勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

カテゴリ: テレビを考える

NHK朝の連続テレビドラマ小説「あまちゃん」の魅力はテーマパーク消費、つまり空間的設定=ジャンルの統一、時間的設定=物語性という二重のテーマ性をハイパーリアルに楽しんでしまうところにある。前回は空間的設定について触れた。今回は時間的設定、つまり物語の側面について考えてみたい。

時間軸=物語としてもテーマ性が貫かれている。中でも徹底して行われているのが、番組の中に登場する「80年代アイドルシーン」の物語だ。

「80年代テーマパーク」的要素がいっぱい

とはいうものの時間軸からではなく、まず空間的なテーマ性を確認しておこう。番組の中では頻繁に春子(小泉今日子)がアイドルを目指した80年代半ばのシーンが登場する。上京した若き春子(有村架純)がバイトするのはベタに80年代的な喫茶店であるし(コーヒーを淹れるマシンは当時の主流の一つだったサイフォンだ)、応募したタレントスカウト番組番組「君でもスターだよ!」は「君こそスターだ!」という70年代に放送された番組を雛形にしたものだ(番組の中で展開される80年代アイドルシーンは、そのままというよりも70年代後半から80年代前半全般が舞台となっている。たとえば「君こそスターだ!」は80年に番組を終了しているが、ドラマの中では84年だ)。

そして、ここにアイドルを目指す架構の若者・春子が挿入される。彼女は当時絶対アイドルであった松田聖子を真似て、髪型をいわゆる「聖子ちゃんカット」にしている。そして「君でもスターだよ!」に出演、見事グランプリを獲得するのだが、時代はおニャン子クラブのような素人アイドルが受ける時代に移行してしまい、プロらしさを目指す春子は時代遅れで、その夢が絶たれてしまう。

80年代アイドルシーンというテーマ=物語設定に欠けている二つ

そして、この春子と80年代の絡みが実に「いわれ」に満ちたハイパーリアリティを形成しているのだ。注意深く見てみると、この番組が描く80年代アイドルシーンの中にはホンモノのそれとは決定的に異なるものがある。それは当時のアイドルが、ドラマが指摘していたような、おニャン子クラブに代表される「素人主導の時代」一辺倒というわけでは必ずしもなかったことだ。79年に松田聖子がデビューし山口百恵の後継(ただし「時代と寝た女」から「時代に添い寝した女」とその位置づけは変わる)が決定した後、松田聖子の二番煎じ的なアイドルもまた登場している。実際、これらタレントの多くが聖子ちゃんカットだった(完全にパクリの「聖子ちゃんズ」という三人組ユニットまであった)。また、映画からも女性アイドルが登場してもいる。この「後続世代」、そして「銀幕アイドル」の存在がドラマの80年代アイドルシーンから全て外されているのだ。なぜか。

理由は簡単だ。前者の代表が小泉今日子であり(中森明菜も含まれる。二人ともデビュー当初は聖子ちゃんカットだった)、後者の代表が薬師丸ひろ子だからだ(薬師丸は角川春樹事務所が生んだ銀幕アイドル。この後に原田知世、渡辺典子が続いた)。この二人もまた、松田聖子と並んで80年代(薬師丸は70年代後半から)を代表するアイドルであったのは周知のこと。そして、なんとこの二人が朝ドラ「あまちゃん」を彩るきわめて重要なキャラクターを演じている。しかも、番組の中では本当の80年代アイドルシーンからは欠けている二つの要素を別の形で番組の中で再現しているのだ。つまり当の本人二人が、ヴァーチャル80年代でのもう一人の自分を演じているのである。

