気になる「象徴」ということば

皇太子(浩宮徳仁親王)が平成天皇に代わって令和天皇に即位した。平成天皇は在位中、自らの課題として「象徴天皇として何をすべきか」を常に考察し続けたと頻繁に言及されておられた。そして令和天皇もまた「国民に寄り添い、象徴の責務を果たす」と宣言されている。

「象徴」としての天皇は日本国憲法公布以来の理念であり、日本国民は「天皇は日本の象徴」と認識してきた。しかし、ここであらためて問うてみたい。果たして「象徴天皇」、いやもっとはっきりと問えば、「象徴」とはそもそも何を意味するのか。実は、このことばを子どもの時に教えられた際、僕はその意味がサッパリわからなかった。そして、その後も学問的に学ぶまではずっと曖昧なままだった。ということは、実は「象徴天皇」の「象徴」の意味をはっきり認識している国民は非常に少ないのではないか?(上から目線でスイマセン。しかし、誰に訊いても答はほとんど曖昧でした)。実際、常に「象徴」ということばには説明が加えられず、さながらブラックボックスのように扱われてきたように僕には思える(陰謀か?)。今回も、TVで象徴ということばが散々引き合いに出されているが、なぜかその説明はない。そこで、令和初日の本日、今回はこれを記号論的立場から考えてみたい。

記号論では記号(あるものがあるものを指し示す機能を備える事象全体を「記号」と呼ぶ。犬=ワンワンと吠える四つ足のペット動物、東京=日本の首都というように「名前と意味」のセットを記号と呼ぶわけだ。その典型は言語で、言語はあるもの=ことばそれ自体と、あるものを指し示すもの=その意味から構成されているからだ)には、その示すものと指し示されるものの関係=いわれの強さからイコン、インデックス、シンボルの三つがあるとしている。

もっとも「いわれ」の弱い象徴=シンボル

イコン(図像)の典型は写生した絵だ。つまり現物を写し取ったコピー。また、パソコン・デスクトップ上のゴミ箱のアイコンは本物のゴミ箱をカリカチュアライズしたもので、これもイコン。つまり現物とそれを指し示す記号には図像的に類似性=強いいわれがある。

次がインデックス(指標)で、その典型は、たとえば矢印や葬式会場を示す人差し指が差し出された貼り紙などが該当する。これらは「示すもの=部分」で「指し示されるもの=全体」を表すという特徴がある。後者(葬式貼り紙)の場合、人差し指(=示すもの)が指し示す方向にその全体、つまり葬儀会場がある。また「たこ焼き」という名前も典型的なインデックスで、これは小麦粉で作られたボール状の団子の真ん中にタコの小さな切れ端が入っているだけ、つまり全体の一部に過ぎないのに、事物全体を「タコ」という部分が代表称している。よく考えれば、このことばがおかしいのは、たとえば「いか焼き」をイメージしてもらえばいいだろう。こちらはイコン、つまりイカそのものが文字どおり示されている。もし、いか焼きと同じようにたこ焼きを表現すれば「小麦粉ボール、タコの切れ端入り」になるはずだ(その逆なら、いか焼きはイカの一部が入れられたこ焼き様の食べ物になる)。言い換えればインデックスとしての記号はイコンに比べるといわれが低い。

そして、最もいわれ、つまり示すものと指し示されるものの関係が薄いものがシンボル、つまり「象徴」だ。象徴=シンボルの場合、示すものと指しされるものの関係=いわれは全くない。赤い色をなぜ「赤=アカ」と呼ぶのかは全く根拠がないし、生まれた子どもに付けられる名前にも全く根拠がない。だから前者の場合、赤い色=指し示されるものに対応する示すものは文化によって異なる(英語=レッド、タイ語=デーン、イタリア語=ロッソなど)。後者の場合、生まれた子どもにどんな名前を付けてもいい(個人が勝手にいわれを付けることはあるが、そのいわれと生まれた個体との関係は全くない)。

