勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

カテゴリ: ディズニーいろいろ

情報消費におけるオリジナルとコピーの逆転

観光とは、その多くが「情報消費」といっていい。情報消費とは「それ自体を楽しむよりも、むしろそこに付随する情報を確認すること、そして楽しむこと」。とりわけ海外旅行のパックツアーはその典型と言える。たとえばパリの観光ならばエッフェル塔、凱旋門、オペラ座、モンマルトルの丘、ルーブル美術館、セーヌ川クルーズ、そしてちょっと出かけてベルサイユ宮殿。あとはフレンチを舌鼓し、カフェでパリジャン・パリジェンヌ気取りになり、ブランド物を買いあさる。

こういった観光をしているとき、われわれはある種の認識の逆転現象の中に置かれている。「コピー=ヴァーチャル」と「オリジナル=現実」の逆転という現象だ。観光客はパリの観光地を訪れる前にガイドブックやビデオでこれらの情報や画像・映像をチェックする。そして、現地ではそのチェックした情報を確認するのだ。ということは「オリジナル=パリ/コピー=パリの情報」が、「オリジナル=パリの情報/コピー=パリ」に転じてしまっている。「パリ(1)はやっぱりパリ(2)だったわ」とその感想を述べれば(1)が現物、(2)がコピーになる。そう、ヴァーチャルなオリジナル(2)を確認するためにリアル=現物というコピー(1)をチェックしに行くわけだ。こういった「現物に付けられたタグが最初にあり、そのタグを付けられた現物を確認すること」こそ情報消費に他ならない(ちなみに、一見わけのわからない抽象画を鑑賞する場合もこの情報消費が該当する。われわれはタイトルを見たり、解説を読みながら作品を見るのだから)。

そして、日本人にとって東京ディズニーリゾート(ディズニーランド+ディズニーシー+α、以下TDRと略)は究極の情報消費空間とみなすことができる。TDRを訪れるリピーターのゲストのほとんどがパークに関する情報を「徹底的」に仕込み、これを「確認するため」にパークに出かけるからだ(一見客は含まない)。

ただし、この「TDRにおける情報消費」、インターネット出現以前とその後(厳密には2000年あたりからの急速な情報化の進展前と後)では、かなり様相が異なっている。そして、それがパークの雰囲気を一変させている。今回はこのことについてメディア論的に考えてみよう。結論を先に述べておけば「TDRはどんどんヴァーチャル=情報が肥大し、膨大な情報消費空間と化していく、そしてそれがリアル=現実の空間を変容させていく」となる。

インターネット以前:マス的な情報消費

83年に東京ディズニーランドがオープンしたとき、多くの人間はディズニー世界についての知識=情報をほとんど持ちあわせていなかった。六十年代、日テレで「ディズニーランド」という番組が放送され、ディズニークラッシックが定期的にロードショー公開されていたので、この時代の世代(現在の五〇代半ば以上)はそれなりにディズニーを認知していたが、七十年代に入るとディズニーはオールドファッションとみなされ、いわば「荒唐無稽な絵空事」として、わが国からはほとんど駆逐されてしまっている状況だった。だから、パークがオープンされたとき、日本人のディズニー情報は一旦リセットされた状態=初期値にあったといってよい。

そこで、パークを軸にディズニー世界のプロモーションが展開されることになった。それはマスメディアを用いた一元的な情報の流布だった。ビデオの普及とともに、かつてのクラッシックアニメ映画が販売=レンタルされ、さらに80年代の終わりからはディズニーアニメの第二の黄金期(「リトル・マーメイド」「美女と野獣」「アラジン」「ライオンキング」)到来によって、広く認知されるようになる。

そして、この時、TDRは(当時はディズニーランドだけだが)、こういったマスメディア(テレビ+雑誌等)によって流布された一元的な情報を現物(=「リアル」というヴァーチャル)のかたちで回収する場所としての役割を果たすこととなるのである。つまりマス・メディアとパークの往還という情報消費。マスメディアで情報をチェックし、これをリアルなものとしてパーク内で確認する(あるいはパーク内でチェックしたものをマスメディア上でチェックするという”逆向き”の情報消費ともなった)。この流れの中でゲスト、そしてディズニーファンたちは一元的なディズニー世界のイメージに沿ったかたちで、ある意味、マスメディアに管理されながらディズニーリテラシーを涵養していったといっていいだろう。マスメディア越しにディズニーを知る→パークを訪れ、それを確認するという図式だ。ネット的に説明すれば、これは電子メディアを利用しないAR(Augmented Reality=拡張現実)ということになる。ARでは現実の物理空間に、その空間に関する情報がタグ付けによって追加され、リアルとヴァーチャルで情報を二重化する(かつて存在したアプリ・セカイカメラがその典型)が、パークを訪れたゲストたちは、いわば頭の中にスマホ=セカイカメラをビルトインさせ、パークの施設を見ては、そこにタグ付けされた情報を確認するという情報消費していたわけだ。ただし、そのアナログなタグ付けによって、ゲストたちがそこで消費する情報は、ほぼ同一のものだった。だからTDRとしても、こういったマスメディア=送り手主導の情報消費を行うことで、パークにおけるテーマの重層性を高めることが可能だった。

