勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

カテゴリ: 時評

給食のカレー中止に因果関係、相関関係はない?

神戸市立東須磨小で発生した教員間暴力の際にカレーが使われ、これを踏まえてカレーが給食として出されることが中止された。そして、この対応に非難が浴びせられている。曰く「カレーに罪はない」「そもそもカレーとイジメ(正しくは暴力なのだが、学校で発生したため、なぜか「イジメ」と表記されることが多い(笑))に何の因果関係、相関関係があるのか」「意味がわからない」「問題はそこではない」「なにふざけてんだ!」などなど。今回はこの議論をちょっと別の視点から考えてみようと思います。つまり、次のようにも考えられる……


皆さん、完全に間違ってますよ。給食のカレー中止は全くもって正しい判断・配慮なのです。カレーとイジメの間に因果関係、相関関係があるか?因果関係というのはカレーを食べることによってイジメを結果する、あるいはイジメをすることによってカレーに対する食欲が昂進するという考え。そんなもん、もちろんありません。相関関係は、因果関係はわからないけれどカレーを食べる人はイジメをする傾向がある、あるいはイジメをする人はカレーを食べる傾向があるという考え。そんなものももちろん、ありません。


でも、カレーとイジメの因果関係、実はバッチリあるんですよ(相関関係はありません)。だから、中止するのは配慮としては残念ながら「適切」(※カッコ付きである点にご注意ください)なんです。


学生たちの英語トラウマ

全然関係のない話でこれを説明しましょう。

僕は関東学院大学の教員です。所属する社会学部は河合塾で45、ベネッセで51という偏差値(世間で言われているほど、そんなに偏差値が低いわけではありません)。偏差値というのは知能を測る目安の一つ。とりわけ処理能力を見極めるのに便利な基準です。もちろん、これ自体が頭の良し悪しを判断するわけではありません。これに統合能力やコミュニケーション能力が加わって、総合的に「頭の良さ」は決まるわけなんですが、世間的には偏差値の高さ=頭のよさというステレオタイプがまかり通っている(こんな単純な基準を信じ込んでいる人こそ「頭の悪い人」なんですけどね)。


で、この程度の偏差値だと、学生たちの多くが自らを「負け組」と認識している。実際、僕の大学の学生の多くが早慶上智、GMARCH、日東駒専と呼ばれている大学を落ちてやってくる。だから受験へのコンプレックスは強い。


彼らに共通する問題は「英語」がダメだったこと。というのも、英語は数学と並んで処理能力を最も問われる科目。そしてほぼ全ての一般入試の試験科目として設定されている。しかし処理の訓練を受けていないので高偏差値が取れなかった。その結果、僕の大学にやってくるわけです。


だから、彼らは「自分は英語が出来ない、だから受験戦争に負けた」という、ヘンなトラウマ=コンプレックスに苛まれています。たとえば授業中、突然英語の話をするととても面白いことに。彼らは、この話を反射的に拒否するのです。つまり「その話はつらい。や・め・て!」


その一方で、こんなこともありました。僕は毎年、自分の学生をタイに連れて行ってフィールドワークをやらせているのですが、実施に先立って彼らに100程度のタイ単語を学んでもらっています。まあ、簡単な挨拶とか、トイレの訊ね方とか、料理のメニューといった、たわいのないものなのですが、これを覚えてタイに行くと面白いことが起こる。彼らはたった100語程度の単語を使って、タイ人とコミュニケーションを始めるのですが、実に楽しそうにこれを駆使するのです。


ある日、その中の一人が僕に言いました。


「先生、タイ語はこんなに楽しいのに、なんで英語はあんなに辛いんでしょう?」


僕は、次のように返答しました。


「君たちは英語が嫌いなんじゃない。中学から英語を勉強する中で得てきた英語にまつわる経験が嫌いなんだよ。つまり英語が出来なかったから受験がうまくいかなかった。このトラウマが君たちを英語嫌いにさせているんだ。一方、タイ語にはそれがない。だから嬉々として使いまくっているわけなんだよね。だから英語それ自体には罪がないんだ。もし、英語にこうしたトラウマ的経験がなかったなら、英語嫌いにはならなかったはず。タイ語みたいに楽しめたはずだよ!」


こうした英語にまつわる経験に対するもうひとつの、そして裏のメタな認識レベルのことを、言語学では共示義と(connotation)呼んでています。たとえば、ベンツを購入する動機の多くは「移動手段」という機能面でのベタな理由(これは表示義(dennotation)と呼びます)よりも、「ベンツに乗ることはステイタス」という共示義に基づいている。彼らにとって英語はこのネガティブバージョンというわけですね。これがトラウマの源となっている。


カレーとイジメのメタ因果関係

さて、話を戻します。今回のカレーは、この共示義(connotation)の立ち位置からみると、完全に因果関係があるとみなすことが出来ます。彼らは、自分たちの先生が「カレーを用いて同僚の先生を虐めた、あるいは虐められた」というネガティブな認識を持っている可能性が高い。とすれば、給食にカレーが出てくることで「先生が虐められた」「先生が虐めた」というトラウマ=共示義が現れる。原因=カレー、結果=イジメという図式がこちらのレベルで成立しているわけです。学校側がこうした前提に基づいているとすれば、カレーを給食に出さないという配慮は全くもって適切な対応と言わざるを得ません。カレーそのものには何ら責任はありませんが、カレーにまつわる共示義=経験が因果連関的に問題となるというわけです。


さて、ここまでカレー給食中止という配慮の、いわば「メタ因果関係」レベルでの「適切性」を展開してきましたが、ご了解いただけたでしょうか。


心の骨粗鬆症

で、ここから一気にちゃぶ台返しします。こうした配慮は、実はその立ち位置を振り返った場合、不適切なものになってしまいます。つまり、問題はこのメタ因果関係に基づいてカレー中止という配慮を行う際に、学校側が考えた「適切さ」の立ち位置にあります。


