勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

カテゴリ: 映画批評

舛添要一都知事の政治資金不正運用疑惑とアイドル・富田真由さん襲撃事件。どちらも常軌を逸したと思える蛮行だ。一見するとこの二つ,違った種類の事件に思える。しかし、この事を起こしている二人の精神性,実は共通ではなかろうか。今回は、現在、巷で騒がれている二つの事件を共通項で括って考えてみたい。これはE.パリサーのフィルター・バブルという用語を用いて考えるとスッキリと理解できるのではないだろうか。

フィルター・バブルとインターネット社会

フィルター・バブルは情報化社会の中で個人が自らが構築した情報の殻=泡の中に閉じこもり、情報の取捨選択を自らの好みに応じたフィルターを通して外部から入手しようとするような傾向を指す。都合のよい情報だけを選択し,悪い方は無視したり拒絶したりする心性だ。

こうなってしまう典型的な例を挙げてみよう。2014ブラジル・ワールドカップの日本チームへの期待がそれだ。日本はグループCで対戦相手はコロンビア、コートジボワール、そしてギリシャだった。グループ内のランキング的は3位(最下位はギリシャ)。ということは予想されるのは3位。イギリスのブックメーカーのオッズもコロンビア=1.7、コートジボワール5.1、日本5.6、ギリシャ8.3と、やはり同じだった。ところがメディアはそのようには捉えていなかった。ヨーロッパで活躍する香川、岡崎、本田、長友、川島といった面々が揃っている。よって今回は最強とみなされ、ファンの多くは決勝トーナメントに楽々進めるものとタカを括っていた(本田のビッグマウスがこれに拍車を駆けた)。しかし、フタを開けてみれば一勝も出来ず,ギリシャの引き分けるのが精一杯。勝ち点はたったの1で、「見事な」リーグ最下位敗退だった。

日本人はなぜ日本チームが決勝トーナメントに進出できると思ってしまったのか?これはつまり、メディアが日本チームに都合のよい情報だけを集め、反面都合の悪いものは無視して、結果として「最強ジャパン」を作り上げてしまったからだ。イメージと現実が大きく乖離していたのだ。(ちなみに、これは2006年のジーコジャパンの時もまったく同じ認識だった)。

この例はあくまでも「メディア誘導型」のフィルター・バブルだが、こういった事実を都合のよいように歪曲して「自分だけの真実」を主としてネット情報を介してねつ造してしまうのがこの言葉の本来の運用法だ。かつて詳細な情報収集は一部の技術を備える一部の人間だけが可能だったが、現在はインターネットを通じて誰もが容易に情報を入手することができる。そこでわれわれは都合のよい情報だけを収集し,それ以外のものを排除してしまう。自らの形成したバブルの中の「現実」を否定する情報がバブルの中に入り込もうとする際には、それを防ごうと自らの現実を補強する情報を入手して、これをフィルターとし、都合の悪い情報の入手を遮断してしまう。(詳細をお知りなりたい方はTEDでのパリザーのプレゼンを参照のこと。https://www.youtube.com/watch?v=B8ofWFx525s)。また,現在では価値観が細分化されているため、これら価値観を真っ向から否定することが難しくなってもいる。もはや批判者が不在の状況が生まれつつあるのだ。こういった循環を続けていけば,現実とは関わりなく、自らの小宇宙を作り上げることができる。そして,こちらの方に絶対の価値観を置くようになれば当然ながら自閉的な世界が構築されてしまう。

地下アイドルに向けられたストーカーのフィルター・バブル

アイドル・富田真由さんを襲撃した岩崎友宏容疑者はこの典型だろう。岩崎容疑者はストーカーとしてどんどん富田さんと自分の関係を親密なものへと作り替えていった。この際、まずかったのが富田さんが、いわば「地下アイドル」的な存在だったことだ。そんなに知られていない、しかし富田さんはアイドル活動を行っている。こうなると,周りが彼女のことあまり知らない分、岩崎容疑者にとっては集めた情報を否定してくるような情報や他者がいなくなってしまう。好きなように彼女のイメージを構築可能なのだ。また、マイナーであることはアクセス可能性が高いということでもある。実際,岩崎容疑者は富田さんに腕時計をプレゼントしている。そして、このプレゼントに富田さんが反応せず、怒った岩崎容疑者が返却を要求し、これを富田さんが送り返している。しかし、これがまずかった。生身の富田さんの反応だからだ。彼はフィルター・バブルの中で形成したアイドルと交流可能になってしまった。こうなると、もはや富田さんと全く関係のないところで岩崎容疑者は富田さんをフィルター・バブル的に作り上げ、言うことをきかない生身の富田さん(この時点で富田さんはアイドルと言うよりも恋人くらいにまで格上げされていたはずだ)を不都合なものとして抹殺する必要が出てきてしまった。このへんは、まさに金閣寺を焼き払った林養賢やジョン・レノンを射殺したマーク・チャップマンと同じ精神構造だが、こうした思い込みをネット環境はフィルター・バブルによって容易に可能にする。

