勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

カテゴリ: 食文化

「ラーメンは音をたてて食べるべきである」は正しいか?


「ヌーハラ」とは「ヌードルハラスメント」の略で、ラーメンなどの麺類を音をたてて食べるのが国際的なマナーに反していて下品ゆえ (「海外では一般に麺類を食べるときに音をたてるのはよろしくない」というマナー。この「海外」がどこを指すのかは謎)、ハラスメントに該当することを指している。

これに対して政治家の中田宏氏は11月25日のエントリー『ヌーハラ問題。「ラーメンは音を立てずに静かに食べましょう」・・・んなワケないでしょ!!』(http://blogos.com/article/199561/)で、

「『Japan Guide.com』のサイト(英文)には「ずずっと音を立てるのは風味を引き出すので良い食べ方だ」と書いてありますし、このように日本のマナーをどんどん広げていくべきです。」

と、音をたててラーメンなどの麺類を食べることを「美味しい食べ方」「日本のマナーとしてどんどんと広げていくべきです」とコメントしていた。つまり音をたてて食べるのがデフォルトだから、異文化の人間はこれをちゃんと理解すべきであるという主張だ。

氏がこのように主張する根拠としてあげているのが以下のエピソードだ。

「私は過去にインドに行った時に手で食事をしたことがあります。
左は”不浄の手”とされ右手で食べるのですが、正直、自分の手を舐めるような変な感じがしました
これをかつて欧米人は「下品だ」と言い、また日本や中国の箸についても「下等民族の道具だ」などと言っていましたが、今では和食や中国料理が世界中にあるなかで上手くはなくても欧米人も自ら箸を使うようになりました。」

ラーメン・蕎麦・うどんを音をたてて食べるのが美味しいと感じるのは僕も同じだ。横でモソモソと音もたてずに麺をすすっている人間に気づくと、こちらが逆にヌーハラを受けたような気分になってしまう。だから、中田氏の言わんとしていることは、わからないでもない。

但し、留保がつく。それは「麺を日本、あるいは日本文化が支配的である環境で食べる場合」だ。中田氏の問題点は氏が依拠する、いわば「郷に入れば、郷に従え!」というところにある。そこで、これを今回の考え方のデフォルトとしてみよう。そうすると、中田氏は「郷に入れば、郷に従え!」を主張しながら、立ち位置を変えた瞬間「郷に入っても郷に従っていない」、つまり自家撞着に陥っていることがわかる。


現在、世界に広がる日本文化は”J.カルチャー”

その前に一旦、話を日本文化の海外への定着に振ってみたい。1960年代の高度経済成長以降、日本の知名度については「クルマや電化製品などのモノ、つまり消費や技術に関するものについては世界に知られるようにはなったが、日本の文化、つまりコト・伝統については認知度が低いまま」と言われてきた。そこで、なんとかして日本の文化を売り出そうといろいろな試みが行われてきた。ベタに「ゲイシャ、フジヤマ、スシ、ニンジャ、ゼン、ブシドー、ワビ・サビ」みたいな海外のステレオタイプを前面に出すやり方。あるいは他文化、とりわけ西欧に阿るやり方がそれだ。音楽だと英語でロックを歌って売り出すなど(フラワートラベリンバンドやバウワウ等。例外はサディスティックミカバンドで、日本語で歌っていた)。ただし、結局のところサッパリだった。

で、「どうやったら日本文化が世界に知られるようになるのだろう?」と手をこまねいているうちに、ひょんなところから日本文化は認知されるようになった。そこで海外に定着した「もうひとつの文化」をそれまでの日本文化とはアプローチが異なるということで、とりあえず「J.カルチャー」とカタカナで表記しておこう。J.カルチャーはアニメやマンガといったオタクカルチャーからジワジワと世界に浸透していった。

J.カルチャーは、これまでの日本文化とは二つの点で根本的に売り方が異なっている。一つは「文化として売ろうとはしていなかったこと」。いいかえれば「消費物」「ビジネス」として売り出したことだ。さしあたり「カネが入ればそれでいい」という、きわめてイイカゲンな売り方だ。だから日本アニメは安売りされ、あっちこっちで放映された。もう一つは「こちらのやり方を押しつけはしないが、迎合もしない」という売り方だった。これは「買ってもらうのが第一の目的なので、文化振興云々はどうでもいい。また、いちいち手間暇かけて相手向けにカスタマイズするのもカネがかかるので、あまり手をつけない」というスタンスが、結果としてこうなったと考えればいいだろう。前述のロックバンド(七十年代前半)はこれと反対で、明らかに当時のロックシーンに阿っていた。全部英語で歌い、サウンドのスタイルも世界の潮流に準拠していた。要するにアグレッシブに「世界に出たい」と考えていたわけだ。で、阿りつつ手間暇かけていろいろ考えた。とはいっても、結局はいわば「猿マネ」で、こう言っては内田裕也さんに申し訳ないが、今聴くとかなり恥ずかしい(その代わり、テクニックはスゴかった!)。

