勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

カテゴリ: スポーツ

ファイターズからロサンゼルス・エンゼルスに移籍した大谷翔平の活躍がめざましい。いきなり三試合連続ホームラン、さらには二勝(一つは七回までほぼパーフェクト)、打率も四割近くでエンジェルスを一人で引っ張っている感すらある。日本のメディアは「アメリカ中を震撼させるスーパースターの誕生」「Otani-San」「Sho Time(「翔」と”Show”のもじり)」といったアメリカメディアの大谷フィーバーを取り上げている。

しかし、このアメリカでの人気、本当なの?そこで、地元の人間に訊いてみた。

結論から先に言ってしまえば全体的にはウソ、限定的には本当だ。

まずウソから考えてみよう。こうした「人気沸騰」という現状を日本のマスメディアは、アメリカのでの野球人気を無根拠に日本のそれと同じとみなしてところにある。つまり全国的に人気がある(最近は凋落気味ではあるが)。ところがアメリカでは野球は、もはやそんなに人気の高いものではない。アメリカ人にとって一番人気はもちろんアメフト、二番目は大学のアメフト、三番目はバスケット。野球はグッと下がってその次の次くらいといったところだろう。だから、一般には大谷のことはほとんど知られていない。アメリカは多民族国家でそれぞれの嗜好も多様だ。そして人口も32000万強で日本の2.5倍。しかも国家もだだっ広い(カリフォルニア州だけでも日本より大きい)。だから、日本人みたいに国民一丸となってスポーツを楽しむというのはほとんどない(スーパーボウルを除いては。これもハロウィーンやクリスマスみたいな“年中行事”的な位置づけだけれど)。もちろん、オリンピックにしてもさしたる関心を持っていない。「開催されはじめれば、まあ見る。アメリカの選手限定」といった程度だ(例外は1994年リレハンメルオリンピックの女子フィギュアくらい。これはスキャンダルだったから)。

そうはいっても州単位ではJリーグみたいにご当地チーム的な人気があるんじゃないのか?つまり地域おこしの道具になっている。残念ながらこれもまた違う。たとえばドジャースであっても、それに関心のない南カリフォルニアンにはどうでもいい存在だ。より限定的な話をすると、先の平昌オリンピック・スノーボード女子ハーフパイプで活躍した韓国系アメリカ人クロエ・キムはロサンゼルス南の都市トーランス(人口13万、韓国人と日本人の割合がそれぞれ一割程度)出身だが、彼女が金メダルを獲得してもトーランスで記念式典やパレードが催されることはなかった(日本は必ず開催する)。

さて大谷である。ロサンゼルス・エンゼルス所属だが、ホームグランドはロサンゼルスから高速で南に40分ほど下ったアナハイム(ディズニーランドで有名)にある(正式名は”ロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイム)。大谷が暮らすアパートはさらに南のアーバインだが、どちらでも大谷フィーバーが起きているといることはないらしい。つまり、扱いはクロエ・キムと同じなのだ。というか、これがアメリカ人の関心の持ち方なのだ。まずは個人主義。

しかし、日本では、大谷は「アメリカ中を震撼させている」ことになっている。そして、それを傍証する報道やスタジアムでの熱狂が伝えられている。いったい、これはどうしたことか。

その答えが「限定的には本当」ということになる。南カリフォルニアンで野球好き、かつエンジェルスファンの間では大谷は大人気なのだ(ちなみにこのエリアはトヨタ、本田、エプソン、ヤマハ、三菱など、日本企業のアメリカ本社が多数存在し、当然日本人もそのファンの一部構成している)。僕がトーランスに暮らしていた時は、たとえば和食店では「マエケンが勝ったら天丼半額」みたいなことをやっていた。

日本では、こうしたアメリカでの「一部の限定的な熱狂」を取り上げ、これをキー局や大手新聞・雑誌などのマスメディアが取り上げることで、大谷はあたかも「アメリカ中を震撼させるスーパースター」であるかのように仕立てられている。確かに映像や記事は存在するのだが、これを大仰に報道しているわけだ。このような「メディアが事実を作り上げること」をメディア論ではメディアイベントと呼んでいるが、ここで行われている報道は、まさにこれに該当する。ということは、大谷がこ10勝以上をあげ、3割、ホームラン10本以上を打ってベーブルースの記録を抜いたとしても、それに興奮=震撼するのは3億人の内の野球好き、しかも南カリフォルニアンの一部だけということになる。

まあ、日本人としてはこれを楽しめばよいわけで、それはそれでよいかな?という気もする。ちなみに、アメリカで本当にスゴい日本は日本食とポケモンだ。この二つは明らかに「アメリカ中を震撼させている」。ただし、前者は都市部に顕著であることも加えておかなければならないけれど(ド田舎へ行ったら寿司すらなくなる)。ということは本当にスゴいのはピカチュウってことになるのだろうか?これは本当に、スゴい!知らない人間がいない(これにマリオを加えてももちろんオッケー)。

大谷の存在は現状では、そして未来においてもアメリカでは絶対にピカチュウにはかなわない。ポケモンより知名度が落ちるセーラームーンやワンピース、NARUTOよりもはるかに下。これが正しい認識の仕方だろう。

でも、やっぱり大谷の活躍はワクワクする。せっかくだからこのメディアイベントに乗っかってしまおうか?

