世界のトランペッター日野皓正が中学生をビンタ!だってさ。で、何か?

言質(げんち)という言葉がある。これは大辞林では「交渉事などで、後で証拠となるような言葉を相手から引き出す。」と定義されている。つまり、相手から言葉を引き出せば、それは確たる証拠になるというわけだ。つまり「あんたはあの時、こう言っただろ?」というわけだ。

たしかに言質は相手から直接引き出した一次資料なので説得力があるように見える。しかし、実際のところどうだろう。むしろ昨今のマスコミによる事件やトラブルの報道では、この言質が悪用されているように僕には思える。

そのことの典型を示すのが日本を代表するジャズ・トランペッター、「ヒノテル」こと日野皓正をめぐる「ビンタ報道」だ。2017年8月20日、東京都世田谷区で開催された「Dream Jazz Band 13th Annual Concert」の最中、割り振られた時間を超えてもドラムソロをやめない中学生の演奏を制止するため、ヒノテルは客席からステージに上がり、中学生のスティックを取り上げた。しかしそれでも素手で演奏を続ける当該生徒に、今度はビンタでこれを制止させたというもの。これが新潮の記事となり、さらにはサイトではその映像がアップされた。つまりこれらは「世界のヒノテルが公開の場で子供に暴力を振るった」言質というわけだ。暴力=悪という絶対的正義を前面に押し立て、その証拠に基づいたヒノテルへの非難が新潮の報道基調だった。

同様の事件が小学校でもあった。7月13日、所沢の小学校で学級担任の四十代の男性教諭が四年生の男子児童に対し、「(三階教室の)窓から飛び降りろ」「明日からは学校に来るな」「34人(クラス生徒数)だけど、これからは(当該児童を除く)33人でやっていこう」と暴言を吐いたというもの。これも、このような発言=言質が確たる証拠となり、最終的に学校側が謝罪している(実は、実際になされた発言は異なっていたのだが)。

しかし、この二つ、その後、様々な後日談を生んでいる。暴行、暴言を行ったとされる側に対する擁護論がどっと沸いてくるのがその基本的なパターン。結果、ネタ的に盛り上がる。

「そろそろ、こういった間抜けなマッチポンプ的な議論は、みっともないからやめませんか?マスコミの皆さん」

僕は、こう言いたい。ハッキリ言って、頭悪すぎです。


テクストとコンテクスト

言質というのは便利なもので、とにかく「証拠」になるわけだから強い、説得力が圧倒的という印象がある。しかし実際のところ、これはとんでもないマチガイだ。それを二つの用語を用いて説明してみよう。

一つは「テクスト」。これは「表現体」と訳されるが、言葉の通り真実の内、表に現れているところ=見えているところを指す。語りそれ自体、文章それ自体、映像それ自体。これらはテクストだ。ただしテクストには、背後にそれを下支えする「コンテクスト」、言い換えれば「文脈」が存在する。言い換えれば二つは「事実」とその「背景」。テクストとコンテクストの関係は氷山に例えるとわかりやすい。氷山のうち、水面上に浮き出ているところがテクスト、海中に隠れているのがコンテクスト。ということはテクストは、ベタな表現通り「氷山の一角」でしかない。真実は「水の中」なのだ。そしてコンテクストの方が圧倒的に情報量が多い。

「ヒノテル・ビンタ事件」も「窓から飛び降りろ事件」も、当然コンテクストが存在する。ただし、それはテクスト=氷山の一角しか見えないわれわれには計り知れない。だから、それについて語るべき資格を持っていない。

コンテクストを捏造するマスコミ

ところが、マスコミは当事者に成り代わってこのコンテクストを含めて報道を展開する。ただし、マスコミとて氷山の水面下のことについてはわれわれ同様、わかっていない。そこで言質=氷山の一角、つまり表面部分を取り上げて、これに水面下=コンテクストを任意に加えていく。この二つの事件について共通するマスコミの立ち位置は前述したように「暴力は絶対否定されるべき(二つは物理的な暴力、心理的な暴力という点で異なってはいるが)」という、マスコミが疑うことを知らない”絶対是”に基づいたコンテクスト作りだ。ヒノテルと中学生の関係、所沢小学校教員と生徒(当該の生徒及び他のクラスの生徒)、さらには暴言を訴えた生徒の親との関係など。これらについてマスコミは全くコミットメントしていない。いいかえれば、いいかげんな文脈作り=コンテクストづけをやっているに過ぎないのだ。で悪者はヒノテルと教員になる。しかも、後続する報道はほとんどやらない。そんなの面白くないのでネタにならないし、費用もかかるからやらないと決めているんだろうか?

ハッキリ言おう。こうした報道姿勢は、これを取り上げたマスコミの無知を晒していることになるだけだ。スキャダリズムに基づいて、氷山の一角の言質だけを取り上げ、悪者を同定してバッシングを展開し、センセーショナルなネタとして世間に流布する(悪者となる対象は基本的に強者。つまりセレブや役人や大会社のお偉いさんなどの「妬みの対象」とオーディエンスが思っているだろうとマスコミが想定している人々)。こうなるといちばんの加害者がマスコミで、取り上げられた人間(事件の中で加害者とされた人間。被害者とされた人間も含まれる)が被害者ということにならないだろうか。

われわれは、もうとっくにマスコミの無知に気づいている。だからマスコミ離れする?

オーディエンスのわれわれとしては、もうこうした揚げ足取り的な報道については適当にスルーするような心性が出来上がっていても良い頃だ。というか、もう出来ているのでは?と僕は踏んでいる。そのことを知らないマスコミがオーディエンスを「無知な輩」と認識し、上から目線で愚弄しているだけ。つまり「こんないいかげんな報道でも、あいつらアホだから大丈夫」。

いや、アホなのはあんたたちでしょう。マスコミ離れはどんどん進んでいるんだから。マスコミは、もうちょっとというか、猛勉強したほうがいい。いたずらに言質を取り上げて騒ぐなんてことはもう止めないと、これまで以上に一般からは支持を失うことになるのが関の山なんだから。

おしまいに、ヒノテル・ビンタ事件について、僕の感想を述べておきたい。

「いやーヒノテル、74歳になったのに、相変わらず熱いよね。で、全然やめない中学生も熱い!こりゃ、ジャズのスゴイインタープレイだぜ!」

もちろん、これも僕の勝手なコンテクスト付け(ジャズ大好き人間がでっちあげたそれ)であることをお断りしておく。真相は闇の中。そして、その真相=コンテクストをえぐり出すことこそ、実はマスコミの仕事にほからならない。そのへんのところをマスコミは認識して欲しい。