桝添氏に備わった「権力」という名のバブル

同様の精神構造が舛添都知事にも該当する。現在、彼が政治資金の私的流用について述べている弁解は一般には荒唐無稽という以外に表現のしようのないものだ。ただの公私混同なのだが、自らの行動をそのようには全くとらえず、説明が出来るものとし、さらに追及が行われると、今度は「厳しい第三者の目で調査」すると発言した。ちなみに、この「厳しい第三者」として選ばれたのが,自らが指名した弁護士。しかし、これもどうみてもおかしい。弁護士というのは,自らの弁護を依頼する専門家なので、舛添都知事に都合のよい情報がフィードバックされてくることは目に見えている。しかも,名前が明かされていないのも変。ところが,桝添氏は一点の曇りもなく、こう言ってはばからないのだ。

なぜか,彼もまた典型的なフィルター・バブルの世界に住まう人間だからだ。この言葉自体はインターネット時代の自閉症的な傾向を指している。だから,言葉のまっとうな使い方自体では舛添氏は該当しない。しかしながら、桝添氏はずっとフィルター・バブルの世界の中で暮らしてきた人間だ。東京大学で政治学を専攻し,その後パリやジュネーブなどで研究を行った後、東大教養部教員に就任。その後政治家としても活躍し、その能力を駆使して大きな権力を獲得してきた。いわば,かなりの状態で「やりたい放題」といった文脈での活動を当然のこととしてきたはずだ。しかも舛添氏にはネットがなくても詳細な情報を収集、駆使する力があった。こうなると権力というバブルに基づいたフィルタリングが行われるようになる。そして,権力を所有しているので,周辺がこれを咎めることが難しくなる。さらに膨大な情報に基づいて理論武装も行う。よって「自分は絶対に正しい」ことになる。

こうなれば、われわれ一般人が現実的感覚で桝添氏の政治資金不正運用疑惑を本人に指摘したところで,聞く耳など持たない。バブルの中では,自分のやっていることは一点の曇りもなく「絶対に正しい」からだ。だからこそ,舛添氏は,自分の行っていることが滅茶苦茶であったとしても,そのことを疑うことを全く知らないのだ。今回の弁護士に調査を依頼させるというのも,その手続きは全うだが、やり方が完全におかしいということに本人が気づいていない。どんなにツッコミをいれられても「なんで?」みたいな怪訝な顔をしてしまうのは,実はこういったフィルター・バブル的認識があるからではなかろうか。また、もし仮に、舛添氏が都知事を辞任するようなことがあったとすれば,その際の会見もおそらく,騒動自体には迷惑をかけたというだろうが、騒動の内容(つまり桝添氏がやったこと)に対しては,全くその非を認めないのではなかろうか。要するに、舛添氏は自分で自分を騙している。僕にはそんなふうにしか思えない。

こういったフィルター・バブルは一般人の認識にも広がりつつある。この二人がやっているフィルター・バブル的行為。ちょっと自分の胸に手を当てて考えてみても、よいかもしれない。

僕のネタバレ映画レビューがお叱りを受けた

12月24日、僕は「スターウォーズⅦ『フォースの覚醒』で見せたJ.J.エイブラムスの手腕」(http://blogos.com/article/151592/)というタイトルでスターウォーズ新作のレビューを書いた。本ブログはネタバレが含まれているので、冒頭に「※注意:最初にお断り。本稿はネタバレ満載です。しかもオイシイところが。なので、映画を見終わった方にお奨めします。」という断り書きをいれておいたのだが、それに対しコメント欄に「ネタバレって書いておけばネタバレしていいと思っているのか?」というコメントが寄せられた。で、このコメントに僕の回答をしておけば「もちろん、思っています」だ。ただし、これだと単に相手にケンカを売ってしまうことになっり大人気がない(笑)。そこで、今回はレビューやブログでネタバレはどの場合に許されるのかについてメディア論的な立場から論じてみたい。

不意打ちはもちろんダメ

先ず、全く許されないネタバレは「抜き打ちのネタバレ」だろう。つまり読者が予告編くらいの気持ちで読んだ記事がネタバレだったという場合。これは不意を突かれたということになるわけで、想定外。これから映画を楽しみにしている人間がこれを目にしたら怒るのはあたりまえだろう。12月20日、東京新聞の紙面がやってしまったのがこれで、紙面上には新作での人間関係の相関図が示されていたという。これは当然マナー違反。

ロードショー直後でストーリーをそのまま展開するのもダメだが……

次に、「最初にネタバレあり」と示してあるが、そのネタバレがなぜ示されなければならないのかわからない場合。典型的なのは、もっぱらストーリーや相関図を示すことに終始しているようなケースだ。映画『ニュー・シネマ・パラダイス』の中で、運搬のトラブルで映画館に長編映画の後半が届かないことに腹を立てた観客に対し、観客の一人がその騒ぎをなだめるために「おれは後半を見たから、話してやる」と言った瞬間、靴をアタマに投げつけられたというシーンがあるが、まあこの感覚だろう。共通するのは、ようするに「知っているストーリーを語りたいだけ」という自己満足のために人の楽しみの芽を摘んでしまう点だ。ただし、この時点で「最初にネタバレあり」と示してある。と言うことは、それ以降を読み進むのは読者の方であり、当然、原則「自己責任」の部類に属するが。