混乱する貴乃花親方処分に関する議論

本日、日本相撲協会理事会は貴乃花親方に対して理事解任と二階級降格の処分?(八角理事長は「処分」とはしていない)を下した。テレビのワイドショーは理事会の様子を延々と実況し続け(もちろんメディアが会の現場に立ち入ることは出来ないが)、コメンテーターたちはどのような処分がなされるのかを注目していたが、議論がバラバラな点が不可解だった。とりわけ「被害者」「加害者」という言葉を巡っての議論がそれで、被害者であるはずの貴乃花親方がなぜ処分されなければならないのかとの疑問がしばし議論の焦点となっていた。

しかし、これら議論、どうも混乱しているとしか思えない。そこで貴乃花親方の処分を巡って「被害者」「加害者」、そして「身体」という言葉をキーワードに整理してみたい。はじめに断っておくと、貴乃花親方は「被害者」かつ「加害者」である。そして加害者の立場から捉えた場合、理事会の処分は妥当ということになる。

貴乃花親方の三つの身体

貴乃花親方には歴史学者のE.カントロヴィッチ風に表現すれば「三つの身体」がある(カントロヴィッチの場合は「王の二つの身体」だが)。平易に述べれば、貴乃花親方は三つの立ち位置=構えがあり、それらが親方の身体の中で無意識のうちに換骨奪胎され、その背後にある親方の無意識の欲望に基づいて全体が作動しているかのように僕には見える。

一つ目の身体は貴ノ岩の親方としての身体だ。これを「親方身体」と呼ぼう。いわば”息子”として貴ノ岩を私的に守ろうとする構えで、この身体からすると今回の事件は「ウチの息子になにすんねん!」ということになる。この感覚は、もし理事でもなんでもないヒラの親方のお抱え力士が暴力を振るわれたら、その親方が抱く感情=構えということになる。これは被害者としての身体ということになる。当然のことながら、暴力を振るわれた息子の親として警察に被害届け出を提出した(ただし、ヒラの親方だったとしても、まあ普通はまず協会の方に報告・相談するだろうが)。

二つ目の身体は相撲協会理事、そして巡業部長としての身体だ。こちらは「協会身体」と呼ぼう。巡業中にこうした事件が発生した場合、職務として自らを立ちふるまわせる構えがこれだ。たとえば巡業中に貴乃花部屋ではなく、他の部屋の力士が、これまた他の部屋の力士に暴力を振るわれた場合に親方が職務として取るべき構えで、公的な存在として、当然、状況を第三者的視点かつ巡業部長の立場から適切に判断し、理事会に報告する義務がある。ところがこれを怠った。再三の要請があったにもかかわらずである。加えて、理事会に断ることなく警察に被害届を提出している。こうした一連の行為は、理事・巡業部長という役職としては組織を根本的に蔑ろにするものであり、組織の運営そのものの亀裂を生みかねない行為であるゆえ、理事会が、理事としての貴乃花親方を処罰するのは当然だ。こちらは言うまでもなく加害者としての身体である。

貴乃花親方は今回、しばしば「ブレない」「信念の人」と、その性格を表現されている。しかし、実のところ、親方は「親方身体」と「協会身体」のあいだをフラフラと行き来し、都合のよいように接合している点では、完全にブレていると言わざるを得ない。親方身体がどうであったとしても、もう一つの協会身体を蔑ろにしてよいことには、あたりまえだがならないからだ。ところが貴乃花親方は親方身体が親方身体を利用しているようにみえる(言い換えれば、親方身体を前面に立てることで協会身体を否定している)。単刀直入に言えば「公私混同」。どちらの立ち位置からしても身体はブレているのだ。

しかし、貴乃花親方自身は「全くブレていない」と自分では思っているはずだ。つまり「私は信念の人」。そうした信念はもう一つの身体、いいかえれば二つの身体の上位の身体として貴乃花親方を行動させる身体を設定した場合、理解は容易なものになる。

「覇権主義」という三つ目の身体

そこで三つ目もまた名称を与えてみよう。それは「覇権身体」というものだ。貴乃花親方は「正義の人」である。親方は角界を概ね次のように認識していると思われる。

「現在の角界は腐敗している。また、外国人力士に上位を占有され、国技(実際には国技ではないが)としてのアイデンティティーが揺らいでいる。角界という「国体」(貴乃花親方のことば)をなんとしても再建・維持しなければならない。よって、現在の理事会を中心とした組織の改革は急務。そして、それを担うのは私だ!」

おそらく、このあたりが親方の信念の中心だろう。こうした考えを持つこと自体は問題はないのだが、問題はこの信念に基づいて行う、様々な「ブレない行動」だ。

よくよく考えてみても欲しい。「プレない信念の人は美しい」みたいにメディアは評価しているが、ブレなきゃ大丈夫なのか?そんなはずはないだろう。ブレない信念の人が、そのブレない行動によって百万人単位の人間を殺害したなんて歴史があることを考えれば、それはよくわかる。いうまでもなくヒトラーとポルポトだ。この二人、全然ブレてなかった。

僕が親方の行動から垣間見てしまう身体は、この三つ目の身体だ。つまり「覇権を握りたい」「、角界を支配したい」。ただし、これは典型的なパターナリズム(父性主義)的な身体でもあるので、本人は覇権を握りたいとはこれっぽっちも思っていない。つまり認識していない。ただただ単に「角界をよくしたい」という信念だけ。

ただし、こいうい構え=身体が、実はいちばん質が悪い。信念に基づいているゆえ、自分のやっていることは全く間違っていないと信じて疑っていないからだ。それゆえ周囲、とりわけ協会が間違っていると指摘しても、それについては全く感知しない(いや協会の指摘なら、却って本人をいっそう頑なにさせ、自らの信念強化に拍車を駆けることになる。協会は「腐敗している」ので)。あるいはスタンドプレーをやったとしても、それは「大義のため」には許される。ドストエフスキーの『罪と罰』に登場する主人公ラスコーリニコフの「選ばれた非凡人は、新たな世の中の成長のためなら、社会道徳を踏み外す権利を持つ」という犯罪理論と、その立ち位置はまったく同じだ。つまり、自らの立ち位置に対する省察回路が切られている。

