海外で1年語学を学んでも、その成果は……

最近、大学で留学と称して語学研修、とりわけ英語学習のために海外に一年間ほど出かける学生が目立って増えてきた。実際、僕の周りの学生たちもこの流れに乗じている状態。ただし、その成果はどうだったかというと……「なんだかなぁ?」といったところが正直なところなのだ。アメリカ、カナダ、イギリス、オーストラリアなどで語学学校に通ってみたのはよいのだけれど、まあなんというか、ほとんどモノになっていない。日常生活での簡単なやり取りはできるようにはなったけれど、込み入った話とかはほとんど無理。リスニングも苦手というパターンが実に多いのだ。

もちろん、例外もある。面白いのは、その多くが途中で語学学校をドロップアウトしていることだ。つまり「こりゃ使いものにならない」と学校に三行半をつきつけてバイトなどに精を出し、そこで現地や他の国からやって来た若者と仲間になり、あるいはハウスをシェアするなどして、自らを英語漬けの環境に置いた一群だ。恋人ができて、これがネイティブだったりすると「無料の(ある意味、有料だけど(笑))専属トレーナー」になるわけで、そりゃ、すこぶる語学の上達が早い。

しかしなぜ語学学校に行っても、多くがたいしたことにはならないんだろうか。その理由を、今回、僕は身をもって理解した。

現在、僕はロサンゼルスの隣町トーランスに滞在している。ご多分に漏れず、僕も語学はてんでダメといった「自信」がある人間。なので「じゃあ語学学校でも、とりあえず行ってみますか」と、半ばフィールドワーク(つまり「学生たちが語学が上達しない原因」を探る)も兼ねて三ヶ月ほど通ってみた。で、その結果は「あ、こりゃ、ダメだ。使えん!」という結論。はっきりいって、限りなく時間の無駄。自分でやった方がはるかに早い。当然、辞めました(もったいないので、授業はマジメに全部出席しましたが(笑))。そして、なぜ、語学学校に通っていた連中がうまくならないのかも解ったような気がする。そこで、実験台となった自分の環境についてお話ししたいと思う。これはあくまで僕の事例に過ぎないが、どうも一般性があるように思える。というのも、語学学校経験者(教え子等)の話と僕の体験が実にうまく一致したからだ。

同じで異なるレベルの生徒が同居する

見つけたのはアパートから徒歩圏内にある語学学校。とはいうものの、細々と経営しているという学校ではなく、国内にいくつもの学校を抱え、教科書も自ら開発している(出来はなかなかすばらしい。ライティングのテキスト(パラグラフ・ライティングの技法)などは、翻訳すれば十分、文章の書けない日本の学生を指導する教材として通用する。教育システムについてはきちんと整えられたところだ。

入学にあたって、まずいわゆるプレイスメントテスト、つまりクラス分けテストを受けた。だが、これがその後の進行に大きく影響を及ぼすものだった。試験はリスニング、スピーキング、文法、リーダーの四部から構成されていた。それぞれ25点ずつ。これで自分のクラスはレベル7のうちの6に振り分けられた(最高レベルが7)。僕がダメだったのは前半部分。後半はほぼパーフェクト。つまり後半偏重の成績。要は「聴けない、話せない」。僕と同じようなパターンで得点をとった生徒の出身者はアジア勢。韓国、台湾、タイ、そして日本。ま、中・高・大学とマジメに英語の授業を受けてきた一群(僕は研究者なので、英語が読めるのは、まあ、あたりまえ)。これをAグループとしよう。ところが、この得点配分と正反対、つまり前半パーフェクト、つまり「聴く、話す」ができて後半がダメ、でも結局獲得した得点は同じといった一群も同じクラスに組み入れられる。その多くがメキシカンやヨーロッパ勢。彼らに共通するのは、すでに数年米国に滞在していることだ。だから、それなりにリスニングとスピーキングができる。じゃあ、この連中がなぜ語学学校に入ってきたかと言えば、ようするに「読めない、文法解らない。よってスピーキングはできるが滅茶苦茶(かつての「じゃぱゆきさん」の日本語と同じ、単語が羅列されるもの。「ワタシ、コレ、ダメ、マンガ、スキネ、デモ」みたいな喋り)、リスニングも一定レベルで足踏みしている。だから立ち入った話はできない。なので、ちゃんと英語を学びたいと考えたというわけだ。これはBグループと呼んでおこう。

誰も語学が上達しない構造

そして、この二パターンが混在することによって「二重の不幸」が訪れる。授業は個人指導ではなく、クラス単位の指導(アメリカで個人指導を受けたら授業料は三倍くらいになるので、語学留学した若者は、だいたいこのクラス授業を受けることになる)。午前中いっぱいの授業が週五日続くという、なかなかハードな内容なのだけれど、ただハードなだけで効率がものすごく悪いのだ。

授業で教員はとにかく話し続ける。生徒は必死に内容を理解しようとするのだけれど、ハードルが高すぎて全体の二割も解らない(話し方はネイティブのそれよりは遅く、かつ平明な単語を使用してくれてはいる)。課題が出されるたびに生徒たちは右往左往する。聴こえないからやり方がわからないのだ。とはいってもパターンは同じなので、次第に手順だけは解るようになるのだけれど。

