勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

カテゴリ: メディア論

ダブルキャストで東京オリンピック史を綴る大河ドラマ「いだてん~オリムピック噺」が一桁台という低視聴率にあえいでいる。直近の35話で6.9%。第32話では5.0%という、大河ドラマ史上最低の数値を叩きだした。今回は、この理由について考えてみたい。


ドラマ自体は典型的な宮藤官九郎パターンだ。これを13年に放送され、大ヒットした朝ドラ「あまちゃん」との比較から考えてみよう。



宮藤官九郎の作品構造


「あまちゃん」の特徴は、①多くのキャラクターが登場する。それぞれのキャラクターは多少なりとも主人公と関連付けられはするが、むしろ独立したかたちで描かれるほうに比重が置かれている。「あまちゃん」では母の天野春子(小泉今日子)、足立ユイ(橋本愛)、鈴鹿ひろ美(薬師丸ひろ子)、荒巻太一(古田新太)などのキャラクターの物語が独立したかたちで描かれた。しかもこうした脇役たちの関係を綴ったエピソードも頻繁に登場する。②ほぼ登場人物が等身大のキャラクター。いわゆるビルディングス・ロマン、つまり主人公が一介の人物から功成り名遂げるというお約束のパターンを採用しない。「あまちゃん」では’のん’(当時、能年玲奈)演じる天野アキは、最後まで成長することはない。むしろ成長しそうになると元に戻すという展開が繰り返される。③クローニクル(年代記)のスタイルを採る。リアルタイムの進行は2008年から11年までだが、春子、鈴鹿、荒巻を巡るもう一つの歴史が80年代のアイドルシーンをベースに繰り広げられる。この二つの時代が平行して、しかも大量の史実と共に描かれ、そして最終的に結びつけられる。


「いだてん」も同様の構成だ。①のキャラクターについては金栗四三(中村勘九郎)と田畑政治(阿部サダヲ)のダブル・メインキャストで、さらにここに嘉納治五郎(役所広司)、増野シマ(杉咲花)とその家族、古今亭志ん生(ビートたけし・森山未來)と弟子の物語が並行して展開される。②については、やはりキャラクターは等身大の描かれ方で、偉人のそれではない。二人の主人公にはエネルギーこそあるものの、そこに威厳を感じさせるものはない。これについては柔道の創始者である嘉納治五郎までが「偉い人」ではなく、いわば「オリンピック・オタク」として描かれている。③については前半が金栗四三によってオリンピックと日本の関わりの起源を、後半では田畑政治によってオリンピックの日本誘致の歴史がそれぞれ濃密に語られる。ただし、わかりづらい。また、二つの関連付けも、現状では曖昧だ。


要するに「いだてん」も典型的なクドカン・パターンなのだが、「あまちゃん」のような大ヒットにならないどころか、大河ドラマ至上最低の視聴率に陥っている。この原因は1.大河ドラマというカテゴリーからすれば逸脱しすぎており、常連の保守的な視聴者には理解不能で嫌われたこと、2.クローニクルに視聴者がリアリティを抱けないこと、の二つに求められるのではないだろうか。



大河ドラマのスタイルにそぐわない

それぞれについて、クドカン・ドラマの要素との関連で考察してみよう。

先ず「大河ドラマスタイルからの逸脱」について。既存の大河ドラマでも多くのキャラクターが登場するが、これらの人物は原則、主人公と紐付けられており、独立したドラマとして組み込まれることはほとんどない。言い換えれば、それぞれの脇役の横関係については展開されず、もっぱら主役との関係で脇役が紐付けられていく。こうすることで、ストーリーは単純なトップダウン、ヒエラルキーの構造を備える。そしてこの伝統的な構造に常連の視聴者たちは馴染んでいる。


ところが「いだてん」はこうしたトップダウンの構造にはなっていない。複数のストーリーが展開され、それによってドラマの世界が編み上げられる。方法論としては逆のボトムアップ、つまり先ず様々な情報、エピソードをばらまいて、それを次第に統合していく。言い換えると、少々謎解き=ミステリー的な形式になる。これは「お約束」「いつもの図式」を前提にしている大河ドラマ視聴者からすれば、極めてわかりづらい。「なんだ、この下手くそなシナリオは」ってなことになる。だが実際にはシナリオはよく練られているので、理解できないのはクドカン・ドラマのリテラシーがないからということになる。



偉くない偉人、大成しない主人公

②の「等身大の描かれ方」も同様だ。ドラマの中に偉人は出てこない。主人公の金栗と田畑は歴史を掘り返さなければ知ることが難しい人物だ。そして嘉納治五郎や高橋是清などの偉人も「偉い人」ではなく、いわば「エラい人」という演出が施されている。肩書き的には偉い人物なのだが、その振る舞いは偉人のそれではない。もっぱら好奇心の塊のような人間たちに書き換えられている。大河ドラマの視聴者からすれば、子どもっぽくて、いつまでも大成しない、偉人にならないキャラクターは不謹慎な描き方に見えてしまうだろう。むしろ、理解できない存在になってしまう。これは前作の「西郷どん」を参照してみればよくわかるだろう。あれはベタでわかりやすいキャラクター。「理想に向かってブレずに大成していく人生」というパターンだからだ。