こうなると貴乃花親方の考え方は本人からすれば無敵、どれよりも正しいという結論に落ち着く。それはもちろん、自分がそう思い込んでいるに過ぎないのだが、パターナリズムなので、そのことには全然気づいていないのだ。だから親方身体と協会身体の間の混同があったとしても、そんなことはお構いなしということになる。それどころか覇権身体は親方身体を支持することで協会身体を蔑ろにすることも正当化してしまう(だから業務を放棄しているのだが、本人は全うしていると認識している)。また、覇権身体は自らの欲望を実現するために、相撲協会という権威に対して警察当局という、同等あるいはそれ以上の権威をカウンターに当てるという戦略に出ることで、これまた自らの立ち位置を正当化しようとする。貴乃花親方は覇権身体が最終的な審級(中心的存在)=軸となって、他の身体や権威を自由に操っているのだ。

実は貴ノ岩のことさえどうでもよい?

加えて、ひょっとすると貴ノ岩のことも実はどうでもよいのではないか?覇権身体が親方身体に勝っており、それゆえ「貴ノ岩を守る」という構えは、実は覇権身体が自らの欲望を達成するために貴ノ岩を利用しているだけとも考えられるからだ(もちろん、本人はそんなことはこれっぽっちも思っていない。親方の手法は「敵を欺くには先ず味方」ならぬ「敵を欺くには先ず自分から」ななのだから)。もし仮に、貴ノ岩が殴られた時、これを表沙汰にせず理事会との忖度の中で丸く収めていたならば、日馬富士が引退を余儀なくされることも、貴ノ岩が窮地に陥れらることもなかっただろう。現在、貴ノ岩はモンゴルでの立場が極めて悪くなっているという(旭鷲山のコメント)。そして、今後どのように角界で振る舞えばいいのかも貴ノ岩本人にとってはわからない。居心地は極めて悪いはずだ。言い換えれば、貴ノ岩は自らの覇権主義のコマとして貴乃花親方に利用されたという可能性も考えられる。つまり弟子の貴ノ岩をダシにして事件を表沙汰にし、角界に切り込もうとしている)。もちろん、こうした忖度をした場合、角界の「悪しき体質」はそのままということにはなるが(角界の体質がダメなのは、今回の対応の不味さがある意味証明している)。かといって、こうしたスタンドプレーに出てよいことには、もちろんならない。これが貴乃花親方を中心とする角界メンバーの組織的な戦略、いわばレジスタンスとして活動し、クーデターを企てているのなら話は別だが。おそらく、あくまでも貴乃花親方個人のスタンドプレーだろう。覇権身体を中心に残りの二つの身体がこれにぶら下がるかたちで癒着しているのである。

貴乃花親方のようなパーソナリティは困った存在でもある。「身勝手」で「空気が読めず」、そのくせ「理屈だけは立つ」ゆえ、周囲を混乱させるのからだ。その信念ゆえ、貴乃花は行動を止めることはないだろう。そして面白いことに、こういった「信念の人」にはそれなりに支持者、言い換えれば洗脳された人間がつくことも確かで(「信念の人」は、ある意味極めて魅力的な存在でもある)、これがまた周囲を混乱させることになる(貴乃花親方は母や兄と縁を切っているが、これは信念との問題で縁を切ったとか切られたとかしたのではなかろうか)。

それゆえ、とりあえず貴乃花親方の暴走を抑えたという点で、今回の処分は適切と考えるべきだろう。ただし、繰り返すが貴乃花親方は「信念の人」「正義の人」。それゆえパターナリズムに基づいた「絶対善」としての自らの信念を顧みることなく、今後も角界、力士、そしてメディアを覇権身体の脈絡に基づきブレず、但し一般的な視点からすればブレまくった状態で利用し続けるのではなかろうか。


アメリカもびっくり

リオ・オリンピックの閉会式は、ご存じの通り日本のショーが全部持っていってしまった感がある。まあ、日本のメディアは騒ぐのはいつものことだから(過剰に「世界に通用した」的な煽りをやるのが常。どんだけ欧米コンプレックスがあるんだろうか。おもわず「欧米か?」と死語でツッコミを入れたくなってしまう(笑))相手にしないが、この騒ぎは現在、僕が滞在しているアメリカのテレビ実況でも同じ。アナウンサーと解説者が思わず叫んでしまうという状態だったのだ。日本語の解説が入らない分、逆にこのアナウンスの叫びと、スタジアムの熱狂がしっかりとこちらに伝わってきた。

そこで、今回はこの東京オリンピック紹介の海外へのインパクトがどのように考えられるかについてメディア論的に考えてみたい。インパクトを与えた先=対象は二つ。一つは国外=世界。目的は「日本文化の認知」、もう一つは日本国内。安っぽく表現すれば「日本人が、自分が日本国民であることの認知」といったところだろうか。それぞれについて、この企画がどのような効果をもたらしたかについて考えてみたい。

最も知られていて、最も知られていないマンガ・アニメ・ゲーム文化

先ず日本文化の認知について。日本文化を海外に認知させるにあたって、このショーでは概ね三つの日本的要素が組み込まれていた。

一つ目は「ベタな、そしてオリエンタリズムでエキゾチックな日本」。これは神社仏閣、和服、伝統芸といった「和風」を強調するもので、いわゆる「ゲイシャ、フジヤマ、スシ、ニンジャ、ゼン、ブシドー」といったカテゴリーに属する要素を並べられた。おそらく、ある意味で対外的には最もイメージしやすいベタなステレオタイプの日本の姿だろう。

