勝手にメディア社会論

メディア論、記号論を武器に、現代社会を社会学者の端くれが、政治経済から風俗まで分析します。テレビ・ラジオ番組、新聞記事の転載あり。(Yahoo!ブログから引っ越しました)

カテゴリ: お祭り党の出現

「お祭り」は「祭り」というネット用語からの援用だが……

さて、本ブログではインターネット上、とりわけ2ちゃんねる上で用いられる用語をヒントに主に言葉を思いついている。前述したように「お祭り」は「祭り」からの引用であるし、「お祭り党」は2ちゃんから出現したと言われる「フラッシュモブ」を下敷きにしている。ならば、本書の立ち位置こそインターネット=ウエッブ2.0(2ちゃんねるをウエッブ2.0とすればの話だが)的ではないかと指摘を受けるかもしれない。

だがそうではない。むしろ僕はこう考える。ウエッブ社会とよばれる情報社会で起きている事態が、典型的、理念型的なかたちで現象しているのがインターネット上での出来事、たとえば「炎上」「荒らし」なのだと。つまり名前こそインターネット上の出来事から生じてきたものだが、実はリアル社会=ウエッブ社会で起きていることが、ネット上でも起きただけ。しかも規模が小さいのでイメージしやすかっただけなのだと。言いかえればウエッブ社会で名前を付けられない状態で様々な現象が起きている。それをここでは「お祭り」「お祭り党」と名付けたのだ。ようするに「お祭り」が先にあり、「祭り」が実は後に発生したか、同時に発生した。「お祭り党」が先にあり「フラッシュモブ」が後か同時に発生した。こういう風にインターネットが現代社会=情報社会を変容させるのではなく、現代社会=情報社会が変容し、その象徴的な現象がネット上で発生していると考えた方が、より説明がすっきりするのではないか。少なくともネットで起こっていることと、ネット以外で起こっていることの関係性を踏まえることだけは出来るはずだ。

このように捉えることで、ウエッブ社会の物の見方は俄然変わってくる。つまりウエッブ2.0論やテレビ論の一元論的、オタク的閉鎖性を乗り越えて、テレビとウエッブ2.0を統合した形で扱えるようになる。いや、より厳密に言えばウエッブ社会というより広い文脈で現代を捉えることができるようになるのだ。こういったとらえ方を、ここでは情報社会論的転回と呼ぼう。

お祭り党を分析することの意義

最後に、「お祭り党」を分析対象とすることの意義について述べておこう。マクロ的に答えを述べてしまえばポストモダンの社会においてわれわれはどう生きるべきか、ということになる。つまり「大きな物語」が解体し、人々は拠って立つ場所を失ってしまった。そういったわれわれが、今後どういった関わりを社会と持つことができるのかということを考える際、頻繁に発生していながら顧みられることのないこの現象を取り扱うことはウエッブ社会全体を考慮する上で大へん重要だろう。そして、断っておくが「お祭り」が起こること、「お祭り党」が出現すること、これはウエッブ社会の必然と僕は捉えている。だから、「お祭り」それ自体に価値判断をするつもりはない。ということは、これらを分析した後、この現象とどうつきあうかについて考察することが本書での僕の最終的な課題となる。それは「お祭りを延々と続けること」そして「お祭り党としてお祭りを飼い慣らすこと」ということになろうか。(終わり)

コミュニケーションのメディアとなるテレビ情報

テレビとインターネット。そのメディア接触度、そして行動に対する影響力はテレビが圧倒的に強いことを説明し続けているが、続ける。

コミュニケーションの契機となる情報の側面でもネットよりもテレビの方が遙かに利用されている。われわれが情報補入手するのは、その情報を何らかの有用な手段として用いるためと言うよりも、日常生活のコミュニケーションのネタ、つまり日常のとりとめのないおしゃべりのメディアとして利用することがほとんどだ。そんなときに、そのネタのアクセス先として、まず向かうのがテレビである。つまりテレビニュースの話、昨日のSMAP&SMAPでのキムタクのダジャレの話、ワイドショーネタ、こんなものがまずわれわれの話題の焦点になる。これらの情報を入手する目的は情報交換のためではなく、コミュニケーションの場を形成しようとする動機からだ。こうなるのは、インターネットに比べて非常に多くのオーディエンスが視聴しているので、コミュニケーションのネタとして重宝するためである。ようするに、テレビのネタ、とりわけニュースのことでも話題にしておけば、とりあえずその場のコミュニケーションはなんとかなる、場は持つというわけだ。しかし、ネット情報だと、こうはいかない。「2ちゃんの○○のスレのことだけどさあ」なんていわれても、よっぽどのオタク同士でなければ、そのネタはコミュニケーションメディアとしては成立しない。こちらでもテレビの力は圧倒的だ。

