勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

カテゴリ: 社会学

給食のカレー中止に因果関係、相関関係はない?

神戸市立東須磨小で発生した教員間暴力の際にカレーが使われ、これを踏まえてカレーが給食として出されることが中止された。そして、この対応に非難が浴びせられている。曰く「カレーに罪はない」「そもそもカレーとイジメ(正しくは暴力なのだが、学校で発生したため、なぜか「イジメ」と表記されることが多い(笑))に何の因果関係、相関関係があるのか」「意味がわからない」「問題はそこではない」「なにふざけてんだ!」などなど。今回はこの議論をちょっと別の視点から考えてみようと思います。つまり、次のようにも考えられる……


皆さん、完全に間違ってますよ。給食のカレー中止は全くもって正しい判断・配慮なのです。カレーとイジメの間に因果関係、相関関係があるか?因果関係というのはカレーを食べることによってイジメを結果する、あるいはイジメをすることによってカレーに対する食欲が昂進するという考え。そんなもん、もちろんありません。相関関係は、因果関係はわからないけれどカレーを食べる人はイジメをする傾向がある、あるいはイジメをする人はカレーを食べる傾向があるという考え。そんなものももちろん、ありません。


でも、カレーとイジメの因果関係、実はバッチリあるんですよ(相関関係はありません)。だから、中止するのは配慮としては残念ながら「適切」(※カッコ付きである点にご注意ください)なんです。


学生たちの英語トラウマ

全然関係のない話でこれを説明しましょう。

僕は関東学院大学の教員です。所属する社会学部は河合塾で45、ベネッセで51という偏差値(世間で言われているほど、そんなに偏差値が低いわけではありません)。偏差値というのは知能を測る目安の一つ。とりわけ処理能力を見極めるのに便利な基準です。もちろん、これ自体が頭の良し悪しを判断するわけではありません。これに統合能力やコミュニケーション能力が加わって、総合的に「頭の良さ」は決まるわけなんですが、世間的には偏差値の高さ=頭のよさというステレオタイプがまかり通っている(こんな単純な基準を信じ込んでいる人こそ「頭の悪い人」なんですけどね)。


で、この程度の偏差値だと、学生たちの多くが自らを「負け組」と認識している。実際、僕の大学の学生の多くが早慶上智、GMARCH、日東駒専と呼ばれている大学を落ちてやってくる。だから受験へのコンプレックスは強い。


彼らに共通する問題は「英語」がダメだったこと。というのも、英語は数学と並んで処理能力を最も問われる科目。そしてほぼ全ての一般入試の試験科目として設定されている。しかし処理の訓練を受けていないので高偏差値が取れなかった。その結果、僕の大学にやってくるわけです。


だから、彼らは「自分は英語が出来ない、だから受験戦争に負けた」という、ヘンなトラウマ=コンプレックスに苛まれています。たとえば授業中、突然英語の話をするととても面白いことに。彼らは、この話を反射的に拒否するのです。つまり「その話はつらい。や・め・て!」


その一方で、こんなこともありました。僕は毎年、自分の学生をタイに連れて行ってフィールドワークをやらせているのですが、実施に先立って彼らに100程度のタイ単語を学んでもらっています。まあ、簡単な挨拶とか、トイレの訊ね方とか、料理のメニューといった、たわいのないものなのですが、これを覚えてタイに行くと面白いことが起こる。彼らはたった100語程度の単語を使って、タイ人とコミュニケーションを始めるのですが、実に楽しそうにこれを駆使するのです。


ある日、その中の一人が僕に言いました。


「先生、タイ語はこんなに楽しいのに、なんで英語はあんなに辛いんでしょう?」


僕は、次のように返答しました。


「君たちは英語が嫌いなんじゃない。中学から英語を勉強する中で得てきた英語にまつわる経験が嫌いなんだよ。つまり英語が出来なかったから受験がうまくいかなかった。このトラウマが君たちを英語嫌いにさせているんだ。一方、タイ語にはそれがない。だから嬉々として使いまくっているわけなんだよね。だから英語それ自体には罪がないんだ。もし、英語にこうしたトラウマ的経験がなかったなら、英語嫌いにはならなかったはず。タイ語みたいに楽しめたはずだよ!」