二つ目はテクノロジー。最初に日の丸とともにロボット(モドキ)が登場。さらに東京のテクノポリス=技術に彩られたメトロポリスのイメージが強調されていた。都心の林立する高層ビルの真上からの俯瞰、渋谷のスクランブル交差点、そして最後に模型で登場したスカイツリー。オマケに新幹線。このイメージ=ステレオタイプも80年代には成立していたもので(たとえばアメリカのロックバンド・Stixは曲”Mr.Robot”(1983)で、このロボットがメイド・イン・ジャパンであること、ドイツ・Kraftwerkはアルバム”Computer World”(1981)の中で”Dentaku”という曲を挿入し、日本語で歌うなど)、対外的には解りやすい。

ただし、ここでの主役はやはり三つ目のマンガ・アニメ・ゲームキャラだ。そして、これは実質的には最も知られていていながら、日本文化としては最も知られていないものだろう。登場したのはキャプテン翼、ドラえもん、ハローキティ、マリオ、パックマン(オマケを加えればセーラー服)。ここで注目して欲しいのはアンパンマンやジブリ、NARUTO、ワンピース、ドラゴンボールなどが登場しないこと。このチョイス、日本文化の認知を狙う点では正解だろう(ポケモンが登場しなかったのは企画が間に合わなかったということらしい。企画は今年の一月頃には決定していたらしいので。もし、ポケモンGOが2015年中にリリースされていたら、おそらく間違いなくポケモンが登場しただろう。現在、世界中が熱狂している状態。アメリカ人も狂ったようにやってます)。

で、なぜこんなことが言えるのか。登場させた四つのキャラは、ようするに他のキャラよりもはるかに認知度が高いからだ(マニア・オタクレベルではなく、一般にという意味で。言い換えれば一般人もよく知っているという意味で)。キャプテン翼はサッカーが盛んな国ではもはや定番中の定番マンガとして知られている。ブラジルのネイマール、フランスのジダン、アルゼンチンのメッシが子ども時代、これを読んでモチベーションを高めていたなんてエピソードがこれを裏付ける。開催地がリオでブラジルでは大人気であったことも選ばれた理由の一つだろう。ドラえもんは東南アジア中心にもう二十年以上も親しまれている。そしてハローキティやマリオ、パックマンはもはや世界中で知られている。ただし、この「知られている」というのが問題。知られているのはそのキャラクターのことであって、これがメイド・イン・ジャパンであることは案外知られていないのだ。だって、フツーにそこにあるんだから。あまりに知られすぎているのだ。だから、三つの日本的要素のうち、最も日本とつながりが薄い、でも最も知られた存在なのだ。(ジブリなど他のキャラクターは、これらのキャラに比べると世界的に認知度が低いので(マニアは多い!)、出したところであんまりパッとはしないだろう)。

オタク文化というメディアを通して日本文化というメッセージを伝える

これをひとまとめて日本、東京オリンピック、そして日本文化を伝えるメディアにしてしまったのが今回の企画の最も優れたところだろう。

表向きの主役はこのマンガ・アニメ・ゲームキャラだ。前二つの要素は、はっきり言ってこれを際立たせるための道具=脇役でしかない。つまり、ゲイシャ、フジヤマのベタな日本と、テクノロジー国・日本というよく知られているステレオタイプは、まず日本を想起させるための道具=メディア、導線だ(よく知られているので、そこから日本文化を想起するのは容易)。そしてその延長線上にアニメ・ゲーム文化という、前者二つよりもはるかによく知られているけれど、あまりに日常的すぎて、これが日本のものであることはあまり知られていない隠れた日本文化、マンガ・アニメ・ゲームキャラを登場させる。

当然、「あ、これ日本の文化だったのね」となるわけだ。

そして、ここで主役は交代する。表向きの主役である「マンガ・アニメ・ゲームの認知」がメディアとなって、「日本文化」というメッセージが伝達されるのだ。ダメ押し(というか、これが思いつきの発端だったらしいが)はMARIOとRIOの語呂合わせ。リオと東京(正確には日本)のつながりを音で示している。だが、肝心なのはここから。この応用として、おしまいに登場する文字「RI」がミソなのだ。ここでは「RIO」と「感謝」を意味するOb「RI」gado(オブリガード)、そしてこれを日本語に訳したA「RI」gato(ありがとう)とMA「RI」O(マリオ)を含めて四つのRIが出現し、その連続性、つまりマリオ(アニメ・ゲーム文化)ーリオデジャネイローありがとう(日本文化)を一直線上に結びつける(ブラジル、ポルトガル人にとって最も覚えやすい日本語は「ありがとう」(アリガート。「ガ」にアクセントがある)だ。音がほとんど「オブリガード」(こちらもアクセントは「ガ」)と同じだからだ。ここでも音の語呂合わせがある)。前二つの日本文化のステレオタイプ(ベタなオリエンタリズムとテクノロジー)はキャラクターを際立たせるためのメディアになっている。だが、そのキャラクターが、今度は日本文化を際立たせるためのメディアになっているという「入れ子構造」を成しているのだ。

