勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

カテゴリ: メディア論

停滞するご当地ブーム

最近、ご当地ブーム現象が停滞気味だ。たとえばB1グランプリ。ご当地のB級グルメを競うこの大会は2014年をピークに来場者が減少、くまモンに代表されるゆるキャラブームも一巡し、以前ほどは取り上げられなくなっている。「そろそろ新味がなくなって、あきられたかな?」と思えないこともないのも確かだ(去年のゆるキャラグランプリの優勝キャラを知っている人はどれくらいいるのだろうか?)。しかし、こうした活動はショッピングモールやファーストフード店などで均質化しつつある地方に独自性を与える「地域おこし」「地域アイデンティティの再生・創造」を目指していたはず。ただのブームで終わってしまうのはさすがに困る。

ご当地ブーム、実は中央依存の現象だった

じゃあ、なぜ停滞現象が起きているのだろう?これをメディア論的に考えてみよう。
前述したように新味がなくなったというのが、表面的にはいちばんわかりやすい説明かもしれない。大手メディアは、オーディエンス(視聴者、購買者層)がそっぽを向け始めれば、さっさと次のネタに食指を伸ばしはじめる。

ただし、これはかならずしも決定的な説明にはならない。マスメディアが取り上げた後、定着したものもいくつもあるのだから。だから停滞、ヘタすると衰退の根本的な原因は他のところに求める必要がある。

停滞原因、僕は既存の地域おこしのやり方にあると考えている。これまで、ご当地ブームの図式はだいたいこんなパターンだった。

まず、地方のユニークな存在が中央メディアに取り上げられることで全国的に認知される。次に、それを地域の人間たちが認知することで「おらがふるさと」を自覚する。

典型的な例を2つあげよう。

ひとつはご存じ、熊本のゆるキャラ・くまモンだ。くまモンは第一回ゆるきゃラグランプを獲得した後、全国的なくまモンブームを巻き起こした。そのブームを「くまもん」(熊本県民の別称)が喜んだ。その結果、くまもん(熊本県民)はくまモン(ゆるキャラ)にくまもん(自分自身)を見るようになった、つまり自己を対象化した形で認識するようになった。
もう1つは2007年に起きた「みやざきブーム」だ。知事に就任したそのまんま東こと東国原英夫がトップセールスを展開して宮崎地鶏、焼酎、宮崎牛を徹底的に売りまくった。その結果、宮崎県民は普段食べたり飲んだりしていたものが全国的にもてはやされることになり、そのもてはやされている事実に県民がアイデンティファイして、やはりみずからを対象化した形で認識するようになった。いいかえれば「みやざき人をみやざき人が中央(マスメディア)経由で自覚した」。

しかし、これだけでは実はマズいのである。というのもこの図式は地域おこしが中央に依存することではじめて成立することになっているからだ。ということは、中央メディアが取り上げなくなればブームも消滅することになる。事実、瞬間的に盛り上がったのはよいが、その後収束した例はあまた存在する。では、これから地方はどうすべきか。



このヒント、実は前述したくまモンや東国原現象に求めることが出来るだろう。熊本県民と宮崎県民は中央が自分たちを全国的に知らしめた後、熱が冷めないうちに自ら独自の展開をはじめたのだ。例えば宮崎の場合、前述した地鶏や焼酎はブランドとして全国制覇に成功している。10年前、コンビニにおいてある芋焼酎といえば鹿児島のさつま白波だったが、いまやそのほとんどが都城の黒霧島だ。いいかえれば、地方単位で認知度をメインテナンスすることに成功したのだ。

地産地消の地域おこしが重要

しかし、もっと重要な戦略は、逆説的だがむしろ「全国区であることを捨てること」にあるだろう。たとえば、熊本の例としてこんな提案をしてみよう?「くまもんの、くまもんによる、くまもんのための、くまモン」。前述したように「くまもん」とは熊本県民のこと。「くまモン」はご存じゆるキャラ。熊本県民はくまモンがいったん中央に認定されたならば、今度は熊本県民を象徴する存在として地域内でこれを愛し続けることで地域を盛り上げていく。つまり、「地産地消」のキャラクターとして位置づけメインテナンスし続けていく。これと同じことをB級グルメや他の地域の名産、行事などにもあてはめる。地方を中央が取り上げるのではなく、地方が地方を取り上げる。そうすることで一過性のブームは回避され、これらは自律的で永続的な地域活性化の一助となるはず(これ自体は中央ではなく地域メディアの仕事になるだろう)。そして、その際には地元の人々こそがその担い手になることを求められる。宮崎と熊本の現象はこうした循環が発生した結果と捉えられるだろう。

真の地域おこし、実はご当地ブームの次にやってくると僕は考える。


アメリカでものすごい勢いで普及している乗り合いタクシーUber。日本でも首都圏ではアクセス可能だが、今のところ爆発的な勢いとまでには至っていない(というか、あまり知られていない)。今回はUberの日本での普及の可能性についてメディア論的に考えてみたい。