この中で教員の指示や話を理解できるのは当然Bグループ。こうなると授業中のコミュニケーションは教員とBグループが中心となる。教員もリアクションしやすいから、必然的にそちらに話を振るようになっていく。当然、Aグループは蚊帳の外。そして、このコミュニケーション状況に恐れをなして石化、墓標化、地蔵化?する。だからいつまで経っても「聴こえない、話せない」。固まったまま。じゃあ、Bグループには恩恵があるのかと言えば、こちらにも困難が待ち受けている。週末のテストで高得点を取るのはもっぱらAグループになるからだ。彼らにとっては、今度は文法やリーダーのハードルが高すぎるのだ。だからBグループの目標も達せられない。ちなみに下のクラス、たとえばレベル3以下となると、ほとんど日本人、韓国人、中国人からなるクラス編成になっていて、しかも母国からやって来たばかりの、いずれもAグループに属するタイプ。ところがレベルが低い分だけリスニングもスピーキングも弱いので、授業はひたすら教員が喋りっぱなしということに。でも生徒たちは解らないので、生徒の側からすれば授業は「お通夜状態」に。沈黙が続くと同時に、教員の「講義という名の読経」が流れる。そして休み時間ともなると「やれやれ」ということで、同じ国からやってきた生徒と母国語での語り合いとなり、これが仲間意識を助長して学校以外は専ら一年間母国語を使い続け、語学は結局、なかなか上達しない。というわけで「まあ、効果は低いかな?」といったのが、この学校でのフィールドワークの結論だった。ちなみに「こりゃ、もったいない」と思ったので(笑)、僕は相手が日本人であっても一切日本語は使わなかった(やる気のある連中は、これに付き合ってくれた)。

語学学校ドロップアウト組に待ち受ける落とし穴

ならば、とっとと語学学校を辞めてバイトやネイティブの仲間を見つけた方が勝ち。ネイティブの恋人ができれば完全勝利!というふうになるのか?というと、やはりそれもまた違っているだろう。実社会(とはいってもバイトだが)に出て、ネイティブと語り合う時間が日常になったのだから上達が早いのはあたりまえと思うのは早合点に過ぎない。というのも、こちらのコースを選んだ連中は要するに、前述のBグループに加わったわけで、日常生活のごぐごく実践的なコミュニケーションは難なくこなせるようになるけれど、基礎が養われないから喋りは「じゃぱゆきさん」のそれ(ネイティブとのコミュニケーションの際の常套パターンの”Yeah”みたいな間投詞(単語が綺麗に繋がらないので、必然的にこうなる)が頻用されるというのが共通した特徴。「なーんちゃって陽気なアメリカン」気分ってところだろうか)。結局、つっこんだ話はできない(とはいっても、実用性ではこちらのほうが明らかに上だけれども)。

でも、こうやって1年間海外で生活し、帰国してきた一群は、たとえば日本で英語を使う機会となれば、それなりに対応が可能(Aグループは控えめに。一方、Bクループは積極的。「イェーイ!」のノリが「喋れる」というイメージを自他に向けてアピールするので)。そして、その対応は、英語コンプレックスに満ちた一般の日本人から見れば「英語ペラペラ」に見える(とりわけBグループ)。そういえばYouTubeに「英語ペラペラの芸能人」的なビデオがよくアップされているけど、これが典型的なそのレベルだろう。低いレベルなのだけれど、英語苦手の一般人にはペラペラに見える(ちなみに宇多田ヒカル、シェリー、伊藤穣一なんてのは、もちろん例外)。で、このことってのは、立ち位置を変えてみるとすぐにわかる。ちょっと考えてみて欲しい。芸能界で日本語のうまい外国人って思い浮かびますか?デーブ・スペクターやパックンくらいでしょ?(この人たちの喋りは、完全にアカデミックです)。あとはみんな、ちょっと、ヘン。これをひっくり返して考えてみればわかる。そう、英語をというか「言語という文化」をナメてはいけないのだ。一朝一夕にマスターできると思うのは、とんでもない勘違いなのだ。

ちなみに、これくらいの英語でも、一定環境の中でなら、なんとかなる、というか十分に使える。僕が、いま滞在しているここトーランス市はトヨタとホンダの米国での本拠地があることで有名で、日本からこちらに転勤等で送り込まれてくる社員がいるのだけれど、この一群はちゃんと仕事ができているという(あたりまえだが)。そして英語もそこそこやれるらしい。ただし、社内のみで。というのも現地スタッフは日本から派遣されてくる日本人社員の対応に慣れている。つまり英語を母国語としない相手への話し方をしてくれるし(語学学校の英語教師の喋りと同じ)、技術面では当然共有する部分が多いからコミュケーションも可能(トーランス市で日本人向けの語学学校を30年経営しているBYB English Centerのオーナー・セニサック陽子さんのコメント。この学校はこれら会社に所属する生徒が結構いる)。日本人野球選手が大リーグに行ってもそこそこメンバーとコミュニケーションできているというのは、こういった事情による。帰国した新庄剛志が英語ペラペラだとか聴いたことはないし、現在シカゴカブスに在籍しているムネリンこと川崎宗則は大リーグ5年目だがほとんど英語ができない(彼がウケているのはパフォーマンスが面白いからに過ぎない)。でも、ここでは「野球」というもう一つの「言語」が担保になっている(まあ、コミュニケーションは言語の前にコンテンツが無けりゃ出来ないのは、英語であろうが日本語であろうが同じなので。コミュニケーション能力≠語学力という認識が必要)。(つづく)