はっきり言いましょう。実は、こちらの方こそが「なにふざけてんだ!」なんです。


ここ十数年くらいの間に生まれた言葉に「心が折れる」「心のケア」があります。僕は、このことばが嫌いです。これらは哲学・社会学用語で説明すると構築主義的に作られた言葉です。構築主義とは、ざっくり言ってしまうと、新しいことばが作られると、それが現実になるという考えです(たとえば統合失調症(分裂病)、LGBT、まったりとした味といった表現が構築主義的に誕生した典型的なことば。ちなみに構築主義が良いとか悪いとかはありません。これはいわばシステムなのでニュートラルなものです)。カレー給食をやめるというスタンスは、児童が「心が折れないように」、言い換えればカレーを提供することで先生間で発生したイジメが想起されるようなネガティブなトラウマが発生しないように「心のケア」を行うという配慮でしょう。


でも、誰がこんなひ弱な子どもを作ったんでしょう?この程度のトラウマでも簡単に心が折れる恐れがある。だから折れる前に心のケアをすべきってなことなんでしょうか?でも、それじゃあまりに脆弱性が高すぎませんか?この程度で心が簡単に折れるんなら、子どもたちはいわば「心の骨粗鬆症」。すぐにポキポキ心が折れる可能性が高い。だからこそ早めの心のケアが必要だということなんでしょうか?


しかし、この程度で心が折れる子どもたちが大量にいたとしたら、実はそっちの方がはるかに問題であることに気がつかなければならないはずです。いわば、彼らは「心のカルシウム不足」。ということは、こうした対応をする前に大人側は子どもたちに心のカルシウムを投与し、強靭な心、この程度のことでは折れないような強靭な骨を作ってあげる必要があります。そうすれば、カレーとイジメの因果関係など想起されなくなる、あるいは想起したとしても乗りこえられるはずです。その対処法もちろん教育にあります。ただし、これは学校教育に限定されるのではなく、家庭内教育も含む、いや社会全体が取り組むべき「心のカルシウム不足対策」なのです。


ところが今回行われた学校側の対処法は、いわば「折れた骨に添え木を当てる、あるいは松葉杖を与える」と言った対蹠療法。ということは骨粗鬆症自体は改善しないどころか、カルシウム不足は昂進するので骨粗鬆症のさらなる悪化を招く危険性が高くなる。そうすると、さらに高度な添え木や松葉杖が必要になってくる……という悪循環が発生します。でも、なんでこんなその場しのぎの配慮を行ったんでしょう。今回については理由は簡単です。ようするに配慮を行う側(学校側)がカレーとイジメの因果関係を想起してしまうような脆弱な心を持っているからです(あるいは責任逃れかもしれませんが?)。言い換えれば、配慮を行った側がすでに骨粗鬆症。そして、添え木・松葉杖を当てることしか対応を知りません。しかし、その対蹠療法を子どもに施すことによって、今度は子どもがさらに心の骨粗鬆症になっていくという悪循環が発生しているのです。


心が折れないための心のケア(ただし訓練)の必要性

心が折れないように、心のカルシウムを提供する方法は、当然のことですがこうした心の脆弱化のスパイラルを止めることです。具体的には今回の出来事を子どもたちに相対化させるような躾や教育を施すことに求められます。


一例を考えてみましょう。ちょっとショック療法的かもしれませんが、僕はこの教員による教員イジメをみて、子どもたちの一部がこれを真似するといった状況が出現する方が、ある意味でむしろ健全と考えます。これくらいのレジリエンスを備えた子どもたちのほうが、むしろ強靭な人格、心の骨を作ることができるはず。状況を相対化するきっかけになるからです(絶対ではありませんが)。そうすることでイジメに耐えうる、そしてこれを解決しようとする心の育成が可能になる(「イジメをなくす」「イジメを回避する」といった現在のやり方は、全く現実的ではありません。はっきり言いますが「イジメがなくなる」というのは人類が絶滅することとイコールです)。アメリカ的(あるいは森田療法的)なやり方ならば、この問題について子どもたちの間で議論をさせるという方法もあります。


残念ながら、現在の教育は明らかに過保護と言わざるを得ません。心のカルシウムの投与と身体の訓練を私たちは考える必要があるのではないでしょうか。そして、これこそが「心のケア」と考えます。


カレー給食の中止は認識論的には完全に正解、存在論的には完全に間違いなのです。

賑やかなスポーツ界のパワハラ問題

ご存じのように、レスリング界の伊調薫問題あたりから始まり、日大アメフト部、マラソン、ボクシング、体操、重量挙げなどなど、このところアマチュア・スポーツ界でのパワハラ問題が世間を賑わせている。まあ、突然(後述するが、実は突然でもなんでもなく、マスメディアがやる常套手段としての必然なのだけれど)あちこちからスポーツに関するパワハラ問題が出現し、マスメディアが騒ぎ立てているのだけれど、今回はこれが「結果としてマスメディアには予期せぬ悪影響、スポーツ界には予期せぬ好結果を与えている」という、ちょった変わった視点を前提に議論を進めてみよう(社会学では、こうした「予期せぬ結果」が訪れることを「潜在的機能」と言う。たとえば都市の人口過密化に対応するために高層マンションを建設することで人口を吸収できる(顕在的順機能=予期した良い結果)が、その反面、都市中心人口が一層過密化するために交通渋滞が悪化する(潜在的逆機能=予期せぬ悪しき結果)といったように。ちなみに顕在的機能とは「予期した結果」、潜在的機能とは「予期せぬ結果」。順機能とは「好結果」、逆機能とは「悪い結果」。つまり四つの組み合わせがある)。

人が犬に噛みつくと事件になる

先ず、これらパワハラ報道を積極的に展開するマスメディアの意図について考えてみよう。マスメディア研究の中に「犬が人に人に噛みついても事件にはならないが、人が犬に噛みつけば事件になる」ということばがある。これは、あたりまえのことは事件にならないけれど、そうでないもの、つまり現実とのギャップが大きい、意外性の高いものについてはオーディエンスの関心を惹起するので、マスメディアはこれを積極的に取り上げる傾向があることを示している。

スポーツ界のパワハラ問題にはこの意外性=落差がある(もちろん、当該世界=スポーツ界の関係者にとっては意外でも何でも無いのだけれど)。「あのスポーツ界で、あれほどスゴいと言われている人が、こんなヒドいことをしているのか?」というイメージだ。金メダリストのあの伊調馨が虐められている、アメフト界の重鎮・あの内田正人が平気で非常識なことをやっていた、タレント的な人気がありテレビを賑わしているあの瀬古利彦が、ボクシング連盟のあの山根明会長が、ミュンヘンオリンピック・ムーンサルトのあの塚原光男が、メキシコオリンピックのあの三宅義行が……という具合に。