Uberは「白い白タク」

最初に、先ずUberについて簡単に紹介しておきたい。「乗り合いタクシー」と最初に表記したけれど、これを解りやすくするために、似て非なるものとの比較で説明しよう。それは「白タク」だ。ご存じのように白タクは営業許可を得ていないタクシーのこと。この名称が生まれた頃、タクシーには色がついていて、一般の自家用車の主流が白だったことから命名されたらしい。要するに一般人が勝手にタクシー業をやってしまうことを指しているのだけれど、いろいろと問題があって禁止されている。問題とは、これが暴力団の資金源になっていたりしたこと。またメーターがないので適正価格がなく、場合によってはボッタクリに合うというトラブルが発生することなどが挙げられる。モグリなので事故に遭遇した場合の問題も当然、ある。

Uberも一般人が自家用車を利用してタクシー業を始めてしまうのだから、この部分では白タクと同じだ。だが根本的に異なるところが一つある。白タクと違ってトラブルフリーのシステムが徹底されているところだ。現在僕が暮らしている米ロサンゼルスの状況を踏まえながら説明してみよう。
先ずドライバーについて。これは白タクと同様一般人。たとえば僕の知り合いも仕事の合間に「Uberで一稼ぎ」ってなことをやっている。ただし、採用にあたっては審査がある。犯罪歴、所得、事故歴などがチェックされる。だから一般人だからと言って、白タクみたいにドライバーがアブナイ人になるかもしれないということはない。

次に料金。完璧にクリアーなシステムで支払いが管理されている。利用者はUberアプリをスマホにインストールしサインアップする。その際、支払いのためのクレジットナンバーなどの請求先入力を要求される。利用に際しては、現在地と目的地をアプリで入力し(MAPをタッチするだけ。グーグルマップでの検索をイメージしていただきたい)、車のカテゴリー(ベーシックなものからゴージャスなものまで。また乗り合いを許可するかどうかの選択も)を選ぶと乗車料金が提示される。これを選択し予約が完了すると、やってくる車の車種(色も)とドライバーの写真が現れ、およその待ち時間が提示される。まあ、かかっても5分以内だ。支払いは、アップに提示された料金のみ。チップはない。そして決済はアプリを介してなのでドライバーとの金銭のやり取りはキャッシュもクレジットカードも一切無い。ドライバーは料金を決定できないし、その場で受け取ることもできない。つまり金銭の授受はすべてアプリを介したやりとりになる。だからドライバーは一切悪いことができないのだ。乗車後には即座にメールを介して領収書が発行される。「領収書ご入り用ですか?」なんてやり取りも、もちろんない。税金対策も簡単だ(笑)

いや、この素人ドライバーの管理はこれだけに留まらない。乗車後にはドライバーについての評価を五つ星で要求されるが、もし仮にこの評価が低ければドライバーはクビになってしまうのだ。加えて乗客の安全も確保されている。全て保険に加入済み。ようするに一般の白タクが悪徳かつ危険で、これを「黒い白タク」と称するならば、Uberは「白い白タク」ということになる。

早い、安い、安全

そして、ここからがスゴイところなのだが、とにかく料金が安い。現在、自分が住んでいるトーランス市のアパートからロサンゼルス空港までは15キロメートルほど。一番安い乗り合いを利用すると、料金は二人で$15程度。これがスーパーシャトルというミニバンの送迎サービスを利用した場合、価格は同程度だが課金は一人あたりなので$30を超える。タクシーなら$45ドル+チップで$50程度になる。そうUberはバカ安なのだ(ただし渋滞やニーズが高いときには料金がそれに合わせて変更される。もちろん高くなる)。ちなみにスーパーシャトルの場合、ずいぶん前から予約を入れなければいけないし、タクシーもそれなりに待ち時間がかかるけれど、Uberはホントにすぐにやってくるので、乗り込む場所に到着してから予約するということになる。

つまり、利用する側にとっては「早い、易い、安全」と、いいところしかない。一方、利用してもらう側からも、手軽にカネ稼ぎが可能という点では一般人にとって便利この上ない(営業時間をドライバーが自分で決められる)。使われていない自動車を有効活用するという点でもメリットは多い。

都市の活性化ツールとしての可能性

いや、それどころかUber、場合によっては社会構造に大きな影響を与える可能性も高い。たとえば交通インフラが充実していないエリア、言い換えるとクルマがないと生活できないエリア、その典型は地方都市だが、では人々がこれを利用して廉価で街中を歩き回ることが可能になる。一例として、僕が以前生活していた宮崎市を挙げてみよう。宮崎市の繁華街は郊外のイオンなどに客を取られてしまった結果、典型的なシャッター街となっている。これは駐車スペースが十分ではないところにも大きな理由がある(かつての商店街なので駐車場が少ない。しかも料金を取られてしまう)。その一方で飲み屋街としての勢いは続いている。比較的遠くから飲みに出てくる人間の典型的なパターンは自動車利用。だが、当然帰りは運転できない。そこで代行タクシーが普及しているのだけれど、これがUberに取って代われば不要になる、といった具合だ。また駐車場が確保できなくても人々がショッピングにやってくることができる。要するに街を活性化させるツール=メディアとしても機能する可能性を持っているのだ。これは最近、コミューターとして再注目されつつある市電なんかよりももっと現実的だ。初期費用は僅かで済むし、利用者はどこでも拾えるんだから。