ところがインターネット普及に伴う情報化の急展開の中で、この「マスメディア―パーク―ゲスト」の図式は崩壊していく。そして、それを加速したのがネット環境の充実で、さらにスマホが普及するに至って情報消費の仕方はヴァーチャルの部分がきわめて肥大化していくものになっていくのだ。(続く)

ディズニーアニメ史上空前の大ヒット

ディズニーアニメ映画「アナと雪の女王」がディズニーアニメ史上、空前の大ヒットとなっている。世界でもそうだが「ディズニー大好き国」日本では、これに拍車がかかった状態。興行収入は現在100億を突破。3月に封切りされたにもかかわらず、勢いはとどまることなくそのままゴールデンウイークに突入。この時期に放たれた大作邦画「相棒Ⅲ」「テルマエ・ロマエⅡ」「名探偵コナン」「クレヨンしんちゃん」を押しのけて堂々の一位を維持。ミュージカルでもあるため、サウンドトラックも大ヒットで、ディズニーアニメとしてはアルバムとして初めてのオリコントップを記録。映画館では「シング・アローン」と呼ばれる、映画を見ながら一緒に観客が歌うという企画も全国で開始され、まさに「アナ現象」が起きている。

しかし、ちょっと面白いことがある。それはレビューの評価だ。総じて高い評価を獲得しているが、一方で、少数だが五つ星中星一つ、つまり最低の評価を付けているレビューもある。つまり、三つ星が少なく、評価が大きく別れるのだ。僕は最高の評価も、最低の評価も、この映画が備えるメディア性がなせる業、つまり正当な評価とは必ずしも思えないと考えている。そこで今回は「アナ」の評価がどのような立ち位置からなされているかについてメディア論的に考えてみたいと思う。

高い評価の多くが盲目的・礼讃的

先ず高い評価。とにかく「すばらしい」と手放しでこれを褒め称える。「これぞディズニープリンセス物語」「これぞディズニー映画」みたいな位置づけだろうか。ただし、こういった評価はきわめて保守反動的なもの。ディズニー教に入信しているディズヲタの萌えなのでレビューとして見るべきところはない。また「アナ」ブームが起こり、レイト・マジョリティーやラガードとしてこの映画を見た層は「みんな行くから」「ディズニーだから」という、きわめて保守的な理由でこの映画に足を運んだだけ。要するにブームに乗っただけの大衆なので、これらのレビューは「子どもによい」「音楽が楽しい」「家族みんなで楽しめる」といった紋切り型の定型になる。いずれにしても、作品の内容についての評価とはみなせないだろう。

低い評価はいくつかのパターンに

マイノリティだが低い評価の場合は少々複雑だ。いちばん安っぽい評価が「しょせんディズニーという、子ども向けを専ら作っているところの作品。くだらないに決まっている」というもの(こういう指摘をする人間は、当然ながらディズニーランドも「こども向けの遊園地」と決めつけるという「思考停止」を行っている)。

次のレベルは「私のディズニーじゃない」というもの。つまり自分ならではのディズニー像、ディズニープリンセス像があり(まあ、これも得てして定型だが)、それに対してキスを絶対化せず、最後にプリンスを見捨てる、さらに愛が姉妹関係に向かってしまう「アナ」の展開が許せない。クレヨンしんちゃんに登場するネネちゃんがときおり叫ぶ「いつものママじゃな~い!」ってなリアクションだ。

だんだん理屈っぽくなってくると「原作のオリジナリティを踏みにじっている」というものが登場する。これはもう数十年も指摘されている”ディズニフィケーション”という様式に対する批判だ。ディズニフィケーションはオリジナルからバイオレンスとセックス、複雑な人間の関わり合いをとり除き、ストーリーを単純で毒のない「お子様ランチ」にしてしまうという手法(メタ的にはこういった手法こそがアメリカ的なグローバリズムを振りまく「毒」と批判されることもある)。さらにこれらが大ヒットすることでコピー=改変であるディズニー作品の方がオリジナルを凌駕してしまい、こちらがオリジナルに取って代わってしまうといった現象をさす。「シンデレラ」「リトル・マーメイド」そしてこの「アナ」がその典型だ(いずれもストーリー、とりわけ結末が異なっている)。で、これも毎回登場する「お約束」の批判だ。

そして、もっとも理屈っぽい批判が「ストーリーが陳腐である」というもの。なんでプリンスが突然根拠もなく裏切り者になるんだ?、アナとエルサの姉妹愛に根拠が感じられない、人物描写の彫り込みが浅い、なんで突然歌い始めるんだ?エルサが雪山に登る理由、アナがエルサを助けに行く理由、ハンスが姉妹を殺害しようとする理由があまりに無根拠(13人兄弟の末っ子なので王子となる可能性がないといった程度でしかない)など、まるきりいいかげんなシナリオですっかり興が冷める、というものがそれだ。

低い評価に共通するのは「文化絶対主義」

僕はこういった批判をある意味では「そのとおり」と肯定する。毒々しい展開はないし、ディズニー世界からすれば逸脱しているし、ストーリーは勝手に踏みにじるし、だいいちシナリオがバタバタしている。そう、これらの評価はあながち間違いとはいえない。しかし、これは他のディズニー作品の傑作と評価されている作品群にも該当する。たとえばクラッシックのプリンセス三部作の主人公白雪姫とシンデレラ、オーロラはすべて人格的なキャラクターとしては実に薄い。オーロラに至っては最も成熟した身体と容姿を持ちながら、精神的にはどう見ても幼児、つまりネンネで脳味噌カラッポという感じにしかみえない。ストーリーも実に荒唐無稽だ。