ところが前述したようにアニメやマンガは違う。阿っていない、というか垂れ流しなので勝手に広がるだけだった。これがかえってよかった。安売りした商品がメディアに流れ、子どもが飛びつく。で、これが世代交代することで広い世代に浸透していき、気がつけばジャパンアニメは世界中を席巻していたのだ(映画『マトリックス』監督のウォシャウスキー兄弟が『マッハ go go go』(”Speed Racer”)を、ディズニーが手塚治虫の『ジャングル大帝』をパクって『ライオンキング』を制作するなんてことが結果として発生した)。

ただし、これは「垂れ流し」なので、阿ってこそいないけれど、どのようにJ.カルチャーが理解されるのかは、これを受け入れた文化に委ねられた。つまり勝手にカスタマイズされた。たとえば「ポケットモンスター」は”Pokemon”として普及した。マリオもまた同じでファミコンならぬNintendo(まったく同じハードだが)のキャラクターとして普及した。そこに日本の文化を「きちんと教えよう」なんて押しつけがましい「邪心」はまったくない。邪心は「カネ儲け」だけ(笑)。すると、J.カルチャーは「日本文化」であることも知られないうちにグローバル化したのだ(リオの閉会式のパフォーマンスでマリオやハローキティがメイドインジャパンであることを知った人間はかなり多いんじゃないんだろうか)。そう、J.カルチャーは「郷に入れば郷に従え」ならぬ”
When in Rome, do as the Romans do ”として広がったのだ。

中田氏の立ち位置では日本文化はグローバル化しない

中田氏はこの認識が抜けている。コメントの立ち位置は「麺を音をたて食べるのは絶対善」あるいは「箸を使用することは下品なことではない」というナショナリズム的な思考停止だ。あるいは「カレーを手で食べるのは下品である」という欧米かぶれ、つまり「欧米か?」とツッコミを入れられてしまうような心性だ(こちらは西欧至上主義、あるいはインド文化蔑視の態度ということになる。全然、郷に従っていない)。

文化のグローバリゼーション(この場合、日本文化の普及)は、中田氏のような立ち位置では絶対に発生しない。文化人類学にクレオール化という言葉がある。輸入文化は、それを受け入れる文化の文脈で理解され変更されることで初めて定着する。だからローカライズという洗礼を受けないわけにはいかないのだ。

アニメはもちろん、寿司やラーメンなど、日本文化は今や着々と世界に浸透しつつある。ただし、これらは横文字の、つまりAnime, Sushi, Ramenとして。アメリカの場合をみてみよう。今年7月ロスで開催されたAnimeEXPO2016では三日間の開催期間に26万人が集結した。会場では日本語のアニソンが流れ、あちこちに日本語の文字を見つけることができ、千人を超すコスプレイヤーが会場内を闊歩していた(詳細はこちらを参照。http://blogos.com/article/182883/)。しかし、これらはちょっと日本のそれとは違っていた。そして館内に響く入場者の会話は、あたりまえだがほぼ英語だった。

Sushiも同様だ。基本は巻き寿司、しかも裏巻で、ベースになるのはアボガドやクリームチーズ、サーモン、そこにシラチャーや )ソース、ハラペーニョなどなどあやしげなソースがぶちまけられている。反面、光り物を見つけることは難しい。で、そういった勝手にローカライズされた寿司=Sushiがその辺のスーパーであたりまえのように売られている。Ramenはまだ勃興期を脱してはいないが(大都市圏を除く。インスタントラーメンは、もはや完全に定着)、チキン味を中心として、そして味も少し変わったかたちで広がっている。もちろん、音をたてて麺をすする人間を見つけることは難しい。そしてこれらはいずれも阿ったのではなく、勝手にカスタマイズされて現地の文脈に取り込まれたのだ。つまり”When in Rome, do as the Romans do ”。だから音をたてるのは原則、ヌーハラになる。