Uber普及を妨げるもの

というわけで、とにかく便利この上ない交通手段Uber。日本でもすでにいくつかの場所で登場しているが、残念ながら普及していない。日本はタクシー料金がバカ高なことで有名。だったらもうとっくに普及していてもよさそうなものなのだけれど(たとえばタイ・バンコク市内だったらUberの普及はかなり難しい。初乗り35バーツ(100円)で400メートルおきに6円ずつあがっていくバカ安システムなので)。

理由は二つある。ひとつは一般人がUberを知らないこと。僕みたいにたまたまアメリカなどの外国でその利便性を知った人間がブログなどで紹介するようなことをしてはいるけれど、一般人にはなんのことやらさっぱりわからない。ヘタすると「白タクじゃん、それ!」ってなことになる。ところがシステムを理解して利用するようになると、Uber利用は不可逆的なものになっていく。つまり、一度使ったらもうやめられない。タクシーなんかバカバカしくて使えない、ってなことになるくらいUberは魅力的な交通手段なのだ。だから、先ず存在を認知させることから始めなければならない。

ただし、認知しようにも何処で使えるのかすら解らないというのが現状。こういったUberインフラの整備を妨げているのが、ようするに行政なのだ。行政としては既存の産業の保護をする必要がある。つまりタクシー業界を守らなければならないという前提がある。実際、もしUberが普及するようなことがあれば、ものすごくたくさんの数のタクシー業社が倒産するだろう(実際、大アメリカ大都市圏での移動手段利用についてはドラスティックな変化が今起きている。とりわけクルマがなければ暮らしていけないようなロサンゼルスはその典型だ)。いやタクシー業という職種自体が消滅する可能性すらある。そうなると、これを保護するのが政治屋さんのお仕事ということになる。だから、かつての音楽配信サービス(サブスクリプション・サービスと呼ばれる定額聞き放題サービス)と同様、政府とか既存の民間がタッグを組んで、これを徹底排除するという図式が出来上がっていると考えるのが妥当だろう。そして、そのひとつとして、とにかくUberの存在を一般人に知らしめないというやり方が、現在やられていると僕は見ている。そう「寝た子は起こさないようにしよう」というわけだ。

オリンピックがUberというパンドラの箱を開ける?

現在、わが国でUberは「黒船は浦賀までやって来ているが、まだ通商条約が締結されていない」といったところだろう。ただし、いずれパンドラの箱が開き、一気に普及する状態になるはずだ。そもそも、現時点で大幅に規制が緩和されUber自体が大々的に普及に乗り出せば、一気に普及してしまうだろう。一度使ったらもうやめられない。Uberはそれくらい利用する側にとってもされる側にとっても不可逆的で魅力的な新しいシステムなのだから。いずれ行政や民間も抗うことができない状況がやってくるはずだ。何かのきっかけで、堤防は必ず決壊する。で、こういった新しいシステム(そしてインターネットが生み出したシステム)、賽が投げられるのは早ければ早いほどよいと僕は考えている。

ただし、現実的に考えた場合、実質的なUber普及元年がやってくるのは2020年あたりだろう(もちろん、これに遡って普及が始まるのだけれど)。言うまでもなく、これは東京オリンピックの開催年。おそらく、海外からやってくる客の利便性を考慮し、様々な規制がどんどんと撤廃されるのがこの時期なのではなかろうか。

ただし、それによってタクシー業界は運営方針を見直さなければならない、あるいは廃業せざるを得ない、あるいはまたUberに吸収されていくことになる、ということになるのだろうけれど。システムとは、そしてメディア(この場合ヒトやモノを運ぶメディアという意味で)とはそういうものなのだから。

世界中が夢中?

アプリがリリースされるやいなや社会現象となっているポケモンGO。現在、僕はロサンゼルスに滞在しているが、こちらでもこの騒ぎはリリースが日本に先行した7月の初めから始まっていた。とにかく行く先々で人々がスマホを見やりながら歩いているという異常事態が発生したのだ。ポケモンをいくつもゲットできる場所ではかなりの人間が群がっている状態。しかも夢中になっているのは子供だけではない。むしろ20~30代のほうが目立つほど。先日、ディズーランドへ出かけたのだが、ここでも状況は同じだった。ディズニーでポケモン世界にどっぷりつかっているというのは、なんとも不可思議。とにかく人々はポケモンGOに取り憑かれている。それが二週間後に、全く同じように日本でも出現したというわけだ。いや、日本だけではない。ポケモンGOがリリースされた地域ではどこも同じような現象が発生している。ポケモンGO、これは悪魔なのか?