権威者・セレブの不幸は蜜の味

もう一つは、権威の上位にあるものを叩くという図式だ。我々がマスメディア、とりわけゴシップやスキャンダルに積極的に触れようとするのは、その情報を消費することによってある種の「優越性」をお手軽に獲得しようという欲望に基づいているからだ。

「優越性」とは、自分が他人より何らかのかたちで優れており、そこから生じる自己についての満足感、つまり「自分は他の人とは違ってエラいんだ!」的な心性だ。もう少し穏便に表現すれば「プライドを持っていること」とも言い換えられるだろう。もちろん、それ自体は悪いことではない。これは一般的には、その担保となる何らかの能力や技術を身につけることで獲得が可能になる。必然的に、こうした優越性を獲得するためには努力が必要になる。つまり頑張らなければならない。だから容易ではない。

ところが、これを容易に獲得できる方法がある。優越性の対義語は劣等性。これは逆に比較する相手に対して自分が劣性にあるという状態から生じる心性、つまりジェラシーだ。金持ちや高学歴者、セレブに対するマスメディアの受け手=オーディエンスの感覚がその典型。つまり「うらやましい」。一方、自分はそうではないので「くやしい」。この劣等性を努力なしに克服する方法をマスメディアはビジネスとして再生産的に提供する。それがスキャンダル・ゴシップ報道だ。これら報道は優越性を備える存在をターゲットに、これらをオーディエンスと同等、あるいはそれ以下に引きずり下ろすという作業を行っている。その際、前述のスポーツ界のセレブはその格好の対象となるのだ。これらのセレブたちは現役時代に華々しく活躍しただけでなく、その後もスポーツ界での重鎮となり権威を獲得して成功を果たした勝ち組か、現役の頃は大したことなくてもマネージメントで辣腕を発揮して権威者となった「うらやましい存在」。そこで、この人物たちの失態(今回の場合パワハラ)を報道すれば、彼らの社会的地位は貶められ、その結果、彼らを自分たちと同等の立場に引きずり下ろすことが可能になる。いや、それ以上に社会的にバッシングを受け、この世界から追放、あるいは粛清されるわけで、こうなると今度は自分たちオーディエンスよりも劣性の場所に置かれることになる。その結果、相対的に自分たちの立場が上昇し、オーディエンス側は努力することなく優越性を獲得可能になる。「人の不幸は蜜の味」のメカニズムがこれだ。イエロージャーナリズム、スキャンダリズムが跳梁する背後には、こうした出歯亀的心性が存在する。しかも、この心性は正義の味方のモットーである「強きを挫き、弱きを助く」の図式で援護を受けているから質が悪い。ようするに、オーディエンスの劣等性に働きかけて視聴率や購買数を稼ごうという魂胆なわけなのだが。

近年、このようなマスメディアのスキャンダリズムへ傾倒が強まっていることは、もはや説明の必要もないだろう。たとえば文春砲的な報道のスタンスはその典型だ。マスメディアがこうした戦略を採るのは、かつてマスコミと呼ばれたオールドメディアであるマスメディアがインターネットメディアに駆逐されつつあり、この苦境を打開しようともがいているからだ。それが結果としてスキャンダリズムの拡大再生産を生んでいる。

マスメディアが自ら首を絞めるスキャンダリズム戦略

しかし、この戦略は結果として却って自らの首を絞めることになる。パパラッチ的な報道ばかりを展開すれば、オーディエンスはやがてそれにウンザリしはじめる(いや、もうしている?)。その結果、人々はこのスキャンダリズムから次第に距離を置くことになる。視聴率も購買数もますます低下し、その一方でオーディエンスは情報選択が任意で行なえるインターネットにいっそう流れていく。一方、若者たちも、こうした出歯亀的アプローチに加わることには魅力を感じなくなり、マスメディア業界に身を投げようとはしなくなる(実際、大学生の多くが、かつて(たとえば80年代)ほどマスメディアで働くことに関心を持っていない。彼らの多くがマスメディアは「下品」と認識している)。必然的に、優秀な人材は他の分野(とりわけITや外資系)に流れていく。こうなると今度は人材の質の低下に伴いコンテンツの質もいっそう低下し、その一方で、マスメディアは藁をもすがる思いでますますスキャンダリズムに傾倒していく。そして、この負のスパイラルが続いていく。その結果、受け手・送り手双方がこれらマスメディアから離れていくというわけだ。これがパワハラ報道が結果するマスメディアにとっての潜在的逆機能、つまり「予期せぬ悪しき結果」ということになる。

パワハラ問題の思わぬ予期せぬ結果=潜在的順機能

ところが、こうしたパパラッチ的なパワハラ報道、意外なところに思わぬ良き結果をもたらしてもいる。スキャンダリズムに基づいての報道が、スポーツ界の悪しき因襲を駆逐し、体質を浄化するという潜在的順機能がそれだ。

アマチュアスポーツ界に長らく浸透していたもの。それはこうしたパワハラを媒介としてチームや個人を強化するという伝統だ。殴ったり蹴ったりはあたりまえ。高校や大学(とりわけ私立)は知名度を上げるためにメジャーのスポーツ種目への強化を図る。野球、サッカー、ラグビー、駅伝などはその典型的な種目だが、これらはご存じのようにメディアの露出が多い。だから、自校がこれら分野で知名度を上げれば、必然的に生徒・学生という顧客の獲得が容易になると考える。学校側はこんな「広告的」感覚(残念ながら教育的認識ではない)で一部スポーツの強化を図るので、これまではとにかく「強くなるためならナンデモアリ」みたいな風潮があたりまえのようにまかり通ってきた。「スポーツ選手は勉強なんかする必要はない」的な発想がその典型で、部活の担当者(監督やコーチ)は勉強二の次で、とにかくスポーツ漬けにする。一方、選手が指導に従わなかったり、成績を上げることが出来なかったりすれば、暴力を含んだ各種のパワハラで選手たちを手懐ける。酷い指導者となると、学校側に「スポーツで忙しいんだから、選手には授業に出なくても単位を与える配慮をせよ」みたいな発言もあたりまえのようにしてくる場合も。しかしスポーツ選手は大切な広告塔、だから学校側もあまりこれに対して反論は出来ない。その結果、こうしたパワハラが日常的に発生・浸透し、しかもその事実を学校側は隠蔽する側にまわっていく。かくして悪しき風習は多くの人間が知っていながら表沙汰になることなく、これまでずっと続けられてきた。