残念ながら中田氏のコメントにはこういった文化伝播のメカニズムに関する認識が抜け落ちている。文化は売り込むと言うより、勝手に広がるのだから。そして、こうした歴史はこれまでずっと繰り広げられてきたはずだ。日本文化は現在J.カルチャーとしてブレイクしつつある。いや、もうしているのかもしれない。

文化のカスタマイズは日本文化の輸出に限った話ではない。日本もまた異文化の輸入に際して同じことをやっている。例を一つ紹介しておこう。フジテレビ『料理の鉄人』に登場した中華の鉄人・陳建一の父・陳建民は日本に四川料理を紹介した人物として知られている。その典型がエビのチリソース、通称「エビチリ」だが、これは建民が四川料理を日本に定着させるために乾焼蝦仁(カンシャオシャーレン)をアレンジしたものだ。四川料理は豆板醤がふんだんに使われるため辛く、このままでは日本人の口には合わない。そこで陳は豆板醤の量を減らし、代わりにケチャップ、スープ、卵などを加えてマイルドに仕上げた。その結果、われわれ日本人にっとって四川料理はきわめてポップな中華料理の一ジャンル、エビチリは家庭料理の一皿となったのだ。

本物(=オーセンティック)の日本文化が認められることはあるのか?

話をヌーハラに戻そう。じゃあ、海外(あくまで今回議論の対象となったあやしげな「海外」限定ですが)で音をたてて麺をすするのは結局ダメなのか?(ちなみに音をたてている文化が日本以外にないわけではない)。解答の一つは「まずはダメ」ということになる。ローカライズの洗礼を受け、一般に広がる過程では、音をたてろとか、そんなことをいちいち指摘するのは「野暮」なのだ。ただし、こういった「変形したかたちでの普及=音をたてずに麺を食べる」の後、オリジナルな、つまりオーセンティックな料理や食べ方が認められることは十分にあり得る。前述したエビチリだが、これでわれわれは四川料理を知った。そしてその認知度が高まれば、今度は「本物の四川料理を食べてみたい」という気持ちも湧いてくる。実際、現在、オーセンティックな四川料理を食べさせるレストランは国内でもあちこちにある。その時、客は舌のモードをオリジナルな方にセットし直しているはずだ。日本料理(そして日本文化)も同じで、普及すれば、オーセンティックを指向するような人間もまた登場する。そして、それに合わせたかたちで海外で施設が設けられる。つまり「本物のラーメン屋」がオープンする(いや、もうしているのだけれど)。そこでは、当然「音をたててラーメンをすすること」がデフォルトとなるはずだ。ちなみに、今僕が滞在している米・トーランス(ロスの隣の都市)には十件以上のラーメン屋があるが、音をたてることについてはお構いなしだ)。

こうして文化はグローバル化していく。そして、今、日本文化=J.カルチャーは大ブレークしつつある。



「ヌーハラ」とは「ヌードル+ハラスメント」。麺(ヌードル)を食べるときに他の客に迷惑(ハラスメント)になることを意味する造語。で,今回は文化人類学的に「ヌーハラ」を定義してみた。


1.日本全土の場合


定義:ラーメン・蕎麦・うどんを音を「たてずに」すすること。

日本では麺は音をたてて食べるのが正しい、そしておいしい(パスタ除く)。これがわからないヤツは麺屋に入ってはいけない。つまり音をたてないようなヤツは麺屋の暖簾をくぐる資格はない。それこそ他の客にとってはヌーハラである。かくして店内はズルズルズル~ッ!とうるさい音が響く。落語家・柳家小三治は「時蕎麦」で扇子を箸に見立てて蕎麦をすすってみせたが、もちろん「エアー」。これが名人芸だった(あたりまえの話だが小三治の「時蕎麦」を聞いた後,客の多くが蕎麦屋へ直行した)。で、客はさっさと食べてさっさと出ていくので、滞在時間が短い。店の回転が速いので麺料理の料金は概して割安になる(一部、神田や長野では、ごく少量の蕎麦で馬鹿高い値段を設定している、けしからん「強者そば屋」もあるが。これも別の意味でヌーハラだろう。ある意味「麺文化」をナメている)。


2.アメリカの大都会(ロスのダウンタウンやマンハッタン)の場合


定義:なし(ヌーハラの定義は存在しない)