こうした英語にまつわる経験に対するもうひとつの、そして裏のメタな認識レベルのことを、言語学では共示義と(connotation)呼んでています。たとえば、ベンツを購入する動機の多くは「移動手段」という機能面でのベタな理由(これは表示義(dennotation)と呼びます)よりも、「ベンツに乗ることはステイタス」という共示義に基づいている。彼らにとって英語はこのネガティブバージョンというわけですね。これがトラウマの源となっている。


カレーとイジメのメタ因果関係

さて、話を戻します。今回のカレーは、この共示義(connotation)の立ち位置からみると、完全に因果関係があるとみなすことが出来ます。彼らは、自分たちの先生が「カレーを用いて同僚の先生を虐めた、あるいは虐められた」というネガティブな認識を持っている可能性が高い。とすれば、給食にカレーが出てくることで「先生が虐められた」「先生が虐めた」というトラウマ=共示義が現れる。原因=カレー、結果=イジメという図式がこちらのレベルで成立しているわけです。学校側がこうした前提に基づいているとすれば、カレーを給食に出さないという配慮は全くもって適切な対応と言わざるを得ません。カレーそのものには何ら責任はありませんが、カレーにまつわる共示義=経験が因果連関的に問題となるというわけです。


さて、ここまでカレー給食中止という配慮の、いわば「メタ因果関係」レベルでの「適切性」を展開してきましたが、ご了解いただけたでしょうか。


心の骨粗鬆症

で、ここから一気にちゃぶ台返しします。こうした配慮は、実はその立ち位置を振り返った場合、不適切なものになってしまいます。つまり、問題はこのメタ因果関係に基づいてカレー中止という配慮を行う際に、学校側が考えた「適切さ」の立ち位置にあります。


はっきり言いましょう。実は、こちらの方こそが「なにふざけてんだ!」なんです。


ここ十数年くらいの間に生まれた言葉に「心が折れる」「心のケア」があります。僕は、このことばが嫌いです。これらは哲学・社会学用語で説明すると構築主義的に作られた言葉です。構築主義とは、ざっくり言ってしまうと、新しいことばが作られると、それが現実になるという考えです(たとえば統合失調症(分裂病)、LGBT、まったりとした味といった表現が構築主義的に誕生した典型的なことば。ちなみに構築主義が良いとか悪いとかはありません。これはいわばシステムなのでニュートラルなものです)。カレー給食をやめるというスタンスは、児童が「心が折れないように」、言い換えればカレーを提供することで先生間で発生したイジメが想起されるようなネガティブなトラウマが発生しないように「心のケア」を行うという配慮でしょう。


でも、誰がこんなひ弱な子どもを作ったんでしょう?この程度のトラウマでも簡単に心が折れる恐れがある。だから折れる前に心のケアをすべきってなことなんでしょうか?でも、それじゃあまりに脆弱性が高すぎませんか?この程度で心が簡単に折れるんなら、子どもたちはいわば「心の骨粗鬆症」。すぐにポキポキ心が折れる可能性が高い。だからこそ早めの心のケアが必要だということなんでしょうか?


しかし、この程度で心が折れる子どもたちが大量にいたとしたら、実はそっちの方がはるかに問題であることに気がつかなければならないはずです。いわば、彼らは「心のカルシウム不足」。ということは、こうした対応をする前に大人側は子どもたちに心のカルシウムを投与し、強靭な心、この程度のことでは折れないような強靭な骨を作ってあげる必要があります。そうすれば、カレーとイジメの因果関係など想起されなくなる、あるいは想起したとしても乗りこえられるはずです。その対処法もちろん教育にあります。ただし、これは学校教育に限定されるのではなく、家庭内教育も含む、いや社会全体が取り組むべき「心のカルシウム不足対策」なのです。