映画をより楽しんでもらうためにネタバレをするのはOK

さて、僕が今回やったネタバレは、これらとは全く違った立場からのアプローチだ。ポイントは冒頭の断り書きの最後の部分。つまり「映画を見終わった方にお奨めします」という言葉。要するに、映画を見た方に、こちら側の分析を示し、考えてもらうことを意図していた。つまり映画を見終えた後に、映画のことをもう一度思い出し、今度は別の視点から映画を楽しんでもらえればと言うことをねらいとしていたのだ。だから、今回、新作シーンのネタバレを過去の作品シーンと比較したり、またネタバレをスターウォーズシリーズ作品群が展開する世界観の中に埋め込むという試みを行った。いうならば、マナーを守った上での「ネタバレ」。言い換えれば映画批評、エンターテイメント、すこし偉そうに言えばメディア・リテラシー啓蒙をねらってこれを書いたつもりだ。だから、もちろん「ネタバレしていい」と思っているのである。

で、こういうのを「言論の自由」というのだと、僕は考える。もちろん、これを否定するというコメントも自由ではあるが。ま、正直言って「ちょっと、『ネタバレ』という言葉の含意を理解しておられないのでは」と考えてしまうのだが。つまり「一口に『ネタバレ』言っても、実はいろいろある。」

僕の仕事の一つは映画のメディア論、記号論的なテキスト分析(過去の分析にについてはブログ『勝手にメディア社会論』の「映画批評欄」http://blogs.yahoo.co.jp/mediakatsuya/folder/1478439.htmlをご参照いただきたい)。これからも、映画好きの人々に映画を楽しんでいただくために、今回のようにマナーを守りつつ、ネタバレを続けるつもりだ。


(※注意:最初にお断り。本稿はネタバレ満載です。しかもオイシイところが。なので、映画を見終わった方にお奨めします。)

エイブラムス版スターウォーズは合格!

スターウォーズⅦ/フォースの覚醒が予想通りというか、爆発的な勢いで観客を確保している(日本では同時期の妖怪ウォッチに観客数で敗北するという、笑わせる事態もあったが)。今回の作品では生みの親のG.ルーカスは関与していない(ルーカスは自らを「私は離婚した父( ”I am a divorced father”)」と称し、「離婚した父親は元妻に連れて行かれた子供の結婚式には出ない」といって、今回の一連のイベントにプレミアを除き参加していない)。代わってメガホンを握ったのがM:i:Ⅱやスタートレックの製作、監督で知られるJ.J.エイブラムス。40年近い歴史があり、熱狂的なファンを抱えるスターウォーズシリーズを担当することは大変だ。なんのことはない、どうやっても批判の的になるからだ。マニアたちはスターウォーズの世界を熟知している。ちょっとでも話がそこから逸脱すれば、それこそクレーマーのように非難の嵐を起こす。

しかし、今回のエイブラムスのスターウォーズ。僕は合格とみた。それは過去を踏まえつつ未来を見ることを強く意識していたからだ。それぞれについて見ていこう。

過去をどう踏襲するか

まず過去を踏まえる、あるいはスターウォーズの世界をリスペクトするという点について。本シリーズを熟知しているのであれば言うまでもないことだが、このシリーズはエピソードⅣ(77)から始まり、Ⅴ(80)、Ⅵ(83)と続き、その後16年を経てⅠ(1999)、Ⅱ(2002)、Ⅲ(2005)が製作された。当初はⅣしか作られる計画がなかったのだが、大ヒットを遂げた結果、続編が作られ、さらにその後もファンの強い熱望によってⅣの前編が製作された。当然、物語の歴史としては遡るが、製作としては後発となったⅠ~Ⅲについては、膨大な情報と辻褄合わせが作品の中心的な作業となり、少々窮屈な感は否めなかった。

だが本作については、こういった「辻褄」面での縛りは少ない。新たなトリロジーのための種をまくことがむしろ中心の作業になる。だがエイブラムスは、しっかりとシリーズの遺産を踏襲し、なおかつリスペクトまでしている。そういった側面はたとえば物語上のいくつかの設定の中でもしっかりと見て取ることが出来る。ここでは、その典型なシーンとしてハン・ソロが死ぬ場面を取り上げてみよう。

ハン・ソロは海賊、一匹狼のならず者だ。そして無敵。だから戦いで敗れるという状況を設定することは難しい。ただし、弱点も持っている。そして、それがソロの最も魅力的な部分なのだが。それば人間くささ、情にもろいというところ。木枯らし紋次郎、ブラックジャックと同じで「関わりがない」と言いながら、最終的には情にほだされて関わってしまう。エイブラムスはこの性格をしっかりと踏まえソロを葬っている。というのもソロは戦わずして殺されてしまうからだ。
ソロを殺害する相手は、何とソロの息子、カイロ・レンだ。レンはレイアとの間にもうけた息子ゆえ、当然フォースを備えている。ただしフォースの闇に落ち、帝国軍が再建したファースト・オーダーに加わり、亡きダースベイダーを慕っている。する必要もないマスクをつけ、あたかもダースべーダーを気取り、フォースの闇の力をもって銀河系を最高指導者スノークの下で支配しようとしているのだ。これにソロは待ったをかける。