異文化融合、つまりメルティング・ポットなので「音をたてるのを不快に思う人」は「音をたてる人」がいてもをガマンするし、「音をたてないのを不快に思う人」は「音をたてない人」がいてもをガマンする。相互尊重、文化相対主義的視点。いわゆる”happy medium”。麺の音は互いに「聞く」「聞かない」フリをするのがマナー(あるいは”don’t care”。こっちがホントかも?)。日本の麺のことについてはそれなりに認識している(日本では麺を食べるとき,音をたてる、つまり「麺をすする」ことを知っている)。かくして店内は「ズル、ヌル、ピチャ」と中途半端な音がこだまする。で、滞在時間がやや長い(音をたてない客は食べるスピードが遅い)ので客の回転がやや遅く、麺料理の料金はやや高になる。ちなみにアメリカ人はカップラーメンを音を「たてずに」モグモグとすする。カップヌードルの場合だと麺がスープをすってしまい,途中からスープが見えなくなる。スタジアムでアメフト観戦しながらこれ食べていた客は(スタジアム内で販売されているところがある)、試合に集中しすぎてずっと食べなかったので、カップから麺が膨れあがっていた。で、その後「べったら焼き?」「カップ焼きそば?」化したカップヌードルを完食していたが……。


3.アメリカ・ミズーリの田舎(ラーメン屋があったとすればだが)の場合


定義:音を「たてて」すすること

絶対にダメ。ラーメンだか蕎麦だかなんだか知らないが,麺を食べるのに音を立てるなんてのはもってのほか。音を立てるようなヤツは麺屋(あったとすればだが)に入ってはいけない。かくして,音は全くしない。カップラーメンの存在はよく知っているが、これはラーメン屋のラーメン、蕎麦、うどんとは別のカテゴリー。これら麺類とカップ麺を同一線上で考えることはできない。っていうか,存在自体をよくわかっていない。あったとしても恐らくマズい(こういう場合、韓国人経営が多いので,味も二重三重にキテレツなものになることが間々ある。昔の海外での日本料理店を知っている輩すれば「なつかしい味(笑)」)。アメリカで日本の麺類は原則、「都会の食べ物」(カップラーメンを除く。アメリカ中にある大手スーパー・ウォルマートではマルちゃんのカップラーメンが一個¢30以下で売られている)。


4.パリ、オペラ座の前のラーメン屋の場合


定義:音を「たてて」すすること。絶対にダメ。

ラーメンはすこしづつ箸でレンゲに乗せ,箸で回転させながら(つまりスパゲティを食べるときのスプーンとフォークの使い方に同じ)二十分以上かけてすこしづつ口に運んでいく。ラーメンは美味しいから受け入れるが,自分流儀、つまりパリ風に必ずカスタマイズする。で、そういったものだけが受け入れられる。伸びて,ぬるいラーメンや蕎麦、うどんがここでは「グルメな味」。これが解らないヤツは麺屋に入ってはいけない。で、とにかくダラダラと話し続ける。必然的に滞在時間が長いので麺料理の料金はバカ高になる。かくして,音は全くしない。カップ麺も全く同様の流儀で食す。日本人が「ヌーハラ」の典型とするような食べ方。


かくして日本を代表する食文化(この場合はラーメンを軸とする麺文化)は世界を制覇したのである。食され方もいろいろ。ここ以外でも、まあいろいろあるだろう。タイだと麺をグチャグチャにして食べるなんてやり方もある。現在、滞在しているロスの隣のトーランスのラーメン屋では,子供にラーメンを食べさせようと親が丼からラーメンをテーブルにぶちまけ、これを子供が手で掬って食べていた(冷ましてたのね(^0^;))。ラーメンはグローバル化。当然、食べ方もグローバル化、ヌーハラの定義もグローバル化しているわけで……嗚呼、安藤百福に感謝!!

「支援という形をとって偽善を行うセレブたち」というモノノイイ

熊本地震にまつわるセレブの対応についてのネガティブな意見がかまびすしい。
たとえば「偽善」「売名行為」といった類いの非難がその典型。さらに穿った見方に「配慮に欠ける」というものも。これは人の不幸を利用して自分の利益を獲得しようとするハイエナ的な行動という意味だろう。藤原紀香、紗栄子、上地雄輔、ダレノガレ明美、西内まりやなどなど、被災地に対し個人的に寄付などの支援をした芸能人がネットを通じて(とりわけソーシャルメディアを介して)批判に遭っている。また熊本在住の井上晴美は自らの被災状況をブログで逐次報告し続けたことに非難が殺到。井上は発信をやめてしまった(4月26日再開)。

「偽善パワー」を炸裂させましょう!