ところが、レスリングの伊調馨問題あたりを皮切りに、マスメディアのスキャンダリズムは「これはおいしいネタ」とばかり、次々と同様のネタに飛びつくようになった。ここ1年で雨後の竹の子のようにこれら問題がマスメディア、とりわけワイドショーで取り上げられるようになっているが、これはなにもマスメディアが特ダネでやっていることではない。もともとこういう風潮がずっとあり、マスメディアもそれを知っていながら、ネタにはならないので取り上げてこなかっただけのこと(スポーツ中継がコンテンツ的においしいという事情もある。この場合のマスメディアの感覚は正義の味方の反対の「弱気を挫き、強気を助く」という、タケちゃんマン的な「権威にすがる図式」となる(古い!)。当時はヘタにスキャンダル化すると視聴率や購買部数に影響を与えかねない、スポーツ界から締め出しを食らう可能性があるという懸念があった)。それが、恐らく伊調問題で「ネタとしておいしい」「隠蔽するよりバラした方が儲かる」と、費用対効果的立場からマインドセットを変更したのだ。理由はすでに述べたように「人が犬に噛みつくと事件になる」「権威者・セレブの不幸は蜜の味」の二つの要素がガッツリ備わっていたからだ(加えてパワハラ・セクハラ批判報道が注目を集めていることも大きい)。だから、これまで報道しなかったネタを各メディアが一斉に取り上げはじめ、「スポーツ界パワハラ祭り」が発生したというわけだ。もともとネタならいくらでもあるんだから、すっぱ抜くのは簡単だし。

アマチュアスポーツ界が健全化する?

しかしこの祭りは結果として学校教育界、アマチュアスポーツ界の悪しき風潮を一掃する契機ともなっている。これだけあっちこっちで取り上げられるようになると、もはやパワハラ基調のトレーニングなど平気でやることは出来なくなってしまうという風潮が生まれる。その結果、つまり潜在的順機能として、教育界におけるスポーツトレーニングの方法、スポーツ教育のあり方が健全化するという「予期せぬ良い結果」を生むことになるのだ。

個人的には、こうした出歯亀主義的なものは「質の悪い報道」であることに何ら変わりがないとしても、スポーツ界の健全化に向けての費用対効果を考慮すれば続けもよいのではないかと思っている(もちろんフライング的報道も次々と登場し、それによって被害を被る人間が登場することもあるだろうが。いや、もう発生しているかも知れない)。

つまり、これは「必要悪」なのだ。

福田淳一財務省事務次官のセクハラ疑惑は福田氏が名誉毀損で告訴も辞さぬという強気の姿勢に出るという予想外の展開を迎えている。さて、この状況、どうすれば打開できるのか。

解決策はしごく簡単だ。件の女性記者名乗り出ればよいだけの話だからだ。ただし、これが問題視されている。

テレビ上ではコメンテーターたちに感情的な発言を続けているが、ほとんど意味がないと言っていいだろう。テレビが何を言おうが、現状のままならばこれは福田氏の冤罪になるからだ。というのも確たる証拠がどこにもないのだ。

「録音があるだろう!これだけで十分だ」

いや、そんなことはない。さらに、これが本人の音声であることを確認しなければならないし、会話全体のやり取りや状況から内容を判断しなければならない。現在、明らかになっているのは福田氏と思われる人物の音声だけだ。あたりまえの話だが、これだけではどうにもならない(すでに切り取られている)。そして財務省が弁護士を立てて、双方の話を聞き状況を確かめると中立的な立場?で提案をしてきた。

さて、もしこのまま女性が名乗り出なければどうなるか。なんのことはない、繰り返すが福田氏の不戦勝になる。つまり福田氏側の主張が通ってしまうのだ。例えば「これは全て新潮のでっち上げにすぎない」あるいは「音声が本人のものであったとしても、それは『女性が接客をしているお店に行き、お店の女性と言葉遊びを楽し』んだだけ」。それを新潮はさながら女性記者へのセクハラへと捏造した。こんな言い分が、まかり通ってしまうのだ(もちろんこの根拠のなさは、現状での新潮の主張と同じレベルで根拠がない。双方の言い分は同じレベルの説得力で、しかも闇の中になる)。実際、女性記者が出てこず、確たる証拠が現れず、これを踏まえて福田氏が新潮を告訴したら、これへの反論は不可能で、九分九厘福田氏が勝訴するだろう。麻生大臣が言うように「福田の人権」が存在し、司法はこれに基づいて事態を処理するからだ。言い換えれば、メディアや政治家が騒いでいるだけでは何の効力もない。ひょっとしで福田氏はそれを狙っているのだろうか。

だからこそ被害者の女性は名乗り出る必要があるのだ。言い換えれば、そうした意味では麻生大臣の発言は概ねまっとうということになる。

しかしながらこうした麻生大臣のコメントも常軌を逸しているとメディアや野党の政治家たちが非難している。「セクハラを受けた側の苦しみが解っているのか?」「言い出すのがどれだけ大変なのか知っているのか?」というのがその際たる理由になるだろう。また財務省が弁護士を立てて事情を調べると言っているが、なんで加害者側の弁護士が調べるんだ?そんなのあるわけないだろうというモノノイイもある(ただし、大学などでセクハラ、パワハラなどが発生した場合、大学内部のハラスメント委員会がこれを処理するというのは常識的に行われている)。

とはいっても、とにかく事実を語ってもらわなければ話は進まない。負けてしまう。福田氏を追及する手段、そしてこのスキャンダルが捏造ではないことを証明する方法は、現状ではハッキリ言ってこれしかない。だからやってもらわなければ、どうにもならない。

じゃあ、どうすればいい?つまり女性を保護しつつ事実関係を確かめる方法は?