ところが今回行われた学校側の対処法は、いわば「折れた骨に添え木を当てる、あるいは松葉杖を与える」と言った対蹠療法。ということは骨粗鬆症自体は改善しないどころか、カルシウム不足は昂進するので骨粗鬆症のさらなる悪化を招く危険性が高くなる。そうすると、さらに高度な添え木や松葉杖が必要になってくる……という悪循環が発生します。でも、なんでこんなその場しのぎの配慮を行ったんでしょう。今回については理由は簡単です。ようするに配慮を行う側(学校側)がカレーとイジメの因果関係を想起してしまうような脆弱な心を持っているからです(あるいは責任逃れかもしれませんが?)。言い換えれば、配慮を行った側がすでに骨粗鬆症。そして、添え木・松葉杖を当てることしか対応を知りません。しかし、その対蹠療法を子どもに施すことによって、今度は子どもがさらに心の骨粗鬆症になっていくという悪循環が発生しているのです。


心が折れないための心のケア(ただし訓練)の必要性

心が折れないように、心のカルシウムを提供する方法は、当然のことですがこうした心の脆弱化のスパイラルを止めることです。具体的には今回の出来事を子どもたちに相対化させるような躾や教育を施すことに求められます。


一例を考えてみましょう。ちょっとショック療法的かもしれませんが、僕はこの教員による教員イジメをみて、子どもたちの一部がこれを真似するといった状況が出現する方が、ある意味でむしろ健全と考えます。これくらいのレジリエンスを備えた子どもたちのほうが、むしろ強靭な人格、心の骨を作ることができるはず。状況を相対化するきっかけになるからです(絶対ではありませんが)。そうすることでイジメに耐えうる、そしてこれを解決しようとする心の育成が可能になる(「イジメをなくす」「イジメを回避する」といった現在のやり方は、全く現実的ではありません。はっきり言いますが「イジメがなくなる」というのは人類が絶滅することとイコールです)。アメリカ的(あるいは森田療法的)なやり方ならば、この問題について子どもたちの間で議論をさせるという方法もあります。


残念ながら、現在の教育は明らかに過保護と言わざるを得ません。心のカルシウムの投与と身体の訓練を私たちは考える必要があるのではないでしょうか。そして、これこそが「心のケア」と考えます。


カレー給食の中止は認識論的には完全に正解、存在論的には完全に間違いなのです。

福田前事務次官を巡るセクハラ問題、そしてTOKIO山口達也氏のわいせつ問題がメディアを賑わせている。しかし、この二つのメディア報道、あまりに稚拙、無知といわざるを得ない。しかも害悪。どれだけこれが酷いのかを、わかりやすいよう小学校社会科で学ぶ学習項目「基本的人権の尊重」「三権分立」で説明してみよう。題して「小学生でもわかるセクハラ問題報道の誤り」。

福田前事務次官の人権保障は当然

先ず基本的人権の尊重の点から考えてみよう。これは「人間は誰でも生まれながらに備えている人間らしく生きる権利が尊重されなければならない」という、誰でも知っている日本国憲法の三大基本原則の一つ。この視点から考えると福田事務次官のセクハラ疑惑についてはセクハラという前に、先ず人権問題として捉える必要がある。言い換えればセクハラ、パワハラといったハラスメント全般は人権問題のサブカテゴリーだ。麻生財務大臣は「福田の人権はどうなるんだ」とコメントしたが、これは「人権尊重は国民全体に向けられるべきで、セクハラ被害を受けたとするものもの、セクハラをしたとされるものも等しく人権が守られなければならない」という意味だ。それゆえ麻生大臣のこのコメント自体は憲法的にはしごくまっとうだ。野党やメディアがこの発言それ自体を非難するのはお門違いも甚だしい。ネガティブな文脈を勝手につけて非難しているだけだ(大臣のその他の不用意な発言については話は別だが)。だから、この人権尊重に基づく「疑わしきは被告人の利益(あるいは「疑わしきは罰せず」)」を適用すれば、どれだけ疑惑があったとしても福田事務次官の人権も守られなければならない。ところがメディアは確たる証拠もなく福田次官を「クロ」と勝手に認定し、バッシングを展開した。いうまでもなく、これは人権蹂躙、つまり憲法違反。だから、後に福田氏が人権侵害としてメディアを訴えたとすれば勝訴の可能性が極めて高い(これは仮に福田氏がセクハラを行っていたことが確定したとしても同様だ。事実を踏まえず被疑者を攻撃した事実はセクハラの有無とは関係がない。「疑惑の銃弾」でバッシングを受けた三浦和義氏が起こした数々の訴訟の件を振り返ってみれば、これは容易に想像がつく。三浦氏はほとんどの訴訟でメディアに対して勝訴している)。もちろん、福田氏のパワハラが実証されたならば、もはや「疑わしくはない」ので、叩くのは問題ないが(もちろん、事実に基づかなければならないけれど)。