アベマリオの対外訴求力は「安倍」でなく「首相」にある。

これをオーソライズするのが首相・安倍晋三をマリオにしてしまうことに他ならない。「みなさんご存じの日本のキャラクターたちを、よろしくね」と国家の首相がそれに扮してやってしまえば、それこそ、「この文化はお墨付き」ということになる。そして、こうやって日本を紹介することで、東京オリンピックが「本気である」というメッセージを十分に伝えることができる(ここで、本当に本気であるかどうかは問わない。メディアの効果として、少なくとも受け手にはそう映るとご理解いただきたい)。安倍が登場したことに批判を加える論客たちのモノノイイは「安倍はオリンピックを利用して自己顕示を行っている」的なものが多いが、これは的を射ていない(仮に本人がそのつもりであったとしても、実は自己顕示としての効果は薄い)。聴衆(スタジアム、テレビ視聴者)が見ているのは「首相安倍晋三」のうちの「首相」の方であって「安倍晋三」ではないからだ。「僕らのヒーローを生んだのが日本という国の文化で、今、それを日本の『首相という権威』が認めている」。こうなると、これらキャラで育ってきた世界中の人間たちが日本という国・文化にインティマシーを感じることになる。「日本って、すごいじゃん!オレたちのこと、よくわかってるじゃん」となるのだ。その一方で「アベ」の名前なんかすぐに忘れるはずだ(まあ本来の効果を考えれば、それで十分なんだけれど)。

そして、この目論見は見事に成功した。スタジアムは熱狂し、たかが10分程度の日本紹介が閉会式のメインどころを持って行ってしまったのだから。アニメ・ゲームキャラ=日本文化として認知させた点で、日本文化の世界へのアピールは絶大だったといえるだろう。

日本人のアイデンティティをくすぐる?

今回の企画、サブカルチャーと呼ばれていたマンガ・アニメ・ゲームがもはや日本文化の本丸になったことを印象づけたことは確かだろう。かつて、消費文化の権化、典型的なくだらない低レベルな存在と蔑まれ、しばし排斥されてきたマンガ・アニメ・ゲーム。つまり「文化でも何でもない」と一蹴されていた。一方、これまで戦後日本は著しい経済復興を遂げ、世界レベルに達することができたが、「経済やテクノロジーはよいけれど文化発信力に欠けている」と常々指摘されてきた。そこで音楽や芸術の側面で世界に匹敵しようといろいろ努力したけれど、まあことごとくダメだった。その傍らで政府がテコ入れしたわけでもないマンガ・アニメ・ゲームが「日本の文化」として認められることもなく世界にジワジワと定着していった。それが、今や国家を支える重要な文化的なコンテンツとして認められることになったのだ。「世界に誇る日本文化がここにある。だから胸を張ってよい」というふうに、多くの日本人(60歳以下)には映ったはずだ。それが日本国内に向けての効果,つまり「日本人が、自分が日本国民であることの認知」だろう。これもマンガ・アニメ・ゲーム文化をメディア=媒介にして日本文化を国内に認知させたということになる。(もっとも、これがそのまま国威発揚に繋がると短絡するのはあまりに脳天気すぎるが。事はそう単純には行かないだろう。これを見て安倍がヒトラー的と懸念するメディアもあったが(恐らくベルリン・オリンピックをイメージしているのだろう)、ちょっと軽率すぎる解釈。時代も状況も全然違うんだから)。

たしかにそうだ。もはやマンガ・アニメ・ゲームは世界中を席巻している。先月初旬、ロサンゼルスでアニメEXPO2016が開催されたが、四日間の開催中の入場者は26万人に達している。そこにはキャラクターはもちろん、日本語もあちこちに見ることができた。日本の文化の勝利といっても過言ではないほどに。

しかし、これもまたちょっと違うのである。アメリカのこういった日本発のオタク文化はクレオール化、ローカライズ化され、もう日本のとはちょっと違ったものになっている。アメリカ人がピザやパスタ、寿司を日常としているのと同じだ。これらはいずれもオリジナルとはちょっと違っている。だからこそ、それが生まれたところなどには関心がないということになるわけで。こっちはこっちで勝手に普及する。だから、まあ日本の文化が広がったことをうれしく思うのはよろしいけれど、メディアが執拗に喧伝するような、さながら「日本の文化が世界を制覇した(笑)」的なモノノイイは無視した方がいいだろう。

いずれにしても、このショーが日本文化を内外に知らしめることについては大いに貢献したということは認めるべきだ。ちなみに、それがよいことなのか悪いことなのかについてはここでは議論しない。そして、オリンピックは国家ではなく都市が開催するのが原則。でもどこでも国策みたいにやっているということも念頭に置いておいた方がよいだろう。

この演出は、メディアの効果としては傑作なのである!

ただのヒーローではセナは語りつくせない

1994年5月1日、F1界の「音速の貴公子」アイルトン・セナがイタリア・サンマリノグランプリ、タンブレロ・コーナーに消えて二十年が経った。その間、セナは伝説になり、F1界きっての「天才」という称号を冠せられることになる。

伝説を彩るエピソードは実に多い。著名なものをいくつかあげてみよう。たとえば「雨のセナ」と呼ばれる、雨天時の天才的なドライビング。特筆すべき出来事は二つ。ひとつは84年のモナコGP。トールマンという非力なワークスのクルマで予選13位だったが、激しい雨が降る中ゴボウ抜きを展開し、二位を獲得した。レースが中止されなければ初優勝を果たせたのではないかと言われている。もう一つは93年、ドニントンパークでおこなわれたヨーロッパGP。この時にもホンダエンジンを失った非力なマクラーレンのマシンで1週目に一気に四台を抜いてトップに立ち、そのまま優勝した。また91年のブラジルGPではトップを走りながら最後の数周でギアが5速以外に入らなくなり、これだけで走行したままチェッカーフラッグを受けた。その他、92年モナコGPでのN.マンセルとのテール・トゥ・ノーズの死闘も、モナコGPを代表するレースとなり、人々に強烈な印象を与えている。