そこで次のような提案をしてみたい。
まず超党派の第三者委員会を設立する。その議論の中で弁護士を選定し、これに全てを一任する(つまり二次被害を避けるため財務省が弁護士を選定しない。言い換えれば「財務省も加害者」という批判を受け入れる)。名乗り出た女性記者の安全を確保するため完全匿名とし、外部にその存在が一切知られることのないような環境を設定する。例えばやり取りの音声にしても、そのままでは一般には公開しない。そして弁護士はその結果と概略のみを発表し、それを受けて財務省は福田氏に対し最終的な判断を下す。こうすれば事の次第が女性への危険を回避しつつ判明する。

このスキャンダルについていいたいことはただ一つだ。外野がゴチャゴチャ言う前に科学的かつ合理的、そして法律に則ってこれを粛々と処理すること。つまりノイズを取り払って白黒ハッキリつけるべき。メディアも政治家も含めて、どうもこれを利用しようとする下心ばかりが見える騒ぎに、僕には思えてならない。いずれにしてもテレビの報道している内容は、あまりに酷すぎるというか、レベルが低すぎる。

未来ニュース:10月22日衆院選の結果、自民公明が三分の二の議席数を確保

今回の衆議院選挙。終わってみれば「大山鳴動してネズミ一匹」という状況だった。既存勢力の自民党は過半数を維持、さらにこれに公明党を併せ三分の二を確保した。また共産党も微増だが議席数を増やした。一方、希望の党は予想に反して惨敗に近い状態、議席も60を割るという惨憺たる状況だった。意外だったのは民主党から締め出しを食らった一派で構成される立憲民主党で、予想外の健闘だった。

さて選挙序盤戦、台風の目といった感すらあった小池百合子と希望の党だったが、なぜこんな体たらくな結果になってしまったのだろう。これを今回はメディア論的に分析してみたい。

小泉が教えた勝利の方程式=ブレないこと

小池が希望の党を立ち上げて世間の注目を集めたとき、多くの人間が「これは何か凄いことが起きそうだ」と色めき立った。小池は先の都議選で都民ファーストの会を立ち上げ、自民党中心の都議会から覇権を奪うことに成功する。これに注目したメディアは一斉に1つの経験則を引用した。それは「都議選の結果は次の国政選挙にベタに反映する」というもの。それゆえ、小池が希望の党を立ち上げたとき、政治の流れに何か変化が起きるのではという感覚が頭をよぎった人間は少なくないはずだ。そして党立ち上げ直後に党CMを公開。しかも、このCM企画は既に三月に立てられていたとのアナウンスで「小池百合子は政権奪取に向け周到な準備を行っている」というイメージを世論に植え付けることに成功した。

実際、自民党員たちからも危機感を感じさせるコメントが頻出した。どう見ても新しい風が吹きそうな気配だったのだ。

さて、こうした「風」について、われわれは既にいくつか経験している。ひとつは「郵政民営化選挙」と呼ばれた2005年の衆院選だ。首相の小泉純一郎が議会を解散した理由は「郵政民営化」の是非を問うものだった。本人は徹底した民営化の推進派。しかし自民の郵政族は抗戦に打って出た。そこで選挙で勝負ということになったのだった。

この時の小泉の戦略は見事と言うほかはなかった。「郵政民営化は行政改革の本丸」と言い放ち、あたかも郵政民営化が全ての問題を解決するようなアピールを行ったのだ。これはたとえば衆議院比例区の小泉による政見放送の際もまったく同じだった。郵政民営化以外は一切語らなかったのだ。さらに、郵政族と呼ばれた民営化反対の自民党議員には刺客と称して対抗馬を立て、その多くを敗北させた。

しかし、このやり方、実はかなり詐欺まがいであったことも確かだ。まず郵政民営化=行政改革という図式。よくよく考えてみればそんなことはありえない。実は、行政改革の内実は不透明なままだったのだ。さらに郵政民営化自体も、実のところ有権者の多くは理解していなかった。また、敵が野党ではなく自民党内部であったことも実に不思議なことだった。

矛盾だらけの小泉戦略。ところが、これを確信犯的に小泉は推進し、一切ブレることがなかった。こうした選挙に向けての畳みかける攻撃。自民郵政族はさながら「悪代官・越後屋」、小泉は「御老公」、刺客は男なら「弥七」、女なら「お銀」という単純な水戸黄門型劇場図式で、反対派を「抵抗勢力」として、これを攻撃していったのだ。小泉は「ブレないこと」そして「次から次へとサブライズを出し続けること」という戦略を推進していった。有権者たちは政権内容では無く、全くブレない小泉の姿勢とサプライズの連続に陶酔していた。こうして小泉劇場は成立したのだった。

東国原が教えた勝利の方程式=徹底したしがらみ排除

2006年末に実施された宮崎県知事選に東国原英夫(当時そのまんま東)が出馬する。当初泡沫候補と呼ばれていたのだが、あれよあれよという間に県民の支持を取り付け、知事に登り詰める。東国原の戦略には小泉のブレない姿勢にプラスして「しがらみ排除」があった。それまで宮崎県知事はいずれも「しがらみ」にまみれていた。2代前の知事は談合事件で逮捕されて失職、一代前はシーガイアを誘致して県民に多大な借金を負わせた挙げ句、外資系企業に二束三文でこれを売却した。前任の知事も談合疑惑で辞任(後に逮捕)している。

そこで東国原は「しがらみ排除」を前面に押し立てて選挙戦を展開した。もともと支持基盤を持たないのでしがらみも何もあったものではない。だが、芸能界出身。芸能人からの応援を得ることは可能で、事実、以前ユニットを組んでいたたけし軍団の大森うたえもんが応援に駆けつけると手を挙げたことも。ところが、東国原はこうした芸能界からの応援を一切拒絶したのだ。なぜか?論点が「しがらみの排除」だったからで、自らそのことを身をもって示そうとしたからだ。そう、東国原は完全にしがらみがなく、しかもブレていなかった。そして、それ東国原劇場を誕生させていった。