財務省は福田氏を裁けない

でも、財務省が今回の件をセクハラ認定したから問題ないじゃないの?いや、そんなことはない。福田氏についての人権は、それでもまだまだ有効だ。少なくとも本人が否定しつづけるうちは。なぜか?それは日本が三権分立に基づいているからだ。三権分立は司法(裁判所)、立法(国会)、行政(内閣)がそれぞれ独立し、互いを牽制することで権力の一極集中を回避するシステムだ。ということは、裁判沙汰の白黒は最終的に司法がやるべきこと。財務省がセクハラ認定したところで法律上はセクハラ確定にはならない。言い換えれば福田氏が裁判に訴え出て、そこで初めて白黒がつくのだ。そして、万がいち福田氏側が勝訴した場合には、損害賠償が発生する。その賠償金を支払うのは誰?いうまでもなく国民、つまり税金によって賄われるわけだ。これは言い換えれば財務省が腹を括ったということでもある。

実際、セクハラ認定は極めて難しく、慎重を要するものなのだ。僕は職業柄(大学教員)、あちこちの大学内でのセクハラ問題についてはしばしば耳にするのだが「極めてクロに近い」としても、最終的に裁判でハラスメントを受けたとされる側を擁護した大学当局側が敗訴する(つまり被告の勝訴)例は多いのだ。それは「疑わしきは被告人の利益」という原則に沿っているからに他ならない。

人権侵害(パワハラ・わいせつ)が確定していても無罪を言い渡すメディア

一方、今回の件で人権問題的にクロが確定しているものが二つある。一つはテレビ朝日で、件の女性記者が福田氏に複数回にわたってセクハラを受けていると上司に訴えたにもかかわらず、これを握りつぶし、女性記者にただならぬ精神的な苦痛を与えてしまった。もちろん、これはパワハラ=人権問題だ。そして、騒ぎが大きくなったところでテレビ朝日側はこの件を認める記者会見を行った。この時、加害者=テレ朝、被害者=女性記者。両者は事実を認めているので、ここでテレ朝のパワハラは確定している。とんでもない人権蹂躙。しかし、報道ステーションでは「カンベンして」的なコメントがなされた。他局も新聞社もこれを大きくは取り上げない。繰り返すが、こちらは福田問題と異なりパワハラが確定している。ならばなぜ、メディアはおおっぴらに叩かないのだろう?完全に矛盾している。

次に山口達也氏の場合。これもテレ朝とまったく同じ構図で説明が可能だ。加害者=山口達也、被害者=女子高生で、加害者、被害者ともに事実を認定しているわけで、これはわいせつとしてはクロが確定している。書類送検も行われた。しかも相手が未成年なのは状況がさらに悪い。ゆえに、アイドルとしても完全にイメージを失墜させているはずだ。ところがメディアはなぜか山口氏を厳しく責めることはしない。それどころかこの問題に絡んで、メディアは山口氏を「TOKIO山口達也メンバー」という「メンバー」という敬称をつけた呼び方をする。これが極めて奇妙なのは、たとえばダチョウ倶楽部の上島竜兵がこの手の問題を起こしたら「ダチョウ倶楽部上島竜兵メンバー」と呼ばれるなんてことはないと考えればよくわかる(上島さん、すいません。いちばん不祥事を起こしそうもない人と考えたので喩えにさせていただきました)。つまり、もはや人権侵害確定の人物をここでも責め立てることをしないのだ。これまた完全に矛盾している。これは2006年に極楽とんぼの山本圭壱がおこした性的暴行事件を踏まえればコントラストが明瞭だ。山本は完全に干され芸能界へのメジャー復帰が2015年まで叶わなかった(そして、いまだにあまり露出が許されていない)。これと比較すると山口氏へのメディアの扱いは実に奇妙といわざるを得ない。状況的に同じなのだから山口氏も今後10年間くらいはメジャー復帰は叶わないはずだ。しかし、恐らく数年で復帰するだろう。だって天下のジャニーズ「メンバー」なんだから(笑)どうなってんだ、これ?