しかし、これらだけならば「いだてん」だけでなく「あまちゃん」も支持を得られなかったはずだ。しかし、こちらは当たった。主人公を演じた’のん’に至っては歴代朝ドラ・ヒロインランキングでぶっちぎりのナンバーワンだ。しかも、この作品は「朝ドラに革命を起こした」と言われている(https://news.livedoor.com/article/detail/16549598/)。



視聴者が時代や物語を共有できない年代記

では、二つの致命的な違いはどこに求められるのか。それは③の要素、クローニクルの描かれ方だ。前述したように「あまちゃん」では2008年から2011年の東北大震災直後まで、そしてこれと平行して80年代後半のアイドルシーンが描かれた。これらの歴史は視聴者自身が体験したものであり、文脈をつけやすい。前者は当時からすれば直近のことであり、全ての世代が容易に理解可能だ。だが「あまちゃん」のクローニクルの魅力はもう一つの80年代後半の方にある。当時、30代後半から50代後半の視聴者にとって、これは懐かしい記憶。しかしながら、ドラマの中で描かれることはほとんどなかった。言い換えれば「手垢のつけられていないクローニクル」。しかも、作品の中で描かれたアイドルシーンは史実に基づきながら二つの人物が抜かれていた。ポスト聖子の一人として人気を博した小泉今日子と、角川映画の看板女優で歌手としても大成した薬師丸ひろ子だ。だが、この二人がドラマの中に登場する。小泉演じる天野春子は「アイドルになれなかった小泉今日子」、薬師丸演じる鈴鹿ひろ美は「大成したアイドル俳優、ただし音痴(薬師丸の美声はつとに有名)」。こうした配役によって視聴者は80年代後半をパラレルワールドとしてノスタルジーに浸ることができたのだ。なおかつ二つの時代はリンクしており、これが謎解きの様相を呈した。だから病みつきになった。そして、30~50代の視聴者層を獲得することに成功する(朝ドラのコア視聴者層は60~70代)。


一方、「いだてん」はこのようにはなっていない。二つの時代は1900~1930年代、1930~1960年代前半であり、視聴者のほとんどは同時代者ではない。つまり、二つとも「学習」を必要とするのだ。これが戦国時代や明治維新なら話の理解はもっと簡単だ。二つの時代は何度となく歴史ドラマで取り上げられており、視聴者にはこの時代の物語=フィクションについてのリテラシーがある。ところが「いだてん」に関しては、時代的知識や物語形式のバックグラウンドがない。それゆえ「いだてん」で初学習ということになる。しかしながら、大河ドラマ視聴者のコア層は60代より上、朝ドラよりさらに上の層だ。こうなると、もう難しすぎてついていくことが出来ない。ドラマについての前提となる知識がなく、また描かれ方も既存のものとは違うのでわからない。その結果「なんだ、こりゃ?」ということになるのだ。



二分する評価、そして大河ドラマの未来

ただし、こうしたクドカン・イズムに造詣がある層にとっては、このドラマは「酷い出来」どころか「傑作」だ。「あまちゃん」に比べると情報詰め込みすぎで、ちょっと整理が行き届いていないところも見えるが、クドカン的大河ドラマ実験は賞賛に値する。好奇心丸出しの偉くない嘉納治五郎など、却って人間的な魅力=リアリティを感じないでもない。


「いだてん」は嘉納治五郎を主人公にしてオリンピックの日本活性化のために尽力した立志伝、人物伝にすればよかったと評している記事があったが、確かに単に視聴率を稼ぐためなら、その方がよかっただろう。しかしながら大河ドラマも新陳代謝していかなければならない。60代以上の人間は、あたりまえの話だが漸次減少していく。大河ドラマとしては若年視聴者層を開拓していく必要があるのだ。それゆえ、今回のクドカン起用は大河ドラマの未来を見据えたものだろう。


七十年代「ルパン三世」や「宇宙戦艦ヤマト」が初めて放送されたとき、これらはいずれも低視聴率だった。「ヤマト」に至っては裏番組の「アルプスの少女ハイジ」「フランダースの犬」に視聴者をごっそり持って行かれ、放映回数を短縮されたほどだった。しかし、その後、この二つが日本のアニメ史に重要な足跡を残したのは周知のことである。


10年後「いだてん」は、おそらく「ルパン」や「ヤマト」と同じ評価がなされているのではないだろうか。そんなふうに思えないこともないほど本作は画期的、大河ドラマのブレークスルーであると僕は考えている。


さて、今日も四三と政ちゃんと治五郎の雄叫びを楽しもうか!