テレビが取り上げないネット上の事件は事件ではない

そして、決定的なのが多くの人がどういったものを事件や出来事として取り上げ、認知するかである。これも結局、テレビネタだけなのだ。ウエッブ2.0的なモノの謂いであるならば”戦前だったらラジオ60年代以降ならテレビだったかもしれないが、これら「オールドメディア」で人々はもはやこれは取り上げられないけいこうにあるし、実際インターネットから発信され大衆が認知した事件もある”と反論したくもなるが、これらは最終的にテレビが取り上げたがゆえに人口に膾炙したにすぎない。たとえば田代まさしまつり、吉野家祭り、マトリックスオフ、折り鶴オフ……こういったものをネットに接続していない人が果たしてどれだけ知っているのだろうか。おそらく知らないだろう。ところがネット上でも電車男、嫌韓、嫌中国、のまネコ騒動とかになれば、結構知っている人間が登場する。なぜか?これらはネット上で騒がれた後、それをテレビが取り上げたからだ。つまりテレビが取り上げなければネット上の出来事などは限りなくなきに等しいのだ(それが前記した田代まさしまつりなどだ)。加えておけばその逆はなしである。つまりネットが取り上げなかったとしても、テレビが取り上げればそれは事件なのである(まあ、テレビネタは間違いなくインターネットネタになるゆえ、そうっいたこともほとんどないだろうが)。

テレビの強力さをまざまざと感じた個人的体験を一つあげよう。僕はメディア論を専攻する大学教員という職業柄、マスメディアにちょくちょく顔を出す。出版物、雑誌、新聞、ラジオ、テレビ、そしてインターネット。新聞では隔月で連載、ラジオは週一でコーナー担当(ただし宮崎だけ)、テレビは各週でニュースのレギュラーコメンテーター、ネットではカオサンというタイ・バンコクにあるバックパッカー向け安宿街のサイト「カオサンからアジア」とこのブログ「勝手にメディア社会論」の二つを運営している。ちなみに前者はGoogleの検索窓に「カオサン」と入力するとトップに表示される「人気」サイト。二位のタイ・バンコク・カオサン通りの歩き方もこのサイトのミラーサイトである。

さて、これらのうちで、自分が最も知られているのはどのメディアでの自分かというと、圧倒的にテレビなのだ。新聞は社会時評をそれなりのスペースで連載しているが、ほとんどリアクションはなし。ラジオなんて聞いている人間いるんだろうかというくらい知られていない(中学校の放送部のスタジオで給食時間の番組をオンエアーしている感覚だ)、雑誌も同様。全国誌であったとしてもどうということはない。唯一、文献が力を持っていてgoogleに掲示されているが、これもネット上の販売サイトが次々と出る程度。まあ、どだい対したことのない端くれのメディア人間なので仕方がないといえば仕方がないのだが。ただし、テレビは全く別なのだ。例えば十年も前に出演したテレビ番組(これはテレビ大阪だった)のことを突然、見知らぬ人間に指摘されたり、最近ではローカル放送に出演しているため、突然、見知らぬ人に挨拶されたり、親しげに話しかけられたり。初見の人との面談も、向こうは既に態度が違う。そう、テレビというのは実に多くの人間がみている強力なメディアといえるのだ。とりわけ、それはローカルエリアで強く言えることかもしれないが。

というわけで、テレビの力は相変わらず強い。いや、むしろ以前よりある意味強くなっているところもある野ではないか。(続く)

テレビとウエッブ2.0強力なメディアはどちら

テレビの怪獣物を見た子どもたちがする「レッドキングとベムラーではどっちが強いか」みたいな議論で恐縮だが、テレビとウエッブ2.0はどちらが強力なメディアかを、冷静に考えてみよう。結論から言えば、圧倒的テレビが上である。まず、受容している人口が遙かにに違う。テレビを見ている人口とインターネットに接続している人口はまだ倍近い開きがあるのだ。もちろんインターネット接続によってテレビ視聴時間が減少したというデータはあるが、テレビよりインターネットの方が接触時間が長いという人口はまだまだ少ないだろう。