迷走するメディアの立ち位置

いや、ようするにこれはメディア全般がポピュリズム、スキャンダリズムに基づいたイエロージャーナリズムだから仕方がないと、ちゃぶ台返しをしてしまえば理解は簡単なのだろう。ここで、僕が指摘するような内容、つまり人権尊重、三権分立に基づき淡々と処理するという冷静さを、もはやメディアは失っている(ちなみに、ここで僕が展開している指摘はインターネット上ではかなりの人間が繰り広げているのだが、これをメディアは取り上げない(政治家も同様))。しかし、この問題は小学校の社会科の学習項目だけで理解できる内容なのだ。

そして、こうした報道はジェンダー、人種問題を含む人権問題全てを悪しき方向に導く恐れを備えている。メディアの報道は、むしろわれわれ一般人の「無意識の偏見」(今回の場合、女性への)を助長する可能性があるからだ。むやみにセクハラと騒ぎ立てること(この場合、責め立てる対象が政府高官という権威の階梯の最上位ゆえ、つるし上げると面白い、言い換えればジェラシーを満足させる存在への注目)、パワハラなのに女性差別問題を取り上げないこと(この場合、責め立てる対象がテレビ局という当事者ゆえ、責め立てると天に唾することになり、都合が悪いという事情)、わいせつなのに加害者をあまり責め立てず、むしろ擁護する側にまわること(この場合、責め立てる対象がアイドルかつジャニーズ事務所というお世話になっている団体とその所属員なので、責め立てると今後の営業上都合が悪いという事情)。こうしたメディアの勝手な都合、ジェンダーに対した迷走する立ち位置(しかも無意識なそれ)は、ジェンダー問題についてのより本質的な議論が知らないうちにスルーされてしまうどころか、却ってジェンダーに対する無意識の嫌悪感を生んでしまう恐れさえあるのだ。そのへんの自覚がメディアには全くない。一般女性にセクハラしているのはメディアさん、ひょっとしてあなたの方じゃないんですか?

なので、メディアの皆さん、政治家の皆さん。小学校へ行って社会科の勉強をしましょう。ちなみに、これは小学6年生の学習項目です。

421日、読売新聞で「水に流せない!“女子トイレ行列”問題」という記事が掲載された。男女平等とは何かを考えさせてくれるよい記事だ。そこで、これを引用しつつ「男女平等とは何か」についてあらためて考えてみたい。

女性のトイレ利用時間は男性の2.5倍

記事の中でトピックとして用いられているのは大正大学人間学部・岡山朋子准教授の研究で、具体的には高速道路のトイレ(おそらくサービスエリアのそれ)の現状についてだ。ゴールデンウイークともなるとこうした場所の女子トイレの前には行列が出来るのが慣例だ。その一方で男子トイレで行列という事態はあまり見ない。

この原因は女性のトイレ利用時間が男性よりも長いため。NEXCO中日本の調査では女性は男性の約2.5倍の時間がかかるという。それゆえ、現状は面積の上での男女平等に過ぎず、利便性の平等とはなっていないと結論している。

確かにその通りで、今まで「女子トイレはいつも混んでいるよな?」くらいしか思っていなかった自分がちょっと情けなくなった。そして、この問題は踏み込んで男女平等はどうあるべきかについて考えさせてくれるものでもあった。

女性を男性にしようとする男女平等

男女平等は、あたりまえの話だが「何事につけても男性と女性を平等にする」という立場だ。だが、この立場はよく考えてみる必要がある。というのも、残念ながら現状、社会は男性性を中心に構築されている。ということは、現段階ではこの前提に基づいた社会的平等は結局、女性を男性と同じレベルに引き上げる、もっと言うと女性を男性にするという怪しい立ち位置になってしまうからだ。これは女性の立場を全く踏みにじっている。

