勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

カテゴリ: テレビを考える

ダブルキャストで東京オリンピック史を綴る大河ドラマ「いだてん~オリムピック噺」が一桁台という低視聴率にあえいでいる。直近の35話で6.9%。第32話では5.0%という、大河ドラマ史上最低の数値を叩きだした。今回は、この理由について考えてみたい。


ドラマ自体は典型的な宮藤官九郎パターンだ。これを13年に放送され、大ヒットした朝ドラ「あまちゃん」との比較から考えてみよう。



宮藤官九郎の作品構造


「あまちゃん」の特徴は、①多くのキャラクターが登場する。それぞれのキャラクターは多少なりとも主人公と関連付けられはするが、むしろ独立したかたちで描かれるほうに比重が置かれている。「あまちゃん」では母の天野春子(小泉今日子)、足立ユイ(橋本愛)、鈴鹿ひろ美(薬師丸ひろ子)、荒巻太一(古田新太)などのキャラクターの物語が独立したかたちで描かれた。しかもこうした脇役たちの関係を綴ったエピソードも頻繁に登場する。②ほぼ登場人物が等身大のキャラクター。いわゆるビルディングス・ロマン、つまり主人公が一介の人物から功成り名遂げるというお約束のパターンを採用しない。「あまちゃん」では’のん’(当時、能年玲奈)演じる天野アキは、最後まで成長することはない。むしろ成長しそうになると元に戻すという展開が繰り返される。③クローニクル(年代記)のスタイルを採る。リアルタイムの進行は2008年から11年までだが、春子、鈴鹿、荒巻を巡るもう一つの歴史が80年代のアイドルシーンをベースに繰り広げられる。この二つの時代が平行して、しかも大量の史実と共に描かれ、そして最終的に結びつけられる。


「いだてん」も同様の構成だ。①のキャラクターについては金栗四三(中村勘九郎)と田畑政治(阿部サダヲ)のダブル・メインキャストで、さらにここに嘉納治五郎(役所広司)、増野シマ(杉咲花)とその家族、古今亭志ん生(ビートたけし・森山未來)と弟子の物語が並行して展開される。②については、やはりキャラクターは等身大の描かれ方で、偉人のそれではない。二人の主人公にはエネルギーこそあるものの、そこに威厳を感じさせるものはない。これについては柔道の創始者である嘉納治五郎までが「偉い人」ではなく、いわば「オリンピック・オタク」として描かれている。③については前半が金栗四三によってオリンピックと日本の関わりの起源を、後半では田畑政治によってオリンピックの日本誘致の歴史がそれぞれ濃密に語られる。ただし、わかりづらい。また、二つの関連付けも、現状では曖昧だ。


要するに「いだてん」も典型的なクドカン・パターンなのだが、「あまちゃん」のような大ヒットにならないどころか、大河ドラマ至上最低の視聴率に陥っている。この原因は1.大河ドラマというカテゴリーからすれば逸脱しすぎており、常連の保守的な視聴者には理解不能で嫌われたこと、2.クローニクルに視聴者がリアリティを抱けないこと、の二つに求められるのではないだろうか。



大河ドラマのスタイルにそぐわない

それぞれについて、クドカン・ドラマの要素との関連で考察してみよう。

先ず「大河ドラマスタイルからの逸脱」について。既存の大河ドラマでも多くのキャラクターが登場するが、これらの人物は原則、主人公と紐付けられており、独立したドラマとして組み込まれることはほとんどない。言い換えれば、それぞれの脇役の横関係については展開されず、もっぱら主役との関係で脇役が紐付けられていく。こうすることで、ストーリーは単純なトップダウン、ヒエラルキーの構造を備える。そしてこの伝統的な構造に常連の視聴者たちは馴染んでいる。


ところが「いだてん」はこうしたトップダウンの構造にはなっていない。複数のストーリーが展開され、それによってドラマの世界が編み上げられる。方法論としては逆のボトムアップ、つまり先ず様々な情報、エピソードをばらまいて、それを次第に統合していく。言い換えると、少々謎解き=ミステリー的な形式になる。これは「お約束」「いつもの図式」を前提にしている大河ドラマ視聴者からすれば、極めてわかりづらい。「なんだ、この下手くそなシナリオは」ってなことになる。だが実際にはシナリオはよく練られているので、理解できないのはクドカン・ドラマのリテラシーがないからということになる。



偉くない偉人、大成しない主人公

②の「等身大の描かれ方」も同様だ。ドラマの中に偉人は出てこない。主人公の金栗と田畑は歴史を掘り返さなければ知ることが難しい人物だ。そして嘉納治五郎や高橋是清などの偉人も「偉い人」ではなく、いわば「エラい人」という演出が施されている。肩書き的には偉い人物なのだが、その振る舞いは偉人のそれではない。もっぱら好奇心の塊のような人間たちに書き換えられている。大河ドラマの視聴者からすれば、子どもっぽくて、いつまでも大成しない、偉人にならないキャラクターは不謹慎な描き方に見えてしまうだろう。むしろ、理解できない存在になってしまう。これは前作の「西郷どん」を参照してみればよくわかるだろう。あれはベタでわかりやすいキャラクター。「理想に向かってブレずに大成していく人生」というパターンだからだ。


しかし、これらだけならば「いだてん」だけでなく「あまちゃん」も支持を得られなかったはずだ。しかし、こちらは当たった。主人公を演じた’のん’に至っては歴代朝ドラ・ヒロインランキングでぶっちぎりのナンバーワンだ。しかも、この作品は「朝ドラに革命を起こした」と言われている(https://news.livedoor.com/article/detail/16549598/)。



