゆる「プリンセス物」(プリンセス三部作:『白雪姫』『シンデレラ』『眠れる森の美女』、新プリンセス三部作『リトル・マーメイド』『美女と野獣』『アラジン』。ちなみに他もある)をベースにこのことを考えてみよう。

「プリンセス物」に共通するもの

先ず全てにほぼ共通するものについて上げてみよう。

・ストーリーが「夢は必ず叶う」であり、それに向けてのハッピーエンドという展開になる。
・”true love”、つまり「真実の愛」の獲得が目的となる。その際の記号は「真実のキス=true love kiss」
・ミュージカルである。
・プリンスが登場する
・ヴィラン(悪役)が登場する。
・狂言回し、あるいはメタファーとして人間ではないキャラクターが登場する。
・オリジナルを改変している(いわゆる「ディズニフィケーション」が施されている。これは、しばしば批判の対象となっている)

『アナ』の場合もストーリーは「夢は必ず叶う」であり、真実の愛が志向され、ハッピーエンドで終わっている。そして、これを達成させるためにプリンスが登場し、悪役が登場する。狂言回しは雪の妖精のオラフだ。そして原作のアナデルセン童話『雪の女王』も改変されている(改編のレベルは、おそらくこれまででいちばん極端だろう)。だから、ディズニーの「プリンセス物」として安心してみることが出来る。もちろん、キスシーンもある。

『アナ』の、これまで「プリンセス物」と違うところ

ところが、これらを踏襲しながらも、それまでの作品群とは大幅に異なっているところがいくつも見受けられる。

先ずプリンセスがアナとエルサのダブル・キャストであること。二人のプリンセスが登場する、しかも対等な重要性を持ってという作品はこれまで存在しなかった。

次に夢は必ず叶う=ハッピーエンドだが、これは確かにそのような結末を迎えるものの、「叶う夢」がこれまでとは異なる。それまで「真実の愛」を獲得することの記号は前述したように「真実のキス」によって異性=プリンスと結ばれることだった。ところが本作では「真実の愛=真実のキス」という図式が否定されてしまっている。真実の愛を与えてくれるプリンス=ハンスが、なんとヴィランにすらなっているのだ。では、真実の愛はどこに向けられ、どこで達成されるのか。それはもう一人のプリンスである山男の青年で、アナをサポートするクリストフというふうに一見、思える。しかしこれでは夢は必ず叶う、そして真実の愛を獲得するのはアナだけになってしまいエルサ=雪の女王(厳密には「氷の女王」だが)の方のプリンスが存在しない。ということは、この見方では叶うものが「片肺飛行」になり、大団円としてのハッピーエンドにはならない。

この作品の新しさは、二人に「夢は必ず叶う」と「真実の愛の獲得」という二つのテーマを達成させる点に求められる。真実の愛を向けるのは、なんと異性ではなく同性、すなわちエルサに対するアナの、そしてアナに対するエルサの愛、つまり姉妹愛なのだ。それが互いに証明されることで夢が叶うという展開になっている。アナと山男クリストフがキスで結ばれるのはオマケでしかない。言い換えれば「愛他心」こそが真実の愛であり、「真実のキスこそが究極の愛である」という、それまでの「プリンセス物」の図式が完全に否定されている(ちなみに、これはアニメではないが、ディズニーによる実写版の「プリンセス物」映画である『魔法にかけられて』でも、やはり「真実のキス=真実の愛」の図式は否定されている)。そして、この愛他心を作品全般に渡り黒子のように投げかけ続ける役割を担っているのが、雪ダルマのオラフなのだ。オラフはもともとエルサがアナのために作ったもの。つまり、これから二人が獲得しなければならない「愛他心」という「真実の愛」のメタファー=狂言回し(そして到達目標)に他ならない。