新型iPhone5G機能の搭載を見送った。これについては中国国内で中華・韓国スマホに後塵を拝することになるのではとの懸念が出ている。


典型的な記事が、これだ。


”5G対応の新型iPhone、アップルは中国市場で取り残される恐れも

https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2019-09-11/PXNTI66JIJUO01



でも、これってAppleのこれまでの戦略をよくわかってないんじゃないかな?


Appleは、その戦略にあたっては二つの方向性を採用してきた。


ひとつは、このテクノロジーに将来性があると睨んだ場合には、どこよりも早く導入する姿勢だ。1991年、アップル初のラップトップ・Powerbook100ではキーボードをノッチ側に前進させ、手前をパームレストにしてセンターにトラックボールを配置(後にトラックパッドに変更)、現在のラップトップのスタイルを作り上げた。またフロッピードライブを廃止しUSBLANポート、CDドライブもどこよりも早く導入している。当初、iMacの大ヒットで大混乱を招いたが後にWi-Fi機能(これも業界初だった)を搭載することで解決した。そしてこれらがテクノロジー、インターフェイスとして普及しているのは言うまでも無いだろう。この場合、アップルは技術普及の牽引役を務めている。


もう一つは、新しい機能に他メーカーがざわついても、それが実際に使いものになるか、あるいは時期的に適切であるかを検討し、最終的に敢えてすぐには後追いしないやり方だ。典型的な戦略は2008年、NetbookというWi-Fi標準装備で既存のPCより小ぶり、ただし性能は低い安価なラップトップが流行したときのことだ。ジョブズは「あんな過渡的なものはクソだ」と無視し追従しなかった。そして、最終的にこの指摘はiPhoneiPadの出現によってNetbookが消滅することで証明された。またBlu-rayのドライブも時代遅れとして一切採用しなかったが、これはネットベースでのインストール時代の到来を見越してのことだった。


ただし、後追いをしないわけではない。する場合にはインフラの整備を見極め、それらとの整合性を突き詰め、満を持して完全な製品をリリースする。それがiPodiPhoneだった。iPodについてはアプリケーション・iTunesと連動させ、極めて容易な手順での操作を実現。それがハードディスク(今日ではメモリー)内蔵型の携帯音楽プレイヤーの爆発的普及を可能にした。iPhoneはトラックパッドの技術を援用してマルチタッチコントロールを実現している。iPadも同様で、リリースの時点でインターネットやパソコンとの整合性が高度なレベルで取られていた。ご存じのように、その操作はタッチパネルでスタイラスペンを用いなかった。いいかえれば、これは「後出しジャンケン」のパターン。ただし、万全の体制で最強の手を打ってくる。


今回、アップルの戦略は後者に該当すると判断した。いま5Gに切り換えてもコストが高くつくだけで、実質的には使いモノにならないから無用の長物。たとえば中国が5Gの整備を急いだとしても、モノになるまでにはまだ数年かかる。中郷以外の市場については5Gは明らかに時期尚早。だったら、そんな不要なものはつけず、価格を抑えて中国製や韓国製に押される市場に対抗したほうが賢明。そして、ある程度5Gのインフラが整備され、他メーカーが矢継ぎ早に商品を出している間にじっくりと検討し、リリースする際には完全なソリューションを搭載して市場を席巻する。これまでのやり方に基づけば、アップルはそう判断しているように、僕には思える。


逆に言えばiPhoneXユーザーには今回のリリースは買い控えするのが賢明と言うことでもある。もっともXより以前のユーザーにとってはそろそろ買い換え時期ゆえ、新しい写真機能やバッテリー持ちのよさなどは背中を押す要素に映るだろう。


というわけでiPhoneXユーザーの僕は、今回はパスです。


さながら芸能界の巨悪が露呈したかのように、ジャニーズ事務所と新しい地図(元SMAP三人、稲垣・香取・草彅)、吉本興業と宮迫・ロンブー亮(そしてこれにレプロと「のん」こと能年玲奈の問題も含めることができるだろう)を巡って、メディアで混乱が発生している。だが、これらのトラブル、実はメディアの大きなパラダイムシフトを発生する可能性を秘めているのではないか。というのも、今回の出来事は、いずれ芸能界からテレビ、そしてメディア全般に至る領域まで影響を及ぼすかもしれないからだ。