こういったセレブの行為について非難を加えること。はっきり言って馬鹿げている。偽善?売名行為?、は?どこがいけないの?ボランティアというのは辞書調べればわかることなんだけれど「自発的」って意味で,好き勝手でやっていること。それで,相手が助かれば何ら問題はないはず。それが結果として自分の知名度や好感度を上げたって、それはそれで構わないでしょ?いちいちケチをつけて,こういった援助を蔑ろにしてしまう人間の方が、かなり常軌を逸しているだろう。こういうケチがつくことを百も承知の高須クリニックの高須克弥院長の発言が興味深い。震災直後、早速自ヘリによる支援物資の提供を宣言をしたが,その際「僕はみなさんから募金を募りません。資材をばらまくだけです。信用なんかいりません」とツイートした。これ、要する「自発的に」、つまり勝手にやっているだけ。「信用なんかいりません」というのは、どうみても「どうせ偽善と言われるんだろうが,そんなことは知ったことではない」という、いわば「偽善、どこが悪い?」と開き直った発言だろう(個人的には高須氏に拍手を送りたい)。


炎上、非難をする輩は全体の0.5%という究極のマイノリティ

で、こういったセレブたちの支援に対する罵声、非難。実は全然気にすることなんかないのだ。

慶応大学経済学部の田中辰雄准教授らがつい先日出版した『ネット炎上の研究』(田中辰雄、山口真一、勁草書房)の指摘は注目だ。残念ながら現在,僕はロス在住中で現物を手に取ることが出来ていないゆえ、サイトのチラ見を参考にさせていただいたのだが、とにかく帯布でその要点は語り尽くされている。曰く「炎上参加者はネット利用者の0.5%だった」。これ,ブログをアップして、しばしば炎上を被っている自分からすると納得だ。実際、炎上が発生している時、これに誹謗中傷等の書き込みを続けてくる人間は限られているからだ(BLOGOSブロガーの場合、マイページでPVを確認できるので、それと誹謗中傷系のコメント数を比較すれば一目瞭然。本当にマイノリティで、しかも同じ人間が何度も繰り返すことも多い。紗栄子も自分への誹謗中傷社がマイノリティであることを突き止めたという)。それが0.5%の中身ということになる。ただし,こちらとしては田中氏の文面(どのような統計的手法を採用したのか)をきちんと改めていないのでなんとも言えないのだが、少なくともこのパーセンテージはブログのコンテンツによって微妙に変わってくることも留保する必要があるだろう。ただし,炎上させる人間が実に実にマイノリティであることは、まあ間違いはない。

だから,セレブのみなさん。ブログやソーシャルメディアで、みなさんがおやりになっている支援活動にケチをつける輩を気にすることなど全くありませんよ。ごくごく少数の意見ですから、気にせずどんどんやってください。ということは,井上晴美さんがブログを再開させたことは完全に正解です。

みなさん、どんどん「偽善パワー」を発揮しましょう。因みに間違えないでくださいね。ここで「偽善」といっているのは,あくまで非難している人への皮肉ですから。みなさんのはただのボランティアと、僕、そして一般のほとんどの人は思っていますよ。安心してください。

昭和レトロ?を守る食堂が閉店?

先日、一部の人間にとって衝撃的なニュースが流れた。

それは
「花巻マルカンデパート閉店」
である。

えっ、何のこと?

岩手県花巻市の商店街のど真ん中にあるこの百貨店。イトーヨーカドーなどの郊外型スーパーなどの進出ですっかり閑古鳥が鳴く状態に。いや、この百貨店と言うよりも、かつての商店街それ自体がシャッター通りと化しており、それに引っ張られた状態でもあるのだけれど(ただし、百貨店を経営するマルカングループ自体は事業を手広く展開している)。だから6月に閉店と相成った。

しかし、しかし、である。

この百貨店は店を閉じてはいけないのだ!たったひとつの理由で。
それは、

六階に大食堂があるから。

このガラガラの商店街、ガラガラの百貨店。ところがエレベータで六階に上がった瞬間、信じられない風景が広がる。この階はワンフロアが食堂になっている。つまり、かつてのデパート(百貨店といった方がすんなりくるが)の最上階にあった、あれが、そのまんま、ほとんどシーラカンス、トキ、ニホンカモシカのように残っているのだ。そして、驚くことにその席数、400もある。で、昼時にはなんと満杯!