「女性の自立」という図式からの自立

さて、こういった『アナ』の展開は、ディズニーの「プリンセス物」の確実な進化を示していると言ってよい。そこに見て取ることが出来るのは、明らかに「女性の自立」といったテーマだ。いや、この表現ではちょっと野暮ったい(この表現自体が女性蔑視っぽい)。女性と言うよりも人間それ自体の自立、そしてそれをたまたまプリンセスが達成するといった方が適切かも知れない。

妹のアナはエルサが自らの力をコントロールできず世界を雪一色に染め、城を去ってしまったことの原因について自分の責任と感じている。そしてエルサを何とか救い出そうとエルサのいる雪山に向かう。この時、山男のクリストフがサポートするものの、よくよく見てみれば、これはサポートするのではなく、共同作業を行っているにすぎない。時にアナはクリストフを助けてすらいるのだから。つまりプリンスに対して従属的な存在ではない。

こういったプリンセス自立の進化は過去の作品と比較してみるとハッキリわかる。古典のプリンセス三部作ではプリンセスは圧倒的に受動的な存在だった。白雪姫もシンデレラもオーロラ姫も、とにかくプリンスがやって来て何とかしてくれて、最後はキスをするという、「待ってるだけ」の古典的で保守的な専業主婦みたいな役割しか持っていなかった(いや、専業主婦以下だった)。これが新プリンセス三部作となるとちょっと様子が変わってくる。『リトル・マーメイド』では、夢見ることが大好きなヤンキー娘のプリンセス・アリエルが地上に出たいという欲望に基づいて様々な活動を展開する。だから自立のレベルは進化している。ただし、最後はプリンスのサポートを得て夢を叶える。『美女と野獣』も同様で、最終的に野獣を自立させることで、プリンセスのベルは野獣の庇護の下にに置かれるのだ。そして、それを約束するものとして「真実のキス」が交わされる。

ところが『アナ』は違う。プリンスなんか添え物だ。いや、それどころかプリンスの1人ハンスは、前述したようにヴィランですらあるという、これまでのパターンを裏切る展開。ハンスはかつてのプリンセス物のプリンス役をベタに演じているのだが、これが否定されてしまっているのだ(ハンスは13人兄弟の13番目という不遇な環境にいるため、アナに近づいて結婚し、エルザを殺してアレンデール(アナとエルサが女王である国)を乗っ取ろうとする。言い換えれば俗世間に縛られ動けなくなっている”フローズン”な自立していない存在だ)。だが、アナとエルザは愛他心を持って互いを救おうとする「真実の愛」によって最終的に夢を叶えていく。アナはパートナーとしてのクリストフの獲得そしてエルサの防衛と解放、エルサは「雪の女王」としてのアイデンティティと周囲を凍り付かせることのコントロール(これは「感情のコントロール」のメタファーだろう)を、それぞれ達成するのだ。

つまり『アナ』では「女性の自立」ではなく「人間としての自立」、いいかえれば「『女性の自立という概念』からの自立」というかたちで、プリンセス像、そして「プリンセス物」という作風が昇華されている。

「文化」は生き物でなければならない

作品は独自性を備えながらも、時代に敏感に反応する必要もある。『アナ』はディズニーのお家芸である「プリンセス物」というスタイルを現代風にアレンジした。ただし、それが全く新しいというのではなく、あくまでディズニー文化の「プリンセス物」の伝統を踏まえて。そしてディズニーアニメは、いわば「世界遺産」。だれもが「プリンセス物」をよく知っている。いいかえれば僕らの身体には「プリンセス物」のDNAが入り込んでいる。そういった僕らにしっくりと馴染みながら、新しい側面を切り開いて見せてくれたのが、この『アナ』なのだ。だから『アナ』は新しい。そしてこれはディズニーという文化が「干物」ではなく「生き物」として進化し続けていることを示している。