ソロが行ったのは戦わず、丸腰に近い状態(レンはライトセーバーを持っている)で、レンに「やり直そう」と説得するという行為。それによってレンは涙を流すが、次の瞬間、レンはライトセーバーでソロの体を貫いてしまうのだ。デッキから奈落へと落ちていくソロ……。

まさに、情にほだされた挙げ句、命を失うわけで。やはりこういったかたちで命を落とす以外にはソロが殺されるというパターンはあり得ない。エイブラムスはリスペクトをもってソロに最高の最後の場面を用意したと言っていいだろう。

エピソードⅤとⅦにおけるクライマックスの相同性

そして、この親子が対峙するシーンはエピソードⅤ「帝国の逆襲」のクライマックスとほとんど同じ風景、そして設定も同じものになっている。「帝国の逆襲」のクライマックスはルークとダースベイダーの一騎打ちのシーンだ。ここでルークはダースべーダーに腕を切り落とされ、事実上の敗北となる。ところがベイダーはルークへとどめを刺さず、帝国軍に加わって自分と銀河系の支配をしようと説得する。そして、その理由がわからずルークがベイダーに問い詰めた時、ダースベイダーは、このシリーズの中で二番目に有名な台詞を吐くのだ。つまり”I am your father.”(一番有名なのは、もちろん”May the force be with you”)。そのことを認めることの出来ないルークは自らデッキから奈落へと落ちていく。

そう、2つはまったく同じシーン。そして父と子の確執の末、息子が父を拒絶するという構図になっているのだ。ただし、ルークはジェダイであることを譲らないために、レンはフォースの闇の存在であることを譲らないために。つまりダースベイダー=ハンソロ、ルーク=レン。ただし、立ち位置が全く逆。これはお見事!


未来に向けての種まき

ソロの死は、これまでのスターウォーズシリーズでばらまかれた様々な要素の在庫一掃を象徴的に現している。こうすれば、もはやソロにまつわる過去の話は全て精算される。その一方でソロの背後にある様々な設定はそのまま継承可能となる。ミレニアム・ファルコン号、チューバッカ、R2-D2、C-3P0、そしてルークとレイアは温存されているのだ。恐らく今後、旧シリーズの人物キャラクターは何らかのかたちで順番に映像から姿を消していくだろう(ルーク→レイアの順あたりか?)。

こうやって過去の清算は着々と済まされていった。ただし、今度は未来に向けての種まきをしなければならない。スターウォーズ・シリーズは第一作からすでに38年が経過している(僕は現在55歳だが、最初の映画を見たのは高校生の時だ)。当然、配役、そして観客双方の世代交代が行われなければ、このシリーズは維持されない。だから、新しい種まきをしなければならない。それが女性キャラクター、レイだ。

映画のタイトル「フォースの覚醒」からもわかるように、本作はレイがフォースの能力に目覚めるまでを描いている。そしてサブストーリーは「親さがし」だ。フォースの能力を備えるものは、当然、親もまたフォースを備えていなければならない。それゆえフォースに目覚めることは、親が誰なのかを同定するヒントが与えられると言うことでもある。レイのフォースへの目覚めはカイロ・レンとの戦いの中で生まれる。レンがフォースの力を使って人間を思うがままに操作する(たとえばフォースの力によって、反乱軍のパイロット、ポー・ダメロンにルークの居場所を示すMAPのありか(BB8の中)を喋らされたがその典型)。レンは同じようにレイに向かってフォースの力で襲う。だが、窮地に追い込まれたレイは、逆にそこで自らのフォースを発揮してしまう。こうやってレイはフォースに目覚める。

だが、ご存じのようにフォースは扱うのが難しい。場合によってはフォースの闇に落ちてしまう。その典型がダースベイダーことアナキン・スカウォーカーであり、カイロ・レンなのだ。レンが闇に落ちていることは、事がうまく運ばない時にライトセーバーを振り回したり、フォースを乱用して周辺のものを片っ端から破壊するといった行為によって表現されている。一方、レイは正当なジェダイ・マスターへの道を歩むことを予感させるふるまいを見せる。レンとレイの戦いで、レンは感情にまかせてセーバーを振り回し続けるが、レイは窮地に立たされると却って冷静になり、感情を押し殺した状態でレンに対峙、そして勝利する。スターウォーズの第一作が公開された時、フォースは字幕では「理力」と訳されていた。これ自体はイケてはいないので、その後「フォース」ということになったのだが、この「珍訳」は理性的にフォースを操作しなければジェダイマスターになることはできないゆえのものだったのだろう。レンとレイのコントラストは、明らかに新しいトリロジーの未来を垣間見せている。

さて、それではレイとは何者か?エピソードⅦでは遂に明かされることはなかったが、フォースを使うのだから、これは恐らく要するにソロとレイアの間に設けられたもう一人の子供ということになるのだろうか。名前も「レイア」から「ア」を省いただけの「レイ」だし(笑)(そういえば「レン」というのも「レイア」の「レ」と「ハン・ソロ」の「ン」を合わせただけってことか?)。そうだとすれば、この映画は兄妹対決ということになるのだが、この辺は続編がどうなるかを期待したい。(カイロ・レンが生きていればの話だが。第2デススター?が破壊される寸前にスノークが瀕死のレンを救出して、晴れてマスクを付けないと生きていけない存在、つまりダースベイダーになるなんてシナリオがあったりするかもしれないが。ま、これじゃⅢの「シスの復讐」とまったく同じになってしまうが……)。