当然、ポケモンGOにまつわる話題や議論も日替わりで登場する。これらの現象もまたポケモンGOを巡る社会現象を形成している。だが、メディア論的な視点からすると、現在のこのポケモンGOをめぐる騒ぎは決して驚くべきことではない。というのも新しいメディアが出現し、勢いをもった場合には、この手の騒ぎがつきものだからだ。テクノロジー万歳と礼讃するもの。子供に悪い、人々を白痴化させる、怪しげな事件が多数発生していると非難するものなど。「ああ、いつものあれね?」といったところだろうか。早くも「ポケモンGOはピークを過ぎた」なんて、これまたお約束の情報が流れたり。だが、新たなメディアの落ち着き先は、これらの思い込みとは全く異なったところに着地するのが常道。だから、メディアとは何か、そしてポケモンGOとは何かを考えようとする場合には、こうした議論とは付き合わない方が、むしろ現象の真相が見えてくる。

メディア研究者の立場からポケモンGOを考えた場合、これはとてつもないメディアの出現、メディア機能のパラダイムシフトを促している存在と捉えることができる。ただし、ここでのポイントはポケモンではなくポケモンGOを機能させているARというテクノロジーにある。

ARというテクノロジー

AR(Augmented Reality)、日本語に訳すと拡張現実となる。Wikipediaの定義をそのまま引用すると「人が知覚する現実環境をコンピュータにより拡張する技術、およびコンピュータにより拡張された現実環境そのものを指す言葉」となる。ちょっとわかりにくいので、ポケモンGOに利用されている技術で確認してみよう。ポケモンGOでは戸外でアプリを立ち上げるとGPSと連動したかたちで独自のマップが登場する。そこをアバター(ユーザーの分身)のポケモントレーナーが、ユーザーの動きと連動するかたちで歩き回るのだけれど、あちこち彷徨っているとポケモンが近くにいることが示される。そこでポケモンにタッチすると画面はカメラ画面に変わり、ポケモンだけがアニメのかたちで現れる。つまりリアル画面にポケモンが貼り付けられていて、しかも動いている。そこでユーザーはやはりアニメのかたちで手前に示されているモンスターボールを指ではじきポケモンをゲットする。

これは典型的なAR技術だ。リアルな画面にヴァーチャルな画面を貼り付けて連動させ、さながら新しい現実、あるいは拡張されたもう一つの現実として認識、あるいはその環境をコントロールする。このリアルとヴァーチャルの連動が、実に新鮮というわけだ。

セカイカメラの失敗

ただし、このテクノロジーだけでポケモンGOが成功した言えば簡単に突っ込みが入ってくる。というのもARを利用したもの、しかもスマホを利用したものはすでに存在していたからだ。2010年に(株)頓智ドットがリリースしたセカイカメラがそれで、これはユーザーが街のあちこちにエアタグというヴァーチャルなタグを使って情報を貼り付けるものだった。一旦、タグづけされたものは、他のユーザーが同じ場所でセカイカメラをかざすことで閲覧することができる。当初、セカイカメラはその可能性を非常に期待され、そこそこの人気を博した。期待されたポイントは、こうやってあちこちにエアタグが貼り付けられればそれが集合知となり、多くのユーザーがその場にスマホをかざすことで詳細な情報を入手することができる。そして、このような環境が遍在するようになれば「どこでもドア」ならぬ「どこでも情報」と言った環境が構築され、大きなビジネスチャンスを生み出すと考えられたからだ。つまりソーシャルメディアと同様、リアルにヴァーチャルが付随することでリアルワールドをより活性化できる。だがセカイカメラは2014年1月をもってサービスを中止してしまった。

意味不明のグーグルグラス

同じような試みとして世界的規模でARの展開を図ろうと目論んだのがグーグルが開発したグーグルグラスだった。グラスという名のメガネを装着すると、そのメガネガラスに自分の見ているものの情報が出現するというしくみで、やはりこれも「どこでも情報」を志向したものだった。2013年鳴り物入りでリリースされたものの、結局はまともに日の目を見ることはなく、2015年1月には一般向けの販売を中止した。つまりセカイカメラもグーグルグラスもAR技術を利用したもだったのだけれど失敗に終わってしまったのだ。ところが同じAR技術を用いながらポケモンGOだけは社会現象に至るまでの成功を遂げている。

ポケモンGOはシンプル、そしてお手軽

この理由はいくつかの要素が絡んでいるのだけれど、解りやすいように、前述した二つの失敗例との違いから指摘してみよう。
先ずセカイカメラとどう違うか。セカイカメラを利用していると、だんだんウンザリしてくる事態が発生していた。ユーザー数があまり多くなかったこともあるので、エアタグがないところは全くないという状態だったのだけれど、一方あるところは片っ端からタグづけされていた。秋葉原や渋谷なんてのが典型で、とにかくカオスでしかなかった。ユーザーよってリアルな映像にタグが埋め尽くされたのだ。しかもその情報はユーザーが任意に貼り付けられた管理されていないもの。なので「クソゲー」ならぬ「クソ情報」が多数出現した。有用な情報を確保するためにユーザーは情報を再編集しなければらなかった。そして、それよりもスマホで情報検索した方がはるかに早かったのだ。
一方、ポケモンGOはカオスではない。集める情報はポケモンだけだ。つまりシンプルイズベスト。そして、これらポケモンの配置についてはある程度、任天堂の方で管理がなされている。つまりカオスにはなっていない(広島平和記念公園に位置しているジムに「ピカドン」と命名されたピカチュウがいて不謹慎だと問題になった程度)。つまり、ものすごくやりやすいというかARの本質的なところ、基本的なところだけを操作すればよい。この「シンプルさの追究」について任天堂は以前から心得ている。1983年、同社がファミリーコンピューターを発売し、これが家庭用テレビゲームの事実上のデファクトスタンダードとなったのは機能を思いっきり削除し、徹底的に操作を単純化してしまったからだ。ソフトはカセットロムをスロットに装着するだけ。コントローラーも十字型ボタンと丸ボタン二つ。コントローラーのかたちはペラペラで踏んでも壊れない。しかもコードで繋がっているのでなくすこともない。おまけにコントローラー(二つ)を収納するスロットまでもが本体に用意されていた。一方、他のゲームハードはキーボードを備えていたり、パソコン代わりになったりなど多機能だったが、代えってそれが操作が複雑化し、実態を解りづらくし、ユーザー気を引くことができなかったのだ。ポケモンGOはシンプル+管理、この二つがARという馴染みにくいテクノロジーに人々を引き寄せたのだ。