視聴者が時代や物語を共有できない年代記

では、二つの致命的な違いはどこに求められるのか。それは③の要素、クローニクルの描かれ方だ。前述したように「あまちゃん」では2008年から2011年の東北大震災直後まで、そしてこれと平行して80年代後半のアイドルシーンが描かれた。これらの歴史は視聴者自身が体験したものであり、文脈をつけやすい。前者は当時からすれば直近のことであり、全ての世代が容易に理解可能だ。だが「あまちゃん」のクローニクルの魅力はもう一つの80年代後半の方にある。当時、30代後半から50代後半の視聴者にとって、これは懐かしい記憶。しかしながら、ドラマの中で描かれることはほとんどなかった。言い換えれば「手垢のつけられていないクローニクル」。しかも、作品の中で描かれたアイドルシーンは史実に基づきながら二つの人物が抜かれていた。ポスト聖子の一人として人気を博した小泉今日子と、角川映画の看板女優で歌手としても大成した薬師丸ひろ子だ。だが、この二人がドラマの中に登場する。小泉演じる天野春子は「アイドルになれなかった小泉今日子」、薬師丸演じる鈴鹿ひろ美は「大成したアイドル俳優、ただし音痴(薬師丸の美声はつとに有名)」。こうした配役によって視聴者は80年代後半をパラレルワールドとしてノスタルジーに浸ることができたのだ。なおかつ二つの時代はリンクしており、これが謎解きの様相を呈した。だから病みつきになった。そして、30~50代の視聴者層を獲得することに成功する(朝ドラのコア視聴者層は60~70代)。


一方、「いだてん」はこのようにはなっていない。二つの時代は1900~1930年代、1930~1960年代前半であり、視聴者のほとんどは同時代者ではない。つまり、二つとも「学習」を必要とするのだ。これが戦国時代や明治維新なら話の理解はもっと簡単だ。二つの時代は何度となく歴史ドラマで取り上げられており、視聴者にはこの時代の物語=フィクションについてのリテラシーがある。ところが「いだてん」に関しては、時代的知識や物語形式のバックグラウンドがない。それゆえ「いだてん」で初学習ということになる。しかしながら、大河ドラマ視聴者のコア層は60代より上、朝ドラよりさらに上の層だ。こうなると、もう難しすぎてついていくことが出来ない。ドラマについての前提となる知識がなく、また描かれ方も既存のものとは違うのでわからない。その結果「なんだ、こりゃ?」ということになるのだ。



二分する評価、そして大河ドラマの未来

ただし、こうしたクドカン・イズムに造詣がある層にとっては、このドラマは「酷い出来」どころか「傑作」だ。「あまちゃん」に比べると情報詰め込みすぎで、ちょっと整理が行き届いていないところも見えるが、クドカン的大河ドラマ実験は賞賛に値する。好奇心丸出しの偉くない嘉納治五郎など、却って人間的な魅力=リアリティを感じないでもない。


「いだてん」は嘉納治五郎を主人公にしてオリンピックの日本活性化のために尽力した立志伝、人物伝にすればよかったと評している記事があったが、確かに単に視聴率を稼ぐためなら、その方がよかっただろう。しかしながら大河ドラマも新陳代謝していかなければならない。60代以上の人間は、あたりまえの話だが漸次減少していく。大河ドラマとしては若年視聴者層を開拓していく必要があるのだ。それゆえ、今回のクドカン起用は大河ドラマの未来を見据えたものだろう。


七十年代「ルパン三世」や「宇宙戦艦ヤマト」が初めて放送されたとき、これらはいずれも低視聴率だった。「ヤマト」に至っては裏番組の「アルプスの少女ハイジ」「フランダースの犬」に視聴者をごっそり持って行かれ、放映回数を短縮されたほどだった。しかし、その後、この二つが日本のアニメ史に重要な足跡を残したのは周知のことである。


10年後「いだてん」は、おそらく「ルパン」や「ヤマト」と同じ評価がなされているのではないだろうか。そんなふうに思えないこともないほど本作は画期的、大河ドラマのブレークスルーであると僕は考えている。


さて、今日も四三と政ちゃんと治五郎の雄叫びを楽しもうか!


さながら芸能界の巨悪が露呈したかのように、ジャニーズ事務所と新しい地図(元SMAP三人、稲垣・香取・草彅)、吉本興業と宮迫・ロンブー亮(そしてこれにレプロと「のん」こと能年玲奈の問題も含めることができるだろう)を巡って、メディアで混乱が発生している。だが、これらのトラブル、実はメディアの大きなパラダイムシフトを発生する可能性を秘めているのではないか。というのも、今回の出来事は、いずれ芸能界からテレビ、そしてメディア全般に至る領域まで影響を及ぼすかもしれないからだ。

一連のトラブルはメディアに関する三つの側面を教えてくれる。そして、それらは表層から深層、ミクロからマクロという形で重層的に繋がっている。

芸能界は大手が牛耳る構造

先ず表層かつミクロな側面について。これはもちろん、芸能プロダクションとタレントの問題、そしてわが国における芸能プロダクションの構造の問題だ。男性アイドル業界においてはジャニーズ事務所、お笑い業界においては吉本興業が巨人であることは言うまでもない。そして、これらはそれぞれの分野では市場をいわば寡占あるいは独占した状態。だから、タレントが一旦ここから離脱すると、メディアへの露出が限りなく難しくなる。ご存じのように締め出しを食らってしまうのだ。元SMAP=新しい地図の三人がジャニーズから離脱した瞬間、レギュラー番組のほとんどが終了し、メディアへの露出が極端に減ったことは周知の事実だ。現在、出演が可能なのはNHK(草彅=ブラタモリ)、欽ちゃん&香取慎吾の仮装大賞、そしてサントリー(香取、稲垣)とミノキ(香取、草彅)のCMのみだ。これらは前者二つは対抗する権力(NHK=タモリ、萩本欽一)によって支えられ、後者二つのCMはジャニーズの息のかからない分野(大手代理店でなくサントリー自体が制作している。あるいは代表の飯島三智と懇意)だ。宮迫と亮が今回の記者会見後にどうなるかはまだ不透明だが、二人の会見は離脱どころか反逆になるゆえ、現状のままであれば芸能界のメインストリームで活躍する可能性は新しい地図以上にほとんど不可能になるだろう。だが今回、二つのトラブルはこの独占、権力構造を世間に晒すことにもなった。公正取引委員会によるジャニーズ事務所への注意、宮迫、亮二人による結果的な吉本への反逆、暴露がそれだったというわけだ。