こうした「示すものと指し示されるもの」の関係にいわれがないことを記号論では恣意性(あるいは任意性)と呼ぶ。ただし、このいわれのないものであっても、いったん関係が固定され、認知されてしまえば、二つの間にはさながらいわれがあったかのように強い拘束力が発生する。たとえば信号の赤色は「止まれ」で、他の意味解釈は許容されない。そしてこうした関係性が全くないものが無理矢理接続され、それがあたりまえになってしまった時、示すものは指し示されるもの全体を代替するイメージとして機能することになる。典型的な存在は会社のロゴで、たとえば自動車メーカーのロゴはその企業のアイデンティティを示し、消費者は車のデザインそれ自体よりも、むしろロゴから企業のイメージを喚起するようになる。つまり、関連が本来無いのに、示すものが指し示されるものと強く結びついたモノやコトのことをシンボル=象徴と呼ぶわけだ。

象徴の政治性

しかし、この示すものと指し示されるものの関係は、前述したように「恣意的」であるため、いかようにも組み合わせが可能だ。また「単なる象徴」と「人物や性格を備えた象徴」では、その性質が異なっている。単なる象徴の場合、示すものと指し示されるものの関係は比較的安定=固定している。言い換えれば二つの関係が揺らぐことは難しい。一方、人物や性格を備えた象徴の場合、関係は安定しない。示されるものが、その主体の行動でいかようにも変化するからだ。そして、天皇の場合、当然だが象徴としては後者の特性を備えている。だから「象徴天皇」という存在は常に議論の的となる。とりわけ政治的な側面との関わり合いにおいて、その関係が問題になるのだ。そうした意味では「象徴天皇」ということば自体が極めて曖昧なものであり、それだからこそ平成天皇は象徴天皇としての立場を考え続けさせられることになったのだろう。

二つの象徴、天皇とディズニーの類似性

では、天皇の象徴としての存在はどのようにあるべきだろう。そこで、ちょっと天皇家には無礼かも知れないが、機能的に類似し、かつ同様のよく認知された象徴を引き合いに出しつつ、天皇家のあるべき象徴としての存在について、その変動性の視点から考察してみよう。比較対象として取り上げてみたいのはディズニーだ。ディズニーという企業、そして文化にとって、その象徴=シンボルとなる存在は二つ。創設者のウォルト・ディズニーとウォルトの分身的存在であるキャラクター、ミッキー・マウスだ。

政治的なシンボルとしてのウォルトディズニー

まずウォルト・ディズニーという象徴の場合。ウォルトは1966年に他界しているが、その後もディズニーの理念を踏襲する人物、ディズニー精神の象徴=シンボルとして機能し続けている。ウォルトが考案し、後にディズニフィケーションと揶揄された、既存のストーリーからバイオレンスとセックス、複雑な展開を省略しハッピーエンドにしてしまう映画作りの手法や、ファミリーエンターテインメントの下、家族全体に娯楽を提供する遊戯施設・ディズニーランドを展開する戦略などがその典型で、死してもウォルトは依然としてディズニー社を支配する政治的な存在として君臨し続けている。つまり象徴=示すものでありながら、相変わらず示されるものを強く規定し続けている。これはタイの前国王・プミポーン国王も同様で、生前には単なる国家の象徴でありながら、政治に意見したり、またクーデターの際には再三収拾を図る存在として機能した。ともに、一件「君臨すれども統治せず」のスタンスにあるようでいて、統治の側面にまでコミットメントし続けたのだ。