確かに、これは「それらの側面からのみ作品を見る」という前提からすればそうなる。だが、ここに「文化相対主義」的視点を導入するとちょっと話は変わってくる。文化相対主義とは自分が属しない異文化を評価する際には自らの評価基準ではなく、当該の異文化の基準に従って評価するという視点。まあ「郷に入れば郷に従え」というわけだ。たとえば日本の古典「忠臣蔵」を考えてみよう。ご存知のように、これはキレやすい殿様・浅野内匠頭が殿中で刀を振り回して吉良上野介をケガさせ誰がために切腹を命じられ、この怨念を晴らすべく家臣たちが仇討ちをする話だが、その結果、四十七士は吉良邸に討ち入り、吉良の首はもちろん廷内にいた家臣たちも次々と殺害するという「テロ」を敢行する。宝塚歌劇やAKB48も考えてみるとおかしい。宝塚は荒唐無稽な芝居を、キンキラキンに着飾った女性たちが大してうまくもない歌と演技でショーをやっているだけだ。AKB48に至っては容姿は二流、踊りも二流、歌も二流、アタマも二流の「並のちょっと上」程度の女性軍団にすぎない。でも、こんなふうに表現されたら四十七士ファンも宝塚ファンもAKB48ファンも、そりゃ怒るだろう。どうみても評価の基準は別のポイントにある。

積分ではなく微分してみる

で、前述した見方は、これらジャンルの基準に関心を持つことが出来ない、認めることが出来ない人間が、いわば「文化絶対主義」的な視点から捉えた姿。もし、これら人間がその反対の文化相対主義的な視点を備えていれば、こういった“荒唐無稽”なものになぜ人々が熱狂する、そして議論までし、哲学まで語るのかが逆に見えてくるはずだ。

ちなみにこの三つ、共通するものがある。それは「様式美」だ。そこで繰り出される各種要素を一つの作品としていわば「積分」してみる、つまりストーリーの一貫性やイデオロギーの視点から統合的に見るのではなく、これら当該の様式の中でそれぞれがどう演出されるのかを「微分」してみる。いわば歌舞伎・浄瑠璃の中の設定=「世界」に対する演出=「趣向」に当たる見方なのだ。だから全体の統合性はともかく、その中で個々がどう動き、どう演出されるかといったところが見所となる。そう注目すべきは作品のメディア性や美的機能なのだ。逆にこちらの視点からすれば、こういった異文化でストーリー云々とかイデオロギー云々を批判するのは「ヤボなこと」となる。

ディズニープリンセス、ディズニーミュージカルという視点から評価する

で、文化相対主義的な視点から捉えれば「アナ」という「異文化」は「ディズニープリンセス物語」「ディズニーミュージカル」という様式=世界の中で、初めて作品として評価されるものとなる。

そこで、文化相対主義的な視点から「アナ」に対する僕の評価を示そう。まず「プリンセス物語」としてはプリンセス、プリンス、愛、キス、ヴィラン、困難、狂言回しと言った要素がこのジャンルとしての「世界」を彩る要素となり、その中でこれら要素がどのように描かれるかの「趣向」が問われるわけだが、これに関しては、全ての要素を新しく意味づけしてしまい、紡ぎ合わせたと言うことについては、かなり冒険的な試みを行っているといえる。愛の向かう先がプリンスへと向かっていると思わせて、実は姉妹に向かっている。ヴィランがプリンスだった、キスは愛の証明にならない、困難はプリンスに助けてもらうのではなくプリンセス自らが立ち向かい乗り越えるもの、狂言回しの雪の精・オラフは(これ自体がエルサのアナへの愛情から生まれたものだ)この作品の基調となる愛他心による究極の自己犠牲の愛を象徴すべく、雪で出来ているのに自らが死に直結する夏を限りなく愛するなどなど。実にクリエイティブで興味深い。ただし、ちょっと盛りすぎでキレイに繋がったとは言えず、その趣向はオーバーデコレーション気味。だから僕はこちらの様式美については新機軸を示している点はよいが、まだ整理が終わっていないという点から、評価を四つ星とさせていただいた。

一方、ディズニーミュージカルとしては、これはもう傑作としか言いようがない。それぞれの曲の完成度、映像とのマッチング(時計音やマリンバによる効果音がきわめて効果的に使われている)、楽曲の歌いやすさ、それぞれが極めて高いレベルにある(「メリーポピンズ」「リトル・マーメイド」に匹敵する)。さらにこれらは24カ国にローカライズされ、各国で喝采を浴びた。そのローカライズの仕方もかなり徹底している。そして、その中でも日本版は秀逸の一つに入るだろう。日本語を使うことへのこだわりが強く、僕が調べた範囲では曲の中でカタカナは「ドレス、ロマンス、ドア、サンドイッチ、クール、パワフル」の六つ、つまりほとんど日本語化している英語しかなかった。そしてハッキリとした日本語。意味は限りなく「超訳」だが、それが逆に日本語によく馴染んでいる。おかげで、日本ではアメリカ版より松たか子と神田沙也加、ピエール瀧らが歌う日本語版のほうが圧倒的に支持を受けている(僕は最初英語版を機内で複数回見たが、その後映画館であらためてみるときには日本が版をチョイスした)。で、賛否両論を生んではいるが、みんなで歌う「シングアローン」という映画館で合唱するスタイルすら生んでしまった。そう、「アナ」は日本にミュージカル映画というジャンルを認めさせてしまったという点では、間違いなく革新的なのだ。新しい分野を切り開いた。だから当然、こちらのジャンルでは五つ星だ(ちなみに星一つの酷評をしているレビューも「音楽はよい」と留保を加えるものが多いのは「なにをかいわんや」である)。