女性を軸とした物語展開

レイをソロに変えてこのシリーズの中心に据えることは、作品の新しい種まきとしてきわめて重要だ。これまでのスターウォーズシリーズは結局のところ男性中心の物語だった。レイアが男勝りであると言っても、それはあくまで「男勝り」。結局はソロやルーク、アナキンといった男性が中心に作品は展開されてきた(レイアは黒澤明監督の映画『隠し砦の三悪人』に登場する男勝りのお姫様・雪姫がモデル)。ところが、今回のトリロジーは違う。レイは完全な主役だ。

さて、ソロの死はイコール、ファルコン号の船長を交代を意味している。今回のヒロイン・レイだ。それはラストシーンでチューバッカとファルコン号を操作していることで明確に示されている(先頃、ディズニーのD23のイベントで、アメリカの2つのディズニーランドでスターウォーズのテーマランドが建設されることが発表されたが(建設は2017年から)、その際登場したエイブラムスは「ファルコン号はライトセーバーより重要」とコメントしている)。レイはジェダイ・マスターとソロを兼ね備えたキャラクターとして、以降のシリーズを支配することになるのだろう。フィンやポーはその脇役ということになる(つまりヤッターマンのドロンジョ様とボヤッキー、トンヅラー?)。こうすることで役者はかつての三人ソロ、ルーク、レイアのキャラクターを踏襲しつつも総入れ替えということになる。

親が子へと伝えてきたスターウォーズの物語。若者や子供たちはもう、話を親から聞く必要はない。新しく映画を見ればよいのだ。そして、それは彼らのためのスターウォーズとなるのだ。もちろん、旧世代も目を細くしながらこれを眺めるのだけれど。そして、こういったファミリーエンターテイメントを膨大な費用を使って展開していいるのが、今やスターウォーズのオーナーであるディズニーなのだ(だんだんディズニーが帝国軍に思えてきたが(笑))。

エピソードⅣのリセット、そして未来へ

最後に、この作品が明らかに第一作・エピソードⅣ「新たなる希望」のリメイク的な色彩を帯びていることはスターウォーズを見てきたものなら誰でも分かるだろう。第2デススターは登場するわ、惑星がやられるか第2デススターがやられるかというったクライマックスが登場するわ、前述したレイがフォースに目覚めるわ(これはⅣでルークが目覚めるのと同じ)。R2-D2はBB-8に進化するわ(これはテクノロジーの進歩も影響しているだろう。BB-8はきわめて愛らしい仕草を見せ続ける)。恐らく次回はレイの家族構成とルークの隠遁生活、そしてレンが闇に落ちたことの理由が明かされるということになるのだろうか。

スターウォーズはルーカスの下を離れ、新しい世界へと旅だった。つまり「フォースの覚醒」はシリーズの「新たなる希望」だったのだ。


原題とは違う邦題

ディズニーが配給し、現在はディズニーの一部となったピクサー映画。その邦題、つまり日本語タイトルについてずっと気になっていたことがある。そして、今回のピクサーの新作『インサイドヘッド』もまた、この「気になっていること」が露呈したことになったのだが。

最近のピクサー映画、そしてピクサーがディズニーに買収されて、ピクサーのヘッドであったJ.ラセターがウオルト・ディズニー・アニメーション・スタジオズのチーフ・クリエイティブ・オフィサーとなってからの作品群(長編)のうち、邦題が原題とは変更されたものをあげてみよう。

『Mr.インクレディブル』→The Incredibles
『レミーのおいしいレストラン』→Ratatouille
『カールじいさんの空飛ぶ家』→Up
『プリンセスと魔法のキス』☆→The Princess and the Frog
『塔の上のラプンツェル』→Tangled
『メリダとおそろしの森』→Brave
『アナと雪の女王』☆→Frozen
『ベイマックス』☆→Big Hero 6
『インサイドヘッド』→Inside Out

                ※☆はディズニー作品

邦題は「の」ばっかり

ラセターが短いタイトルを好むのがよくわかる。そして毎回、この短いタイトルの中に映画のメッセージを凝縮させて詰め込むという芸当をやっている。つまり、タイトルに作品のメッセージの本質がしっかり込められているのだが、なぜかこれが日本版となると完全に骨抜きになり、突然「お子様向け」映画に映るようになってしまう。ちなみにタイトルが原題と変更させられたこれら9作品(2004年以降)のうち、なんと6作に共通する文字がある。それは「の」だ。『レミー「の」おいしいレストラン』『カールじいさん「の」空飛ぶ家』『プリンセスと魔法「の」キス』『塔「の」上「の」ラプンツェル』『メリダとおそろし「の」森』『アナと雪「の」女王』。僕はこれ、どうみてもジブリ映画の悪影響じゃないかと踏んでいる(笑)(ジブリ映画は「~の」というタイトルだらけだ。ちなみにラセターはジブリ作品のいくつかにエグゼクティブ・プロデューサーとして参加している)。