一連のトラブルはメディアに関する三つの側面を教えてくれる。そして、それらは表層から深層、ミクロからマクロという形で重層的に繋がっている。

芸能界は大手が牛耳る構造

先ず表層かつミクロな側面について。これはもちろん、芸能プロダクションとタレントの問題、そしてわが国における芸能プロダクションの構造の問題だ。男性アイドル業界においてはジャニーズ事務所、お笑い業界においては吉本興業が巨人であることは言うまでもない。そして、これらはそれぞれの分野では市場をいわば寡占あるいは独占した状態。だから、タレントが一旦ここから離脱すると、メディアへの露出が限りなく難しくなる。ご存じのように締め出しを食らってしまうのだ。元SMAP=新しい地図の三人がジャニーズから離脱した瞬間、レギュラー番組のほとんどが終了し、メディアへの露出が極端に減ったことは周知の事実だ。現在、出演が可能なのはNHK(草彅=ブラタモリ)、欽ちゃん&香取慎吾の仮装大賞、そしてサントリー(香取、稲垣)とミノキ(香取、草彅)のCMのみだ。これらは前者二つは対抗する権力(NHK=タモリ、萩本欽一)によって支えられ、後者二つのCMはジャニーズの息のかからない分野(大手代理店でなくサントリー自体が制作している。あるいは代表の飯島三智と懇意)だ。宮迫と亮が今回の記者会見後にどうなるかはまだ不透明だが、二人の会見は離脱どころか反逆になるゆえ、現状のままであれば芸能界のメインストリームで活躍する可能性は新しい地図以上にほとんど不可能になるだろう。だが今回、二つのトラブルはこの独占、権力構造を世間に晒すことにもなった。公正取引委員会によるジャニーズ事務所への注意、宮迫、亮二人による結果的な吉本への反逆、暴露がそれだったというわけだ。

テレビメディアは共同正犯

次に第二層、つまり中層かつミドルな側面について。現在、この二つのトラブルがメディアで頻繁に報道されているが、報道それ自体が看過している、あるいは意図的に語らない(イヤ、ひょっとしたら思考停止している)側面がある。「そもそも、こうした市場独占、権力構造を可能ならしめたのは誰なのか?」が、それだ。言うまでもなく、それはジャニーズや吉本から多大な恩恵を受けているメディア、とりわけテレビに他ならない。ジャニーズ事務所と吉本興業は、あからさまにこうした「離脱=反逆タレント」をテレビが登用することにクレームをつけることは、おそらくしてはいないだろう(だから公正取引委員会はジャニーズ事務所を「注意」するに留めている。状況証拠しかないからだ)。二つの権力はそんなことをするほどマヌケではない。「どうぞ、ご自由にお使いください。ウチから離れただけですから」というスタンスをとっているはずだ。しかし、これはあくまで口先だけ。もし、テレビが「そうですか。それでは、これまで通り使わせていただきます」なんてことをやったら、プロダクションお抱えのタレントたち(膨大な数のそれ)の出演を断ってくるのは目に見えている。もちろん、二つに関係はないというタテマエで断るのだけれど。だから、権力側に何も言われなくても、テレビは勝手に忖度して離脱タレントの起用をやめてしまう。まあ、これこそが、最も典型的な権力構造なのだけれど。

これはとどのつまり、こうした構造を下支えしたのが結果としてテレビというメディアであることを意味している。タレントを閉め出しているのは独占企業プロダクションとテレビ。つまり、二つは共同正犯なのだ。にもかかわらず、テレビ局はそうした責任性を顧みることもせず、自らのことはさておき他人事のようにこれら一連の報道を続けている。とはいうものの、どうもおっかなびっくりという印象もありありで、ジャニーズ、吉本への批判については歯切れが悪い。まあ、僕には、日和見かつ無責任の、みっともないことこの上ない存在に映るのだが……。

ちなみに、これらのスキャンダルに対しては、これに関わる人間や組織がどのように対応するかが、今後問われることになるだろう。その一つは独占状態にある組織に所属するタレントたちの立ち位置だ。ジャニーズについては中居と木村の立ち位置が問われた。そして今回は吉本の大物芸人たちがその立場に立たされるだろう。これについてはすでに松本人志がワイドナショーの特別生番組をフジテレビにもちかけ、自らの立場を表明しているが、この対応の仕方次第で吉本の大物芸人は芸人生命の死活問題となる可能性すらあるかもしれない。

今、テレビのあり方が問われている

だが、最も重要なのは組織、つまりプロダクションとテレビの立ち位置だ。プロダクションの方はすでに大きな打撃を受けつつあり、今後何らかの対応を余儀なくされるだろう。だから、ここはしばらく様子を見てみたい。なので、ここではテレビの方について考えてみる。もし、テレビがこれまで通り二つのプロダクションに媚びを売り続けるようなスタンスをとり続けるのであるのならば、これは大きな問題だ。いいかえればテレビの信用性の問題に関わる事項となる。中途半端、あるいは「寄らば大樹」「弱気を挫き、強きを助ける」のような態度を今後もとり続ければ、早晩、視聴者の信用は失墜するだろう。タレントたちと同様、テレビにも、もはや”賽は投げられた”のだから。