ベタであって、ベタでない新しいディズニーを見せてくれる本作。必見である。

Appleの創設者、スティーブ・ジョブズの半生(実際には70年代後半から2001年まで)を追った映画「スティーブ・ジョブズ(原題”Jobs”)」(監督J.M.スターン)を観た。今回は、この映画を批評する中で、人物伝というカテゴリーのあり方についてメディア論的に迫ってみたい。ちなみに、僕のこの作品については五つ星評価で☆☆となる。

向かったところは川崎の映画館。初日であったけれど、客の入りは七割程度。客層は20代後半以上の男性中心。子どもは皆無、女性は彼氏に連れてこられたといった感じ。やって来たのはどう見てもジョブズ=Apple信者という感じ(開始前に多くの客がiPhoneをいじっていたのがご愛敬)。

僕はカミさんと二人連れ。で、二人の共通の感想は「なんだかな~」だった。カミさんはMacとiPhoneとiPadを使ってはいるが、Appleやジョブズにさしたる思い入れはない。なので、映画の中で展開する話がサッパリわからないし、たくさん人物が出てくるので覚えられないし、当然、区別もできない。彼女曰く、「前提となる知識を知っている人じゃないとわからない映画」。つまり、どちらかというとやっぱりApple信者向けというふうに理解した。言い換えれば、素人には訴求力が低い。

一方、僕の方は熱狂的なApple信者。85年に「月刊PLAYBOY」にロング・インタビュー(Mac発表直後)が掲載されて以来のジョブズ・ウォッチャーで、Appleやジョブズに関連する文献の多くに目を通している。だから、早い話が映画の中に登場してくるエピソード・人物で知らないことは一切ないという状態。で、こういったマニアの視点からすると、実に掘り下げが低いというか、中途半端な印象を受けたのだ。

つまり、素人にはわからず、マニアには物足りないという中途半端さが「なんだかな~という」共通見解になったわけなのだけれど。言い換えれば「帯に短し、たすきに長し」という出来。で、実は人物伝というのは、しばしばこんなかたちで中途半端になってしまうのけれども(これは映画に限らない。書籍であっても同様で、たとえば同じくジョブズを描いた本『スティーブ・ジョブズ』(W.アイザックソン)も、ひたすら情報が多いだけで中身の薄いものになっている。本書の僕の書評についてはhttp://blogs.yahoo.co.jp/mediakatsuya/archive/2012/1/5を参照されたい)、今回も、そのパターンに見事にハマってしまったのではなかろうか。

人物伝の描き方とは?

人物伝の描き方は、なかなか難しい。そもそも人の一生を一冊の本にまとめるなんてのは乱暴だし、ましていわんや映画だったら二時間くらいしかないわけで(本作は127分)、極端に乱暴ということになる。しかし、それでもこういったジャンルは存在するし、傑作もある。じゃあ、傑作はどうやってつくられるのか、というか人物伝はどうやってつくるべきか?

結論から言えば「テーマの徹底」と「デフォルメと省略」だ。制作する側は、この人物がどのような人間であるかを一つに集約する、言い換えればテーマを一つにしてしまい、それを徹底的に描ききる。つまりそれに関連する象徴的な出来事をピックアップし、一方そこから逸れるものはバッサリと切り落とすというやり方、これしかないだろう(だから、人物伝は事実に即していると言っても、事実はあくまで作品のイデオロギーを展開するための素材でしかない。それゆえ観ている側はファンタジーとして捉える必要がある。つまりフィクションとして)。

その傑作例として二つの作品を挙げてみたい。一つは「ラストエンペラー」(1987年、監督B.ベルトリッチ)。これは清の最後の皇帝・溥儀の一生を描いたもの。作品のテーマは「アイデンティティー」。傀儡政権の皇帝としての溥儀が、人間溥儀と傀儡皇帝溥儀の間のアイデンティティ・クライシスにどう折り合いをつけていくかでストーリーは一貫している。登場する他の人物も全てこの溥儀のアイデンティティに関わる。つまり登場人物のほとんどが溥儀のメタファーであったり、アイデンティティを涵養したり脅かしたりする役割を担っているのだ。まあ、清の皇帝がアイデンティティー・クライシスに陥り続けるなんていう「近代人」として描かれているのが荒唐無稽な感じなのだが(しかも全員英語を話す)、だが、この荒唐無稽さが徹底されているがゆえに、ストーリーの展開には一切ブレがない(「ラストエンペラー」の分析についてはhttp://blogs.yahoo.co.jp/mediakatsuya/archive/2009/06/23を参照)。