次にグーグルグラスとどう違うか。これは言うまでもないだろう。あんなメガネを誰が装着したいと思うだろうか?というより、それだけのためにメガネを装着することの理由が見当たらない。しかもスマホと同価格(というかむしろ高額)。で、なんのために使うのかすらわけらないものに人は食指を伸ばしたりはしない(唯一、わけのわからないもの近年手を伸ばしたガジェットがAppleWatch。これは「Appleだからなんかやってくれるに違いない」というApple信者向けのグッズだったからだろう。ただし、Appleの新開発商品としては売れ行きはすこぶるよろしくない)。
一方、ポケモンGOは高額でないどころかタダだ(ゲーム内課金あり)。もちろんスマホは必要だけれど、もはやスマホの所有はもはやあたりまえなので、ようするにカネがかからない。で、いつも持っているのでやりたいときにサッと取り出してやることができる。手間いらずなのである。

ポケモンGOが涵養するわれわれのARメディアリテラシー

こうやって考えてみると、ポケモンGOがわれわれに涵養、つまりジワジワとたたき込もうとしている新しいメディアの姿が見えてくる。それがARなのだ。これまでなんだかわけのわからなかったもの。ところが、これを普段所有しているスマホを使って実にシンプルなかたちでその使い方を教授してくれる、それがポケモンGOなのだ。言い換えれば、われわれはポケモンGOに熱狂しながら、実はARという新しいメディアテクノロジーをわれわれの日常に置こうとしているのだ。

ARはセカイカメラやグーグルグラスが志向したように、大きな可能性を秘めている。ポケモン自体はエアタグと同じ機能だが、これがセカイカメラのように様々な情報のタグとなったときにはわれわれのメディアライフを変えてしまう可能性が高い。つまり、どこかにいって何かを調べようと思ったときに、まずやろうとするのがスマホのカメラをそこにかざすということになる。もちろん、情報が管理されていること、言い換えればコスモスが用意されていることが前提になるけれど(そうしない場合はセカイカメラの二の舞になる)。

そしてもう一つ、ポケモンGOのARだけがヒットした理由がある。それは、コンテンツがポケモンだったからだ。30台半ばより下はポケモンに馴染んでいる。当然、ポケモンの遊び方も知っている。それがスマホを利用することでリアルワールドで遊ぶことができる。自分もサトシになれる。だからやりたくなる。夢中になる。だがポケモンGOに熱狂しているとき、ユーザーにはARを操作している認識はこれっぽっちもない。彼らは純粋にポケモンをゲットしている。かつての任天堂のドン山内溥は「人は機械が欲しくてゲーム機器を買うんじゃなくて、ゲームがやりたくて機械を買うのだ」と断言していた。そのとおりで、今回もユーザーはポケモンGOがやりたくてやっているだけ。でも結果としてARを操作している。だから、ARというわけのわからないテクノロジーに恐れることもない。いや、恐れを知らないのだ。だって、いつもの「ポケモン、ゲットだぜ!」なんだから。

ただし、そこにこそポイントがある。こうやってポケモンGOに熱狂する。もちろん、いずれこのゲームが飽きられるときが来るだろう。ただし、ユーザーに共通して残るものがある。それこそがARを操作するスキル=メディア・リテラシーだ。これが無意識のうちに身についてしまえば、あとはどんなARが出現しようが難なく手を伸ばすだろう。洗濯機を、電子レンジを、そしてスマホを操作するように。先頃アップルのCEOティム・クックはポケモンGOの成功を讃え、Appleが今後AR技術に注力していくことを発表したが、これは完全に正解だ。いずれわれわれはAR世界の中に身を置くことになる。ポケモンGOは、その効用を実感させられた瞬間なのだ。われわれはポケモンGOというコンテンツを借りながらARの使い方のトレーニングを受けている。これが、ポケモンGOがわれわれの近未来のメディアライフに与える大きな変化だろう。

ポケモンGOはわれわれにARライフとというパンドラの箱を開いたのだ。

オヤジが若者をfacebookから追い出した?