デザインは古ぼったく、ウエイトレスのユニフォームも濃紺でダサい。チーフとおぼしき老人は白のワイシャツにネクタイと、かつての大食堂のそれ。提供される料理も寿司、ラーメン、お子様ランチ、ソフトクリーム、スパゲティ・ナポリタン、そば、うどん、オムライス、ホットケーキとジャンル横断で、こちらも大食堂のそれ。わけのわからないメニュー(マルカンさん、失礼!)ではマルカンラーメン(ラーメンに辛めの甘煮)、ナポリカツ(スパゲティ・ナポリタン+チキンカツという奇っ怪な組み合わせ)、ソフトクリーム(10巻き180円!!)なんてのもある。ティラミスというメニュー(パフェのティラミス風)やコーラクリーム(普通は「コーラフロート」と呼ぶ。現在メニューからは廃止)も。


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名物10巻ソフト。箸で食べる




で、味はどうか?これまたスゴい。完全にベタな味。例えばオムライスとナポリカツはケチャップバッチリ。で、料理は全般的にボリュームタップリ。つまり、全てが全て昭和のまんま。タイムスリップ気分が味わえる場所なのだ。

ただし、ここは90年代あたりから流行はじめた昭和レトロとは全く違う。あれらは要するにヴァーチャル、言い換えればメディア的に媒介された昭和のイメージを再現しただけ(大村崑や水原弘、由美かおるのホーロー看板なんかが貼り付けてある、あの「インチキ昭和」だ)。一方、マルカン大食堂は、そんなものとは一線を画している。昭和レトロではない。ただ単にずっと昭和から変わっていないだけなのだ。つまり昭和リアル!もはや、こんな食堂、日本には存在しない。これだけでも文化遺産としては貴重だ。50代以上の人間がココを訪れれば、まず嬉々としてしまう。僕も30年前、ココを初めて訪れて以来(花巻はカミさんの実家)、ずっと虜のままだ。

昭和リアルを証明するのは、何もレストランのシステムだけに留まらない。もしこれだけなら、ただの「昭和レトロ観光地」でしかない。昭和リアルは店側の一貫した方針の他に(まあ、ただ昔のパターンを続けているだけなのだけれど)、顧客の側のリアルがある。で、もっと驚くことは、冒頭に述べたように昼時ともなると、この席全てが埋まってしまうのだ(夜は営業していない)。エレベータを出てすぐ両脇にある2つの食券カウンター(食券機ではない)の前には列が出来ている。彼らが贔屓にするメニューは中華(普通のラーメン)、マルカンラーメン、ナポリカツ、オムライスそして十巻きソフトだ。このわけのわからないメニューこそが市民を虜にしている。そう、この古色蒼然としたスタイルを守っているもう一方の張本人は花巻市民なのである


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チキンカツとナポリタンの組み合わせという、なんとも不可思議なメニュー。しかし定番。ハマる!


でも、市民たちは、なぜこんなものを、そしてこのマルカン大食堂を愛するのか?もちろん、彼らがレトロ感覚でここにやってきている「昭和オタク」なんかではない。そのほとんどはリピーターなのだ。そして、ただの日常。マルカン大食堂に行くのは「そこにマルカン大食堂があるから」に過ぎない。では、なぜ?

それは、

ここが彼らにとっての人生そのものだからだ!

人生絵巻がリアルタイムでずっと繰り返される亜空間

ここを知らない部外者が、店内の顧客層を見れば、恐らく驚くべきものを発見するだろう。家族連れ(核家族から3世代まで)、おじいちゃん・おばあちゃんと孫、学校帰りの高校生が連れ立って、恋人のツーショット、お年寄り連れ(最近は、この食堂が注目されているので昭和レトロマニアも多いが)。客層がゴチャゴチャなのだ。誰もがホッとした顔、そして笑顔を浮かべている。

この世代横断的な客層は次のようにストーリーを繋げれば理解が出来るだろう。
子どもの頃、親やおじいちゃんおばあちゃんに連れられてここにやって来た。そこでソフトクリームやお子様ランチ、オムライスに馴染む。中学高校時には学校帰りに制服姿で仲間とやって来て、おやつ代わりに中華とソフトクリームを楽しむ。仕事を始めて恋人が出来ても昼食はココだ。若くてカロリーを欲しているからナポリカツあたりがお気に入りだろうか。もちろんソフトクリームは必須。あまりにデカいこのソフトはそのままでは手で取って食べることが出来ない。そこで台座に乗せたまま下から割り箸で掬って食べる。二人で食べればラブラブモードも否応なく盛り上がる(笑)

結婚して子供が出来たら、やっぱりマルカンへ。子供はもちろん、ココの賑わい、そしてソフトやお子様ランチの味に馴染む。人でいっぱいのお祭りモード、華やいだ気分がすっかり気に入り、どこかに食べに行くということになれば、マルカン大食堂がご指名となる。そう、親と子の人生が繰り返されるわけだ。そして、子供が巣立ち、歳を重ね老人となった時、昔馴染みとくつろぐ場所は、やっぱりココ、マルカン大食堂なのだ。