もうひとつは「アンヴィル~夢をあきらめきれない男たち」(2008年、監督S.ガヴァシ)で、これは80年代に人気を博したヘヴィメタ・バンドの現在を追ったドキュメンタリー。人気が凋落し、ボーカルとドラムスの二人だけが残り、五十代になってそれぞれ給食配達人、建設作業員として働いているが、それでもロックの夢を追い続ける姿を描いている。基調は「哀れで滑稽なオヤジの夢」で、とにかく切ないのだが、それがかえって観ている側に二人のロックの夢への情熱に対する強烈なインティマシーを喚起させる。これも「みっともない連中、だけど素朴」で通したお陰で感動を呼んだわけだ(「アンヴィル」の分析についてはhttp://blogs.yahoo.co.jp/mediakatsuya/archive/2009/11/06を参照)。

結局、情報の羅列?

さて「スティーブ・ジョブズ」だが、これにジョブズ素人のカミさんとマニアの僕が共通の「なんだかな~」という評価を与えた原因が、まさにこのテーマの無さ、デフォルメと省略の無さに求められる。ようするに、映画を通して観客に伝えようとするメッセージが全然ない。もしこれがあれば、知識なんかなくてもカミさんは楽しめるだろうし、ジョブズオタクの僕も「なるほど、こういう描き方があったのか」と、やっぱり楽しめたはずなのだ(クドいようだが、人物伝は実在の人間をモチーフにはしているがファンタジーなので、どのようにその人物を料理するかがポイントになる)。

ところが、この作品はひたすら情報を並べるという作業に終始している。だから素人のカミさんには垂れ流しになる情報が過剰で処理不能。しかも、情報と情報のつながりも見えない。一方、情報に詳しい僕からすればツッコミどころ満載となってしまうのだ。「なんで、ここがそのエピソードなんだよ!」ってな感じで。つまり、素人、マニアどっちの視点からしてもユルいのである。くりかえすがポイントは「情報」ではなく、映画を通して伝えたい「メッセージ」にある。

じゃあ、この作品にメッセージはないのか?といえば、そういうわけでもない。作品のキャッチコピーにある「最低の男が、最高の未来を創った」がそれだろう。ジョブズがエキセントリックな性格で、容赦なく従業員をクビにするというのは有名な話だし、そのエピソードが作品の中にいくつもちりばめられてはいるのだが、「なぜ、妙なところにこだわり、平気で人をクビにするのか」についての理由がまったくこの作品の中では描かれていないのだ。だから、このキャッチコピーを映画に即して修正すると「最低の男が、偶然、最高の未来を創った」と、「偶然」という言葉を入れるのがふさわしいということになる。最低の男なら、普通は最低の男=ただのヘンなヤツのままだし、Appleという企業も最低のままで、「偶然」が絡まなければ、こんなにビッグになることはなかったのだから。そして、作品の中でジョブズはひたすら「自己中で嫌なヤツ」でしかない。これじゃ人物伝ファンタジー=人物を魅力的に描くフィクションにはなり得ない。

実際は、そうではない。「自己中で嫌なヤツ」であっても、世界中の人間を魅了した男でもある。だから作品は「なぜ最低の男が、最高の未来を創ることが出来たのか」についてテーマを設定し、デフォルメと省略を用いて展開しなければならなかったのだ。この作品に根本的に欠けているのは、ここだ。