原題のメッセージとは

そこで、今回はピクサーを中心とするラセター作品群の本質をタイトルから紹介してみたい。

『Mr.インクレディブル』→The Incredibles
”The Incredibles”だからそのまま訳せば「インクレディブル一家」となる。この作品はMr.インクレディブル=ロバート・パーが主人公ではなく、一家が力を合わせてインクレディブルをトラウマとしてこれを倒そうとするシンドロームを撃退する。だからファミリードラマなのだ。

『レミーのおいしいレストラン』→Ratatouille
ラタトゥイユはフランスの田舎料理。そして刑務所などの、いわゆる「臭い飯」の意味もある。本作ではドブネズミという衛生上はきわめて好ましくない生き物だが料理好きのレミーが才能のない見習い料理人リングイニ(実は天才シェフ・グストーの息子)と協力して最高のラタトゥイユを作る。タイトルには田舎料理やネズミであっても天才の息子であっても本質は変わらない。料理のジャンル、ネズミや天才シェフという形式ではなく、内容こそが重要という意味が込められている。

『カールじいさんの空飛ぶ家』→Up
亡き妻・エリーとの思い出の詰まった家の立ち退きを強いられ、カールは家に風船を付けてエリーとの約束である南米のパラダイスフォールへ向かう。つまり家をUpさせるわけなのだが、事の本質、つまりupの本当の意味はカールがエリーとの過去の思い出の中に浸っているのではなく、次の冒険に旅立っていくことにある。そして、その旅とはパラダイスフォールへ向かうことではなく、日常をラッセルというたまたま知り合ったアジア系の子どもと楽しく過ごすところに求められる。それはエリーとの日常が冒険であったように。つまり、ここではカールの人生、日常、そして冒険の意味がup、より厳密に表現すればアップデートされる。(詳細については本ブログ「『カールじいさんの空飛ぶ家』を徹底分析する」http://blogs.yahoo.co.jp/mediakatsuya/61239970.htmlを参照)

『プリンセスと魔法のキス』☆→The Princess and the Frog
本作ではプリンセスでない普通の貧乏な黒人ティアナが主人公。彼女は魔法でカエルに変えられてしまうが、それによってプリンセスの本当の意味、成功の本当の意味、パートナーの本当の意味を知る。タイトルは「プリンセス」(夢)と「カエル」(現実)が見かけでしかないこと。二つが同じレベルにあること。これを、両極端の存在である二つ(プリンセスとカエル)をコントラストとして提示することで示している。

『塔の上のラプンツェル』→Tangled
tangledとは「こんがらがって」という意味。ラプンツェルは髪の毛が長いことによって、自らの人生が「こんがらがって」しまっている。ニセの母、ニセの言いつけ。だが夢を持ち続け、それを最終的に長い髪の毛を切り落とすことによって実現する。つまりこんがらがりをほどく。

『メリダとおそろしの森』→Brave
メリダは男勝りのじゃじゃ馬娘。とにかく元気で勇敢、つまりbrave=勇者、勇敢な存在。ただし、その元気さは無鉄砲の元気さ。言い換えれば「野蛮」でもある。ところが自らの野蛮さが招いた母がクマに変貌させられてしまう事態を契機に愛他心とは何かを自覚し、Braveは本当のものとなっていく。つまり、この作品のタイトルは「勇敢とはどういうことを意味するのか」

『アナと雪の女王』(☆)→Frozen
Frozenとは「凍てついた」という意味。北欧の街アレンテールはエルサのコントロールの効かない魔法によって凍てついてしまうが、こちらはやはり形式。本当に凍てついているのは自分の殻に閉じこもっているエルサの心性、そしてプリンセス物語を本当と思い込んでいる、つまりこの物語に凍てついているアナの心性。この二つが愛他心を獲得することで解凍されていくのがこの物語の展開。ちなみにオラフは雪の精だが、夏を愛するという犠牲心、そして愛他心のメタファーで、frozenの逆のmelt=溶けることが最高の幸せと考えている。

『ベイマックス』→Big Hero 6
これもThe Incredibesと同じく、六人のヒーローが力を合わせて敵を倒していくという物語。実は決してヒロとベイマックス二人の話ではない。どちらかというとイメージすべきなのは『アベンジャーズ』だ。


『インサイドヘッド』→"Inside Out"の本当の意味

そして、今回の作品『インサイドヘッド』だ。
この意味は「インサイド=内側」「ヘッド=頭」、つまり頭の内側を意味しているのは明らか。ただし、英語では普通”inside head”という表現はしない。二つの単語の間に前置詞を入れて”inside of the head”とかになるはずだ。だから、これは日本語英語と判断してよいのではないか。まあ、それはよいとして、この邦題の理解からすれば「頭の内側で起こっていること」となる。実際、登場する11歳の子ども・ライリーの頭の中の「ヨロコビ、カナシミ、イカリ、ムカムカ、ビビリ」五つの感情が、この作品を展開するキャラクターとなる。
だが原題”Inside Out”は似たような音だが全く意味が異なっている。これは熟語で「ひっくり返し、裏返し、裏表」。そして、この作品もこの裏表が重要なテーマとなっている。

この裏表は三つある。
一つは、最もわかりやすい表=ライリーという人物、裏=ライリーの感情を司る五つのキャラというinside out=裏表。これはとりあえず『インサイドヘッド』という訳でも一応理解は可能だ。