市民の人生がギッシリと詰まっている場所。だから、客層がゴチャゴチャ、そして客でいっぱいになるのはあたりまえなのだ。この食堂には、人々を強烈に惹きつける文化が50年以上、全く変わることなく息づいているのである。


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開店間際の11時台。もう客がいる。母、娘、孫が楽しく食事中。


「文化とは何か?」を再考させてくれる大食堂

マルカン大食堂。これは本物の文化なのだ!食が、空間が花巻市民の魂全てを吸収し、そして世代から世代へと再帰する。そして、これが衰えることなくずっと続いてきた。

だから、この大食堂を閉じてはいけないのである。

花巻市役所は早くこのことに、もっと気づいて欲しい。ここは市民会館や市民公園など、まったく叶わないほどの文化を放ち続けていることを。だから、これを失うことは花巻市民のアイデンティティの一部(しかも重要なそれ)を失ってしまうことであることを。本ブログでは解りやすいように「食の文化遺産」と表現したが、本当はそうではない。文化遺産はいわば「干物」。もはや終わってしまったものを「遺産」として維持すべく、改めてメディアを媒介させてまなざしを与えようとするものだ。ところが、こちらは「ナマの文化」。いまだ変わることなく人々を引き寄せて止まない。しかも生ものだから市民たちも気づいていない(閉店すると聞いて、現在、これまで以上に大挙して人が押し寄せているらしい。あたりまえが突然そうではなくなることで、市民たちが、この大食堂の重要性に気づかされたのだろうか)。市役所職員のみなさんも、ここで子どもの頃からお世話になっていることは間違いないのだから、マルカン大食堂がただの民間企業だからどうなろうと放っておくなんてことを考えるのはおかしいはず。自分の胸に聞いてみて欲しい(笑)

ところで、これを存続させようと地域活性化をめざしている若者たちが運営する地元企業・花巻家守舎が立ち上がった(関連記事http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160318-00000119-it_nlab-life)。なんならテレビ局もこれを取り上げてもらいたい。テリー伊藤さんとか孤独のグルメのスタッフさんとか、いかがですか?花巻家守舎さん、是非がんばって欲しい。なんなら、僕も協力したいと思う。

文化そのものをリアルに見たければ、ここに行くべきなのだ。

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爆発的に売れているセブンカフェ。日本人にの嗜好に合わせたあまり深くない焙煎、価格が百円というのがポイントだ。



現在、アメリカでは「サードウェイブコーヒー(第3の波コーヒー)」と呼ばれる新しいトレンドが出現している。第1の波は60年代、アメリカに一気にコーヒーが定着した時代を指している。この時、アメリカに普及したのが一般的にアメリカンコーヒーと呼ばれる、焙煎の浅いコーヒーだった(日本ではアメリカンと言えばお湯を足して薄めたコーヒーのことを指すが、実は本家のアメリカンは薄めてなどいない。ちなみにお茶代わりなので、スタバのトールサイズ350ccに該当するマグカップに入れてガブガブ飲むのが普通。結構旨いのだが、日本では滅多にお目にかかれない)。第2の波は80年代にやってきた。スターバックスを代表とした、いわゆるシアトルコーヒーがそれで、これは焙煎の深いエスプレッソを薄めてアメリカンコーヒー並みの容量にしたもの(前述のトールサイズ)。これが、もはやアメリカどころか、日本を含む世界中に爆発的に普及したのは、どなたもご存知だろう。

そして今回の第3の波の出現。これはコーヒー豆を厳選し、鮮度も徹底管理し、なおかつバリスタが手差し(ドリップ)で一杯一杯淹れるという、本格的グルメコーヒー(ちなみにシアトルコーヒーは出現当初「グルメコーヒー」と呼ばれていた)。で、第2の波と同様、これも現在、日本にも入り込んできている。

じゃ、この第3の波は第2の波と同様、日本にブームを呼び起こすんだろうか……う~ん、ちょっと難しいような気がするのだが?