6月22日のYOMIURI ONLINEの記事でITジャーナリストの高橋暁子氏が若者のfacebook離れの現状について分析を行っている(http://sp.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20160622-OYT8T50037.html?page_no=1)。分析資料のもとになっているのはジャストシステムのアンケート調査で、これによると16年4月のfacebookの10代アクティブユーザーが27%で、前年同月の45%からは大幅に減少しているという結果が出ている。

この結果について高橋氏はfacebookが「中高年の交流の場」になってしまっていることが大きな理由と指摘している。曰く、「十代が友達と楽しく盛り上がっているところに親が介入してきたり、学校の先生から指導が入ったりするようになる。そこで、親や先生にやりとりを見られたくない若者たちは、Facebookから離れ」るようになったのだという。また中高年たちのリア充ぶりをアピールする、つまり自慢話を繰り広げるのにウンザリしているのもfacebook離れをさらに進めている。そして、これは「facebookが普及しすぎたがゆえに若者が離れるという構造」なのだとしている。

高橋氏の議論は一見もっとものように見えるが、議論としてはかなりアブナイと言わざるを得ない。この主張は「老害」ならぬ「中高年害」、つまりオヤジの絡みやすく、それでいて自慢話は繰り広げるという前提に基づいて無理矢理十代のfacebook離れの原因を引き出しているからだ。つまり「結論先にありき」。いいかえれば我田引水の議論でしかない(まあ、オヤジイジメというところだろうか(笑))。

ことはそう簡単には進まない。現実は、もっと複雑だ。なので、ここではジャストシステムのデータが正確であるという前提に基づいて、複数の要素を絡めつつ「若者のfacebook離れ」の原因をメディア論的に考えてみたい。

新メディアが旧メディアを押しやっていく

二つの側面を提示してみたい。一つは技術的側面だ(もう一つはユーザー層の特性に関する側面だが後述)。新しいメディアが出現した場合、そのメディアと機能を重複させる旧メディアは主として二つの運命を辿る。
一つは消滅。つまり機能が完全に重複し、しかも新しいメディアの方が技術的にも利便性的にも優れていたがために、既存のメディアが飲み込まれてしまうというものだ。近年だとモールス信号による電信とか、おそらくこれからそうなるであろう白熱球(これをメディアと考えればだが)がその典型で、前者はデジタル化によって難受信エリアでも受信可能になることで、送受信をモールス信号でする必要がなくなり消滅。白熱球も寿命、電気消費量の点でLEDに全くかなわず、しかもLED電球が低廉化することで、その場所を失ってしまった。

もう一つは、新しいメディアと重複しない部分、つまりディスアドバンテージとならない部分で生き残るというもの。ラジオはマスメディアとしての機能をほとんど失いつつあるが、災害時やローカルメディアの分野にその活路を求め、現在も続いている。ほぼ消滅に近いがなんとか続いているのがポケベルやPHSといったところだろうか(電波による医療機器への害がないというアドバンテージで医療現場で生き残っている)。

LINEとカブったfacebook

さてfacebookである。SNSの中でも最大であることは言うまでもない。ここには、たとえばビデオ電話も写真のアーカイブも、グループでのクローズドでのチャット(若者はこれを使えばオヤジ害を排除できる)も、ファイルの転送もといったかたちで、まあいろいろと機能がある。しかし、機能満載で使いづらいところがあるのも事実だ。恐らくほとんどのユーザーは機能の一部、メッセージやフィードくらいしか使いこなしていないだろう。煩雑で面倒くさがりのユーザーには少々使いづらいのも確かだ。

ここにLINEのような単純なSNS(LINEはプラットフォーム化を狙って通話やタイムライン、アプリ、マンガなど様々な機能が加えられてはいるが、基本的にチャット=トークと通話に特化されていると言ってよいだろう)、しかもスマホベースのそれが登場すればどうなるか。当然、使い方簡単で、メッセージボックスを利用してチャットを繰り広げるという点ではパソコンベース(facebookのインターフェイスは明らかにパソコンベースで、スマホ用としてはちょっと扱いにくいし見づらい)よりスマホベースのLINEの方が圧倒的に優位であることは言うまでもない。それゆえ、スマホベース、単純機能ベースのユーザーはこちらに流れる。そして、そういった流れたユーザーに、パソコンなどほとんど使わずスマホを所有したユーザーが飛びついていく。その多くは若年層だ。オヤジ臭に嫌気がさしてこちらに移動した若者も、まあ、いないこともないだろうが、それはマイノリティだろう(オヤジ臭を放つユーザーにウンザリしているのは、オヤジ臭を放っていない中高年ユーザーも同じこと。だから、この理屈であればオヤジ臭にウンザリしたオヤジもfacebookから撤退するはずだ。だがデータ的には必ずしもそうはなっていない)。一方、中高年はパソコン利用に慣れている。だからパソコンベースのfacebookの方が何かと使いやすい。つまり中高年のSNS、とりわけfacebookの利用はパソコン>スマホ、若者はパソコン<スマホ。こういったかたちで棲み分けが起こる。だから若者のfacebook離れ、あるいはfacebookを利用する気にならないのは、ある意味当然ということになる。

社会圏、社会性が分けるSNS利用

もう一つはユーザー層の特性に関する側面だ。中高年と若者、とりわけ若年層の年代的な違いは、ズバリ社会圏の広さと、それに伴う社会性にある。当然、中高年の方がともに高い、言い換えれば社会的成熟度が高い。