テレビメディアは共同正犯

次に第二層、つまり中層かつミドルな側面について。現在、この二つのトラブルがメディアで頻繁に報道されているが、報道それ自体が看過している、あるいは意図的に語らない(イヤ、ひょっとしたら思考停止している)側面がある。「そもそも、こうした市場独占、権力構造を可能ならしめたのは誰なのか?」が、それだ。言うまでもなく、それはジャニーズや吉本から多大な恩恵を受けているメディア、とりわけテレビに他ならない。ジャニーズ事務所と吉本興業は、あからさまにこうした「離脱=反逆タレント」をテレビが登用することにクレームをつけることは、おそらくしてはいないだろう(だから公正取引委員会はジャニーズ事務所を「注意」するに留めている。状況証拠しかないからだ)。二つの権力はそんなことをするほどマヌケではない。「どうぞ、ご自由にお使いください。ウチから離れただけですから」というスタンスをとっているはずだ。しかし、これはあくまで口先だけ。もし、テレビが「そうですか。それでは、これまで通り使わせていただきます」なんてことをやったら、プロダクションお抱えのタレントたち(膨大な数のそれ)の出演を断ってくるのは目に見えている。もちろん、二つに関係はないというタテマエで断るのだけれど。だから、権力側に何も言われなくても、テレビは勝手に忖度して離脱タレントの起用をやめてしまう。まあ、これこそが、最も典型的な権力構造なのだけれど。

これはとどのつまり、こうした構造を下支えしたのが結果としてテレビというメディアであることを意味している。タレントを閉め出しているのは独占企業プロダクションとテレビ。つまり、二つは共同正犯なのだ。にもかかわらず、テレビ局はそうした責任性を顧みることもせず、自らのことはさておき他人事のようにこれら一連の報道を続けている。とはいうものの、どうもおっかなびっくりという印象もありありで、ジャニーズ、吉本への批判については歯切れが悪い。まあ、僕には、日和見かつ無責任の、みっともないことこの上ない存在に映るのだが……。

ちなみに、これらのスキャンダルに対しては、これに関わる人間や組織がどのように対応するかが、今後問われることになるだろう。その一つは独占状態にある組織に所属するタレントたちの立ち位置だ。ジャニーズについては中居と木村の立ち位置が問われた。そして今回は吉本の大物芸人たちがその立場に立たされるだろう。これについてはすでに松本人志がワイドナショーの特別生番組をフジテレビにもちかけ、自らの立場を表明しているが、この対応の仕方次第で吉本の大物芸人は芸人生命の死活問題となる可能性すらあるかもしれない。

今、テレビのあり方が問われている

だが、最も重要なのは組織、つまりプロダクションとテレビの立ち位置だ。プロダクションの方はすでに大きな打撃を受けつつあり、今後何らかの対応を余儀なくされるだろう。だから、ここはしばらく様子を見てみたい。なので、ここではテレビの方について考えてみる。もし、テレビがこれまで通り二つのプロダクションに媚びを売り続けるようなスタンスをとり続けるのであるのならば、これは大きな問題だ。いいかえればテレビの信用性の問題に関わる事項となる。中途半端、あるいは「寄らば大樹」「弱気を挫き、強きを助ける」のような態度を今後もとり続ければ、早晩、視聴者の信用は失墜するだろう。タレントたちと同様、テレビにも、もはや”賽は投げられた”のだから。

そして、この問題こそが「深層のマクロな問題」に通じている。いいかえれば、テレビというメディアの存在それ自体の今後のあり方の問題。ご存じの通り、インターネットの急激な普及に伴ってテレビの視聴率は漸減傾向にある。とりわけ、テレビ離れは若年層に著しい(若者は、もはやインターネットの方がテレビよりも圧倒的にアクセス時間が多いのだ)。テレビ局はもがき苦しんだ挙げ句、テレビ世代の中高年層をターゲットとしたドラマ(サスペンス物)、あるいは低予算で制作可能なトークバラエティを中心とした番組にその中心をシフトした。そして、後者での人員(タレント)の中心を担っていたのがジャニーズ事務所と吉本興業だったのだ(場合によっては前者もそうなのだが。事実、大岡越前を演じているのは東山紀之だ)。裏を返せばジリ貧でもがき苦しむ中、視聴者維持のために必死にすがっていたのがこの二つだったのだ。いわば”蜘蛛の糸にすがるカンダタ”状態。だから後者に関しては忖度するのがあたりまえだった。

しかしながら、前者については、視聴者はやがてこの世からいなくなっていく層であり、ジリ貧は不可逆的な流れ。そして、後者についても、今度はこうしたトラブルに若者たちが嫌気をさし、テレビ離れを加速化していく可能性がある。そうなってしまえば、テレビはもがき苦しんだ挙げ句、最終的に蜘蛛の糸は切れ、地獄に落ちていくことになってしまうだろう。

テレビというメディアが生き残るためは、今後これらの構造的な問題に対して主体性を持って立ち位置を視聴者に示すことが至上命題となるはずだ。巨大プロダクションにひるむことなく、自らの方針を明確に、そしてこれらに依存しない運営を志向する必要がある。テレビは、もっと自信を持って毅然とした対応をしなければならないのだ。それは言い換えれば「クリエイティビティを取り戻せ!」と言うことでもある。今回のジャニーズ事務所、吉本興業問題は、翻ってテレビというメディア自体の問題でもあること。そのこと自覚することから、テレビはまずはじめるべきだ。でなければ、恐らく未来は、ない。