二つ目は、大きなテーマである、これらの感情がどのように機能しているのかについてのinside out=裏表。ヨロコビはとにかくライリーを喜ばせることに夢中だ。そしてそれが正しいことと信じて止まない。ところがただ喜ばせようといろいろやっただけではライリーの心は動かない。動かすためには怒らせたり、ビビらせたりすることも必要。そして最も重要なのが悲しむこと。ヨロコビが作る記憶は輝くボール、一方カナシミが作る記憶は青のボール。輝くボールにカナシミが触れるとボールの色は青色に変わる。ヨロコビはそれをさせないようカナシミにボールに触れることを禁じるが、結果としてこのボールにカナシミが触れ色が青に変わることで、輝くボールはいっそう輝くことになる。その結果、大切な記憶は喜びや悲しみ、怒り、むかつき、ビビりと表裏一体になっていることにヨロコビは気づくようになる。つまり喜びは悲しみのひっくり返し。表裏一体、感情の裏表なのだ。

ライリーの主体は誰か?

そして三つ目。これはきわめて哲学的な命題だ。気づきにくいテーマでもある。それは「この映画の主体は誰か?」という問題についてのinside out=裏表だ。

作品の中でヨロコビはライリーを喜ばせようといろいろと感情を起動させる装置をいじる。そして他の感情を管理している。ところがカナシミは時にヨロコビの言いつけに反するように、触ってはいけないというボールや装置に触れてしまう。そして、その理由をカナシミ自身が説明できない(このへんのイライラする、うざったいキャラクターの声を大竹しのぶが絶妙の吹き替えで展開している)。

なぜカナシミはヨロコビの意に反して、そして自らの意にも反してこういった行動をとってしまうのか?

それは、この五つの感情があくまでもライリーの感情であるからだ。しかしながらヨロコビはそのことに気づいていない「ライリーを喜ばせることはよいこと」という立ち位置に基づいて、そのことの是非を振り返ることもなく、これを推進していく。この時、ライリーの主体はライリー自身ではなくヨロコビという感情になってしまう。これは感情と理性という二元論を設定し、その二つの合力で主体の意志が決定するという前提を是とするならば「感情の赴くままに行動する」という危険な行為になるのだ。このままではライリーは単なる快楽主義を求める存在でしかない。

だから、時にカナシミが自分の意志ではわからないようなことをやってしまうのは、要するにライリーという主体が無意識のうちに意志を持ってカナシミをコントロールしてしまうから。そしてこの五つがライリーの感情であるとするならば、こういった感情の運用の仕方(され方)こそが子どもの、そして人間の成長、振る舞いにとっては最も健全で正しいものとなる。いいかえれば、ライリーの感情の中で最も誤っている行動をとっているのが、実はヨロコビなのだ(ヨロコビが正しいと思っていたとしたら、あなたの認識も同様にinside out されている。竹内結子の元気いっぱいの吹き替えに(これまた絶妙だが)ダマされてはいけない(笑))。そして、映画の最後、そのことをヨロコビは理解する。

そう、この作品の三つ目のinside outとは、この映画が五つの感情が主体と思わせておいて、結局のところ、実はライリーの側にあるというひっくり返しなのだ。そしてそのひっくり返しもまた真。つまり主体の意志にとって理性と感情は表裏一体、つねにinside outされつづけるものとして存在しているのだ。

というわけで、今回もまた邦題によって原題が隠蔽されることで、作品のメッセージが読み取れなくなっている。

ラセター印の作品のメッセージを読み取りたければ、先ず原題のタイトル分析から入ってみるのをオススメしたい。

※ちなみに、今回映画のはじめに監督のピート・ドクターによる日本人向けの解説が入っているのだけれど、なんとこの時、ドクターは作品のことを「インサイドヘッド」と読んでいる。う~む、商魂たくましい!

マスコミへの苛立ちを展開した勉強会?

自民党国会議員の安倍首相支持者による党若手議員からなる「文化芸術懇話会」。その勉強会での議論が物議を醸している。内容は安全保障関連法案に対する国民理解のなさについてのいらだち(愚痴?)を展開したものだが、ポイントはむしろマスコミの報道の有り様についてのいらだちが中心だった。講師として招聘されたのは作家の百田尚樹氏。大西英男議員は「マスコミを懲らしめるには、広告料収入がなくなるのが一番」、井上貴洋議員は「(マスコミの)スポンサーにならないこと」とコメント。さらに長尾敬議員が「沖縄のメディアは左翼勢力に完全に乗っ取られている」とすると、講師の百田氏は「沖縄の二つの新聞社は絶対つぶさなあかん。……沖縄のどっかの島でも中国にとられてしまえば目を覚ますはずだ」と答えた。

この辺はすでに報道されているので、どなたもご存じだろう。これについて、当然のことながらマスコミからは一斉の反発報道が展開された。言論の自由を弾圧するような言語道断の発言だ的な脈絡がそれだ。しかし、どうなんだろう?ここで議論されている「マスコミの現状」「現在のマスコミの本質」的なものについて、このメンバーのコメントは、その前提においては当たっていないこともないと考えることも可能だ(政治的なコメントについては、僕の立場からは全く容認できないことをお断りしておく)。そして、その構造それ自体が、今回の報道を生んでいるとも考えられる。