「潮騒のメモリー」は80年代アイドルシーンのすし詰め

その究極は春子が歌うシーン。春子はスナック梨明日で仲間たちに促されて80年代のアイドル映画のテーマソング「潮騒のメモリー」を歌うのだが、この曲はどうみても松本隆+筒美京平による一連の松田聖子ソングをごった煮にしたものだ。この曲から松田の「スイートメモリーズ」「小麦色のマーメイド」「赤いスイートピー」といった曲を思い浮かべるのは40代以上なら容易だろう(タイトルにはメモリーがあり、歌詞の中にもマーメイドが登場し、サビの部分は赤いスイートピーのサビの”I will follow you”以下の部分を彷彿とさせるメロディーだ)。そして、この映画は山口百恵が出演した映画「潮騒」が雛形になっているし、また、そのストーリーが荒唐無稽である(内容は明らかにされていないので、本当のところどういったものかわからないが、そのような解説が施されていた)ことから、これは70年代後半~80年代、その荒唐無稽さで一世を風靡した大映テレビ室による一連の「赤いシリーズ」ドラマを彷彿とされる(赤いシリーズの主役山口百恵であり、80年代、その続編的なドラマ「少女に何が起こったか」の主役は小泉今日子だった)。この映画に出演し女優の地位を獲得したのが薬師丸ひろ子演ずる鈴鹿ひろ美だ(名前の部分の前半があえて「ひろ」とひらがなで併記し相同性を示している)。そしてドラマの中では、現在、鈴鹿ひろ美は大女優だが、薬師丸ひろ子も大女優なのである。ちなみに「潮騒のメモリー」をオリジナルで歌っているのは鈴鹿ひろ美ということになっているが、この曲は薬師丸の大ヒットを放った一連の曲のイメージ(「セーラー服と機関銃」「メインテーマ」など)もまた踏襲している。つまり小泉が歌っても、薬師丸が歌っても80年代が彷彿とされる作りになっているのだ。なんという、「いわれ」そしてリアルを踏まえたヴァーチャルの創造であることか!スゴイ!

春子が歌うシーンにはもう一つ「いわれ」が付加されている。春子が前述のオーディション番組「君でもスターだよ!」に出演して歌ったシーン。ここで歌われた曲が松田聖子の「風立ちぬ」。で、若い頃の春子役(有村)の歌うシーンをよく見ると口パクなのだが、その吹き替えをやっているのが他ならなぬ小泉今日子なのである。前述したようにデビュー当時、小泉今日子の髪型は聖子ちゃんカットだったのだけれど、ここもまた、しっかり踏襲されている。有村演じる若き日の春子は現在、ドラマの中で小泉が演じる春子の若き日であるとともに、小泉がひょっとしたら若い頃になっていたかもしれないもう一人の小泉でもあるのだ。(続く)

長寿番組三本を持つタモリ

タモリは二十五年以上続く長寿番組を「タモリ倶楽部」「笑っていいとも!」「ミュージックステーション」と三つも抱えている。そしてこの三つの番組、大して視聴率が浮き沈みすることもなく延々と続いてきた。これら番組に共通することがある。ワンパターン、そして究極のマンネリであること。本来ならマンネリ=ワンパターン化してしまったものは飽きられるはず。ところが、タモリの場合、決してそうはならない。なぜだろう?

僕もタモリが担当するこの番組を開始当初から飽きることもなく、ずっと見続けてきた。というより、飽きるとか、飽きないとかという軸が全くない状態で、ほとんど日常、ほとんど水のように、ただダラダラと見続けてきたのだけれど……。でも、僕のようにタモリの長寿番組にダラダラと付き合ってきた人間は多いのではないか。そして、それこそがタモリの人気の秘密なのではないか。

そこで、今回はタモリの人気の秘密について考えてみたい。ただし、今回の最終的な目的はタモリ個人の人気を明らかにしようとすることにあるのではない。まあ、それもあるが、一番のねらいはタモリが延々と続けるワンパターン=マンネリズムということばの意味についてメディア論的に考えるところにある。そして、そのための典型的な存在としてタモリを分析しようというわけだ。実は「究極のワンパターン=マンネリズムは最もワンパターンでない」という逆説的な結論、そして「ワンパターンこそ最も偉大な作風・芸風」であることを明らかにしていきたい。

アシスタントや脇役が重要な役割を占める

先ずはタモリの芸風をい見てみよう。上記にあげた3番組(そして、これまで担当してきたほとんど全ての番組)はいずれもほぼ同じパターンで構成されている。構成作家やディレクターによる大枠の構成と進行が用意され、その他はほとんどタモリにお任せというやり方だ。ただし、この「お任せ」というのはタモリにひたすら仕切らせるというのとはちょっと違う。多くは横に進行役としてのアシスタントを用意する。たとえば「ミュージックステーション」では女子アナが、「笑っていいとも!」ではテレフォンショッキングのコーナーを除けば、すべて他のタレントが(SMAPメンバー、爆笑問題、関根勤など)、そして「タモリ倶楽部」では週替わりで准レギュラーのタレント(空耳アワーではソラミミスト・安西肇)が、また「タモリのボキャブラ天国」では小島奈津子が、「トリビアの泉」ではこれを高橋克実と八嶋智人が、「ブラタモリ」では久保田由祐佳がその役を担っている。