たとえば賃金格差などは最たるもので「女性は出産するから重要な仕事には使えない」みたいなモノノイイがその典型だ。これは男性が出産しないことがデフォルトになって社会構造が成立しているだけだ。もちろん政府も含めて男女共同参画社会が提唱されてはいるが、こうした平等を謳いながら、その実、男性社会に女性をはめ込むような流れがいまだに主流のままというのはやはり問題だろう(男女賃金格差や職業機会・離職率・政治参加率の相違などは、日本社会における男女差別が依然深刻であることを示している。事実、2017年世界男女平等ランキングで日本は114位、しかも前年度より3位後退している)。

言い換えれば社会は「男性社会への女性の組み込み」ではなく「人間社会への男性と女性の組み込み」でなければならない。それは男性と女性が共生可能な社会ということになる。それについて問題を投げかけているよい一例がこのトイレ問題だろう。

トイレの男女平等一つをとっても、なかなか簡単ではない

ただし、人間社会、つまり男女差を認識しつつ、双方が平等に暮らすことの出来る社会の成立のためには、もう少し突っ込んだ議論が必要だ。その難しさをちょっと考えてみよう。

まず小さな問題から。前述のトイレ問題で考えてみたい。ここでの平等はとりあえず「待ち時間の平等化」としよう(別の平等性もあるかもしれないが)。そのように考えた場合、サービスエリアでの女子トイレの数を男性の2.5倍にするだけでは不十分なことがわかる。

利用時間差が男女で2.5倍が正しいとして、これを踏まえながら平等を考えれば次のようになる。

先ず、共学の中学や高校の場合。生徒数が男女比11ならばトイレの数は2.5倍でいいだろう。ところがこれが東京ディズニーランドなら正しい比率ではなくなってくる。というのも来園者の男女比率が73だからだ。ということは7÷32.3の倍率をこれに掛け合わせて5.8倍にしなければならない(ディズニーランドはトイレ数を供給過多にすることでこれに対応している。なので男性トイレはほとんどいつもガラガラ。サービスエリアと違って自分とカミさんが同時にトイレに入っても、さして変わらぬ時間でトイレから出てくことが出来る。このへんはよく考えている)。

これが件のサービスエリアならもっとややこしい。通常であるならば現状では運転を職業とする労働者の割合は男性の方が高い。となると、この割合を鑑みる必要がある。つまり2.5倍は高すぎる。ところが、大型連休となればレジャー利用客が大幅に増えるわけで、その際には女性比率はグッと上がる。そうなると、今度はこれを踏まえたトイレの構成を考慮しなければならない。具体例として考えられるのは、たとえば可動式の壁を設けて時期に応じてこれを移動させ、男女のトイレ比率を変更するというやり方。こうした方法については現代ではビッグデータを利用すればある程度の予測は可能になるだろう。ただし、女性は小便器を利用しないわけで、これをどう考えるかも問題だ。小便器は大便器よりスペースを取らないことも考慮する必要がある。ということでなかなか難しい。

ジェンダーは変容する

そして次にもっと大きな問題。この手の問題を考えるときに前提にされているのは言うまでもなく”ジェンダー”。これは生物学的な性別ではなく社会文化的に形成された性別を指しているのだが、「社会的」という前提がある限りその位置づけは常に安定しない。文化、歴史によって絶え間なく変動する。ということは、これを踏まえて既存の女性、男性双方のジェンダー定義を不断に変更し続ける必要がある。当然ながら前述した「人間社会」という定義もこれを踏まえつつ変更しなければならないし、そこから平等の定義も模索し続けなければならない。つまり“永遠の課題”となる。トイレ問題にしても、今後用足しのスタイルが変わることもあるかもしれないし(例えば男性全員が座って用を足すようになるとか。ちなみに我が家はそうなっています(笑))、運転を職業とする労働者の女性比率が上がることも考えられる。こうなるとこれに対応した基準を再設定する、いや再設定し続ける必要があるわけだ。で、忘れていたが、実を言うと生物学的な性別とジェンダーの線引きもハッキリしていない。つまり、やっぱりなかなかややこしい、難しいということになる。

でも、やるんだよ!