ということで、「文化相対主義」的視点から「微分」してみれば、この映画は間違いなく傑作なのである。哲学やイデオロギーについて評価するなら、紋切り型の「ストーリー」の視点から語るといった「保守反動的」なヤボなことをやるのではなく、「ディズニープリンセス物語」(この詳細については本ブログ「『アナと雪の女王』に見るディズニー文化の進化」http://blogos.com/article/83630/を参照されたい)での論考と「ディズニーミュージカル」の視点から語るというのが正解。そう、忠臣蔵、宝塚歌劇、AKB48のように(忠臣蔵はミュージカルではないが(笑))。そして、これは間違いなく日本人の感性に合った「萌え」を促すオタク文化の嫡流・結晶でもある(つまり忠臣蔵、宝塚歌劇、AKB48はオタク文化という日本固有の文化?に抵触している)。

イメージ 1

持参のダッフィーを撮影するゲスト。


テーマ性を喪失していく東京ディズニーリゾート(TDR)

東京ディズニーリゾート(TDR)が21世紀に入り大きな変容を見せている。

ディズニーランドを彩る重要なコンセプトは「テーマパーク」という考え方。これは環境を一定のテーマで統一し、われわれの暮らす生活環境とは異なる非日常空間を作り出す手法。このテーマ性は「設定」と「物語」から構成されている。たとえば東京ディズニーランドのトゥモウロウランドならば”未来”をテーマに「設定」し、アトラクション、レストランからトイレ、ゴミ箱に至るまでを統一してしまう。さらにここに未来にまつわる「物語」を配置させていく。

ところが近年TDRのテーマ性はどんどん破壊されている。テーマ性にふさわしくない施設が各ランド・シーに建設され、これらをつなぎ合わせる物語、そして物語間の関係性もどんどん希薄化しているのだ。かつて(80年代)、東京ディズニーランド(TDL)の驚異的な人気の盛り上がりに対して、としまえん(東京都練馬区)はこれに対抗すべく「史上最低の遊園地」というキャンペーンを展開したことがあった。これはテーマパークVS単なるごちゃまぜの遊園地というコントラストで自虐的に自らを売ろうとする、いかにも当時の西武・セゾン系がやりそうな戦略だったが、いまやテーマパーク権化のTDRがとしまえんと同じようなノン・テーマパーク化しつつある。

しかし、である。だったら、このわけのわからないTDR=テーマパークもどきにゲストたちが愛想を尽かしても良さそうなものだが、現実はその逆。2013年度TDRは3000万人超という過去最高の年間入場者数を達成したのである。

なぜだろう?僕はここに、もはや本家本元のアメリカとは袂を分かったジャパン・オリジナルのTDRの成熟を見る。もともとTDR(TDL)はアメリカ文化の疑似体験という裏テーマを持って83年に千葉県浦安市にオープンしたもの。だから当初は本場のコンセプトをそのまま踏襲していた。つまりディズニー=アメリカという図式。だが、もはやこの裏テーマはとっくに捨て去られ、クレオール化、つまり日本人向けに徹底的にカスタマイズしたTDRを構築しているのだ。それは「テーマなきテーマパーク」という新しい?ポストテーマパークとでも言うべき空間。今回はその側面について考えてみたい。

見事にバラバラなゲストたち

パーク内を歩いてみるとわかること。それはゲストたちが思い思いに様々な衣装?コスチューム?に身を纏っていることだ。プリンセスの衣装姿の子ども(女子)(白雪姫などの子供用コスチュームが売られている)。どっさりとダッフィを抱えてパーク内を闊歩するゲスト。レストランのテラス席のテーブルにダッフィーをずらっと並べているゲスト。体中にキャラクターのピンやアクセサリーを付けているゲスト。ミニーのコスチュームを自作している女性。和服姿だが周りにキャラクターがいっぱいの女性二人連れ。ダンサー追っかけ……とにかく、色んな身なりでパークにやってくる。

中でも、ここ数年見かけるとりわけ興味深いゲストのカテゴリーは通称「制服ディズニー」と呼ばれるスタイルだ。これは女性が高校の制服でパークにやってくるというもの。「えっ?修学旅行の生徒は制服でやってきているんだから昔からそんなのはあるんじゃないの?」と思われるかもしれないが、これ、実は「な~んちゃって女子高生」。高校はとっくに卒業した女性が、かつての制服に身を纏いパーク内を闊歩するのだ。だから、よく見ると「制服姿だけれど、どうも様子がおかしい」というゲストに遭遇する。しかも、結構な数だ(「ちょっと恥ずかしがり屋の人のためのコスプレイベント会場」みたいになっている)。