この映画は、こうするべきだった

この作品でやるべきだったことは、ジョブズが生涯ブレることのなかった美意識を描くことだったろう。つまり、自分のアイデアを執拗なまでに現実化しようとする欲望、そのためには悪人にも人非人にもエキセントリックな人間にもなれる(というか、実際なってしまう)。こういった美意識の中に「最低の男」のエピソードを盛り込むべきだったのだ。つまり「その強い美意識ゆえに、やることが最低になってしまう性を抱えた男が世界の未来を変えた」というふうに。

だから、たとえば、本作で出てきたエピソードをこんなふうに編集して見直したらどうだろう?まずカリグラフィーの授業にニセ学生として出席していたことからフォントの重要性を知る。つまり、そこで「何物も、何事も美しさがなければダメ」という考えが根付く。次いでインドでミニマリズムを体験し、「削ぎ落とす」ことの重要性を知る。それと正反対の「盛る」ビジネスを展開するIBMとMicrosoft、マーケティングに基づいて「相手の顔色ばかりをうかがう」Appleの(ジョン・スカリーやギル・アメリオ)経営首脳陣をケチョンケチョンに罵る。そして、この美学に少しでも従わなかったり、この観点からは使えない従業員は左遷したり、クビにする。それはかつての仲間であっても容赦なく(例えば一緒にインドを放浪した友人ダニエル・コトケを冷遇したり、Macの生みの親であるジェフ・ラスキンをMac開発チームから追いやったり)。その一方で、自らの美意識にふさわしい有能な人材を徹底重視する(Apple II、Lisa、ハイパーカードの基本を設計したビル・アトキンソンや、ジョブズ復帰以降のアップル全製品のデザイン設計を委ねたジョナサン・アイブ)。こんなかたちで「美意識という病に冒された男」にしてしまう。で、この映画の冒頭のiPodの発表シーンをその美意識の最終的な到達点とし、そのはじまりとしてカリグラフィーの話、そして、おしまいにこの美意識を具現してくれる人物としてiMacのデザインを手がけたジョナサン・アイブの発見というかたちで展開する。これで「最低の男が、最高の未来を創った」というファンタジーは完成する。しかも「偶然」ではなく「必然」として。

残念ながら、今回の映画編集では、ただ情報を「盛った」にすぎない。言い換えれば、「削ぎ落とし」を旨とした実際のジョブズがいちばん嫌いな類いの一つということになる。まあ、最近の作品にはこういったオタク的なもの(情報の過剰と意味の希薄)が多いのも確かだが。


(オマケ)
ちなみにジョブズを演じたアシュトン・カッチャーの演技は実に見事で、これは高く評価できました。とりわけ猫背でのっしのっしと歩く姿にはしびれました。またジョナサン・アイブを演じたジャイルズ・マッシーのしゃべり方もジョニーをよく真似ていて、ちょっと笑えました。



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難波江和英/内田樹『現代思想のパフォーマンス』映画評論の科学性を追求したテクスト論だ。また、現代思想の概念が学べるようにもなっている。



レビューの書き方について考えている。ここまで、無名である僕たちがネット上で説得力あるレビューを書くため、つまり社会性=有用性を獲得するためには1.このレビューがあくまで「個人的立場であること」を表明すること、2.自らの議論の立ち位置を明らかにすること、の二つの手続きが必要であることを示しておいた。ちなみに、この二つのレベルを維持しているのが良質なレベルの映画評論家やジャーナリストの文章ということになる。

しかし、レビューの書き方にはもう一つ上のレベル、つまりレベル3がある。これは「科学=アカデミズムとしてのレビュー」ということになるだろう。これはレベル2までの手続きで、その社会性=有用性=実証性に欠けた部分を補填する作業がなされているものだ。