議論し続けていくことの重要性

ここ一ヶ月の間に女性の立場をどう考えるかについての事件が二つほど発生した。一つは相撲の土俵に女性が上がることの是非、そしてもう一つは財務省のセクハラ問題だ。これらについて僕はブログである程度言及してきたが、双方に共通するのは、まだまだ議論が未熟であることだ。「人間社会における男女平等」への道は険しいものがある?という印象を拭えない。それでも、男女差を解消するためには、こうした議論を続けていくことが絶対に必要だ。残念なのはこれらを報道しているメディアの認識レベルがあまりに低いということだろうか。福田事務次官を批判しているテレビ朝日がセクハラの訴えを隠蔽したという事実はそのことを如実に物語っている。役人(福田)も政治家(麻生、小西・辻本などのこの問題を追及する政治家)もメディアも女性差別しているのだが、それに気づいていない。みなさん、もっとジェンダーの勉強をしましょう!(もちろん、自分も含めてですが(^0^;))

ただの間違いなんじゃないの?

44日のこと。すでにメディアでよく知られている事件だが、京都府舞鶴市文化公園体育館で開催された大相撲の春巡業で、土俵で挨拶中の多々見良三市長がくも膜下出血で倒れ、女性医療関係者が土俵に上がり救命処置を施した際に、土俵上での女人禁制のしきたりに基づき「女性の方は土俵から降りてください」のアナウンスがなされたことが物議を醸している。さらに一部のメディアは騒ぎが一段落ついた時点で土俵に塩がまかれたことについても批判的な論調で報道をおこなった。加えて6日に開かれた宝塚市の大相撲地方巡業で中川京子宝塚市長が「土俵で挨拶したい」と希望したにもかかわらず相撲協会から断られたことについて「女性や知事の市長も増えている。女性の総理大臣が現れたとき、土俵に登ってはいけないのか」と意見したことが、さらに議論を賑わせている。

さて、これらの展開、僕にはどうも奇妙なものに思える。簡単に言えば、最近流行の「協会バッシング」の一環にしか思えないからだ。メディアの論調は極めて一方的であり、また論理を勝手にすりかえている。まあ、騒ぎが大きくなって視聴率が稼げればよいと言うことなのだろうか。いいかえれば「弱いものイジメ」にも見える。調子こいているようにしか思えない。

騒ぎの奇妙な点を時系列に沿って整理してみよう。先ず多々見市長が倒れて、その直後に女性があがったことが咎められた件。これは完全にアナウンスした方が誤っている。担当者=行事のアタマが固すぎたのだ。このことは類例に喩えれば簡単だ。たとえば女性が公衆トイレで同様に倒れ緊急の処置が必要になったとする。その際、近くに医療関係者の男性がいれば、当然、女性トイレに入るだろう。さらに救急救命士が男性の場合(現在、多くが男性)、躊躇亡く女性トイレに入る。そしてこれを咎める人間などいないだろう。いるとすればアタマの固いフェミニストくらい。つまり「男性禁制の場になぜ入ってくるのか」という主張になるのだが、そんなフェミニストがいるわけはないだろう。ところが、これを今回はアタマの固い協会の人間=行事が気が動転してやってしまった。先ずは人命が尊重されるのがあたりまえなのだから(もちろん、こういう動転する人間が存在することが日本相撲協会がさまざまな問題を引き起こす構造的問題点を象徴しているともいえるのだけれど)。

相撲協会も、これについては八角理事長名義で謝罪を行った。つまり、「行事が動転して呼びかけてしまいました。不適切な対応でした。深くお詫び申し上げます」さらに「とっさの応急処置をしてくださった女性の方々に深く感謝申し上げます」ともコメントしている。つまり、事件それ自体は「単なる間違い」。だったら、とりあえず、これでチャンチャンでよろしいのでは?

「女性差別問題」を利用する潜在的女性差別主義者?

ところが、ここから議論がすり替わる。先ず一部メディアが多々見市長を担ぎ出した後、土俵に塩をまいたことを指摘。これは、明らかに「女性は不浄な存在だから塩をまいたのだ」という女性差別認識に基づいた行動と判断しての報道だった。もちろん、これは間違い。何か事があったら土俵に塩をまくのはごく当たり前のことで、これは事件の後のお清めくらいの意味しかないだろう。ましてや女性が土俵に上がってきたことと接続するのはあまりに無理がある。というか、そういう判断を無意識に行い報道するメディアの方がはるかに女性差別主義者と言わざるを得ない。女性差別主義者はアンタだよ!