そして、この問題こそが「深層のマクロな問題」に通じている。いいかえれば、テレビというメディアの存在それ自体の今後のあり方の問題。ご存じの通り、インターネットの急激な普及に伴ってテレビの視聴率は漸減傾向にある。とりわけ、テレビ離れは若年層に著しい(若者は、もはやインターネットの方がテレビよりも圧倒的にアクセス時間が多いのだ)。テレビ局はもがき苦しんだ挙げ句、テレビ世代の中高年層をターゲットとしたドラマ(サスペンス物)、あるいは低予算で制作可能なトークバラエティを中心とした番組にその中心をシフトした。そして、後者での人員(タレント)の中心を担っていたのがジャニーズ事務所と吉本興業だったのだ(場合によっては前者もそうなのだが。事実、大岡越前を演じているのは東山紀之だ)。裏を返せばジリ貧でもがき苦しむ中、視聴者維持のために必死にすがっていたのがこの二つだったのだ。いわば”蜘蛛の糸にすがるカンダタ”状態。だから後者に関しては忖度するのがあたりまえだった。

しかしながら、前者については、視聴者はやがてこの世からいなくなっていく層であり、ジリ貧は不可逆的な流れ。そして、後者についても、今度はこうしたトラブルに若者たちが嫌気をさし、テレビ離れを加速化していく可能性がある。そうなってしまえば、テレビはもがき苦しんだ挙げ句、最終的に蜘蛛の糸は切れ、地獄に落ちていくことになってしまうだろう。

テレビというメディアが生き残るためは、今後これらの構造的な問題に対して主体性を持って立ち位置を視聴者に示すことが至上命題となるはずだ。巨大プロダクションにひるむことなく、自らの方針を明確に、そしてこれらに依存しない運営を志向する必要がある。テレビは、もっと自信を持って毅然とした対応をしなければならないのだ。それは言い換えれば「クリエイティビティを取り戻せ!」と言うことでもある。今回のジャニーズ事務所、吉本興業問題は、翻ってテレビというメディア自体の問題でもあること。そのこと自覚することから、テレビはまずはじめるべきだ。でなければ、恐らく未来は、ない。


気になる「象徴」ということば

皇太子(浩宮徳仁親王)が平成天皇に代わって令和天皇に即位した。平成天皇は在位中、自らの課題として「象徴天皇として何をすべきか」を常に考察し続けたと頻繁に言及されておられた。そして令和天皇もまた「国民に寄り添い、象徴の責務を果たす」と宣言されている。

「象徴」としての天皇は日本国憲法公布以来の理念であり、日本国民は「天皇は日本の象徴」と認識してきた。しかし、ここであらためて問うてみたい。果たして「象徴天皇」、いやもっとはっきりと問えば、「象徴」とはそもそも何を意味するのか。実は、このことばを子どもの時に教えられた際、僕はその意味がサッパリわからなかった。そして、その後も学問的に学ぶまではずっと曖昧なままだった。ということは、実は「象徴天皇」の「象徴」の意味をはっきり認識している国民は非常に少ないのではないか?(上から目線でスイマセン。しかし、誰に訊いても答はほとんど曖昧でした)。実際、常に「象徴」ということばには説明が加えられず、さながらブラックボックスのように扱われてきたように僕には思える(陰謀か?)。今回も、TVで象徴ということばが散々引き合いに出されているが、なぜかその説明はない。そこで、令和初日の本日、今回はこれを記号論的立場から考えてみたい。

記号論では記号(あるものがあるものを指し示す機能を備える事象全体を「記号」と呼ぶ。犬=ワンワンと吠える四つ足のペット動物、東京=日本の首都というように「名前と意味」のセットを記号と呼ぶわけだ。その典型は言語で、言語はあるもの=ことばそれ自体と、あるものを指し示すもの=その意味から構成されているからだ)には、その示すものと指し示されるものの関係=いわれの強さからイコン、インデックス、シンボルの三つがあるとしている。

もっとも「いわれ」の弱い象徴=シンボル

イコン(図像)の典型は写生した絵だ。つまり現物を写し取ったコピー。また、パソコン・デスクトップ上のゴミ箱のアイコンは本物のゴミ箱をカリカチュアライズしたもので、これもイコン。つまり現物とそれを指し示す記号には図像的に類似性=強いいわれがある。

次がインデックス(指標)で、その典型は、たとえば矢印や葬式会場を示す人差し指が差し出された貼り紙などが該当する。これらは「示すもの=部分」で「指し示されるもの=全体」を表すという特徴がある。後者(葬式貼り紙)の場合、人差し指(=示すもの)が指し示す方向にその全体、つまり葬儀会場がある。また「たこ焼き」という名前も典型的なインデックスで、これは小麦粉で作られたボール状の団子の真ん中にタコの小さな切れ端が入っているだけ、つまり全体の一部に過ぎないのに、事物全体を「タコ」という部分が代表称している。よく考えれば、このことばがおかしいのは、たとえば「いか焼き」をイメージしてもらえばいいだろう。こちらはイコン、つまりイカそのものが文字どおり示されている。もし、いか焼きと同じようにたこ焼きを表現すれば「小麦粉ボール、タコの切れ端入り」になるはずだ(その逆なら、いか焼きはイカの一部が入れられたこ焼き様の食べ物になる)。言い換えればインデックスとしての記号はイコンに比べるといわれが低い。