またメディア特性の違いからもテレビの強力さ説明だ。人々がインターネットに接続するとき、その接続にはそれなりの目的性が必要とされる。何かを調べる、というのがその基本だ。もちろん新聞のサイトやポータルサイトで情報消費するという場合は目的性が低下する、つまり消費性が高まるが、そのサイトまで向かうという主体性はやはり要求される。つまり、いちいち自分でクリックしたりしなければならないのだ。

一方、テレビはそこまでの主体性を要求しない。リモコンスイッチを付ければいいのだから。もちろんチャンネルを選択するという主体性を必要とするが、せいぜいそこまでである。そして、何もしていなくてもテレビはひたすらコンテンツを流し続ける、つまりネット的に言えばストリーミングを延々やるわけで、これはラクだ。しかもテレビはマスを相手にしているためコンテンツにカネをかけている分、楽しむにはハズレがない。そこで、一日中テレビを付けっぱなしという人間もでてくるわけである(中には一人暮らしで寂しいので、テレビを付けておくという人間もいる。そして僕の知っている限り、こういった御仁は結構、多い)。その時、テレビはwatch、つまり集中して視聴するというよりも、see、つまり見えている視聴形態であると考えてよい。つまり、see的な視聴形態ではほとんど主体性を要求されない、純粋に消費的なメディアとなっている。そして、このようなテレビ視聴の方法がわれわれにとって趨勢となる利用法ではなかろうか(だからテレビはやめられないのだ)。いうならばテレビというのは限りなく受動的な、主体性を必要としないメディアなのだ。つまり前述したようにインターネットに比べれば遙かにラクで消費的で娯楽的。だから頻繁にアクセスする。

基本的な情報入手に関しても同様だ。インターネットの発達によってニュースなどの情報の必要性がなくなるとはしばしば指摘されるところであるが、実際のところこれは誤りだ。テレビでニュースを視聴することとネットでニュースをチェックすることは質的に異なる対メディア行動と捉える必要がある。インターネットの場合はデイリーミーといったような個別のニーズに合わせた情報をチェックするということが、考えられる。つまり、やはり目的性が高くなるインスツゥルメンタルな情報アクセスとなる。もちろんポータルサイトにチェックに行くことはテレビのニュースを見る行為に近い。しかし、結局われわれはネットのポータルサイトのニュースは新聞やテレビの情報を掲載したものなので、その詳細や映像を知りたければテレビのスイッチをオンすることになる。そして、テレビが報道するニュースを延々と見続ける。seeあるいはwatchというかたちで。テレビのニュースは格好の暇つぶしストリーミング再生コンテンツでもあるのだ。そしてコミュニケーションのためのネタともなる。だから、根本的にテレビとインターネットのニュースへのニーズは異なっている。こう考えると巷で指摘されるようなテレビがインターネットに飲み込まれるというような話はちょっと考えられない。テレビはテレビのメディア機能をネットとは独立して備えているし、ウエッブ2.0によって新たな機能を担いつつもあるのだ。(続く)

ウエッブ2.0が助長するものはテレビ

ウエッブ2.0論者が扱うことの出来ない近年頻繁する劇場、バッシングなどの「お祭り」。

だが、こういった「お祭り」が、他の論者によって分析されていないというわけではない。例えば「お祭り」の典型である、一連の小泉劇場については、論者が様々な視点から分析を試みている。その際焦点を当てられるのはテレビである。

たとえば香山リカは『テレビの罠』の中で、小泉純一郎がテレビメディアを徹底的に利用して、いうならばテレビメディア自体をペテンにまでかけて活用し、05年の郵政民営化選挙といわれた衆議院選挙で圧倒的な勝利を遂げたことを分析している。評論家の小森陽一も、やはり小泉のテレビメディアを利用した「脳内コントロール」のプロセスについて『心脳コントロール社会』の中で述べている。ちなみに、もはや、いずれの議論にしても新聞はほとんどといって良いほど相手にされていない。

実際、こういった社会現象においてテレビの力は強力である。かつてテレビは司法、立法、行政に続く第四の権力と呼ばれていた。しかしながら、上記の論者たちの立ち位置からすれば、ある意味でむしろテレビは今や第一の権力である。

僕もこの立場を否定しない。そしてテレビの力はますます強力になっていると感じている。ただし、香山や小森はテレビ的側面(小森は広告も含めているが、これもどちらかといえばCMの分析である)をもっぱら強調し、こちらはこちらでこういった「お祭り」現象をテレビ一元論に収斂させている傾向がある。言いかえれば、その分析において今度はインターネットがこれら劇場の要因として語られることは少ない。こうなると、今度はこちら側は「テレビおたく」ということになってしまう。