ただし、この構成は骨太ではあるが、やはり大雑把。枠だけが用意されるというパターンだ。そして、この「ゆる~い」構成の中、タモリもまたゆる~く番組を展開していく。ただし前者は「カチッとしたゆるさ」、つまり大枠だけはしっかりしているという形式、後者は本当にゆるいそれだ。タモリの座右の銘は「適当」で、スローガンも「明日やれることは今日やらない」と、まさにこのゆる~い展開を確信犯として展開していることを臆面もなく言い放っている。実際、番組中もよく休んでいるし、他のタレントから「休むな!」と指摘されることもしばしば(笑福亭鶴瓶がよくこうやってつっこんでいる)。しかし、このゆる~い展開こそが、実はタモリの本領、そしてマンネリズムの極値=キモになっているのだ。

タモリの芸風はジャズの「モード手法」

タモリは早稲田時代ジャズ研に属し、トランペットを担当していたが、仲間から「マイルスのトランペットは泣いているが、オマエのは笑っている」と指摘され演奏者を断念。MCに回ったという経歴を持っている。しかし、タモリをジャズマンとして捉えると、その芸風はむしろくっきりと見えてくる。とりわけ前述のマイルス・デイビスがビバップを基に完成したと言われる「モード手法」(典型的なスタイルは59年のアルバム”Kind of Blue”で聴くことができる)に例えるとよくわかる。ビバップはコード進行やメロディ、ハーモニー、リズムに合わせて各パートがアドリブを展開するのだけれど、こうすると結局のところリこれらに拘束されて自由な表現ができない。そこでこれらをある程度無視して自由に演奏するというスタイルが採られた。これがモード手法だ。

ただしそうした場合、もし全員がコードなどの規則を無視して演奏したらこれはメチャクチャになる(モード手法の後に現れたフリージャズがこれに該当する)。だから、自由に演奏できるのは原則的にはソロパートを取っているときで、それ以外はコードやリズムをキープする必要がある。

タモリのやり方はまさにモード手法と呼ぶのがふさわしい。アシスタントにリズムやコードキープ、つまり進行を任せ、自らはソロイストとして自由にアドリブを展開する。しかも、しばしばこれらは無視だ。だがアシスタントがキープし続けるので自由にアドリブが展開できる。

ただし、ここで面白いのはタモリは必ずしもソロをやりっ放しというわけではないところだ。つまり、時にはバックに回ってコードやリズムをキープし、アシスタントやゲストにソロを取らせる。これがタモリが「休んでいる」時なのだ(実際全く何もしていない=演奏していないで時間が進行することもしばしばある)。だが、こうすることでジャズのインタープレイ(ソロを交互に取り合う)と行ったスタイルが出来上がる。

で、こうすると面白いことが起こる。要するにタモリはジャズバンドのリーダーとしての役割を担うが、ユニットを組んだ他のメンバーに自由にやらせることもできるわけで、その結果、メンバーを入れ替えることで同じワンパターン=形式でありながら、相手のパーソナリティも生かし、無限にパターンを創り出すことが可能になってしまうのだ。

しかも、それぞれのアドリブを展開する場面を用意するだけではない。時にはアドリブに関しては素人的な存在まで無理矢理ソロを取らせ、その能力=パーソナリティを開花させてしまうという離れ業もやってみせる。たとえはNHK「テレビファソラシド」では、ベタにNHK的な女子アナの大御所・加賀美幸子アナに、「ボキャブラ天国」では小島奈津子アナにツッコミを入れ、アドリブを取らせてしまった。そこに、観客=視聴者たちは新しい意味=面白さを発見するのだ。