まあ、この手の話はあっちこっちで書かれているのでこれくらいにしておこう。で、こうやってセナは「天才」「レジェンド」になったわけなのだけれど、僕個人としては、こういった神格化はいまひとつ面白くない。伝説につきものの「グレイトな一側面=すばらしい人物」というステレオタイプの中にセナが押し込められるのは、ある意味、セナの魅力の一側面しか語らないことになると考えるからだ。

実を言うと、生前、僕はセナのライバルであるA.プロストのファンで、セナには「身勝手な嫌なヤツ」というイメージを持っていた。だから、セナのネガティブな面をよく覚えている。僕はテレビやメディアを介してしてセナの言動をチェックしていたが、そこから流れてくる情報だけを見ても、セナがそんなにすばらしい人間なのかというと首を傾げてしまうという感じだった。これは近年、S.ジョブズが神格化されたパターンと同じだ(というかレジェンドは得てしてそういう形で単純化・美化されてしまう)。なので、今回はちょっとひねくれて、そのネガティブな面、いわば「黒歴史」を紹介してみたい。人間くさいセナのエピソードをちょっと紹介してみようと思うのだ。で、この「天才=すばらしい人物」のカウンターとしてセナを「わがままな悪ガキ」にし、もっと人間味のあるパーソナリティに仕上げてみよう。しかしながら、この「黒歴史」、やっぱりかなり魅力的でもある。

危険な走行

先ず指摘されるのは「危険な走行」だ。セナにはカーアクシデントが多かった。このことはレース中のリタイア率の高さが証明している。例えば89年、マクラーレン・ホンダのチームメイトだった宿敵プロストと比較してみるとよくわかる。この年、セナは16戦中6勝という輝かしい成績を残している。一方、プロストは4勝。ところが獲得ポイント数はセナ60ポイント、プロスト76ポイントで、この年のチャンピオンはプロストだった。シーズン中プロストのリタイアは3回、これに対しセナのリタイアは9回。なんのことはない「優勝するか、リタイアか」というのがセナの成績だったのだ(ハンガリーGPでの2位を除く)。プロストがクルマやタイヤをいたわりながら完走を目ざし、ポイントをチョコマカと獲得する能力に長けていたことも考慮しなければならないが、同じチームのマシンでのこれだけのリタイア率の違いは、いかにマシンをメチャクチャに運転しているのかを証明している。

アブない迷惑な走り

この危険な走行は二つある。ひとつは他のドライバーにとっての「危険」である。実際、セナはオーバーテイクにかなり無理があったことも確かで、他のドライバーからの非難をしばしば浴びていた。だが、セナはそんなこと全く気にする様子もなく「レーサーだったら、抜けるチャンスを生かすのはあたりまえ」とばかり、そういった非難をする相手をむしろ「腰抜け」と言い返すほど。「こりゃ、ダメだ」と他の選手たちは思ったのか、セナとの駆け引きの際には「アブナイヤツ」とばかり、さっさと道を譲るというようなシチュエーションすら出来上がっていた。セナはかつてのチャンピオン・J.ハントとの対談の中で、ハントに危険な走行を咎められた際にも、やはり同様に言い返している。セナ曰く、「あなたのような偉大なドライバーが、そんなことを言うなんて失望した」。かつてのチャンピオンに鉄面皮にそこまで言ってしまうのだ。

一方、その逆もある。92年、フランスGPで台頭してきた次世代の主役となるM.シューマッハーとはレースやテスト走行でしばしばトラブルが発生している。ブラジルGPの際にはシューマッハーがセナの走行の不当さについて批判を行ってもいる。また、93年の日本グランプリでは道を譲らなかったE.アーバインを殴りつけようとしたりもした。自分の危険な行為はオッケー、相手のそれは許せないという、要は、勝つためだったらナンデモアリというきわめて自己中心的な考え方がセナの信条?(情熱?)だったのだ。

このへんのワガママ具合の表現については、村山文夫によるマンガ「F1グランプリ天国」でのセナの描写が的を射ていて象徴的だ。村山の描くセナは、自分の思いが通らないとなると「おそ松くん」に出てくるハタ坊のように手足をバタバタさせながら(絵画の未来派手法が使われているので手や足がたくさん描かれている)悔し涙を流し、「キーキーッ!」とサルのように地団駄を踏むのだ。そう、セナはレースドライバーの中ではいちばんのクレーマーだったのである。

チャンピオンになるためにプロストのクルマをはじき飛ばした

90年の日本GPのレース展開も強烈だった。チャンピオン争いは残り二戦を残してセナとフェラーリに移籍したプロストに絞られた。セナが78ポイント、プロストが67ポイント。プロストがチャンピオンに輝くためには、少なくともこのレースで優勝する必要があった。予選、ポールポジションはセナ、二位がプロスト。しかし、この結果にミーティングでクレームが付く。つけたのは意外にもポールを取ったセナの方だった。曰く「ポールポジションはインコースだが、第一コーナーは滑りやすくアウトコースにあるセカンドのポジションの方が明らかに有利。だからグリッドを左右変更すべきだ」。もちろんこんな要求が受け入れられるはずもない。FIAは当然のようにこのことを却下したが、その瞬間、怒り心頭に発したセナはミーティング会場から去ってしまったのだ。
そして、レース決勝。セナはとんでもない行為に出る。スタート開始直後、絶好のスタートを決め先頭に立ったプロストを1週目の第1コーナーでインからはじき飛ばしたのだ。二台はコースアウト。この瞬間2人のポイント差は11のまま。もはやプロストが最終戦で優勝し、セナがリタイアしてもポイント的にプロストが追いつくことは出来ない。そう、リタイアとなったが、その瞬間、この年のチャンピオンがセナに転がり込んだのである。