レギュラーコーヒーのカジュアル化

僕が知っている限り、わが国におけるここ数十年のコーヒー事情はかなり複雑だ。70年代はまさに喫茶店の時代。ここではコーヒーを飲みながらおしゃべりするというのが定番だった。喫茶店で提供されていたコーヒーの淹れ方はドリップかサイフォン(洒落たところではダッチコーヒー)、つまり嗜好品だった(ちなみに家庭ではほとんどインスタントコーヒーだった)。80年代からは家庭でレギュラーコーヒーが定着し始め、コーヒーは純粋に飲むもの、つまりカジュアルなものになり、その影響を受けてか喫茶店で会話しながらコーヒーを楽しむスタイルが衰退。代わってドトールなどの一杯180円(当時)立ち飲みで、飲んだらとっとと出るというカフェが普及する(僕のように粘る客もいたけれど)。

1人で空間を楽しむスタバ

で、喫茶店文化がすっかり影を潜めた90年代半ば過ぎ、スタバが登場する。これは喫茶店文化の復活、いや今日的な進化だった。スタバはプライベート「第1の空間」でもパブリック「第2の空間」でもない。パブリックな空間でプライベートに浸れる「第3の空間」。1人で部屋にいたら寂しい、でも人と一緒にいたら相手がうざったくて自由がきかない。こういったディレンマを相殺する空間、つまり1人でいても寂しくない場所として、スタバのようなシアトルコーヒーは見事にフィットする。お客は1人で本を読んだり、勉強したり、パソコンを打ったり気ままな行動を店内でとるようになったのだ(おしゃべりは意外なほど少ない)。

サードウェイブコーヒーはかつての喫茶店文化と重複する

で、肝腎のコーヒーの味はどうかと言えば……。確かにグルメコーヒーではあるが、アメリカのようにドラスティックに味が変化したと言うことには日本ではなっていない。アメリカは水やお茶のように日常的に飲むアメリカンと、嗜好品としてのシアトルコーヒーは、その立ち位置が異なる。つまり、当初「グルメコーヒー」と名乗ったように、既存のコーヒーとは一線を画した上級レベルのコーヒーという位置づけだった。

ところが日本ではどうだろう。以前からあるコーヒーはいまだに楽しまれている。そして、ドリップ使って結構まともに淹れている御仁も多い。つまり、はじまりから「グルメコーヒー」。そうするとシアトルコーヒーは「グルメコーヒー」と言うよりも「オルタネティブコーヒー」という位置づけになる。だから、アメリカのような味への驚きはないだろう。言い換えれば、シアトルコーヒーへの日本人の志向は、味と言うよりも、やはりあの空間に比重があったと言っていいだろう。
そしてサードウェイブコーヒーだ。これはアメリカ人にとっては本当の意味でのグルメコーヒーだろう。一杯一杯丁寧に淹れるなんて立ち位置からすれば、シアトルコーヒーなど「なーんちゃってグルメコーヒー」の域を出ない。

ところが、だ。これが日本だったらどうなるか?サードウェイブコーヒーって、要するに昔、喫茶店のオヤジが丁寧に入れていたコーヒーのことでしょ?まあオヤジの腕にはピンからキリまであったけど、コーヒー通ならピンを探すくらいのことはそんなに苦労せず出来た(街に数件は凝り性の喫茶店オヤジがいたはずだ)。そして、そういった旨いホントのグルメコーヒーを提供する「喫茶店」「カフェ」はいまだにしっかりと残っている。ということはサードウェイブコーヒーが乗り込んできたところで、まあ、どうということもないのではなかろうか。

で、実を言うとこのサードウェイブコーヒー。もともとは日本の喫茶店文化に感動したアメリカ人がそのスタイルをアメリカで展開したものだという。ということは、アメリカでウケるこのカテゴリー、日本では限りなく差異化が難しいことになる。そして現在、日本はコーヒー戦争の真っ最中。ドトールのような廉価コーヒー店、シアトルコーヒー、普通のカフェ・喫茶店、そしてコンビニ・コーヒー(セブンカフェはバカ売れ状態)、さらにはコンビニに溢れる缶コーヒー・カップコーヒー。こういった玉石混淆状態の中に食い込むのは容易ではない。だから、これがスタバみたいに爆発的人気を博することは、まあ、おそらくないだろう。

ただし、まったく人気が出ないということもないはずだ。というのも、これまで丁寧に入れていたコーヒーに「サードウェイブコーヒー」という名称をつければ、その付加価値で珍しがる連中はいるはずだから。とりわけ、喫茶店文化を知らない40代未満の人間達にとっては、これまで知ることのなかった「新しいコーヒー」として認知されるんじゃないんだろうか(実は、その辺の古びた喫茶店で提供されているコーヒーとさしたる違いがないにもかかわらず、だ。まあトレンド=モードとは、いつでもそういったものなんだけれど)。

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