これらゲストに共通するのは、それぞれがそれぞれのスタイルで勝手にTDRにを利用しているということだ。そして、その多くがカップルや女性二人連れだ。本場ディズニーのような家族連ればっかりというのとはちょっと様子が異なっている。

また、そこから見て取れるのはディズニーに対する知識、いわばディズニー・リテラシーの高さだ。とにかく細かいところまでよく知っている。ただし、もはやディズニーの世界は膨大。その世界の中からゲストたちは自らの嗜好に応じて好きな物をチョイスし、好きなようにディズニーを意味づけていく。だから必然的にそれぞれの行動はバラバラになっていくのだ。僕の知人のアメリカ人曰く「日本人のディズニーへの熱狂は異常。ほとんど宗教に近い」。日本においてはもはやディズニー世界はアメリカ以上に定着しているのだ。

近くの「日常の延長としての非日常」

こうなった理由を推測するのは意外と簡単だ。いくつか考えられるだろう。だが、その最たる理由の一つは空間的規模の相違と僕は見ている。アメリカ人にとってディズニーは80年近くに渡る文化。日本も戦後から映画館で上映されてはいるが、本格的な定着は80年代からなので、その歴史は30年ほど。だから、時間的長さにおいては本場アメリカが圧倒する。ところが日本の場合、島国の小国ということもありディズニーランドは身近な存在なのだ。関東圏だけでその人口は5000万強。これだけの人々が「ちょっとディズニー」という感じでパークを訪れることができる。いわば「非日常という日常」という、語義的には矛盾した状態を環境として持つ。だから、この「非日常」にリピーターとして何度もやってくる。で、そうこうするうちに、パークを自分なりにカスタマイズした解釈で闊歩するようになった。一方アメリカの土地は広大。パークを訪れるのはおそらく人生において数回だろう(子供の時、そして大人になって子供を連れてくるときの二回くらいなのではないだろうか)。だから、アメリカ人はパークを任意にカスタマイズした形で解釈するなんて芸当は出来ない。

で、これにTDR側が対応すればどうなるか。当然、統一したテーマではなく、こういった多様な顧客=ゲストに対応した多様な展開、言い換えればゴチャゴチャな環境を用意する必要がある。それは必然的にパークの多様化を生み、それがテーマ性の崩壊に繋がったというわけだ。

だが、その崩壊は、こうやって個々の好みでディズニー世界をカスタマイズするディズニーオタクの日本人にとっては好都合だ。だから、これからもどんどんテーマ性は崩壊し、最後はとしまえんになっていくと僕は見ている。つまり、日本人の嗜好に合わせてTDRはジャパニーズな遊園地へと変貌していくのだ。ただし、ものすごく濃密な。

以前、このブログで僕はTDRがアキバ化、オタクランド化すると指摘しておいたが、今回、このうち前者の予想=指摘を撤回しようと思う。というのもアキバはある意味ディズニーほどには多様化していないからだ。言い換えればTDRはアキバの周りに第2のアキバ、第3のアキバ、第4のアキバが隣接し、広大なオタク的空間を構築している。そういったオタク・ワールドがさらに広がりパークは混沌としながら繁栄を続けていくのではなかろうか。

だから、かつてのようなテーマパーク(言い換えれば、設定と物語を徹底させるテーマパーク、アメリカのディズニーランド的なそれ)を期待する「オールドファン」、そして一般の入場者にとっては不気味な空間にどんどんなっていくんだろうけれど。

でも、これってとっても日本文化的な現象、あるいはアジア的な風景という感じがしないでもない。欧米のように計画された空間がキチッと踏襲されるのではなく、気がつくと環境がどんどんメタモルフォーゼしてしまい、過去を残さない。

そう、TDRは、やっぱり「ジャパン・オリジナル化」したのである。

テーマ性=物語性、そしてファミリーエンターテインメントという軸からなるコンセプトを破壊しつつ新陳代謝を遂げ、アキバ・ドンキホーテ的な「ごった煮=データベース的空間」となりつつあるTDR(東京ディズニーリゾート=東京ディズニーランド+東京ディズニーシー)。こういった、コンセプトの崩壊(つまり「テーマなきテーマパーク」)は、それまでの家族や大人にかわって、子どもとオタクに強いまなざしを受ける環境を作り上げることになった。だが、それにもかかわらずTDRは強い人気を誇り続けている。そしてオリエンタルランド=TDRの経営母体からすれば、きわめて効率のよいビジネス・モデルを形成してもいる。今回は、顧客=ゲストが変わろうが高度なマネタイズを確保するTDRの、そのしたたかな戦略についてみていこう。

子どもとオタクをマーケットとした巧妙な戦略

オタクのニーズは膨大な情報、そしてその羅列にあることを前回指摘しておいた。ただし、こういった膨大な情報ニーズに対応するためには、やはり膨大な費用がかかる。しかし、これにもTDRは見事な対応を見せている。その一つはイベントやパレードを大型化したことだ。大型化すれば、キャラクターの露出頻度も高まる。ただし費用もそのぶん膨大になるのだけれど。だが、これは固定化してしまえばいいのだ。つまり同じパレードやイベントを何年も繰り広げれば、こういった「初期費用」は十分回収できる。しかもイベントそのものは大規模なので、一見するとゴージャスになったようにすら思える。だが、その分、細々したイベントやアトモスフィア的な演出は廃止されている。ステージにしてもスモールワールド、トゥモウロウランド、ラッキーナゲットなどにあったものが廃止されている。こうやってショーなどを集約してしまえば、実は運営費、人件費とも大幅に削減が可能となる。しかも、どんどん増えるゲストで通りを闊歩することになるダンサーや楽団(いずれもパーク内のアトモスフィアを演出する)は、むしろ安全上問題があるので、こちらの面でもメリットがある。