小池百合子の失敗

さて、小池百合子である。小泉=東国原的な手法を今回の衆議院選で使おうとしたのはどう見ても明かだ。つまり「劇場」を演出すること。実際、小池は「ブレないこと」「しがらみ排除」この二つを戦略に置いていた。ブレないことについては、小池は常にひるむことなく攻めの姿勢を見せ続けた。たとえば弱いところ、都合の悪いところを突っ込まれたときには、かならず「微笑み返し」あるいは「逆質問」という戦略に出ていた。そして前述したように、様々な仕掛け=サプライズが周到に用意されていて、それが次から次へと繰り出されるといったことを大衆に期待させるような演出を展開していた。しがらみについては、そもそも政治モットーが「しがらみ排除」だった。これは言うまでもなく森友・家計問題に対する異議申し立てだった。いいかえれば安倍は、閣僚は「お友達」、政策も「忖度」にまみれた「しがらみマン」で、この疑惑を選挙で払拭しようとしていたのだけれど、そこに小池はツッコミを入れたのだ。もちろんカウンターをあてる自分は「しがらみ無し」という立場で。このコントラストは東国原のやり方と同じだ。

ところがこの二つがガタガタと音をはじめて崩れ去っていく。事の始まりは言うまでもなく民進党代表前原誠司との連携だった。この連携で民主党党員は無所属になり希望の党から出馬することを前原は宣言したのだが、小池は「三権の超経験者は排除」という姿勢に出る。政策が異なるから、これらの民進党員とは共闘はしないという姿勢を示したのだ。これで民進党は分裂し、一部の枝野幸男を中心とする排除予定者たちが立件民主党を立ち上げる。すると有権者は「なんだ、希望の党、全然ブレてんじゃん」「周到な準備なんか、実はなかったんじゃないの?」「希望の党は単なる呉越同舟集団。それ自体がしがらみ」というイメージを抱いくようになってしまった。
いや、立憲民主党が立ち上がろうが、ある意味、実は問題はなかった。小池は立憲民主党の候補者に対して、徹底した対決姿勢を示し、小泉の時のように刺客ならぬ対立候補を全てに立てると明確に言い放てば良かったのだ。そうすればブレないだけで無く、サプライズにもなった。

ブレに関してはまだある。最大のブレは「国政でアンタは何をするつもりなんだ?」の答を言わなかったことだ。自分は最後まで国政に打って出ないと言い張っているのはブレないように思えるが、では「じゃあ、仮に希望の党が政権を取ったら誰が首相になるの?」についての答がなかった。それは小池のビジョンがブレていること、仕掛けの底が浅いことを言わずもがなに露呈してしまうことになる。

ホップ=都議選での都民ファーストの会の勝利、ステップ=希望の党の立ち上げと民主党や維新の会との提携と、ここまではよかったのだが、次のジャンプとなるブレない形での次のサブライズを出すことには失敗したのだ。前述したように三権の長経験者排除は徹底すればこれはサプライズになった。そして最後まで国政にでないといいながら、公示日に「やっぱり出ます」と言いえば、これは究極のサプライズ=ダメ押しのスーパージャンプになっただろう。「都政を放り出したんだからブレている」と思いたくなるが、これもやり方次第で劇場を演出しこれを加速させるサプライズには十分になり得た。たとえば「私は都政をやらなければいけないと思っていました。道州制的な新しい政治のあり方が今求められていると考えたからです。しかし、そのためには地方自治体の集合体としての国会を構築する必要がある。そこでやむを得ず都知事を辞任し、国政に打って出ることにしました。ただし、都政を放り投げたのでありません。私の政治のあり方を理解しこれを継承してくださる候補者が見つかったので、その方に安心して都政をお任せし、私は国政に打って出ることにしたのです。その方は○○さんです」とやればよかったのだ。ちなみにこの○○は「橋下徹」でも「東国原英夫」でも構わない。ところが、ただ国政に出ないだけなので、「じゃあ、アンタは国政を真面目にやる気があるのか」「希望の党の目的がわからない」ということになった。これで党のイメージは拡散。完全に有権者はシラけてしまった。小池は「緑色をトレードマークとする政治改革の旗手」から、ただの「緑のきつね」に堕していった。

冷酷なメディアの肌感覚

メディアは、こうしたムーブメントには敏感だ。人々がワクワクしそうなことについてはすぐに飛びつく。逆に言えば、そうでもないものについてはさっさとスルーする。なんと言っても世の耳目を引くことがマスメディアの仕事。視聴率が取れること、発行・出版部数が増加することが至上命題だから、この辺についての感覚は敏感だ。

希望の党が立ち上げられたとき、メディアはこれを一斉に取り上げた。大きなムーブメント起こること=劇場が発生する気配をメディアは感じたのだ。そう、ワクワクを人々と共有しようとしたのだ。ところがここ二週間というもの、政治、とりわけ選挙が取り上げらることは実に少ない。たとえば先週(10月第三週、投票日の1週間前)、ワイドショーがいの一番に取り上げた項目の中に選挙はなかった。取り上げられたのは仁所ノ関親方が自転車運転中に倒れたこと、煽り運転にまつわる高速道路での死亡事故、「空のF1」と呼ばれるエアレースで室屋義秀が年間チャンピオンになったことなど、ほとんどどうでもよい話ばかりだっ。つまり、この時点で選挙への関心は失われていた。いいかえれば選挙はとっくに終わっていて、結果はもう決まったも同然だったのだ。

投票に行かない無党派層

選挙への関心の無さは当日の投票に如実に反映された。史上最低の投票率を記録したのだ。小泉純一郎は「無党派層は宝の山だ」と言い放った。つまり無党派層がキャスティングボードを握っている(支持政党なしは6割近い)。ただしこの層は「何か面白いことがないか」と言った具合に関心がかき立てられなければ投票には向かわない。それゆえ無風状態では投票所に向かう層は決まっている。公明党、共産党のほとんどの支持者、そしてあらかたの自民党支持者だ。新しい風を期待する人々、つまり無党派層のほとんどは投票所に足を運ばない。だって、つまらないんだから。ワクワクできないんだから。そしてこれは当日台風が接近し、投票所への二の足を踏んだこともさらに追い風になった。