フリーな側面も

また、そのアドリブはモード手法にあったスタイルとも少し違っていて、ややもするとフリージャズ的な側面もある。モード手法の場合、ソロパートの順番はだいたい決まっている。たとえば60年代当時(“Kind of Blue”は59年)のマイルス黄金期のクインテットだったらトランペット(マイルス)→テナー(W.ショーター)→ピアノ(H.ハンコック)→ベース(R.カーター)→ドラムス(T.ウイリアムズ)→トランペットという順番。ソロを取っていないとき、各パートはバックでコードとリズムを刻み続ける。ところが、タモリの場合は相手がソロを取っているときに介入し、その場でインタープレイを展開する。つまり、つまり相手がトピック=アドリブをすると、これにヒントを得て、今度はそれに関連するトピック=アドリブを語り出す。そして、同じトピックのコントラストがそこで生まれるのだ。 

ひたすら「適当」

ただし、この仕切り方もまた「適当」。こういった掛け合いをするとき、一般のパーソナリティ(たとえばみのもんた、明石家さんま、小倉智昭)などとは異なり、決して相手の話をまとめて「場を締める」ということをやらない。相手のアドリブに対してタモリはその変奏をやってみせるだけなのだ。だから、二人は主題こそ同じだが全く別の話をする。その結果、相手との対話において自らがイニシアチブを取りながら仕切ることをしていない。言い換えれば無理矢理まとめに持っていくことは絶対にしない。しかも、話は唐突に終わる。だから、仕切りが「適当」なのだ。だがこの時、場はタモリ色に染まる。相手に適当に喋らせ、それに対して自分も適当に答える。場はリラックスしたムードに包まれ、それがさらに次の話=アドリブをインスパイアーしていく。そして、このムードが視聴者側にも伝染する。見ている内に、だんだんこの「ゆるゆる」「ダラダラ」ムードのパターンへの中毒症状が現れるのだ。

こういった「適当」な、無責任と言ってもいいほどの「仕切っているようで仕切っていない、仕切っていないようで仕切っている」というタモリ風演出(つかみどころがないゆえ爬虫類=イグアナということになるのだろうか?)が、今回取り上げた三つの長寿番組(そして全てのタモリの番組)に共通しているワンパターン、マンネリズムの魅力なのだ。そして、このマンネリズム、実は長寿番組と呼ばれる全てに共通している。じゃあ、それは何か?次回はこの構造についてみてみたい。この時、われわれが魅力を感じているのは、実は番組の内容=コンテンツではなく形式=フォルム=メディア性なのだ。(続く)

前回まではワイドショーが格好のヒマつぶしになること、現代人のプライバシー防衛と嗜好の多様化をヘッジするネタを提供する機能があることを指摘しておいた。ただし、これはある意味「テレビ」というマスメディア全般にも適用可能な特性でもある。だから、テレビの中でもワイドショーが備える特異な社会的機能=必要悪をさらに抽出する必要がある。そこで、最後にこの部分についてツッコミを入れてみよう。

話は再びテレビ≒マスメディアが備えるネタ提供機能に戻る。テレビからは容易に表出=共有コミュニケーション(「伝達」の他にコミュニケーションが備えるもう一つの機能。カタルシスを獲得し、他者との親密性を形成する)のためのネタを取りこむことが可能であることを前回は指摘しておいた。つまり、プッシュ機能(送り手が大量の受け手に一方向的、垂れ流し的に情報を供給する機能。受け手は受動的に情報を受け取る)によって多くの人間がテレビによる一元化した語りに接することになるので、容易にネタとして取り上げることができる。それによって対面の場で情報の共有が可能となり、互いの中に同質性を見出すことで親密性と連帯を感じることが出来るようになるということだった。

ワイドショーは「悪口」を喚起することで強い連帯と優越性を容易に確保可能にする

そして、この機能にさらに拍車をかける、つまりいっそうの親密性と連帯を加えることを可能にするのがワイドショーなのだ。

これまたすでに述べたことだが、マスメディア発達以前、共同体の中で人々のコミュニケーションのネタは共通の隣人だった。ただし、自分がいない場合には自分がネタにされ、プライバシーが常態的に暴露される。だが、それでは人権意識の高いわれわれにとっては困る。そこで、現代では芸能人などのディスプレイ上の有名人をもっぱらネタの対象とすることで、プライバシーを維持しながら表出=共有のコミュニケーションを可能にする、というやり方が生まれたのだ。