価値自由レベル2の欠点~個人的視点についての正当性がないこと

レベル2の欠点は何だろう?それは、個人的な意見を表明し、そして自らの議論の立ち位置を明らかにしたところで、結局、議論の立ち位置が「個人的な視点=立場」の域を出ないことだ。前回の例を挙げれば「この作品を傑作(あるいは駄作)という立場から展開する」というのが典型で、傑作(駄作)と決めつけ、それ以降の展開(つまり認識論的な展開)を明確にしていくのはよいのだが、実を言うと、なぜ傑作(駄作)と決めたかについては根拠がない。この部分は「主観」、つまり個人的な視点に基づく。哲学的な表現をすれば存在論的問いを不問にしているということになる。

価値自由レベル3~概念を用いたテクスト分析

そこで、この存在論的立ち位置を明確にするのがレベル3ということになる。これは具体的にはレベル2において用いる議論の立ち位置=視点を個人的に設定するのではなく、既存の概念装置をあてはめ、その概念の手続きに基づいて分析するというやり方で、これは記号論では「テクスト分析」という手続きに該当する。

この典型を見ることができるのが内田樹と難波江和英の『現代思想のパフォーマンス』の中で展開されている映画分析だ。本書の中で、「不思議の国のアリス」ではソシュールの言語論、「エイリアン」ではロラン・バルトの記号論、「カッコーの巣の上で」ではフーコーの権力論を用いてというふうに、現代思想の概念を用いて様々な映画に切り込んでいる(また、本書は現代思想の概念の実践的な運用例という意味合いもある)。たとえば「カッコーの巣の上で」(執筆は難波江)では、主人公たちが収容されている精神医療施設がパノプティコン(一望監視システム)によって監視され、それが現代社会を象徴する物語になっていることを析出している。

こういったテクスト分析においては、自らの立ち位置は限りなく相対化される。個人の見解でしかないこと、個人の立ち位置を明確にすること、そしてその立ち位置もまた社会性を有した理論的概念に基づくこと(ちなみに、この時残る唯一の主観的視点は、映画の分析にあたって概念を、恣意的に選択したことだけだ)。こういった議論の対象化=相対化の手続きを採用することによってレビューはより科学性、文芸性、アカデミズム性を有し、その有用性を高められていくわけだ。ちなみに、僕もこれと同様の(ただし真似事みたいなもんだが)手続き映画レビューをやっている(ニューシネマパラダイス、カール爺さんの空飛ぶ家、ピーターパン、2001年宇宙の旅など)ので、興味のある方は本ブログの「映画批評」の書庫をチェックしていただきたい。

まあ、レベル3までやると、さすがに面倒くさいということもあるけれど、いずれにしても僕らに求められているのは、こういったレビュー・リテラシーであることは確かだろう。ただし、残念ながらこういった分野に対して教育を施すシステムを、現在の教育機関が何も用意していないのは残念だ。いや、もっとはっきり言えば「レビュー論」という分野が全くといっていいほど開発されていないという現状は嘆く他はない。。インターネットで誰もが書き込み可能になった現代、こういった分野でのマナー・ルールを守る、それによって僕たちの映画リテラシーを高めていくといった教育をそろそろ開発すべき時に来ている。僕はそんなふうに感じているのだが。

レビューの書き方について考えている。前回はレビューには「好き勝手なことを書いてもいい」と述べておいた。ただし、書き込む僕たち個人は、映画評論家のおすぎとは違って匿名的存在であり、社会性を持たない。だから、好き勝手なことを書く場合には、その内容に社会性を盛り込まなければならないこと、そのためにはマックス・ウェーバーの言う「価値自由」、つまりこの書き込みがあくまで個人的な意見であることを宣言しておくことの必要性を指摘しておいた。

ただし、これだけだと最低限のマナー・ルールを守っているだけ。だから、前回はこれを「価値自由レベル1」と表記しておいた。いいかえれば、もっと説得力のあるレビューを書くためにはさらに社会性=有用性の高い、つまり「価値自由レベル2」の表現を志向する必要がある。