で、facebookはこの側面でも若者にとっては扱いにくいSNSなのだ。中高年がfacebookにハマる理由は、一つは本人が抱えている人的インフラにある。つまり既存のリアルな知り合いが個人的な付き合いであれ仕事上のそれであれ多い。こういったリアルな社交と社会圏を活性化するヴァーチャルな装置としてfacebookはうまく機能するのだ(学校時代の旧友がゾンビのように復活したりする(笑))。また、大人ゆえ公私の分別が可能。だから、実名制であったとしても、節度をわきまえるわけで、例えばTwitterで炎上したり晒されたりするようなバカッター的な状況にはなる可能性は低い(リア充ばっかりやっているマイノリティもいるので、これはこれで迷惑千万な話だが)。また、仕事上の関係等でデータをやり取りしたりといったこともやりやすい。これはLINEでは難しいし、第一若者はそんな「大人の仕事」に用はない。

一方、こういったfacebookの利便性は若者にとっては不便なものになる。大人と違って社会圏、社会性が低い。友達は限定されているし、社会的成熟度が低いから公私をキチッと分別する能力も弱い。だからSNSの利用にあたってはLINEを利用して身内仲間でしっぽりとやっているのがよいわけで、しかもLINEのトークならクローズドなので、炎上と事態は起こりづらいし(メンバー間でのイジメはあるだろうが)、バカッター的にひっかかるということもない。つまりLINEは「安心ケータイ」ならぬ「安心SNS」なのだ。しかも前述したように若者の必携ツールであるスマホを前提としたインターフェイスになっている(パソコンでも使えるが、LINEのパソコンアプリを使用している若者は少ないはずだ。スマホがあれば、それで事は足りるので)。

ということで「若者がfacebook離れを起こしたのはオヤジ臭にウンザリしたから」と言うのは、かなり無理があるということがおわかりだろうか。

そうは言ってももちろん、このオヤジ臭には僕もウンザリしている。こういうリア充自慢のオヤジは、公私を区別できてないわけで、ようするに実のところ「子供」なのである。

バイオリニストの高嶋ちさ子が九才の息子のゲーム機・3DSを、平日は遊ばないという約束を破ったことで、これを真っ二つにバキッと折ってしまったことをTwitterにアップしたことをきっかけに、これが大炎上していることが話題になっている。

で、こういったネットやメディアを介した炎上=バッシングが最近やたらと多い。それは失言問題にも関連しているのだが。今回は、マスメディア上やネットでの「ほんの一言」が、なぜ大騒ぎになってしまうのかをメディア論的に考えてみたい。このメカニズム、結構古いようで、また新しいものでもある。

SNS、マスメディア、オーディエンスが「暴力的な母・高嶋」を作り上げる

炎上するメカニズムとして三つの要因、そして二つの立ち位置をあげてみたい。三つの要因とはSNS、メディア、オーディエンス(とりわけ一部の書き込み好きなネットユーザー)、二つの立ち位置は情報の受け手と送り手だ。これを今回の「ゲーム機バキッ」で考えてみよう。

先ず受け手のネットユーザーが高嶋のTwitterを見る。一部のユーザーが「なんて乱暴な」「教育上(子育て上)、よろしくない」とツイートする。この時点で受け手は送り手に転ずる。SNSがあるからネットに書き込むなんて、今や簡単。しかも匿名(facebookを除く)だから、何を言っても自分の身に責任や危険が降りかかることはない。ので、言いたい放題。すると、これを見た他のユーザーもまた、匿名をよいことにして誹謗中傷的なツイート(Twitterでなければコメント)を始め、次第に炎上していく。この時、興味深いのは、ほとんど誰も高嶋の本意を理解しようとはしていないことだ。つまり「言葉狩り」。つまり、いわば「バキッ」という乱暴な音だけが誇張されていく。そして、バッシングが次第に祭り状態になると、もはや、そちらの炎上的、誹謗中傷的なツイートが展開するコンテンツの方が議論の中心となる。高嶋とは関わりのないところで高嶋のバッシングが展開されるようになるのだ。この時、高嶋は「暴力的な母」とステレオタイプを貼られていく。ようするに発信するネットユーザーは感情的なカタルシスを得たいがために行為を繰り返すわけで、完全に思考停止になる。

次にマスメディア。適当に炎上してくれれば、お手軽なネタとして重宝する。ので、これをテレビや雑誌が騒ぎ立てる。街頭インタビューと称して、一般人にコメントを求め、都合のよいように「ゲーム機バキッ」をデフォルメする。もちろん、この時、高嶋の本意など全く意に介することはない。こういったネット=SNSからの情報ピックアップは、もはやマスメディアにとってルーティーン。型に流し込んでいるだけ。つまり、これまた思考停止に基づくワンパターンなメディアの行動。

マスメディアが拡散するゆえ、こうなると騒ぎは突然、規模が大きくなる。ネットにあまり関わることのない層にまで、このデフォルメされた「暴力的な母・高嶋」のイメージが、大量のオーディエンスに情報がリーチするマスメディアによって伝播されるからだ。そして、このイメージは再びネット上に環流し、さらに増幅されていく。この時も、もちろん高嶋のことなどどうでもよく、要はネタとして楽しめればいいということになるわけで、要するにこれまた思考停止。