ホリエモンのコメントを、たけしと厚切りジェイソンが激論

ここにきて、以前、物議を醸したホリエモンこと堀江貴文氏の寿司職人養成議論が再燃している。2月15日のテレビ番組『たけしのTVタックル』で、たけしと厚切りジェイソン、そして東京すしアカデミーの代表と寿司久兵衛の店主が議論を戦わせたのだ。

この議論、ホリエモンのツイートに端を発している。

「コロンビアで寿司屋を開きたいのですが、どう思いますか」

というネット上での質問に、ホリエモンが

「いいんじゃない、今は寿司アカデミーとかで数ヶ月でノウハウ学べるし。昔の『10年修行』は、弟子に教えないということ」

とコメントしたことが発端。

ホリエモンの主張を要約してしまえば、寿司の技術は徒弟制度などに頼らなくても短期間で養成できるというものだ。これがネット上で反響を生んだ。その多くがホリエモンの意見を援護するものだったのだけれど……。

番組ではホリエモンを擁護する側にジェイソンとすしアカデミー代表、反対側にたけしと久兵衛の店主を配置させた。

ジェイソンは修行など不要といって憚らない。
それに対して、たけしは「河岸に毎日通わないと魚の脂の乗りはわからない」と反論。
するとジェイソンは「そんなのはインターネットで調べればいいじゃん」と言い返した。

これだけの話を聞くと、修行害悪論に落ち着くのだが……はたしてそうだろうか?

ゲシュテルとテクネー、二つの技術

哲学者のM.ハイデガーは著書『技術への問い』の中で、技術の二つの側面「ゲシュテル」と「テクネー」について言及している。哲学ゆえ難解なので、ここは僕の超訳=超解釈で説明してみたい。
ゲシュテルとは「マニュアル的な技術」。指示書があり、それに従って段取りを踏めば原則、物事を完成することが可能なそれだ。取扱説明書を見ながら組み立てるなんてのが典型。

最も簡単な例として、インスタントラーメンの調理を考えてみよう。これを初めて調理する人間ならば、袋の後ろに書いてある説明を参照しながら作る。そうすると、まあ、それなりのものが出来上がる。

ただし、このインスタントラーメンをつくること、意外にバカに出来ない。中学生の時、友人宅に遊びに行った時のこと。そこで、友人の母親が昼食を用意してくれたのだけれど、それがサッポロ一番塩ラーメンだった。当時、僕が自分で作ってよく食べていたものだ。ところが、出されたものを口にした瞬間、驚いた。全然、味が違うのだ。これがいつものサッポロ一番であることはよくわかる。しかし麺のゆで加減といい、スープの加減といい、トッピングされているものといい、とんでもなくおいしかったのだ。種明かしは……友人宅は旅館で、その料理を一手に引き受けていたのが友人の母だったというわけ。興味を抱いた僕は、友人の母親に作り方を教わり、数日後、自分で調理してみたのだけれど……全くダメだった。

インスタントラーメンなんて誰が作っても同じと思っていたものが、なぜこんなに違うのか。それはこの母親が顧客に向けて何十年も調理を続けてきたからに他ならない。その中で身体に定着した様々な技術=スキルが、たまたま息子の友人の僕のまかないにも反映されていたというわけだ。こういった、長年の蓄積の中で身体に蓄積されたスキルをテクネーと呼ぶ(ちなみに僕が友人の母親に教えてもらったのを参考に作ったものは、ただのゲシュテルに過ぎない)。

そして、残念なことに、このテクネーは教えることが出来ない。個人が経験をスキルに積み上げる中で養ったものだからだ。言い換えれば、本人が知らないうちに身につけたもの。だから、なぜそうなったのか本人も解らない。なので、当然、教えられない。

学ぶ方法は一つしかない。それが、いわゆる修行と呼ばれるものだ。要するに対象と長い間ひたすら関わり合うことで身体に刻印される技術、それがテクネーなのだ。

たけしのテクネー、ジェイソンのゲシュテル

この技術の二つの側面を踏まえると、たけしとジェイソンの議論のズレが見えてくる。つまり、たけしはテクネーのことを指摘している。「河岸に毎日通わないと魚の脂の乗りはわからない」というのは、要するにそういうことなのだ。毎日河岸に通って魚を見続けることで、脂の乗りのよしあしが感覚的にわかってくる。一方、ジェイソンはこういった技術さえも「ネットで調べれば」体得可能と考える。しかし、ネットに書かれているものはゲシュテル。だから、どれだけ引っ張ってきてもテクネーにはたどり着かないのだ。つまり「魚の脂の乗り」はわからない。

では、ジェイソンはわかっていないのか?そうではない、半分わかっていないが、半分はわかっている。番組中、ジェイソンは「失敗したら何度でもやり直したらいいじゃん」と繰り返し発言しているのだけれど、これってテクネー取得の基本的やり方。つまり、トライ・アンド・エラーを繰り返す中で、次第にテクネーが身体に染みついていく。言い換えれば二人の修行に関する立ち位置はまったく同じ。異なるのは師匠につくか、それとも自力でやるかの違いに過ぎない(ジェイソンは自力でテクネーを養う能力に優れている。それゆえ起業して成功するし、お笑い芸人にもなれる)。だから、二人の議論を聞いて「修行など非合理的なもの」と一蹴してしまうのは「浅はか」なのだ。

ホリエモンの二つの身体

それじゃ、議論の発端となったホリエモンはどうだろう?彼は「浅はか」なのか?