「「マスコミという暴力団」に「オマエは乱暴だ」と言ったら殴られた」的状況

そこで、今回はメディア論的に今回の勉強会を巡る構造を考えてみたい。
まず、はじめにこの勉強会の出席者をヨイショしておこう。つまり、今回の議論について当たっている部分について評価してみよう。それは「マスコミがやっぱりどうしようもない状態にある」という認識だ。自らの視点からすれば都合のよい部分だけを報道し、そうでない部分は一切報道しないという認識。これは十分理解できる。そしてマスコミの「自らの視点」とは、煎じ詰めれば商業主義、つまり視聴率と発行部数、そしてリスク回避にたどり着く。その際の報道のポイントはスキャンダリズム。そのためには弱気をくじき、強気を助けることも厭わない。これに勉強会のメンバーは苛立ち、同様にこれに苛立っている百田氏を講師として招いたというわけだ。

ただし、この勉強会、きわめてマヌケなものであったことは否めないだろう。自らが批判する構造の中に入り込んで、その構造の餌食になっているのだから。たとえて言えば、暴力的な人間の前で「オマエは暴力的だ」と発言して殴られるようなものである。

つまり、こうだ。

前述したように、マスコミの基本的な立ち位置は、もはやスキャンダリズムとしよう。そしてそのことをこの勉強会メンバーが批判した。だが、それを、たとえ私的な勉強会といってもマスコミ報道に触れる形で開催される中で展開し、そこで「マスコミは広告収入がなくなるのが一番」だとか「マスコミのスポンサーにならないこと」なんて発言したら、そりゃ、スキャンダリズムの奴隷であるマスコミにとっては思う壺。一斉に報道して叩きはじめ、メディアイベント的にメディアを賑わすに決まっているし、事実、現在、これが物議を醸すに至っている。当然ながら、彼らはマスコミの餌食になってしまった。もちろん、この勉強会ではそれ以外の内容も議論されたはず。だが、例によってそれらをマスコミが取り上げることはなかった。重要なのはスキャンダリズムだから、あたりまえだ。いつも通りのことをやられたのに過ぎない。つまり勉強会のメンバーは批判するマスコミの構造に従って自らが批判=バッシングされてしまったのである。その結果、会の代表で今回の勉強会を開催した木原稔青年局長はら一年間の役職停止処分を受けることになってしまった。何とも、お粗末と言わざるを得ない。

墓穴を掘る百田氏の言い訳

百田氏はその後、「沖縄の新聞社はつぶすべき」的な発言をしたのは報道陣が退出し、一般には公開されない内輪の席での発言と弁明している。曰く、「飲み屋でしゃべっているようなもの」。ただし、声が大きいので外に丸聞こえになってしまい、それがマスコミの耳に入ったというわけだ。
この弁明は「もう報道向けのものは終わったところで内輪話をやっているだけなので、それを報道するのは卑怯だ」というニュアンスだろうが、実はこれは自家撞着に陥っている。そんなおおらかなジャーナリズムが通用したのは、もうとうの昔のこと(ただし、このおおらかさを利用して特ダネを取り出す辣腕記者がいたことも事実)。批判するマスコミは、しつこいようだが、今や先ずスキャンダリズムありき。それこそハイエナ的にスキャンダルになりそうなネタであればどんな手を使っても入手しようとする。ということは「内輪でやるので、これをネタにすべきではない」というモノノイイは通用しない。マスコミの構造を知っているのならば(あの批判からすれば知っていなければおかしい)、当然ながらこれに対する周到さがなければならないからだ。彼らはあまりに無防備。自分の言っていることが自分の身に降りかかってくることについての自覚がなかったのだ。

他者への想像力の欠如は政治家の資質を疑わせる

国会議員、そして百田氏に共通する最大の欠点は「他者に対する想像力の欠如」だ。つまり、前述したように相手が暴力団とわかっていてケンカを売るような状況。だから批判した内容の形式に基づいて、彼らは一斉に批判=バッシングを受けてしまった。マスコミがこうやることがわかっているはずなのだから、この勉強会も完全にクローズドでやる、あるいはオープンでやる場合にはマスコミがどうやってこれを報道するのかを十分考えてからやらないといけない。

そして、こういった「他者に対する想像力の欠如」は、翻って政治家としての資質に疑問を投げかけるものとなる。この人たちはちゃんと国政が見通せているのか、有権者の意見を反映させる力があるのか……。今回の件は、それがないと言うことを「語るに落ちる」状態で証明してしまったことにならないだろうか。そして、そういった資質(「資質の無さ」という資質だが)が、結果として、今回の乱暴なコメントを生んでしまったともいえないだろうか?

ちなみに百田氏だが、ま、これはこれでよろしいのではないか?彼は政治家ではないし、小説という「妄想(imagination)を芸術に昇華する」世界で生きているのだから(もちろん、政治の世界に入ってきてしまっては困るけれど。はからずも、今回はそういうことになってしまったので、というか最近はやたらと政治の世界にコミットメントしているので、ちょっと困るが)。問題は、これをことさらに登用する自民党だろう。ここにもまた他者への想像力の欠如が感じられる。物議系の百田氏を使えばどうなるかなんてことは、最初からわかっていなければならない。

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