さて、ワイドショーの必要悪としてのアドバンテージのポイントは「人をネタにしたコミュニケーションの構造はどうなっているか?」といったところに立ち入ることで見いだすことができる。かつてあった共同体で相手をネタとするとき、そのネタのほとんどは、実はネガティブなもの、つまり「悪口」だった。なぜ、そうなるのか?この構造は単純だ。われわれは他者とネタを共有し連帯感を得たい。ただし、このときそのネタを共有することでコミュニケーションを交わす双方がネタとなる相手に対する何らかの優越性を獲得できれば、一層カタルシスを感じることができる。そのためにはその他者との差異化を図ればいい。つまりネタとなる相手に比べて自分たちが優れていることを示せばよい。しかし、それは簡単なことではない。優越性を獲得するためには差異を示さなければならなければならないが、そのためには何らかの努力が必要となるからだ。そりゃ、しんどい。

しかし、簡単な方法がある。それが「悪口」だ。自分たちの優越性を誇示するのではなく、ネタの相手をこき下ろすことによって、結果として自分の立場が差異化され、努力なくして優越性を獲得することが可能となるのだ。自分をアップさせるのでなく、相手をダウンさせることで差異を獲得するという戦略だ。

そしてこれを二人でやると連帯感はいっそうアップする。まず、ここまで述べてきたようにネタの共有による同質性で連帯感がアップ。さらに話をしている二人はネタになっている相手よりも優越性が高い。そして、それを確認することでもう一つ連帯感が加わるのだ。「あのバカな○○に比べると、私たちってイケてるわよね」ってなことになるのだ。ちなみに、これはコミュニケーションを交わす相手の数が多ければ多いほどその効果は高くなる。自分たちが多数派になり、話題の相手をこき下ろすことに、より正当性が感じられるようになるからだ。

そして、これこそがワイドショーの得意とするところとなる。つまり、有名人のゴシップを取り上げこきおろす、犯罪事件を取り上げ、そこに登場した犯罪者を非難し、その一方で被害者に同情を示す。こき下ろそうが、非難しようが、同情しようが、要するに結果として視聴者側はそのような状況に陥っていない自分に優越性を感じ、上から目線でネタとなる相手を見ることができると同時に、その優越性を対面の場で共有して親密性を高めるわけだ。「ヒトの不幸は蜜の味」とは、実はコミュニケーションの本質に関わることばに他ならないのだ。

いわば、長屋の井戸端会議でやられていた「人の噂コミュニケーション」を今日風に「洗練化」したものが、この「ワイドショーをネタにしたコミュニケーション」に他ならない。

ニュースもまた必要悪?

さて、ここまで必要悪=現代人のコミュニケーションの必需品としてもっぱらワイドショーを取り上げてきたが、実はこれと全く同じ構造を有するテレビのジャンルがもう一つある。それは「一般のニュース」だ。よくよく考えてみればニュースのほとんどは実はどうでもいい内容ばかり。たとえば最近だと橋下徹大阪市長が従軍慰安婦問題について不謹慎な発言をしたなんてのがこれに該当する。一介の市長が従軍慰安婦問題をどのように発言しようと実は大した問題ではない(橋下は首相ではない)。ところが橋下自身がメディアの寵児であり、われわれの表出=共有コミュニケーションのネタとしてはもってこいの存在。そしてそのことをマスコミは知っている。だから、橋下の発言の一部をはしょり、問題視するような文脈に流し込んでねじ曲げ、大々的に報道する。でも、そうすることで「やっぱり橋下さんは~」みたいなかたちでコミュニケーションが盛り上がる。ねじ曲げた方がネタとしてははるかに盛り上がるからだ(見下しやすい)。全てとは言わないが、ニュースもまたその多くが、こんな「マスゴミ」的なトピック、つまりネタになる情報、そして演出で埋め尽くされている。だからその質としてニュースとワイドショーは五十歩百歩だし、われわれのヒマつぶし、表出=共有コミュニケーションを開くという重要な「必要悪」としての機能を備えていることでも五十歩百歩ということになる。そして現在、こういった「どうでもいい報道」パターンが一般のニュースをどんどん浸食しつつある。そう、実は報道自体がどんどんワイドショー化しているのだ(NHKの7時のニュースで被害者の葬式が報道されたことがあったが、これって「伝達内容」としてはほとんど情報価値0%、つまり「必要なし」。しかし、メロドラマのお涙頂戴という「表出=共有」機能なら情報価値100%、つまり「必要不可欠」だ。これをNHKですらやるような時代になったのだ。まあ「みなさまのNHK」というキャッチフレーズがポピュリズムを意味するのなら正しいけれど(笑))。そして、それはある意味、時代の必然。つまり、報道全般のワイドショー化は現代人のコミュニケーションのための重要な社会的機能の一部を担っているということになる(念のために付け加えておくが、この機能を担っているメディアは他にもある。もちろんインターネット上でも。ただし、テレビが最大かつアドバンテージを有することは間違いないだろう)。