アクシデント直後、レポーターの川井一仁がパドックに向かっているセナに直撃インタビューを試みた。

「なにがあったんですか?」

セナはしばらく沈黙し、言葉を選びながら適当な答えをした。僕はその時のセナの説明をもはや覚えていないが、沈黙しているときのバツの悪そうな顔を鮮明に覚えている。明らかに真実とは別の言い訳を探していたのだ。そして川井が「コングラーチューレション」と最後にセナにお祝いの言葉を贈ったときの、やはり半分バツの悪そうな、でもうれしいという、ずるがしこい表情で「サンキュー」と返事をしたのが忘れられない。

つまりは確信犯的な危険行為だったのだ。

限界を超える死に向かったドライビング

もう一つの危険な走行は、言うまでもなく自分に向けたもの。要するにマシンの限界を超えるようなドライビングをする。それが結果としてマシンを破壊しリタイヤさせてしまうと同時に、自りの身の危険を招くという事態を結果することになる。前述の、そのドライビングやレースに対するスタイルが全く正反対だったA.プロストとの対比で示すと、これはわかりやすい。プロストは「クルマにやさしいドライビング」を信条とし、マシンの限界を超えないレベルで、しかしその能力を最大に引き出すテクニックを有していた。レースについても同様で、クルマを速く走らせると言うよりも、レースにどうやったら勝つことが出来るかをトータルで計算し、そこから逆算してレースを展開していたのだ。そのアタマのよさでプロストは「プロフェッサー」というあだ名が付けられていた。当時、日本で実況を担当していた古舘伊知郎はセナ=善玉、プロスト=悪玉と位置づけ、こういったプロストの狡猾なレース運びを「偏差値走法」「勝ちゃあいいんだろう走法」といって揶揄していたほど(とはいうもののレースでのファステストラップでは、シューマッハーに次ぐ歴代二位の記録保持者でもある)。

一方、セナのレース運びはその反対。つまりひたすら速く、そして前にあるものは「どけ!」というもの。作戦もなにも、ない。その情熱的な走りは魅力だが、情熱ゆえにそれに自らが飲み込まれてしまうこともしばしばだったのだ。プロストはレースを「人生の一部」と考え、セナは「人生の全て」と考えていた。「勝つためなら死んでもいい」、そんな危ないオーラを常に放っていたことも事実で、この情熱がとどまることはなかった。それゆえ、94年プロストが去り、代わって自分よりも9歳も若い次世代のエースとなるM.シューマッハーが迫ってきたとき、アクティブサスが禁止され、マシンの性能ではシューマッハーのベネトンにややもすると劣るレベルにまで扱いづらくなってしまったウイリアムズのマシンを無理矢理押さえつけるようなドライブをしながらアドバンテージを確保したがゆえに、マシンは限界を超え、結果としてサンマリノのタンブレロ・コーナーへと消えていってしまうことになったのだ。

サンマリノグランプリの死がもたらした衝撃

94年のサンマリノグランプリ。フジテレビのF1中継はきわめて変則的な放送形式をとった。時差の関係上、F1のテレビ放送は1~2時間ほど遅れたかたちで「生」でない中継が行われるというのが普段のパターン。この時も同様に一時間ほどずれたかたちで番組は始められたが、セナの事故の現状がリアルタイムで伝えられるという展開になり、最終的に番組は中断。セナの紙が報じられた。そして、それらが終わった時点で、中継が改めて放送されるとともに、セナの追悼番組が組まれた(かつてのドキュメンタリーが流れたのだけれど)。結局番組はCMを流すこともなく朝5時近くまで放送し続けられたのだった。

僕は、その衝撃に眠気など吹っ飛び、ほとんど一睡もすることなく仕事へ向かったことをよく覚えている。そして、あれほど嫌なヤツだったセナの死にひどく動揺している自分に気がついた。そう、僕は「アンチ・セナファン」だった。セナというのは嫌なヤツだけど気にしないではいられないという、実に魅力的な存在だったのだ。

そして、セナはレジェンドとなり、F1史上最高の天才ということになった。しかし、である。セナは最多優勝回数、チャンピオン取得回数、ファステストラップ数、予選でのポールポジション獲得数どれをとってもトップではない。にもかかわらず、セナが「天才」と呼ばれる所以はどこにあるのだろう?実は、それこそがF1という存在がレースの実績と言うよりも、そのメディア性で展開されていることの証左でもある。次回はセナが「天才」「レジェンド」として扱われるF1のメディア性について考えてみたい。(続く)

前回は、マー君こと楽天ゴールデンイーグルスの田中将大投手が大リーグヤンキースに行き、これを地元との連携を深める工夫をすることで、むしろマー君の海外での活躍が地域活性化、ひいてはプロ野球の活性化を可能にする可能性があるという議論を行った。こういったアイデア。実は、長期低落傾向にあるプロ野球の改革のためには有効な手段のヒントとなるのではなかろうか。