キャラクターとしての存在の希薄なミッキーマウス

一方、ミッキーマウスはウォルトとは異なっている。ミッキーはウォルト同様、ディズニーを象徴する存在だが、ミッキー自体はディズニーには、ある意味直接関与しない。これはミッキーには性格がほとんどないことが影響している。性格に関してはミッキーマウスマーチの歌詞にある「強くて、明るい、元気な子」というキャッチフレーズだけ(かつては存在したが、時代とともにキャラクターは脱色された)。しかもミッキー自体は本編の映画にはほとんど登場しない(ほぼ、初期の作品に限定される。近年の例外的な作品は「アナ雪」の際、同時上映された”Get a Horse”程度。しかし、この映画で再現された、かつてのミッキーの乱暴な性格は現代のファンからは不評を買った)。だが、ミッキーは、こうした「キャラクター的には薄い存在」になったことによって、却ってディズニーの象徴としての機能を強烈に発揮することになる。ディズニー作品、ディズニーキャラクターにはロゴとして丸三つで構成されたミッキーが添付されるが、これによって、たとえそのキャラクターや商品がディズニー世界からは遠いものであってもディズニーブランドであることが証明されるからだ(東京ディズニーシーのキャラクター・ダッフィーはその典型だ。このキャラクターはディズニー的性格を隠れミッキーのマーク以外持ちあわせていないが、今やシーの看板スターだ)。つまり、自らはしゃしゃり出ず、透明な存在として他のキャラクターを応援したり、ただとりまとめたりしてディズニーブランドに寄り添うことで、ディズニー世界を担保するという機能を果たしている。もし人物やキャラクターとしての主張がれば、ミッキーはウォルト同様、政治的な存在となり、現在のようなブランド、そしてロゴとしての機能を失うだろう(だから”Get a Horse”は不評だったのだ)。言い換えれば、その存在は薄ければ薄いほど、象徴としての機能を果たす存在といえる。

天皇は象徴としてはミッキーマウス的であるべき

さて、ここまでお読みいただいた方は、僕が何を言わんとしているかはそろそろお解りだろう。象徴天皇としての天皇の役割は、現在のミッキーマウスの役割と同じであるべきということなのだ。ミッキーマウスはウォルトやプミポーン国王のように、自らの存在を結果として前に出すのではなく、自らは控えめで他のキャラクターの援護射撃をする、つまりこれらに寄り添うことでディズニー世界、そしてキャラクターやグッズがディズニー世界の一員であることを保障する。象徴天皇も政治的にはコミットせず、ただ国民に寄り添うことで、国民が国民であることを認知させるという機能を果たす。おそらく、これが象徴天皇としての役割であり、平成天皇が実践してきた様々な活動だろう。だからこそ全国各地を訪問して国民と関わり合いを持ち、また頻繁に被災地に慰問に出向いていった。そうした意味で平成天皇の象徴天皇としての実践は極めてまっとうなものであったと評価すべきではないだろうか。

問題は象徴天皇をコントロール可能なのが天皇だけではないこと

ただし、前述したように「象徴」、とりわけ人物がその対象となった場合には、その恣意性が高まることには代わりはない。そしてその恣意性、つまり示すものと指し示されるものの関係の接続=いわれの設定は、なにも天皇一人が操作できるものでもない。そのはじまりからそうであったように、天皇は政治的象徴として、本人の意図とは関係なく利用され続けてきたという歴史があり、あたりまえだが、そのことを看過することは出来ない。それゆえにこそ国民としても、天皇としても「象徴天皇とは何か」を問い続ける必要があるのだ。そして、繰り返すが平成天皇はそのことを常に考察し続けてきたと僕は認識している。

さて、令和天皇は象徴天皇という自らの役割をどのように規定するのだろうか?おそらく平成天皇同様、政治とはきちんと一線を引くという方向を採用するだろう。ただし、やはりここに象徴天皇を政治的に利用しようとする政治権力が登場することも事実だ。だから結局、平成天皇も令和天皇も、たったひとつのことだけは政治的にふるまわなければならないことになる。こうした政治的権力による象徴天皇機能の利用をいかに避けるかというメタ政治的な政治活動がそれだ。イギリス国王は「君臨すれども統治せず」を基本とするが、天皇は「君臨も統治もせず、国民に寄り添う象徴=ミッキーマウスであり続ける」ことが、令和天皇の課題となるだろう。平成天皇が目指していたように。