さらに宝塚中川市長のパフォーマンスも極めて政治的だ。彼女もまた行事が動転してポカをやったことをスルーし、議論の対象を相撲の土俵での女人禁制にすり替えている。この市長も、極めて嫌らしい存在に僕には思えた。中川市長の行動もメディア同様、浅はかでスタンドプレイ的なパフォーマンスとしか考えられない。現状では土俵に上がれないのは伝統上あたりまえ。ここでゴリ押しをしても無意味なことが解らないこの市長が僕には少々哀れに思えた。この議論は別の「土俵」でやるべきことなのだ。「相撲の伝統についての議論を戦わせる」という土俵で。

間違えないでもらいたい。ここまで僕は土俵上に女性があがることの是非を議論していない。もちろん、相撲という伝統と男女平等をどのように考えるべきかは当然議論すべき対象だ。個人的な見解を述べれば、いずれ女性が首相になった際に、幕内最高優勝の力士を表彰するのが女性であってもよいと思う。この議論はもっとやって然るべきだろう(今回の事件が、そのきっかけになるとすれば、それはそれでよいだろうが)。むしろ、ここで指摘したいのは、この「議論のすり替え」だ。このすり替えの背後に潜んでいるのはメディアと中川市長の利権獲得(視聴率、そして支持率アップ)という私的欲望に他ならない。しかも、このメカニズムが無意識に作動しているところが怖いのである。そして、こうした無意識の私的欲望の作動、実は女性を無意識に差別している人間たちのメカニズムと何ら変わるところがない(そういえば昨日(49日)、NHK7時のニュースで真っ先に大谷翔平の大リーグでの活躍が大相手機に報道され、同じ時間帯に発生した島根の震度5を超える地震の報道が後に持ってこられたことを友人がfacebook上で嘆いていた。友人が指摘しているのもこれもまったく同じメカニズムだろう。つまり、NHKも視聴率優先を無意識にやっている)。

だから、メディアのこうした怪しい報道や政治家のパフォーマンスは適当にスルーしたほうがいい。今回の事件。間違いと女性差別問題。先ずは切り離して考えないとアブナイ!

企業が実施している新卒採用に向け活動の一つにインターンシップがある。これは、企業が自らの職場を利用してリクルート学生に一定期間、特定の職業経験を積ませるもの。米国では二十世紀初頭から始められていたが、わが国での本格的な導入は90年代後半から。近年では60%近くの企業がこの制度を採用している。
 

インターンシップはリクルート学生、企業双方にメリットがある。学生側は大学在籍時に実社会の経験が積め、また志望する職種・企業とのマッチングを図ることが出来る。企業側は学生の適性を見ると共に、学生との関係構築が可能だ。インターンシップは、いわば「お見合い」なのだ。

 

しかしながらこのお見合い、あまり功を奏していない。2000年代以降の新規学卒者の三年以内離職率が平均33%にまで達しているのです。言い換えれば、マトモに機能していないということになる。

 

この原因の一つは制度の形骸化にある。インターンシップといっても、1日だけの「説明会」でしかないものが多いのが現状なのだ。これは政府が本制度実施を企業に指導したことに対するアリバイ的な対応だろう。こんなことをやっている企業、はっきりいってお里が知れている。目先のことしか考えていないのは明かだ。

 

むしろ企業は本格的なインターンシップを実施した方がメリットを得られるはずだ。これが本当の「お見合い」ならば、互いをじっくりと観察することが出来、そこから相互のミスマッチを減らすことが可能になる。それによって入社した社員は企業に愛社精神を抱き、長期にわたり献身的に働いてくれるようになるわけで、結果として企業のクオリティ自体を高められるのだ。要は「企業は人なり」。長期的な経営視点に立つならばインターンシップの充実ほど有意義なものはないことを、そろそろ企業を自覚すべきだろう。リクルート産業に丸投げみたいなことをやっているようでは、企業の人材確保はおぼつかないのだから。

 

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