逆に増えたものもある。それはキャラクターズ・グリーティングと呼ばれる類いのアトラクションだ。これはディズニーのキャラクターが常設的にそこにスタンバイし、ゲストと一緒に写真撮影が出来るというもの。これも人件費的にはきわめてお手軽だ。キャラクターを一体だけ置いておけば事は足りるのだから。しかし、これって、ようするにAKB48の握手会みたいなもの。ただの情報でしかないし、完全な子供だましであることは、考えなくてもわかる。ここに列をなすのは子どもとオタクだけだ。

「エサ」と「情報」をばらまく

食についても同様だ。子どもは味覚がわからない。オタクも食事が「エサ」代わりなんて言われるくらいで、あまり食事には関心がない。だから要するに食べられればいい。で、こういった層のために登場した典型がポップコーンと自販機だ。パーク内にはコーンポタージュ、カレー、シーソルト、キャラメル、チョコレートなど(パークによって異なる)、実にたくさんのポップコーンがある。オタクたちはこれ専用のポップコーンバスケットにリフィルするかたちで食べ歩くのだ。オタクたちのオタク係数は極めて高い。こういった「萌えグッズ」や「萌えフード」さえ用意すれば、味なんか関係なくグッズを購入し、ポップコーンを食べてくれる。この時、彼/彼女たちはポップコーンを味=意味ではなく、情報として消費している。つまり全てのポップコーンをコンプリートすることが目的。だからTDRとしてはオタクたちはショー的なサービスをしなくてもどんどんお金を落としてくれる、ありがたいゲストなのだ。

ただし、こんな客ばっかりだから、ワゴンや食べ物売り場は常に列が出来てしまう(実際、ポップコーンワゴンには常に長蛇の列が出来ている)。そこで登場したのが体よくドリンクを配布できるドリンクの自販機だった。自販機だったら手渡しよりもはるかに効率がいい。ただし、これってファミリーエンターテインメントというコンセプトからすれば完全な掟破り。ウォルト・ディズニーは草葉の陰で怒り心頭に発しているだろう。でも、子どもとオタク相手だから、そんなことはどうでもいいのである。

過去を振り返らず変貌を遂げるTDR

一方、かつての物語とテーマの重層性からなるハイパーリアルな空間を嗜好していた「大人」たちにとっては、こんなTDRはもはやおぞましいアキバ・ドンキ的世界にしか思えない。だから、ここからどんどん遠ざかっていく。30代以降にとってTDRはもはや「卒業したもの」と位置づけられ、子ども連れて行くこと以外、自らそこに足を向かわせることがなくなっていくのだ。彼/彼女たちにしてみれば、あまりに安っぽくて薄っぺらい「子供だまし」にしかみえないのだから。

おそらく、今後TDRはこういったかたちでどんどん子どもとオタクのための遊園地、しかもテーマ性のないテーマパークとして発展を遂げていくだろう。そして、やがてファミリーエンターテインメントは完全に消失し、テーマパーク性=物語性のないテーマパークという矛盾した存在になっていく。その時には、パークは子どもとオタクの草刈り場となっているだろう。

しかし、ビジネス的に見た場合は「これでいい」のである。TDRは顧客のニーズに適応してどんどんと新陳代謝を遂げ、新しいビジネスモデルを作り上げていく。そう、ここは秋葉原・ドンキと同様「過去を振り返ることのない空間」。過去の片鱗の一切を捨象してスクラップ・アンド・ビルドを繰り返し新世代の欲望を無限に吸収し続けるシステムなのだから。

それでも僕はTDRに通い続ける

僕の友達やかつてディズニーランドでキャストを務めていた仲間たち(いずれも40代以上)はすっかり愛想を尽かし、子どもたちも大きくなったのでTDRからは足が遠のいている。その一方で、相変わらずディズニー世界には愛着があるため、ある点については共通した認識を持つ。それは「ディズニーランドはやっぱりアナハイムだよね」というもの。そう、ロサンゼルス郊外にある本家本元はTDRと異なり、過去を振り返りながら物語の重層性が幾重にも重ねられ歴史を刻み続ける「ウォルトの精神が宿る場所」。で、彼/彼女たちは、もうそこそこの歳でアメリカまで遊びに行くカネもあるので、そちらの方へ出かけるのだ。つまり「ディズニーランドは日本ではなくアメリカにある」という認識。つまりTDRからすれば、とっくに旧世代なのだ。