レベル2は自己の立ち位置の対象化

レベル2はレベル1にもう一つ条件が加わる。その手続きは自らの見解の対象化、相対化をもう一歩進めることによる。レベル1では、自らのコメントがあくまでも個人的な視点でしかないことを読み手に明確に示すというものだった。で、レベル2の場合、これに自らの拠って立つ位置をはっきりさせることが加わる。つまり「自分は、こういう立場、立ち位置で議論を展開しています」と明確に宣言する。いちばん初歩的なレベルは「この作品を傑作(あるいは駄作)という立場から展開する」なんてのが、これにあたる。もう少しレベルを上げれば「○○監督のこれまでの作風との関連から展開する」「歴史考証の立場から展開する」といった展開になる。まあ、ちょっとディベートみたいに感じになるのだけれど、レビューを行う自分の立場をはっきりさせることで、今度はコメントの内容に関する立場を対象化するわけだ。

つまり個人的意見と立場だけ宣言するだけのものに、さらに、その個人的意見の立ち位置を対象化することで、形式と内容二つの側面で価値自由が生まれる(レベル2)というわけだ。そして、これはレベルの高い「良心的な」ジャーナリズムが採用している視点だ(ちなみに、現在のジャーナリストのほとんどは、これがダメになっているので、とにかくキャッチーなものとか、足を引っ張るものとかに食いつく“出歯亀”になっている。この連中は視聴率や発行部数の奴隷なのだ。そして、残念なことにそのここに気付いていない)。

立ち位置を対象化していないと、場合によっては知らないうちに国粋主義者になる?

さて、こういう視点(レベル1、2)を持たないでレビューを展開するとどうなるか?その具体例を僕のゼミ生が卒論で展開してくれたので、ちょっとご紹介しておこう。彼が取り上げたのはハリウッドが日本を題材にした映画。そのうち「ラストサムライ」と「SAYURI」では、もっぱら作品の時代考証的な視点への批判が相次いだのだ。「浦賀からあの位置に富士山が見えるのはおかしい」「夫を殺した男(トム・クルーズ)とキスする侍の妻なんてことはあり得ない」「政府への反逆者となってしまったトム・クルーズ演じるオルグレンが天皇に謁見できるのはヘンだ」「なぜサユリが中国人なんだ」「芸者たちは、その振る舞いが雑すぎる」などなど。

まあ、たしかにヘンではある。しかし、これと同様のことは日本の時代劇でもいくらでもある。たとえば「水戸黄門」で水戸光圀は水戸藩から外に出たことなんかないのに日本中を漫遊している。また「暴れん坊将軍」で徳川吉宗は一町民として江戸を闊歩しているわけで。身につけている衣装だってメチャクチャだ。にもかかわらず、日本で制作される時代考証のメチャクチャさにはおとがめはナシ。ようするに、この場合、レビューワーたちは、無意識のうちに自らがナショナリストになり、このナショナリストの立ち位置からは不適切なハリウッドの表現を叩いている(だから、同じ日本人がメチャクチャを描いても文句を言わない。同じ日本人がやる場合には無意識のうちに免罪してしまうのだ)。しかし、こういった「ナショナリストとしての立ち位置」を、これらのレビューワーは自覚していない。だから、かなりみっともないのだ。自らが、こういったドグマに陥っていることに気付いていないからだ。つまり「無知の知を知らない」。

レベル2はレビューと討論を文芸の領域に押し上げる

このようなレベル2のマナーを書き手とレビューワー双方が備えていれば、議論を展開する場合には、書き手は自らの立ち位置を明確にし(価値自由)、また読み手=レビューワーの方は書き手の立ち位置を良く踏まえながら理解し(こっちの方は「動機の意味理解」とウェーバーは呼んでいる)、そして、双方がその相違を吟味し、それに基づいて、それぞれの立ち位置をさら吟味し議論を深めていくことができる。こうなると、議論は結構スリリングなものになっていく。さらにレビューや討論というのは文芸のレベルにまで質を向上させることができるようになる。

しかし、さらにもう一つ、レベル3がある。それは、アカデミズムの領域に踏み込むことになるのだけれど。(続く)

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