だからテレビはなくならない

テレビはジリ貧だ。だが、こういった機能を備えている限りなくならないし、むしろこちらに特化していくことで生き残りが可能になる。だからこれからワイドショー、そしてニュースを含めた報道コンテンツは、テレビ番組の中でますますその比重を増やしていくだろう。これらはわれわれのコミュニケーションにとってきわめて重要なのだから。

ちなみに、この他にもテレビのコンテンツとしてヒマつぶしとネタ供給機能を備えているのはスポーツ中継、そして情報バラエティだ。だから、これらが番組のジャンルとして伸びていくのではなかろうか。

前回はワイドショーが「必要悪」とみなすことができる理由として「ヒマつぶし」「ネタ供給」二つ機能を指摘した。そこで、さらにもっと積極的な理由、そしてワイドショー特有の社会的機能に切り込んでみよう。「テレビの重要性」さらに「ワイドショーの重要性」という流れで展開してみたい。今回(2)はテレビの重要性について。


テレビとネットは異なるメディア機能を有する

近年テレビはしばしばオワコンみたいな言われ方をするようになった。お客をネットに取られ、どんどんジリ貧になっている。なおかつ頭脳流出も激しいのでコンテンツ自体もスカになり、垂れ流しているものはまさに「マスゴミ」化しているというようなモノのイイだ。たしかにインターネットの方がテレビよりもアクセス時間増加の傾向にあり、また視聴率はどんどん低落しているので広告収入も低下し、先細りであることは否めない。しかし、だからといってオワコンと言うことは決してないだろう。というのもネットは原則プル・メディア(ユーザー=受け手が主体的に情報を取り出すメディア)、一方テレビはプッシュ・メディア(送り手が大量の受け手に一方向的、垂れ流し的に情報を供給するメディア。受け手は受動的に情報を受け取る)だから、双方がかぶらない部分も当然存在しているからだ(もちろん重複している部分はあるし、その部分の多くをネットが持ち去っているからジリ貧なのだけれど)。テレビの基本的な機能は議題設定。つまり、まだあまり認知されていない事柄を広く周知させることにその本領がある。マスメディアだから一元的な情報を大量に流す。だから、たとえば商品を大々的に売り出したい場合にはテレビという媒体を使ってキャンペーンを繰り広げ周知させるのが手っ取り早いのだ。プル型のネットにはこれは無理だ。つまりテレビが周知させたものについて、それを援護射撃するというかたちが基本になる(もっとも、テレビが取り上げるネタを提供するのも最近はネットだが)。だからこそ、ソーシャルゲームを手広く広げるGREEやMobageが積極的にCM戦略を打っているわけだ(ネットだけで十分に周知されるならば、あんなにテレビでCM展開するわけがない。二つの会社ともネットとテレビのメディア性の違いをよく踏まえて、ああやった戦略を組んでいるというわけだ)。

プッシュ機能がネタを提供する

このプッシュ型の機能がわれわれのコミュニケーション、とりわけ表出=共有の側面(「伝達」の他にコミュニケーションが備えるカタルシスを獲得し、他者との親密性を形成する機能。実はコミュニケーションの中心を占める)については大きな役割を果たす。

まだメディアがそれほど発達せず、対面的なコミュニケーションが中心だった50年くらい前まで、人々はこの表出=共有コミュニケーションのためのネタを対人的な場から捻出していた。そしてそのネタとは互いが共通するネタ、突き詰めてしまえば相互に知っている他者についての話だった。ただし、そういった「よく知った他者」についての話は、結果としてプライベートの暴露ということになった。そして、それは当然ながら話をする自分の身にも降りかかってきた。つまり共通の知人のプライベートをネタにコミュニケーションを交わしていることは、自分がそこに居合わせないときには、今度は自分が共通の知人の立場に置かれ、プライベートがネタになったのだ。だからプライバシーは常態的に暴露され続けた。