選挙は民意を反映しない

となると、今回の自民党の勝利は安倍政権の信任ではないと考えるのが妥当だろう。ただし安倍政権としては「これで森友・家計問題は禊ぎが払われた」「憲法九条改正はオッケー」「消費税10%も認められた」と解釈するだろう。これは最悪の構図といえないこともない。ただし、こういった、いわば「悪循環」を招いた元凶は、やはり小池百合子にあると言わざるを得ないだろう。彼女が政治改革をぶち上げながら、実のところ全てを壊してしまった(民主党に及んでは木っ端微塵に砕け散った。アダ花的に立憲民主党が健闘したのは反小池票を集めただけ?)というのが正直なところなのではなかろうか。


ということで、僕のこの原稿が明日ハズれていることを望むばかりである(本日は10月22日の投票日)。

佐野研二郎氏の東京五輪公式エンブレム使用中止を巡って「パクリ」についての議論がかまびすしい。はたしてあのエンブレムはパクリなのか?というのが、まあいちばんベーシックな論点だ。だが、「パクリ」とは何なのか。これが議論を巡って混乱しているように思う。今回はこれについて記号論的に考えてみたい。

パクリとは、さしあたり既存のもののコピーを指すのだが、実はこれだけではパクリを明確に定義したことにはならない。パクリを考えるには、その基本の作業であるコピー(これ自体ではパクリではない。しかしパクるためにはコピーは必要条件)と、それと対をなすもう一つの概念の「オリジナル」とは何かに立ち入る必要がある。

オリジナルは「無から有を生むこと」ではない

しばしオリジナルという考え方について間違った認識がまかり通っている。典型的で乱暴な俗説は「無から有を生むこと」という見方だが、これはあり得ない。世の中にそんなものは存在しないからだ。全ては既存のもの、つまりルーツを踏まえ、それを乗りこえていくかたちで新しいものを誕生させていく。音楽だったらロックはリズムアンドブルースをルーツにしているし、リズムアンドブルースはレイス・ミュージックを、レイスはバラッド等を、さらにバラッドも、という具合。ということはオリジナルとは「有から新たな有を生むこと」と読み替えた方が正鵠を射ている。佐野氏は松尾貴史との対談の中で「アートとは組み合わせである」的な発言をしていて、それが「パクリ屋」のイメージを助長するネタとして使われているようだが、このコメントはオリジナル、そしてアートのオリジナリティからすれば全くもって「まっとう」なのだ。

いくつか例を挙げてみよう。一つはアートシーン。1910年代、パブロ・ピカソやジョルジュ・ブラックら初期キュビストと呼ばれる一派は新たなアート技法「パピエ・コレ(貼り付けられた紙)」開発する。これはいわゆるコラージュと呼ばれる手法で、新聞や雑誌、包装紙、切符、写真など既存のものを切り貼りして作成するアート。まり構成要素が全てコピー。だから作品の断片に、たとえば新聞記事の一部を読めたりする。で、これは斬新な手法として高く評価された。

次に音楽シーン。1996年に発表された奥田民生作品『これが私の生きる道』。女性ユニットPUFFYのために作られたものだが、このメロディ、ビートルズの「恋に落ちたら」「涙の乗車券」「デイトリッパー」などを切り貼りしたと言っても過言でない(これに加瀬邦彦の「マーシー・マイ・ラブ」の一部が加えられていると僕は判断している)。この曲が大ヒットしたことは、三十代以上の方ならご存じだろう。面白いのは本作品が切り貼りしただけなのに、どう聴いても奥田節にしか聞こえないことだ。PUFFYの脱力的なムードが奥田イズムを強力に演出したこともあるだろうが。これは「パクリ」どころか、奥田が敬愛するビートルズへの「オマージュ」と評価されている。

さて、この二つに共通するオリジナリティを比喩的に図式化すると

1+1<X

ということになる。

「1」というのは既存のもの。本来なら1+1で「2」であるはずなのだが、ここでは右に「X」という別カテゴリーの記号が配置されている。そして「=」ではなく、不等号の「<」が置かれている。つこれを文章化すると「既存のものと既存のものを組み合わせた結果、アウトプットされたものは単に二つを合わせたのではなく質的変容を遂げてしまい(つまり1→X)、しかも既存のものの総和以上(<)の新たな意味やメッセージを発する」ということになる。前述した二例は、まさにこのXを生み出したゆえに、高い評価を獲得したのだ。

そしてこのXについては、しばしば「創発」という言葉で表現される。つまりクリエイティビティを含んだオリジナルでアーティスティックな機能を備えたものとなる。これを作品の受け手の方から解釈すると次のようにパラフレーズできる。

「1+1=2のはずである。にもかかわらずアウトプットは2以外の、カテゴリーエラーで異なるXになってしまった。それは本来ならば(既存のコードからすれば)誤りである。ところが、この誤りを受け手側が否定することが出来ない。間違っているけれど抗い難い魅力を放っている(これは「異化作用」と呼ばれる)。そこでこのXを受け入れ、さらに自らのコードとして再構成しようという意味作用が発生した時、それは創発性を帯びる。これがオリジナリティの基本的なメカニズムで、これが一般に認識されると、今度はこれが既存のコードとなる。もちろんそのコードは次の製作者によって打ち崩されていく対象となる(つまり、今度は「X」に対する「α」という新しいコードが提案される)。この繰り返しが結果として文化を再生産しているわけだ。

このようにオリジナリティを考えた場合、コピーという作業は、その下ごしらえとしての必要条件と位置づけられる。つまり、オリジナルとは「コピーなきオリジナル」ではなく「コピーを踏まえたオリジナルなのだ」。だからコピー自体はニュートラルな行為であって、良いも悪いもない。コピーそれ自体は、必ずしもパクリとは言えないのだ。

ただし、ここにビジネスが絡んでくると話は変わってくる。こういった作品が経済的、あるいは社会的既得権を保証する財産、つまり著作権として出現する場合だ。これが絡んだ瞬間、コピーは純然たるコピーになったりパクリになったりする。しかも、これが必ずしも創発と関連しない。