そして、騒ぎが一回りするとこの事態は収束する。まあ、騒ぎの最中に、もう少し大きなネタが出来れば、瞬時に収束するというパターンも、ままあるが。これは社会学でいうところの流言のメカニズムに他ならないのだけれど(揮発性が高いところなど共通点は多い)、空間にまったく限定されないこと(流言の場合は極端に広いエリアには波及しづらい)、二つのメディアが媒介すること(インターネットのSNS+マスメディア)で、展開が早く、場合によっては巨大な規模に達するところが異なっている。

ちなみに、ネットが出所ではないが、同様の展開になったものとして丸山和也議員の「オバマ奴隷発言」がある。丸山議員は参議院憲法審査会で、日本がアメリカの51番目の州になることは可能かという質問の中でこの発言を行った。ザッとまとめてしまえば「先祖は奴隷だった人間が大統領になるなんて建国当初には誰も考えもしなかった。しかし、それはそれだけアメリカはダイナミックな改革をしてきたということ。だから日本がアメリカの州になるってのも、ありなんじゃないのか?」という趣旨で、むしろ黒人を、そしてアメリカの歴史を讃えているふしすらあるのだけれど、「奴隷」という言葉だけがメディアの思考停止によって拡大されて、丸山議員は謝罪を行わされる羽目になっている。そう、文脈無視の「言葉狩り」がここでもメディアと政治家とその後のネットの議論等で展開されたわけだ。

メディアリテラシーをアップする方法

こういった、低いメディアリテラシーを振り回すこと。もうヤメにしませんか?みっともないですし。

処方箋は三つある。

一つ目はネット上に匿名によって情報発信する人間が、ある程度責任を持つことだ。言い換えれば、バッシングになるような無責任な発言はしない。何年か後、おそらく「以前は、こんなバカなコメントがあったんだ」ってなことになっているんだろう。ただし、そうは言っても実際のところ、この手の匿名を利用したゴロツキ発言がなくなることはない。それは、いつの時代も同じだからだ。ネットで受け手の情報発信能力がシステム的に高まっている(つまり、ソーシャルメディアを通じて簡単に情報をアップできる)状況もあるので、リテラシーが高まるにつれ、多少は減少していくことがあったとしても、こういった発言とバッシングはこれからも続く。

そこで二つ目の処方箋が有効になる。低予算、思考停止でお手軽かつルーティーン的に情報をSNSからピックアップし続けるマスメディアが、これをヤメることだ。SNSに書き込みをして炎上させている人間はネットユーザーの一部でしかない。しかも、概ねこういった書き込みを好んでするマイノリティの一群だ。だが、実際のネットユーザーの大多数はROM、つまりリード・オンリー・メンバー。この「物言わぬ大多数」と「書き込みを好んでするマイノリティ」を無造作にイコールで結んでしまってはいけないのだ。逆に言えば、マスメディアがネットの意見を取り上げる場合は、ネットのSNS等で騒がれているからということを理由にするのではなく、それが社会的利益があるのか、あるいは正鵠を射ているのかを吟味する必要がある。量ではなく質を基準にするべきなのだ。でも、これって実はジャーナリズムがやるべき「あたりまえのこと」なのだが、現状ではメディア関係者は仕事に忙殺されて吟味する能力を喪失している。つまり、ここまで何度も書いてきた「思考停止」の状態。マスメディア関係者の教育をもっと徹底すべきだろうし、一番簡単な処方箋だろう(もちろん「やろうと思えば」の話だが)。これができれば「ゲーム機バキッ」なんて茶番は、ネットで盛り上がっててもマスメディアはスルーするはずだ。そういったメディアリテラシーが必要。

そして三つ目はこういった一人歩きした情報をオーディエンスである一般の受け手がマトモに取り合わないことだろう。というか、そろそろ、こんなくだらない展開に飽きてもいい頃なんじゃないだろうか?われわれは。ネットネタの拡散パターン、もうレポーターが芸能人の自宅に行ってインターホン押すのと同じくらい、消費し尽くされたワンパターンだと思いますよ。

ちなみにもう一つ付け加えておかなければならないことがある。情報を発信する大元の側、つまり送り手=最初の発信源の側のメディアリテラシーも涵養することが、それだ。今回の場合なら、高嶋ちさ子がこれに該当する。高嶋は前述したようなインターネット=ソーシャルメディアの書き込みユーザーのバッシング的傾向を理解し、またメディアがこれを不用意にピックアップすることも踏まえながら自らツイートするのを心掛けること。高嶋はセレブ。庶民からすれば、そのステイタスは羨望の的だ。しかし、それは言い換えれば、いざとなったら徹底的に叩く対象でもある(そして、実際にそうなった)。
ところが高嶋はこれらのことを理解せず、ソーシャルメディアという公共空間に、私的な、そして揚げ足取りをされそうなネタをばらまいてしまった。高嶋は、自由度が高すぎて、現状のネット空間のこと、そしてメディアのメカニズムを理解していない。高嶋もまた、高嶋を叩くネットユーザーと同様、メディアリテラシー(この場合は公共性)に問題がある。このことを自覚すべきなのだ。

というわけで、みなさんそろそろ『ゲーム機バキッ教育』なんて、どーでもいいことにしませんか?ネタにするにも陳腐すぎますよ。

↑このページのトップヘ