そして、最もいわれ、つまり示すものと指し示されるものの関係が薄いものがシンボル、つまり「象徴」だ。象徴=シンボルの場合、示すものと指しされるものの関係=いわれは全くない。赤い色をなぜ「赤=アカ」と呼ぶのかは全く根拠がないし、生まれた子どもに付けられる名前にも全く根拠がない。だから前者の場合、赤い色=指し示されるものに対応する示すものは文化によって異なる(英語=レッド、タイ語=デーン、イタリア語=ロッソなど)。後者の場合、生まれた子どもにどんな名前を付けてもいい(個人が勝手にいわれを付けることはあるが、そのいわれと生まれた個体との関係は全くない)。

こうした「示すものと指し示されるもの」の関係にいわれがないことを記号論では恣意性(あるいは任意性)と呼ぶ。ただし、このいわれのないものであっても、いったん関係が固定され、認知されてしまえば、二つの間にはさながらいわれがあったかのように強い拘束力が発生する。たとえば信号の赤色は「止まれ」で、他の意味解釈は許容されない。そしてこうした関係性が全くないものが無理矢理接続され、それがあたりまえになってしまった時、示すものは指し示されるもの全体を代替するイメージとして機能することになる。典型的な存在は会社のロゴで、たとえば自動車メーカーのロゴはその企業のアイデンティティを示し、消費者は車のデザインそれ自体よりも、むしろロゴから企業のイメージを喚起するようになる。つまり、関連が本来無いのに、示すものが指し示されるものと強く結びついたモノやコトのことをシンボル=象徴と呼ぶわけだ。

象徴の政治性

しかし、この示すものと指し示されるものの関係は、前述したように「恣意的」であるため、いかようにも組み合わせが可能だ。また「単なる象徴」と「人物や性格を備えた象徴」では、その性質が異なっている。単なる象徴の場合、示すものと指し示されるものの関係は比較的安定=固定している。言い換えれば二つの関係が揺らぐことは難しい。一方、人物や性格を備えた象徴の場合、関係は安定しない。示されるものが、その主体の行動でいかようにも変化するからだ。そして、天皇の場合、当然だが象徴としては後者の特性を備えている。だから「象徴天皇」という存在は常に議論の的となる。とりわけ政治的な側面との関わり合いにおいて、その関係が問題になるのだ。そうした意味では「象徴天皇」ということば自体が極めて曖昧なものであり、それだからこそ平成天皇は象徴天皇としての立場を考え続けさせられることになったのだろう。

二つの象徴、天皇とディズニーの類似性

では、天皇の象徴としての存在はどのようにあるべきだろう。そこで、ちょっと天皇家には無礼かも知れないが、機能的に類似し、かつ同様のよく認知された象徴を引き合いに出しつつ、天皇家のあるべき象徴としての存在について、その変動性の視点から考察してみよう。比較対象として取り上げてみたいのはディズニーだ。ディズニーという企業、そして文化にとって、その象徴=シンボルとなる存在は二つ。創設者のウォルト・ディズニーとウォルトの分身的存在であるキャラクター、ミッキー・マウスだ。

政治的なシンボルとしてのウォルトディズニー

まずウォルト・ディズニーという象徴の場合。ウォルトは1966年に他界しているが、その後もディズニーの理念を踏襲する人物、ディズニー精神の象徴=シンボルとして機能し続けている。ウォルトが考案し、後にディズニフィケーションと揶揄された、既存のストーリーからバイオレンスとセックス、複雑な展開を省略しハッピーエンドにしてしまう映画作りの手法や、ファミリーエンターテインメントの下、家族全体に娯楽を提供する遊戯施設・ディズニーランドを展開する戦略などがその典型で、死してもウォルトは依然としてディズニー社を支配する政治的な存在として君臨し続けている。つまり象徴=示すものでありながら、相変わらず示されるものを強く規定し続けている。これはタイの前国王・プミポーン国王も同様で、生前には単なる国家の象徴でありながら、政治に意見したり、またクーデターの際には再三収拾を図る存在として機能した。ともに、一件「君臨すれども統治せず」のスタンスにあるようでいて、統治の側面にまでコミットメントし続けたのだ。