そんなことはないだろう。

ホリエモンには二つの身体がある。マキャベリストの身体とロマンチストの身体だ。そして、このコメントは、専ら前者のマキャベリストの身体に基づいたものだ。もう少し噛み砕いて表現してしまえば「マネタイズするためにはどうしたらよいか」という立ち位置だ。で、すしアカデミーがやっていることは授業料を徴収して1年程度で寿司の技術(マネージメントも含む)を提供し、海外に出て寿司職人になるというものだが、こういった指導を受けた人間のうまい寿司を握る(ネタ仕込みの目利きや、店のメインテナンスを含む)技術の程度はたかがしれている。それこそ、回転寿司レベルに毛の生えた程度だろう。技術論の言葉を用いればゲシュテルにテクネーがちょっと加わったくらい。

しかし、これで十分なのだ。寿司は食の世界遺産である和食の、いわばフラッグシップ。海外では和食といえば先ず寿司が思い浮かぶ。ただし、そうは言っても、現地の人間には本当の味はわからない。いわば「寿司リテラシー」はきわめて低い。そういった人間たちからすれば寿司アカデミーで教育を受けた寿司で大満足のはず。立場を変えれば、寿司を握る側からすれば、それくらいの技術で十分オッケーという、WIN―WIN関係が成立する。ホリエモンはこのことを指摘したかったのだ。このレベルでビジネスは十分に通用する。言い換えれば、味のことなんか二の次なのである(まあ、日本人のほとんどが百円寿司で満足しているので、これは日本にも該当するのかもしれないが)。

だって、考えても見てほしい。もしホリエモンがマキャベリズムだけの身体しかないのであれば、彼は百円寿司か持ち帰り寿司しか食べないはずだ。……そんなことはないだろう。相撲を見に行ってもキッチリ桟敷席の先頭を座っているくらいなんだから、寿司だって高価でうまいものを楽しんでいると考える方が筋が通っている。つまり、ホリエモンのもう一つの身体=ロマン主義のそれは、桟敷で相撲を楽しみ、ロケット開発に入れ込み、うまい寿司を食い、テレビに出たがるという行為を彼に志向させている。で、こうやって高価でうまい寿司は、要するに修行した、つまりテクネーが高まった身体の指先から生まれているわけで、寿司ロボットが握っていたり、大量安価に仕入れている寿司ネタを使ったりしているのとは、わけが違うのである。

というわけで、ホリエモンの発言を、ただ単に「修行は意味がない」「寿司職人になるのは簡単だ」と理解した人間が、実は、一番寿司、食文化、さらに突き詰めて表現してしまえば「技術とは何か」についてのリテラシーが低いということになる。

たけしはベタに職人(彼の場合は芸人になるが)が何なのかを語っただけ。それが師匠、あるいは協会などの組織を軸にする修行=徒弟制の世界において成立するといいたかったのだ(もちろんこのシステムが、この世界に入った人間全てに十全に機能するというわけでは無い。おそらく、その多くはこのシステムがゲシュテル的には不合理と考え、脱落していく。また技術を提供する側が全くどうしようもないと言うこともままある。)。一方、ジェイソンはテクネーの獲得を、たけしが指摘するようなシステムではなく、自力でトライ・アンド・エラーを繰り返しながら獲得していくということをいいたかったわけだ(ただし、この時、ジェイソンは自らがどうやってテクネーを獲得したのかを、恐らく対象化していない。だから徒弟制に基づく修行が理不尽なものに思える。そして「修行」という言葉を、そういった師匠―弟子からなるシステムを意味するものでしかないと勘違いしている)。一方、ホリエモンは二つの身体の内、マキャベリズムの身体で寿司の修行は1年もあれば十分と指摘し、その一方で高度な技術についてはテクネーを要する修行の世界を肯定し、高価な寿司の世界を堪能している。

で、最後に一番面白いのは、これを放送したメディアが、このことをわかっていないと言うことだろう(笑)

小保方、佐村河内、野々村、小渕、矢口……

ご存知のようにテレビというメディアは、もはやある意味オールド・メディアとして長期低落傾向を辿っている。もちろん、インターネットの普及がその主たる原因であることは言うまでもない。スマホの普及で、われわれのメディアアクセス時間は、テレビよりももはやインターネットの方が長く、その比率は若年層になると一層高くなっている(ちなみに、スマホの普及によって、メディア接触の絶対的時間数は増加している)。もちろん、この原因にはテレビ自体の質の低下も含まなければならないが。

今後、テレビというメディアは、その特性としてこれまでとは異なったアプローチを採用しないことには、この低落傾向に歯止めがきかなくなるだろう。これまでのように刑事ドラマや若手お笑い芸人をひな壇に並べるようなお手軽(アタマを使わない)かつお手頃(カネのかからない)番組をやっていても、それはメディアとしての死を待つだけということになりかねない(僕のまわりの学生たちは若手お笑い芸人をおもしろがってはいるが、憧れたり、尊敬したりとかはしていない。ほとんど「ただの芸人」的扱いだ。いわば「おもしろいことをいうタレント」。その半面、たけしやタモリといった長老たちをものすごく尊敬しているのだけれど(笑))。

さて、こんな形でもがき苦しんだテレビ局が最近、半ば偶然発見したキラー・コンテンツがある(もちろん「半ば偶然」なのでテレビによる努力の賜では、ない)。2014年、スキャンダルや事件で話題になった映像を思い出して欲しい。小保方晴子STAP細胞問題、佐村河内守ゴースト問題、野々村県議の号泣、小渕優子の政治資金不正運用問題、矢口真里の謝罪?カミングアウト?これらに共通するもの、それは映像が「記者会見」というコンテンツのかたちをとって一般に浸透したことだ。とにかく、今年話題になった人物のベスト・ファイブみたいな人物が、この記者会見というコンテンツに絡んでいる。実際、これら記者会見が今年のメディアを飾る大きな記号として展開したことは、どなたも納得していただけるだろう。そこで今回は、なぜ記者会見が注目されるに至ったのか、つまりテレビ的な立場からすれば視聴率を取れ、視聴者の立場からすればネタとして扱え、当事者からすればパフォーマンスの格好のチャンスとなったのかについて考えてみたい。