だが、時代は変わった。言うまでもなくプライバシーは最も尊重されなければならない権利の一つとなったのだ。だから、おいそれと他人の話など口にすることはできない。ところが、それは表出=共有のためのネタ源を失うことを結果した。これではカタルシスや親密性を獲得できない。

そんなとき、共通の知人についてのプライバシーに関する話でネタになり、そのくせ自分は決して共通の知人としてネタにはされない、つまりネタ源を固定する格好の方法が現れた。それがテレビに登場する「共通の知人」つまりマスメディアに登場する有名人だ。対面的な場でコミュニケーションを交わす人間の間で有名人であるテレビに登場する人間をディスプレイ越しではあるが双方よく知っている。だから、これをネタにすればとりあえずこの表出=共有コミュニケーションの確保は可能になる。また、テレビがその有名人を頻繁に露出させ続けることで、ネタは継続的に提供され続ける。その一方で、ネタになる人物が交代することもない。つまり、プライバシーを暴かれるのはもっぱらディスプレイ上の向こうの人間。だから、自分たちのプライバシー暴露には抵触しない(いや、どころか隠蔽する機能すら果たす。メディア上の相手の話をしていれば、自分たちの話はしなくて済むからだ)。

こういったテレビの機能がプルメディアであるネットにはないことは明らかだ(もっともソーシャルメディアはもう一つのネタを提供口でもあるのだが、こちらについての考察は別の機会に譲りたい)。たとえば、他者との一般的な会話を交わすネタとしてインターネットから拾ってきたものをとりあげたらどうなるか?これは、ほとんどネタとしては機能しないだろう。プッシュメディアではないため一般に情報を認知させる機能をネットは持っていない。自分が知りたい情報をプルするネットは、原則、その情報が細分化されたトリビアルなものになるのだ。だから、そのネタを持ちだしても相手にとってはそれがネタとして共有することが限りなく難しいし、表出として相手が聞かされたら退屈なだけだ。いや、そんなトリビアルなネタを話せば「こいつヘン?」と気持ち悪がられるのがオチだ(これが有効なのはオタク的な同好の士の間でのコミュニケーションに限られる。そしてこういう場合にネットは大きな「ネタ提供機能」を有するようになる)。

というわけで、テレビは人権意識の高まりによるプライバシー意識の向上とインターネットの広がりによる嗜好の急激な多様化に伴うコミュニケーションネタの枯渇をヘッジするという役割をむしろ強く持つことになるのだ。

そして、このテレビの機能、つまりネタ供給による表出=共有コミュニケーションの働きを最も効率的に達成可能にするコンテンツの一つが、実はワイドショーなのだ。(続く)

ワイドショーというのは、メディアを語る人間たちの間ではもっぱら「悪者」扱いされることが多い。スキャンダル、ゴシップ、バイオレンスを並べて、野次馬根性を惹起する「マスゴミ」の典型といった論調だ。「人の不幸は蜜の味」で、確かに、この出歯亀的な情報の放出は、ちょっとウンザリしないこともない。実にくだらない、といってしまえば、まさにそのとおりだ。

ワイドショーを批判は自己言及になってしまう

しかし、どうだろう?だったら、見なければいいだけの話なのだけれど……事情は、必ずしもそうはなっていないようだ。なんのことはない、ワイドショーはそれなりに視聴率を上げているのだ。それを「腐りかけの奥様」(山下達郎”Hey Reporter”)だけが見ているという図式で片付けてしまうのは実に単純。ということは、ワイドショーを「マスゴミの象徴」みたいなモノのイイをしている御仁は天にツバしていることにならないだろうか?結局、ワイドショーを見ているのは「マスゴミ」といって批判している「あなた」ということになる可能性が高いからだ。つまり、お下劣、くだらないというのはあなた自身のことになる。

いや、そうではないだろう。ワイドショーが延々続けられるのは、むしろこういったニーズに何らかの必然性があるからと考えるべきなのだ。だから「マスゴミ、くだらない」「ワイドショーくだらない」と一刀両断するのは、要するに「思考停止」でしかない。