企業やメディアの広告媒体としか見られていなかったプロ野球

これまで、プロ野球はもっぱらマスメディアや企業の広告媒体的な側面で運営されてきた。たとえば、その典型は戦後の読売新聞社主・正力松太郎による読売グループの販売・視聴率戦略としての読売巨人軍の存在だ。正力はプロ野球球団の中でも巨人を徹底的にクローズアップし、さらにその中でも長島、王の二人を前面に押し出すことでテレビ(日本テレビ)を普及させ、読売新聞の販売部数を伸ばすことに成功した(要するに現在の言葉を使えばキラーアプリ、キラーコンテンツという考え方を心得ていた)。そして、これに追随するかたちでプロ野球に鉄道やメディア、食品、不動産企業などが乗り込んできた。

これによってプロ野球は60年代の高度経済成長ドラマの後押しをするような機能を果たすことにもなった。「巨人の栄光は日本の経済成長の証し」みたいなあやしげなドラマがリアリティを持ったのだ。その典型的なカリカチュアライズはマンガ「巨人の星」で、根性で刻苦勉励すれば、やがて栄光を掴むことが出来る、というドラマが当時の人々の心性に宿り、これが翻ってエコノミックアニマル的に、あるいは社畜的に働く日本人を作り上げる役割の一端を担うことになった。高度経済成長=プロ野球という図式が出来上がり、ここに企業が乗っかれば、そのビジネスモデルは成功し、膨大なファン=支持層を獲得することが可能だった(まあ、成功したのはもっぱら読売だったのだけれど。そして、もちろん、巨人主導だったのだけれど)。

あまたあるスポーツの一つでしかなくなったプロ野球

しかし90年代後半あたりから、この戦略は功を奏さなくなる。情報アクセスの易化が起こることで情報の受け手は自らの嗜好に応じて任意に情報を摂取するようになり、それによってスポーツへの嗜好も多様化。かつてのように「スポーツならプロ野球」「野球なら巨人」といった図式が崩れてしまったからだ。サッカー、バレー、パスケット、スケート、スキー、モータースポーツ、相撲……今や人々が「見る」スポーツは実に様々で、そんな中、野球は、もはやあまたある観戦スポーツの一つでしかなくなってしまったのだ(かつて観戦スポーツと言えば野球、相撲、プロレスの三つだけほぼ集約されていた)。

これはプロ野球が、マスメディアによる一元的な宣伝媒体としては機能しなくなったことを意味する。プロ野球を広告媒体として利用することの旨みが失われた。つまり、企業イメージや販売・視聴率アップのために球団を抱えたところで費用対効果が得られないという状況が生まれたのだ(ただし、プロ野球球団はスタンドアローンでは、それまでもそのほとんどが赤字だった。親企業としては球団経営の費用を広告費用の一部という認識で捻出していたのだ。これは、球団を通じて企業が全国的に知れ渡るという前提に基づいていたためだ。だが、この図式が崩壊した)。前述の巨人で言えば、かつては数十%の視聴率を誇っていたが、現在では一桁、さらにはキー局でも放送されない試合が増えているといった状況だ。

地域活性化のメディアのしてのプロ野球

当然、プロ野球球団としては収益モデルを変更する必要がある。そこで、現在、その方向性として推進されているのがJリーグのスタイルを踏襲した「地域密着」だ。

プラバタイゼーション、情報の多様化によるアクセスの易化(中央・大都市圏の消費的情報へのアクセスの集中)、流通網の整備による空間の規格化(コンビニ、ショッピングモール、ファーストフード、大手家電、ファミレスなどによって全国中の空間が均質化してしまう、いわゆる「ファスト風土化」)によって、地域は地域である根拠を失ってしまった。だが、それゆえにこそ、地域に暮らす人間にとっては地域に住まうことの存在根拠が欲しい。そして、これを記号的に集約するものとして93年、全国各地に誕生したのがJリーグの各球団だった。その理念はチェアマン・川淵三郎によって提唱された「Jリーグ百年構想」。「地域に根ざし、地域活性化の媒体=メディアとして機能することで運営を確保する」というJリーグの考え方は功を奏し、鹿島アントラーズ、ジュビロ磐田、浦和レッズ、アルビレックス新潟、大分トリニータといった球団が地域活性化に貢献することになる(Jリーグはチーム名には親会社ではなく、全て地域の名前がつけられている。Jリーグ開始当初、「企業か地域か」という点でJリーグと揉めたチームがヴェルディだった。リーグ側としてはチームのホームタウンである「川崎」を冠した「ヴェルディ川崎」を要求したが、命名された名前は頭に企業名がかぶせられたプロ野球的なものだった。そして当初それをゴリ押しをしたのが巨人のオーナーである「読売」(渡辺恒雄)であり、実際チーム名が「読売ヴェルディ」であったことは、観戦スポーツの将来のあり方についての当時の立ち位置の違いを示すものだ)。

この成功を見てプロ野球も地域活性化メディアとしての球団経営に乗り出す。パリーグの日ハムや楽天イーグルスがそれだ。これらの球団は、いずれも新天地としてのホームグラウンドをローカルエリアに求め、地域活性化と球団運営の健全性の両立を図ろうとしている。現在では、それなりに地域に根付いているが(以前、北海道民のほとんどが巨人ファンだったが、現在は日ハムファンだ)、やはり資金繰りは容易ではない(プロ野球選手の年俸はJリーガーに比べるとはるかに高い。また球場使用料などの諸経費が足を引っ張る)。

それゆえにこそ、今回提案したマー君のようなビッグネームを海外に放出することで経済的安定を図り、なおかつ地域活性化をより強固にするというやり方は、「企業イメージ」ではなく「地域イメージ」の活性化としての球団経営という新しいプロ野球のあり方という文脈からすればきわめて適合的なのだ。

マー君をヤンキースに行かせよう!そして仙台をマー君グッズでいっぱいにしよう!

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