ナマという特性を最も生かすことが出来る記者会見

テレビの視聴率低下要因の一つは、前述した要素(ネットの普及とテレビ局の怠慢)の他に視聴者側のリテラシー向上といった側面も見逃すことは出来ない。今や若年層、というか50代半ばくらいから、つまり60年代以降生まれより下の人間のテレビ・リテラシーはかなり高い。この世代は、生まれたときからテレビがあった世代。そして、後者になればなるほど、成熟したテレビ・メディアのコンテンツ、そしてそれ以外のメディア・コンテンツに馴染んできている。だから刑事物とか時代劇とかのパターンはとっくにお見通し、バラエティ芸人たちのギャグもどちらかというと批評家的な見方だ(つまり上から目線)。これは報道も同様で、ほとんどクリーシェ、つまり定型パターンで出来事が報道されていて、これにはかなりの視聴者がうんざりしている(だから、これら報道を取り上げて「ヤラセ」だとか「マスゴミ」と揶揄するわけなのだけれど。テレビよ、視聴者をナメてはいけない)。なので、テレビ側がこしらえたコンテンツは、よっぽど手が込んでいるか、予想外のものでも見せない限り注意を向けてくれない(逆に、徹底的に作り上げれば、ちゃんとまなざしを向ける。2013年の「半沢直樹」「あまちゃん」はその典型だろう。いいかえれば、テレビ側が相当くだらないものしか作れないということを、これは傍証するものでもあるだろう)。

こういった「こしらえ物」が功を奏さないときに、唯一役立っているものがある。それはスポーツ中継だ。なぜって、これはナマだからだ。なんのことはない、それから先が読めない。だから目が離せず、思わずえんえんと見てしまう(マラソンの結果を知りつつ、後で録画を全て見るという人間はかなりのマラソン・マニアだろう(笑))。そう、スポーツ中継はテレビがもはやお手軽に(必ずしもお手頃ではないが)頼れるコンテンツなのだ。

ちなみに報道でもナマの部分には当然人気がある。そして、このナマの部分のコンテンツのひとつが「記者会見」中継だ。とにかく先が読めない。そしてどういった発言、パフォーマンスが飛び出すのかに視聴者は首っ引きになる。小保方晴子が、佐村河内守が、小渕優子が、そして矢口真里が崖っぷちに立たされた状態で、なにをやらかしてくれるのか?「その時、予想だにせぬ展開が!」ってなわけだ。要するに、この時、テレビは編集権を記者会見の当事者に投げてしまっているわけだ。

ナマ記者会見を煽るインターネット

もちろん記者会見の生中継は今に始まった話ではない。有名なのは72年6月17日に行われた佐藤栄作首相の退陣記者会見で、この時には記者たちとの行き違いがあり、その結果、記者席から全て記者が退室し、佐藤がたった1人でテレビに向かって喋り続けるというパフォーマンスを展開している。また、ナマの記者会見はしばしば政治の場面ではニュースなどに挿入されている。

ところが、そうではないのだ。上記に挙げた2013年に行われた記者会見、実はその多くがテレビではないところ=別メディアで中継されている。それはニコ生とかUstreamのインターネットテレビだ。しかも全中継されているものも(ただし、小渕と矢口はテレビで全てをナマ放送した)。となると、これら「全中継」「ほぼ中継」というコンテンツの編集権は視聴者≒ネットユーザーにも与えられることになる。そこでテレビの報道とは異なる独自の切り口で映像を編集し、これをYouTubeなどにアップしてしまう。それが「STAP細胞はありまぁ~す!」とか、野々村県議の「ゥオゥウア゛アアアアアアアアアアアアアーーーゥアン!」「私は日本を解体~!(ホントは「私は日本を変えたい!」)(いずれもキャプション)へのクローズアップになる。そして、これがSNSに拡散させられると、今度はこれをテレビが取り上げる(これまた、お手軽かつお手頃だ。他人の褌で相撲を取っているのだから。ただし、テレビはマスメディア。このネタの格好の拡散メディアとして機能する)。こうやって、記者会見はテレビとネット、テレビ局とユーザーが相互に編集内容を融通し合う中で循環し、結果として記者会見は格好のメディアイベント、そしてスペクタクルと化していくのだ。そして、この「ナマ」と「映像のユーザーサイドでの編集」「メディア側の取り上げ」によって、これら記者会見は格好のコミュニケーション・ネタとして突出する。その結果、こういったメディアの往還によって記者会見は圧倒的に活気づくのである。

テレビはユーザーを利用することで、いや、ユーザーに依存することによってカネを稼ぐ手段を、結果としてではあるが、発見したのだ。


記者会見の当事者もパフォーマンス次第

こんなユーザー主導?あるいはテレビ・メディアとユーザーの化かし合いによるコンテンツの成立。要するに、メディアにとってもユーザーにとっても「ネタ」となっているわけだけれど、こうなると記者会見の当事者はたまったものではないということにならないか?本人たちの意志=本意にかかわらず、おもしろおかしく切り取られた部分のみが記号として先行、イメージの趨勢を形成してしまうのだから。だから本当の小保方、佐村河内、野々村、小渕、矢口とはどういう人物なのかは、はっきりいってわからない。で、実際、これら人物のうち小保方、佐村河内、野々村三者は徹底的にネガティブなイメージを作られてしまった(もっとも、野々村はネガティブというか、ほとんどお笑いだったが)。