キャラクターとしての存在の希薄なミッキーマウス

一方、ミッキーマウスはウォルトとは異なっている。ミッキーはウォルト同様、ディズニーを象徴する存在だが、ミッキー自体はディズニーには、ある意味直接関与しない。これはミッキーには性格がほとんどないことが影響している。性格に関してはミッキーマウスマーチの歌詞にある「強くて、明るい、元気な子」というキャッチフレーズだけ(かつては存在したが、時代とともにキャラクターは脱色された)。しかもミッキー自体は本編の映画にはほとんど登場しない(ほぼ、初期の作品に限定される。近年の例外的な作品は「アナ雪」の際、同時上映された”Get a Horse”程度。しかし、この映画で再現された、かつてのミッキーの乱暴な性格は現代のファンからは不評を買った)。だが、ミッキーは、こうした「キャラクター的には薄い存在」になったことによって、却ってディズニーの象徴としての機能を強烈に発揮することになる。ディズニー作品、ディズニーキャラクターにはロゴとして丸三つで構成されたミッキーが添付されるが、これによって、たとえそのキャラクターや商品がディズニー世界からは遠いものであってもディズニーブランドであることが証明されるからだ(東京ディズニーシーのキャラクター・ダッフィーはその典型だ。このキャラクターはディズニー的性格を隠れミッキーのマーク以外持ちあわせていないが、今やシーの看板スターだ)。つまり、自らはしゃしゃり出ず、透明な存在として他のキャラクターを応援したり、ただとりまとめたりしてディズニーブランドに寄り添うことで、ディズニー世界を担保するという機能を果たしている。もし人物やキャラクターとしての主張がれば、ミッキーはウォルト同様、政治的な存在となり、現在のようなブランド、そしてロゴとしての機能を失うだろう(だから”Get a Horse”は不評だったのだ)。言い換えれば、その存在は薄ければ薄いほど、象徴としての機能を果たす存在といえる。

天皇は象徴としてはミッキーマウス的であるべき

さて、ここまでお読みいただいた方は、僕が何を言わんとしているかはそろそろお解りだろう。象徴天皇としての天皇の役割は、現在のミッキーマウスの役割と同じであるべきということなのだ。ミッキーマウスはウォルトやプミポーン国王のように、自らの存在を結果として前に出すのではなく、自らは控えめで他のキャラクターの援護射撃をする、つまりこれらに寄り添うことでディズニー世界、そしてキャラクターやグッズがディズニー世界の一員であることを保障する。象徴天皇も政治的にはコミットせず、ただ国民に寄り添うことで、国民が国民であることを認知させるという機能を果たす。おそらく、これが象徴天皇としての役割であり、平成天皇が実践してきた様々な活動だろう。だからこそ全国各地を訪問して国民と関わり合いを持ち、また頻繁に被災地に慰問に出向いていった。そうした意味で平成天皇の象徴天皇としての実践は極めてまっとうなものであったと評価すべきではないだろうか。

問題は象徴天皇をコントロール可能なのが天皇だけではないこと

ただし、前述したように「象徴」、とりわけ人物がその対象となった場合には、その恣意性が高まることには代わりはない。そしてその恣意性、つまり示すものと指し示されるものの関係の接続=いわれの設定は、なにも天皇一人が操作できるものでもない。そのはじまりからそうであったように、天皇は政治的象徴として、本人の意図とは関係なく利用され続けてきたという歴史があり、あたりまえだが、そのことを看過することは出来ない。それゆえにこそ国民としても、天皇としても「象徴天皇とは何か」を問い続ける必要があるのだ。そして、繰り返すが平成天皇はそのことを常に考察し続けてきたと僕は認識している。

さて、令和天皇は象徴天皇という自らの役割をどのように規定するのだろうか?おそらく平成天皇同様、政治とはきちんと一線を引くという方向を採用するだろう。ただし、やはりここに象徴天皇を政治的に利用しようとする政治権力が登場することも事実だ。だから結局、平成天皇も令和天皇も、たったひとつのことだけは政治的にふるまわなければならないことになる。こうした政治的権力による象徴天皇機能の利用をいかに避けるかというメタ政治的な政治活動がそれだ。イギリス国王は「君臨すれども統治せず」を基本とするが、天皇は「君臨も統治もせず、国民に寄り添う象徴=ミッキーマウスであり続ける」ことが、令和天皇の課題となるだろう。平成天皇が目指していたように。

異論を唱えられ始めたピエール瀧報道

ピエール瀧のコカイン使用による逮捕については、その報道のあり方に異論を唱えるという、ちょっと変わった状況が生まれている。これは好ましい事態,だ。

瀧が逮捕されたとしても、瀧が出演していた過去の番組の放送中止や瀧が所属する電気グルーヴCDの出荷や音楽配信の停止はやり過ぎではないのか?薬物は病気なのであって、これは罰するというより治療という文脈で捉えるのが妥当であり、犯罪者としてつるし上げにするのはいかがなものか?有名人の薬物に関する報道は、むしろこうした薬物に苦しんでいる人々を奈落の底に突き落とす行為ではないのか?(「薬物報道」は、麻薬に冒された人間がさらに手を染める引き金になるという)。視聴率稼ぎのためにパパラッチもどきの報道を行っているメディアは、いわゆるイジメの構造と同じではないのか?などなど。

こうした指摘は、ある意味的を射ているといえるだろう。とりわけ違法薬物使用者に対するメディアの対応には酷いものがあると言わざるを得ない。だが、今回の問題、実はもっと根が深い構造的な問題ではないか。つまり、これは「ネット依存症によるメディアの堕落」なのだ。