そう、重層決定

そこで、そこで本書ではカルチュラルスタディーズがしばしば提出する言葉「重層決定」を持ち出したい。つまり、「物事というのは一つの要因だけで決まるのではなく、諸要因が絡み合って、ある種の現象を発生させるのだ」という考え方だ。ただし、この言葉、ややもすると単なる結論の先延ばし、議論の逃げの常套手段になってしまうこともしばしばで、事実、日本におけるカルチュラル・スタディーズの研究の多くに、逃げの言葉として「重層決定」が登場する。ようするに「いろいろあるんだよ」ということにしかならない。これでは何も答えていないに等しいだろう。

だから、本書ではこういった「お祭り」が具体的にどういうふうに重層決定されるのかを分析していくことにしていく。ただしすべてを取り込む能力は神以外には不可能。当然、僕の能力の遙かに先にある課題、そして絶対に到達できない課題だ。そこで、ここで重層決定要因として取り上げたいのは、上記の二つ、つまりテレビとウエッブ2.0である。これらがどのように絡んでいくことで「お祭り」が出現するのかを明らかにしていくのか本書の課題となる。ただし、これを人々がどう使いこなすのかという脈絡があくまでも基調であることは言うまでもない。

そこから最終的に導出したいのはテレビ的要素とウエッブ2.0的要素をつなぎ合わせる上位概念である。あるいは双方に通底するものといってよいかもしれない。

技術決定論が陥る常套の罠としてのテクノロジー一元論

エッブ2.0は近年頻発する劇場、バッシング、過剰報道による熱狂といった「お祭り」をなぜあつかえないのか。

理由は簡単である。これらウエッブ2.0論者たちはいずれも、ウエッブ内のことにしか焦点が向いていないからだ。いうならばウエッブ2.0一元論。だが、これは新しいメディア・テクノロジーが誕生する際に必ず発生する事態であり、メディア論をちょっとかじったことがある人間なら誰でもわかる「いつか来た道」なのだ。例えばその典型としてのテレビ。50年代後半、わが国にテレビが登場した際には、テレビというメディアをめぐってやはり賛否両論が渦巻いた。肯定派は「世界を見せてくれるすばらしい箱」とみなし、これを床の間において崇め奉った。いわゆるカーゴ信仰である。一方否定論者は、例えばノンフィクション・ライターの大宅壮一が「一億層白癖化」と評したように、テレビが人々の思考行動様式を一元化していくと警鐘を鳴らした。また、テレビからある種の電波や光線が出ていて危険という指摘もされ、ブラウン管の前に置くフィルターが販売されたりもした。つまり、新しいテクノロジーは既存のコードで説明がつかないため、まず既存の図式を用いて、肯定論、否定論が展開されるのが常なのだ。

しかしながらテレビは普及した。そして、これらのモノの謂いが結局はどちらでもないことが判明していく。それは、テレビというメディアの普及に伴って、テレビの利用方法が次第に形成され、他のメディアとの使い分けがなされ、相対化されて、日常生活の中に組み入れられていったからだ。いわゆるメディアテクノロジーの技術決定論(技術が社会を規定する)から社会決定論(社会が技術を規定する)への転換である。ちなみに同様のことはカメラやラジオの発明と普及の際にも発生している。

ウエッブ2.0論者たちはオタクな議論をしている

さて、このテレビの普及過程の初期と全く同じような議論、とらえ方がいまウエッブ2.0で起きていると考えれば話はわかりやすい。まず賛否両論が起きるのだ。そして、いずれにしろ議論は社会的文脈を踏まえることなく、新しいメディアの技術的な側面のみで、つまり技術決定論的な文脈でのみ語り続けられる。つまりウエッブ2.0論者たちはインターネットのウエッブ2.0をウエッブ2.0の内部でしか考えられていないということになる。言いかえればインターネット=ウエッブ2.0が社会全体の中で、あるいはまた他のメディアとの関わり合いの中で、人々がそれらをどのように受容するか、それによって思考行動様式をどのように規定していくかということに全く目がいっていないのだ。より明瞭に断言してしまえば肯定派、否定派双方ともインターネット=ウエッブ2.0オタクなのだ。オタク用語を用いて例えれば、彼らはウエッブ2.0という「セカイ」(=テレビ、アニメの中に作られる世界観)を、社会全体の「世界」とイコールでつなげてしまっているのだ。だから、彼らは肯定であれ、否定であれウエッブ2.0オタクという同じ穴の狢なのである。(続く)

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