さて、でも僕だけは相変わらずTDRを訪れ続けている。子ども&オタクランドになぜ?それはTDRが常に日本の近未来を先取りしていると考えるから。イギリスの社会学者A.ブライマンはディズニー化(Disneyization)ということばを提出している。これは、世界全体がテーマパークのようにテーマと物語に基づいた空間を現出させていく現象を示したものだ。つまりディズニーランドは近未来の世界を先取りしているという前提に基づいてこの議論を展開している。僕も、この考えに賛成だ。つまりディズニーランドは常にちょっと先の未来をすでに実現している空間とみなしている。ということはTDRに通い続け、その変化をつぶさに見続けることで、数年後の未来をずっと見通すことが出来る。TDRでは、もはやブライマンの予測などとうの昔の話になり、テーマ性も物語性も崩壊しているわけで、いわば「脱ディズニー化(post-disneyization)」している。ということは、こういった「子ども+オタク」による社会空間が、数年後には日本中に出現するであろうことが予測される。だから、ここを訪れれば日本の未来空間が見える。で、実際、三十年近くTDRに通い続け(僕の実家は浦安で年パスで通ったこともあるし、キャストをやったこともある)、こういった「ディズニーランドの未来先取り」状況をビビッドに感じ続けてきた。つまりブライマンの指摘は当たっているという実感が強い。だからこそ、僕はTDRにこれからも通い続けようと思う。ただし、やっぱり僕は旧世代。だから、ディズニー世界そのものをここで楽しむのではない(楽しみたければやっぱりアメリカへ行く)。その変化を見届けたいという「社会学的・メディア論的関心」(あるいは「怖いもの見たさ?」)に基づいているのだけれど。

TDRの動向は見逃すことが出来ない。

東京ディズニーランドが開園して29年。この間、ゲスト=入場者の数は上昇を続け、2001年東京ディズニーシー開園以降は二つのパークを合わせて年間2500万人を超える人々がここTDR(東京ディズニーリゾート=東京ディズニーランド+東京ディズニーシー)を訪れるようになった。だが、それに反するようにテーマ性=物語性とファミリーエンターテインメントというディズニーランドのコンセプトを崩壊させ、大人の鑑賞に堪えない「子どもの遊園地」、あるいは「オタクランド」と化しつつある。さながらアキバかドンキホーテのような様相を呈しつつあるのだ。実は、本家本元のディズニーランド(アナハイムにあるディズニーランドパーク)は、オープンしてそろそろ六十年近くになるが、このような状態にはまったくなっていない。相変わらず二つのコンセプトは厳密に踏襲されている。では、なぜ日本のTDRだけがこんなかたちにメタモルフォーゼ、あるいは新陳代謝を遂げたのだろうか。このことを紐解くためには、ゲストの変化と日本という空間の特性を踏まえると見えてくる。実は日本という限定された空間の中で、ゲストたちはどんどんディズニー・リテラシー=ディズニーという世界に対するメディア・リテラシー、を上昇させていった。それにTDRが対応した必然的結果がこの「ごった煮=アキバ・ドンキ的世界」の出現だったのだ。

ディズニー世界と日本人の関わり(80年代以降)

83年、東京ディズニーランドがオープンした当初、日本人のディズニー世界に対する認知度=メディア・リテラシーは著しく低い状態にあったと考えてよいだろう。60年代、日本テレビはテレビ普及のコンテンツとしてアメリカのテレビ番組を放送していたが、その一つとして「ディズニーランド」という番組があった。これはアメリカのテレビ局ABCが放送していたもので、当時の視聴者たちは金曜の夜八時、隔週でこれを視聴することが出来たのだ(合間に放送されていたのは、なんと日本プロレスだった。つまり馬場・猪木とディズニーが交互に登場していた)。番組の冒頭には必ずウォルト・ディズニーが登場し、これからはじめられるプログラムの紹介をしていた。また定期的にディズニーのクラッシック作品が上映され、これには文部省(現在の文科省)の推薦が付き、さらに講談社がディズニー本のシリーズを発行してもいたので、現在50代以上の人間にとってディズニー世界(そしてウォルト・ディズニーという人物)は近しい存在だったのだ。

だが、65年ウォルト・ディズニーがなくなった後、ディズニーはアメリカで衰退をはじめる。それはもちろん日本にも波及し、80年代前半、つまり東京ディズニーランドが開園する頃にはビッグファイブ(ミッキーマウス、ミニーマウス、ドナルドダック、グーフィー、プルート)のグーフィーとプルートの区別が付かない、いや名前すら知らないといった日本人がほとんどという状況になっていた。

こんな認知度の低さゆえ、東京ディズニーランドはその開園にあたって、ディズニー世界をあらためて日本国内に知らしめる必要があった。だから、開園に合わせてディズニークラッシックの短編集をゴールデンアワーで毎週放送したし、開園当初の昼間のパレードは東京ディズニーランドのテーマランドを、フロートを用いて説明するという「教育的」なものだったのだ。そして、東京ディズニーランドは成功し、年々ゲスト数を増やし、21世紀には東京ディズニーシーを開園してTDRという一大リゾートを作り上げていく。