ところが、これまたやり方次第で記者会見を格好のチャンスに転じてしまう記者会見の当事者たちも存在した。たとえば佐村河内のゴーストライターをやっていた新垣隆、そして小渕優子がその典型だ。新垣はゴーストライター、本来なら佐村河内と同罪だが、記者会見での誠実さがこのイメージをかき消し、その後テレビのレギュラー出演やコラボ・アルバムの作成など、引っ張りだこの人気者に転じた。小渕は言うまでもなく、政治資金の不正運用を巡って法相を辞任したが、会見での凜とした姿勢がかえって「後援会の失態を1人で背負っている」というポジティブなイメージを作り上げ、12月の衆議院選では前回を上回る圧勝(なんと開票50秒で当確が打たれた!)という結果をもたらした。2人とも「被害者」というイメージに転じたのだ。もちろんこれもまた、これら人物たちの本当の姿かどうかはわからない。つまり、これもまたイメージ。ただし、こちらの場合は当事者が結果としてうまく利用しているパターンになる(本人が意図的であるかどうかは別の話として)。記者会見もパフォーマンス次第なのだ(ちなみに矢口の場合は、いまだそのイメージが定まっていない。本人は開き直って「肉食系」として売り出そうとしているが、となるとそれまでの平謝りパフォーマンスがインチキになってしまうので、そのままではネガティブなイメージを払拭することは出来ない)。

こうやって考えてみると、テレビメディア、視聴者(そしてインターネット)、当事者の三者にとって生中継記者会見は御利益があるということになる。繰り返すがテレビにとってはお手軽でお手頃なメディア・コンテンツとして、視聴者=ネットユーザーにとってはコミュニケーションのメディア=ネタとして、当事者にとってはメディア的な自己イメージ形成の手段として(ただし、ポジティブなイメージを植え付けることに成功した場合に限るが)。

だから、これからも記者会見は「おいしいコンテンツ」として重宝されるだろう。そして、これは恐らく当分、飽きられることはない。なぜって?それはナマだから、そしてパターンがないから。まあ、あんまりやると「記者会見の文法=クリーシェ」みたいなものが出来上がって、定型化することもあるかもしれないが、当分は先の話。だから、これからも記者会見を僕らは楽しむ(楽しまさせられる?)ことになる。これだけは間違いないだろう。

※本ブログの関連記事は産経デジタル12月22日「記者会見の“エンターテイメント化”なぜ起こる?」(http://www.iza.ne.jp/topics/events/events-5750-m.html)を参照。


オマケ:紅白はオモシロイ!

このブログ、紅白を鑑賞しながら執筆しました。最近の紅白は、はっきり言って面白い。それは「お手軽でなく」(メチャクチャ手が込んでいる)、「お手頃でなく」(矢鱈とカネがかかっている)、そして何よりナマを最大限に生かす工夫をしているからだ。サザン出演という隠し球(まあ、最後は桑田がライブで事前にバラしてはいたが、番組表には掲載されていなかった)、「花子とアン」スタッフによる吉高由里子へのサブライズ(吉高、バッチリ泣いてくれました)、樽美酒のマルガリータなんてのもそうだが、究極は昨年と同様、ド素人の司会投入だ。昨年は綾瀬はるかと能年玲奈、そして今年は吉高由里子。もう噛むなんてのはあたりまえで、このド素人がどんなハプニングをやらかすかがハラハラドキドキもんで目が離せない。吉高は緊張しまくってわけがわからなくなってしまう半面、ノってくると危ないツッコミを平気でかますという「翔んでる女優」「プッツン女優」(死語を二つ並べてみました)をやってくれて痛快。究極はトリの松田聖子の緊張ぶりを国民に向かって公表してしまうというパフォーマンスでした(ギリギリ)。これぞナマの魅力!

ジャズというジャンルはない

現在「ヨルタモリ」は大まかな設定があるだけで、まだそのスタイルが固まっているとは言い難い。だから出来にかなりのバラツキがある。その典型はゲストとの絡みで、第二回の井上陽水(陽水はタモリの親友)はとにかく丁々発止の展開だったが、第三回の上戸彩はどちらかというと宮沢りえがフォローしていたという感が強い。堂本剛の際にはタモリが蘊蓄を披露するという点で興味深い展開を示したが、第五回の松たか子は、どうも少し話が空回りしていた(一方的な展開。ちなみに、これは松のせいというわけではないだろう。以前、松が「タモリ倶楽部」で空耳アワードの審査員として登場した際には、まさに丁々発止と渡り合っていた。状況によって出来が異なってしまうのは、後述するが、要するに「ジャズだから」)感も否めない。まあ、これもその内ダラダラとやっている内に収まりどころが決まってくるのではなかろうか。ただし、どんどんとスタイルを変えながら(その一方で番組の形式は、いつものように究極のマンネリパターンを目ざすのではないか?)

そして、今回の「ヨルタモリ」。ある意味タモリの哲学が前面に出されたものでもある。それをいわば「吐露」してしまったのが第四回だ。その哲学は「ジャズ」の一言で表現することが出来る。この回でタモリは吉原という一関でジャズ喫茶を経営する人物を演じているが、これは一関に実在するジャズ喫茶「ベイシー」のオーナー・菅原昭二氏をモデルにしていることは明らか(菅原氏は早稲田出身で早稲田のジャズサークル“ハイソサエティ”の座長を務めていた、日本のジャズ界では知る人ぞ知る人物。何度も一関にカウント・ベイシーを呼んでいることでも有名だ。ちなみにタモリが演じる吉原という人物のヅラ=髪型は最近の菅原氏をリスペクトしてか?)。この吉原という人物を通して、タモリはジャズについて次のように語る。


「ジャズというジャンルはない。ジャズな人がいるだけだ。」

「ジャズをやっている人で、ジャズでない人がいる」(クラッシック畑の人間がジャズを演奏した場合を一例としてタモリは挙げている)

「音楽やんなくてもジャズな人がいる」


さらに「ジャズとは何か?」については「スイングしていること」と答え、その具体例として”博多のラーメン屋のオヤジがリズミカルに首を振りながらチャーシューを次々と盛りつけていく動作”を挙げている。いわばジャズは「グルーヴ感」や「うねり」と言ったところにポイントがあると言いたいのだろう(ちなみに、この発言は第五回でもやっている)。