メディアによるネット依存の構造

近年、メディアが報道する「お手軽な手口」はだいたいこんな感じになる。
インターネット上で何か話題が起きている。とりわけ有名人が炎上する。しかしインターネット上で炎上が起きているうちはまだいい。「炎上」だから、いずれ炎は燃え尽きる。いわば「家が一軒燃える程度」で。ところが、これをメディアが視聴率、購買率稼ぎのために取り上げた瞬間、「一軒家程度の火事」は「大火事」へと転じてしまう。一般に言われるメディアは、正しくはマスメディア。マス=巨大なオーディエンスを相手にしているので、結果としてはネット上のバイラルどころの話ではないくらい全国規模で拡散してしまうのだ。

ところが、こうした大炎上は必ずしも民意を反映したものではない。慶応大学の教員である田中辰雄と山口真一は『ネット炎上の研究』(勁草書房)の中で、攻撃的な書き込みをする炎上参加者はネットユーザー全体の0.5%に過ぎないことを統計的な視点から明らかにしている。だから鵜呑みにするのは厳禁なのだ。

ただし、こうした炎上ネタは興味本位、出歯亀的視点からは極めてキャッチーだ。つまりメディアとしては容易に数字を取ることが可能と考える。そこで、きちんと現状を精査することもなくこれらを取り上げ、それが結果として大炎上に繋がってしまうのだ。その際、よりキャッチーなネタが好まれるわけで、それは有名人のネタということになる(例えば、これを書いている僕が麻薬所持で逮捕されようが、メディアは見向きもしないか、せいぜいものすごい小さい記事で掲載する程度だろう)。

で、ピエール瀧は好感度も高く、今最も旬な芸能人。ところがコカインで逮捕。この落差は大きい、そしてキャッチーだ。当然、お手軽に数字を稼げる。となると麻薬に関するクリーシェ=常套パターンを引っ張り出して袋だたきにする。注射器、白い粉、街頭インタビューでの「信じられない」「がっかりしました」「裏切られた」的なコメント。こうやって一儲けのネタ出来上がりというわけだ。これは、いうまでもなくフェイクニュースの類いとなる。正確には事実を適当に組み合わせ、クリーシェに沿って内容を盛って大騒ぎにしてしまうという手順が「事実を事実でないものとしてでっち上げる」ことになるのだ。

マスメディアは信用を失い、飽きられはじめた

だが、今回、当のインターネット上から多数の異論が提出されるに至った。なんとピエール瀧に対する同情論とか、前述したような薬物中毒患者の扱いに関する報道のあり方への疑問、メディアに対する種々の批判等が投げかけられるようになったのだ。

これは、メディアがそろそろ、こうしたネット依存状況を真剣に捉えなければいけないことを突きつけられる時期がやってきたと理解してもよいのではないか。実際、メディアへの信頼はどんどん失われている。80年代、文系の大学生たちが憧れたのはメディアだった。しかし現在、メディアへの関心を強く持っている学生はかつてほど多くはない。こうしたパパラッチ的なやり方に、ちょっとウンザリしているみたいなのだ。強気を助け、弱気を挫く。都合の悪いものには直ぐに蓋をする(今回のピエール瀧の件はその典型。瀧の利益に関するものを全てカットしてしまうのは自己保身以外の何物でもないだろう)。そして、こうしたメディア嫌悪の認識、徐々に高まってきているように僕には思える。

メディア=マスメディアは、そろそろこうしたネット依存をやめるべきだろう。いや、ネット情報を取り上げること自体は問題ない。ただし、その際には厳密に裏を取るという作業をするべきだ。そして、自分たちにとって都合のよい情報だけでなく、都合の悪い情報も受け入れるだけの度量を備えるべきだ。いいかえれば、メディアはインターネット情報に対してナイーブすぎる。ネットへのメディアリテラシーをもっと高めなければならない。

だが、悲しいことに、こうした「メディア、酷いんじゃね?」的なネット上の議論をメディアは取り上げようとはしない。ピエール瀧がコカイン依存症であるように、メディアは「インターネット依存症」だからだ。だから、無意識のうちにこれら情報をスキップしてしまっている。「人を騙すには、先ず味方から」という諺があるが、現在のメディアは「人を騙すには、先ず自分から」という状態なのだ(おそらくこの文章もメディアは完全に無視するはずだ。可哀想な話だが)。つまり、完全に中毒=依存症。

メディアも依存症治療のための専門家が必要?

もし、メディアがこうした活動を続ければ、その信頼はますます失墜するだろう。だが依存症患者ゆえ、自らでは治療不可能。それゆえ失地回復、すなわち数字を稼ぐために、ますますパパラッチ的な報道に身を染めていくことになるのではないか。で、最後に待っているのは「死」だけだ。だから、早急な治療が必要だ。そんな時期に来ているのではないか?

その手段、ひょっとしたらSNSのようなメディアが持っているかもしれない。「毒をもって毒を制す」といった具合に。


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