日本人がディズニーリテラシーを向上させ続けた30年間

ということは開園以来の三十年は、日本人がディズニーリテラシーを上昇し続けた三十年ということでもある。毎年1000万以上の人間(しかも年々数が増える)が三十年もディズニーランドに通い続けるようなことがあれば、これはもう立派な日本文化の一角を担うことになるのはいうまでもない。そして、実際、国内にはディズニーの記号が無数にちりばめられる環境が出来上がった。80年代以降のディズニー第一世代を、当時10歳くらいの子どもとすれば、今や40代。その後が全てディズニー世代とすれば、もはや日本人のほとんどがディズニーに親しんでいる。当然、ディズニーについて実に様々な情報、そしてグッズを人々は所有するようになった。かつて社会学者・能登路雅子が『ディズニーランドという聖地』(岩波新書)で指摘したように、日本人にとってディズニーランドはまさにアメリカのそれと同じような位置づけ、つまり「聖地」になったのだ。

ディズニーランド、アメリカでは「非日常」だが、日本では「日常」

ただし、「聖地」の位置づけはアメリカ人と日本人では異なっている。アメリカ人にとってディズニーランドはまさに聖地、ということは死ぬまでに一度は行くことが義務づけられた、運命的な場所だ。とはいっても現実的には二回。つまり、子ども時代、親に連れられて、そして自分が親になったとき、子どもを連れて。言い換えれば、地元の住民を除いては、ここはそんなに何度もやってくるところではない。だから、そこはまさに「非日常空間」。ところが日本の場合、入場者=ゲストはリピーター、つまり何度も何度もしつこくやってくる人間によって担われている。いわば「非日常という名の日常」なのだ。

この二つの違いが発生する原因は、結局のところ空間の規模に帰着する。アメリカはバカでかい。アメリカ人の九割はパスポートを持っていないが、それは「アメリカ=世界」という認識があるから。ニューヨークを訪れたことのないアメリカ人なんてのはザラ。だから、ディズニーランドに行く回数も限られる。 広すぎて国外に出られないのだ。 だからこそ、ディズニーランドは伊勢神宮のように一生に一度は行かなければならない聖地と位置づけられるのだ。だが、日本はそれに比べるとはるかに狭い。TDRが置かれている関東圏に人口の半分以上が集結している。つまり、その気になればすぐに訪れることの出来る場所。だから彼/彼女たちは日常的に何度となくここを訪れるようになる。年間パスポートを購入して、1年間に数十回以上訪れるゲストも珍しくはないのである。

データベース空間の出現

こうやって、日本人の多くが何度となくTDRを訪れるようになれば、必然的に彼/彼女たちはディズニー世界について詳しくなっていくと同時に、ディズニーについての嗜好を多様化させはじめる。夥しいキャラクターが住まうディズニー世界の中からお気に入りのキャラクターを探し出し、それに熱狂するというパターンが一般化する。もちろん、その筆頭はミッキーマウスだが、もはやミッキーは象徴的存在でしかない。嗜好を多様化させたゲストたちはプーさん、スティッチ、ダッフィといった様々なキャラクターに食指を伸ばすようになり、さらにはもう完全にマイナーといった方がいいマリーやリトル・グリーン・メン(トイストーリーに登場するエイリアン)に入れあげるようになる。

さて、こういった嗜好を多様化させたゲストたちにTDRが適応すればどうなるか。つまり、細々とした嗜好すべてに対応しようとしたらどういったやり方が考えられるだろうか?いうまでもない、こういったキャラクターを無関連に並べるというやり方が採られることになる。つまり、昼間のパレード「ジュビレーション」にテーマ性、物語性が失われてしまった原因は、多様化ニーズに対応した必然的結果なのだ。TDRは自らが育て、牽引しててきたゲストたちによって、今度は牽引されるようになったのである。そしてその結果、出現したのがアキバ・ドンキ的ごった煮世界=ディズニーの記号だけがつけられ、そのくせ相互が無関連なデータベースだったというわけだ。

深み、重層性の喪失

ただし、こういったデータベース化は翻って、それぞれのデータの深みを失わせていくことにもなる。とにかくゲストのニーズに合わせて情報をまき散らすことが重要と考えれば、その際、データとデータを関連させるテーマ性=物語性はむしろジャマになってくるからだ。もし、これらを設定してしまうと、それぞれのキャラクターがこれらとの関連性が拘束されてしまう。それはたとえば「このパレードのこのフロートでは設定的にキャラクターAとBを同時に登場させることが出来ない」という制限がかかってしまうのだ。だから、フロートの設定は、特定作品に関連するのではなく、たとえばファーストフード店の設定とかにすれば(実際やられている)、そこに登場させるキャラクターはなんであっても問題がなくなる。だが、それは当然のことながらそれまでのディズニー世界が織りなしていた様々なテーマや物語の重層性を無視した、きわめて底の浅い世界を現出させることになるのだ。反面、その必然的な結果として無関連な情報が膨大な数であふれるようになる。そう、これこそがごった煮=アキバ・ドンキ的世界を結果したのだ。

そしてTDRは子どもとオタクの世界となった。子どもにとって必要なのはキラキラと輝く安っぽい玩具がちりばめられたおもちゃ箱。質や深みなどはわからないのでどうでもいい。オタクにとって重要なのは、かつて社会学者の大澤真幸が指摘していたように「情報の過剰と意味の希薄」。つまり情報をたくさん所有すること、押さえておくことが重要であって、意味はどうでもいい。こうなるとTDRはオタクたちにとっては格好のデータベースということになる。

そして、こういった新しいゲストたちは、実はTDRの運営にとって、きわめて都合のいい存在となっていったのだ。なぜ?(続く)

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