タモリがやっているのはモード・ジャズ

この”ジャズ談義”。タモリ、実は吉原という人物を借りて自らの芸風を語っている。

ジャズの典型的なスタイルのひとつとしてモード・ジャズがある。これはテーマ(これで音階=モードとメロディを提示する)を決め、コードを単純化あるいはある程度無視して演奏枠を確保し、これらを基調にしながら、各パートが自由にアドリブを繰り広げるというもの。それ以前のビ・ハップ、ハード・バップのコード進行に基づいた手法よりも自由度が高いが、半面、より多くの技量と想像力=アドリブ力を必要とする。実は、このスタイルを番組コンテンツに援用したのがタモリの手法なのだ。たとえば「タモリ倶楽部」では、毎回お題=テーマが決められ、同じパターンで番組は展開するが、その都度、准レギュラー的なゲストが複数名登場(なぎらけんいち、水道橋博士、ガタルカナル・タカ、江口達也な、どきわめて技量とアドリブ力の高いパーソナリティが出演する)、ここにそのお題にちなんだエキスパート(「書道の墨の達人」といったようなきわめてマニアックな人物)がスペシャルゲストとなり、テーマ≒音階に基づきながらグダグダと番組を成り行きで進行する。言い換えればお約束=コードがほとんどない。その間、タモリは、まさに「適当」にアドリブをやりつづける。そしてこの時、メンバー同士の丁々発止の渡り合いは、互いを配慮すると言うよりも、互いのアクションにインスパイアされるというかたちで進行する。言い換えれば、誰もが気ままにアドリブを飛ばし、次にそれを打ち消すカウンターがタモリや他のメンバーから繰り出され、さらにこれへのカウンターが続きという具合に、相互インスパイアによってアドリブが果てしなく提示される中で、番組はひたすらグルーヴし続けるのである。

「ヨルタモリ」はクインテットによるジャズ

このスタイルは「ヨルタモリ」においても何ら代わるところはない。いや、むしろ徹底されていると言ってもいい。わかりやすいようにジャズのクインテット(五重奏)、60年代後半のマイルス・デイヴィスのグループになぞらえて説明してみよう。当時のユニットはマイルス(tp)、ハーヴィー・ハンコック(p)、ウェイン・ショーター(ts、ss)、ロン・カーター(b)、トニー・ウイリアムズ(ds)といった布陣。「ヨルタモリ」でベースを奏でるのは宮沢りえだ。第一回目から堂々としたママぶりで、落ち着き払い、全くブレることがない。さながらR.カーターのウォーキング・ベース。見事にタイムキープしながら通奏低音を奏で続ける。これで番組の「枠」が安定する。一方、もう一つのタイムキーパー、ドラムスを担当するのが能町みね子だ。能町の役割は時に脱線するアドリブとインタープレイを元のペースに戻すこと。常に冷静で、タモリのアドリブにアクセントを入れるという「ツッコミ」的な役割も演じる(まさにT.ウイリアムズ的!)。また、能町は時に画面の外に飛び出して茶の間の側に立ち、タモリのバカバカしいアドリブを冷笑するような態度をとるのだが、これがタモリの暴走を防ぐとともに、結果としてタモリが展開する密室芸のパフォーマンスを相対化し、その面白さを語る役割を担うことになっている。知識人ゲストはH.ハンコックあるいはW.ショーター(実際、2人ともインテリだ。ただし、2人ともレギュラーだが)の役所で、宮沢と能町のタイムキープに彩りを添える。言葉は少なめだがトークに芳醇さを加える。これにスペシャルゲストが加わってメンバーとアドリブを繰り広げる(ちなみに当時のマイルス・クインテットでスペシャル・ゲストを迎えるというシチュエーションはない)。

タモリは言うまでもなくマイルスだ。このメンバーをバックに好き勝手に吹きまくるのである。しかもメンバーにも勝手にやらせているようでいて、その実、キチッと仕切ることも忘れない。タモリ=ホスト、その他のメンバー=ゲスト及びスタッフという「権力関係」の中で番組が展開されるので、結果としてタモリがいなくても、その場は「タモリ・ユニット」として稼働し続ける(これはマイルスがよくやった手口だ)。その典型が番組冒頭の5分間で、なんとこの間、タモリは登場しない。にもかかわらず、タモリ独特のダラダラ、ゆるゆるとした雰囲気=グルーヴ感が流れている(これは「笑っていいとも!」でタモリが登場しないコーナーでも同じだった)。

タモリは楽器を持たないジャズマン

だから、基本的なタモリ・モードは存在するが、面子でその雰囲気はガラッと変わるし、時にはうまくいかないこともある。面子の技量にかなりグルーヴ=スイング感は左右されるからだ(これまでのゲストでベストは当然、気心の知れた井上陽水だった)。モードを使いこなせない人間がメンバーに入ったときには、そのインタープレイはしばしば破綻を来す。だが、それでいいのだ。いつアタリでいつハズレ、いつスイングし、いつポシャる。どんなアドリブが出る……こんなことが予想不可能に展開する。これこそが、実はタモリのモード・ジャズの醍醐味なのだから(これもまたスイング感をメタ的に構成する)。この先の見えない状況がどうなるかとドキドキワクワクで待ち構えるようになれば、あなたは、もうすっかりタモリワールドに引き込まれていることになるのだ。そして、それこそが、実はタモリの芸の原点である密室芸の本質=ジャズということになるのだろう。

で、これを可能にしているのが、タモリの「適当」という哲学なのだ。「適当」である限りスイングが止まることは、恐らくないだろう。失敗?成功?そんなものはどうでもいい。先ずは「スイングすること」なのだ。


つまり、

”タモリは楽器を弾かずスイングするジャズマン”

なのである。


「いいとも!」でやっていたジャズはお昼向けのかなり基礎的なジャズ。だからみんなある程度わかったけれど、夜向けの「ヨルタモリ」は本格ジャズ。だからジャズがわからない人には「ヨルタモリ」はわからない。

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