だったらワイドショーの社会的機能とは何なのだろう?今回はこれについて考えてみたい。

ヒマつぶしの機能

人の足を引っ張ること、不幸を楽しむことを展開するワイドショー。その社会的機能として考えられるのは、先ずはコンサマトリーな側面、つまり「ヒマつぶし」だ。仕事で忙しい人間はともかく、多くの人間は一日のヒマをもてあましている。こういったヒマの相手をしてくれる他者が必要だ。だが、自宅に相手をしてくれる人間が必ずしもいるわけではない、というか普通はいない。そこでテレビがそういった人たちの「お守り」するわけだが、これが教養的なネタじゃ、堅苦しくてちょっとヒマつぶしにならない。だから、肩の凝らないものがいい。そして人にまつわるモノがいい。

ネタ提供機能

しかしこれだけならサスペンス劇場みたいなドラマや一般のバラエティ番組も同様に該当する。だからワイドショーにはコンサマトリーな側面以外にも独自の魅力があると考えなければならない。それは……リアルな世界でのコミュニケーションを開く機能、いいかえれば「ネタ」としての役割だ。

われわれが他者と日常的なコミュニケーションを交わすとき、その中身はどうなっているのか?コミュニケーションというと、あたかも相互に「情報を伝達する」というイメージを浮かべがちだが、実はこれは誤りだ。日常生活でのコミュニケーションにおいて伝える情報内容は、実はほとんどと言っていいほど意味がない。これはわれわれが普段、他人とどういった会話をしているのかを振り返ってみるとよくわかる。ほとんど「どうでもいい話」なのだ。その典型はテレビについての話で、たとえば今日の朝ドラの話をすると言うとき、互いに伝え合う情報はほとんどない。互いにそのテレビを見ており、双方とも番組内容のことをよく知っているからだ。にもかかわらず、われわれは「今日の「あまちゃん」見た?」と、朝ドラの話で盛り上がる。

コミュニケーションの本質は表出と共有

このとき、われわれが行っているのは「情報内容」の伝達ではなく、「情報内容をチェックしたという行為」の伝達となる。つまり「見たこと」という事実のみが情報伝達内容となるのだ。

でも、なぜそんなことをやるのか?それはコミュニケーションが備える情報「伝達」以外の、そして最も重要な機能を利用しているからだ。これは二つある。ひとつは「表出」の機能だ。つまり、自分が「番組を見た」と言うことを相手に伝えると言う行為それ自体によってカタルシス効果を得ようとするのだ。人はコミュニケーション動物なので誰かと関わっていないと耐えられない。これは具体的には他者を目の前に置き、ことばを発することで達成される(モノローグ的なものもでもある程度のカタルシスを感じることができないこともないが、目の前に他者がいてリアクションしてもらうことでリアリティは倍加し、そのカタルシス効果は倍加する)。これは子どもが母親に今日の出来事を話するといったシチュエーションを思い浮かべてもらえばわかりやすいだろう。

また、このカタルシス効果は翻って情報のもう一つの機能である「共有」機能を満たすことになる。前述したようにコミュニケーションにおいてわれわれが志向するのは他者であるが、さらにその他者との親密な空間の形成も志向する。こういった親密性を確保するためには相手とコミュニケーションするための共通の話題=ネタが必要なのだ。ネタは会話のきっかけを作り(お見合いで「ご趣味は?」とたずねるのは共有する部分を探ろうとするためだ)、また同じ情報を共有することでわれわれは他者の中に同質性を見る。これが親密性に結びつくというわけだ。さらに、こういったカタルシスを継続的に満たしてくれる相手は「いい人」であり、これを相互に行うことで親密性は一層高まっていく。

ただし、こういったネタ提供機能は、ワイドショーだけに限った話ではない。前述したドラマ、テレビ一般、いやそれ以外のメディアもまたそういった機能を備えている。だが、表出と共有による親密性形成に、テレビは有効な機能を備えている、そしてその中でも格好のものがワイドショーなのだ。じゃあ必要「悪」としてのワイドショーの機能とは何か?次回以降、ワイドショーの社会的機能を他のメディアとの差異化を示し、その特性を段階的に絞り込むことによって明らかにしていこう。(続く)

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