タモリ「つぎはぎニュース」のリアリティ

コピーとパクリがゴチャゴチャに理解されていることを解消するために、ちょっと別の例を出そう。まだ著作権がいい加減だった1980年代前後。ニッポン放送で「オールナイトニッポン」のパーソナリティを務めていたタモリは、ラジカセや編集機器を利用し様々なものつくって見せたりしていた。で、これを利用してタモリは「つぎはぎニュース」というコーナーを設けた。これはカセットの編集機能を利用したもの。NHKアナウンサーの語るニュースをリスナーが勝手につぎはぎし、別のストーリーに変えてしまうのだ。

「この二十日から北京で始まった大相撲九州場所で牝馬の横綱輪島が、いきなり棒のようなもので頭を殴られ気を失っている間に大潮が十四回目の優勝を飾りました」

と言った具合。NHKアナウンサーの中立で無味乾燥的な語り(1)、そして文脈のおかしな報道(1)。それぞれはさして面白くはないが(1+1>Xといったところか)、この二つが合わさった瞬間、コンテンツは抱腹絶倒ものに変わってしまう。官制的な人間がそのトーンでナンセンスでふざけた内容を展開することで異化作用、つまり 創発(X)が発生するのだ。このコーナー、大人気となったが、突如中止になる。まあ、あたりまえのことだが、これがNHKの知るところなり、著作権でクレームがついたのだ。

つぎはぎニュースのこの顛末が示すのはパピエ・コレと奥田同様、コピーだけでもオリジナルが生まれるということだ。ただし、ここに著作権が生まれた瞬間、このコピーはパクリに転じてしまう。面白い面白くないに関係なく。

二つのパクリ

こうやって考えてみると「パクリ」というのは二つに分類することが出来ることがわかる。一つは前述の「著作権に抵触するもの」。どんなに組み合わせが面白かろうが、それはパクリと認定される。だが「つぎはぎニュース」のようにここに新しいものが生まれないわけではない。もうひとつは「そのままそっくり転用してしまうもの」。これはオリジナリティも何もないので、新しい文化を生むような可能性がない。ただし、ここに著作権が生じていなければ、パクリにはならない(ただし、著作権はアップした時点で自動的に発生する)。

整理しよう。以上から4つのパターンが考えられる

1.素材=コピー+著作権フリー、組み合わせ=コピー
2.素材=コピー+著作権あり、 組み合わせ=コピー
3.素材=コピー+著作権フリー、組み合わせ=オリジナル
4.素材=コピー+著作権あり、 組み合わせ=オリジナル
(「素材がオリジナル」ということはあり得ない。組み合わせがコピーの場合も著作権に触れる可能性はあるが、素材に比べればはるかに可能性は低い)

結局、法律も絡めると、この中でオリジナル(狭義の意味で)と認められるためには以下の条件が必要となる。

1の場合:素材も組み合わせもコピーだが、使用されるコピーが一般的に編集素材として用いられる際の組み合わせのパターンと異なったところからコピーされたものであること。

2の場合:1と同様だが著作権利用許可を取っていること。

3の場合:全てOK

4の場合:著作権の使用許可を取っている場合
これら条件に該当しない場合、全てパクリということになる。

佐野研二郎氏の作品群はどうか

この分類に基づいて佐野氏の作品パクリ度をいくつか分類してみよう。
サントリーの夏プレゼント「夏は昼からトート」のデザイン。フランスパンのもの(No.18)は、パン=素材はそっくりそのままコピー、組み合わせはオリジナル。引用元に著作権がなければ問題がない。そうであるならば条件3に該当するが、著作権はアップした時点で発生しているので×。創発性については……うーん。「Beach」の掲示版(No.20)は組み合わせはオリジナルだが、素材として使われている掲示板に著作権があるので×。

五輪エンブレムのプレゼン用に使った羽田空港の展示例。素材の空港写真には著作権があるので×。そもそもプレゼン用で組み合わせについてもオリジナリティ云々の問題とはならないゆえ評価の対象外。つまり純粋に×。アートではない。

au LISMOのマーク。黄緑塗りつぶしの背景は確かにiTunesのパクリに近い。ただし背景を黄緑に塗りつぶすことに著作権はない。人のシルエットに代えてリスを使うことで独自性を打ち出している。まあ、売ろうとする商品がほぼ同じなのでハイエナ感は否めない。この場合、オリジナリティは低いがパクリではない。よって△。このあたり、韓国や中国企業がよく使う手だ。

東山動植物園のマーク。コスタリカ国立博物館のロゴによく似ているが、ここまで単純化したものだと同定が難しい。家紋を参考にしたでも十分通用する。だから法律的には○だろう。だが創発性がないゆえ×。ま、こんなところになるだろうか。

さて五輪のエンブレムである。これはベルギーのシアターのロゴに酷似していると作者から訴えられている。でもこれ、どうだろう?エンブレムのデザインを行う際にはインスピレーションだけではダメで、理論、文法、情報を詰め込む必要がある。また、これらを集約した後に、さらにビジネス的に運用可能なものでもなければならない。ムードなんかで決まるものじゃないのだ。ということは、これらの集約後にはコンセプトが洗練され、結果、極端な単純化が図られる。佐野氏のエンブレムはこの手続きがしっかりと行われている。例えば機能性だけを見てもこれは明快だ。エンブレムはあちこちに添付されるので、小さくしてもモノクロ化しても明瞭でなければならない。でも、ここまで単純化すればハッキリ解る。最終案が並べられていた画像を見たが、これだけを見ても佐野氏のデザインは傑出していた。1964の亀倉雄策氏による東京五輪のデザインもしっかり踏襲するなど、抽象度も高い(祭り、富士山、扇子、桜がポイントになっているのはコンセプト甘過ぎで問題外。桜なら大阪万博レベルまで持っていく必要あり)。こういった機能はベルギーのシアターロゴにはない。もっと文法的に甘い。そして単純化は同定が難しい。結論しよう、五輪のエンブレムはパクリではない。

ただし、正直、このエンブレムを見た時、個人的には「イマイチ」と思ったことも確か。いいかえれば「1+1」と「X」の落差=差異がさして感じられないものでもあった。つまり、佐野氏はまっとうな仕事をしているが創発性が弱い。

でも、佐野氏が選ばれてしまったのは……政治的側面云々を抜きに考えれば他の候補案がそれほどまでに出来が悪かったということになる。つまり、日本のデザイン界のオリジナリティの欠如。う~ん……

↑このページのトップヘ