もう、あちこちで話題になっているネタだが「はすみとしこの世界」氏がアップしたシリア難民を揶揄するイラストが問題になっている。ご存じのように、貧困状況にある人間が何の苦労もなく生きたいので寄生的に「難民をしよう」と考えているという指摘だ。つまり「こいつらはなりすまし難民の移民」といいたいわけなんだが。

当然のことながら、このイラストについては二つの点から火の手が上がった。ひとつは当然レイシズムに対する視点から。そしてもう一つはオリジナルの写真をパクったという点から。今回はこの二つの点をメディア・リテラシーを学ぶためのネタとして使ってみたい。

「はすみとしこの世界」氏がレイシストとみなされるメカニズム

まず、前者、この作者がレイシズムの固まりみたいな輩という非難について。本人は「一部の偽難民がそれを権利として思いやってくることに問題を感じ、問題定義として、偽難民についてみなさんが考えるきっかけを作りたかった」と説明している。だから本当にやむにやまれぬ難民に対して、これを非難しているわけではないということになるのだが、はっきり言って、この釈明はメディアリテラシー的には全くもってダメである。というのも「はすみとしこの世界」氏はメディア、そしてインターネット、さらにはSNS時代のメディアの機能を全然理解していないからだ。いくら「レイシストではない」と主張したとしても、現在のメディア環境では、氏の意向にかかわらず、氏には結果としてレイシストのレッテルが貼られるようになっている。こういったメカニズムに全く無知な点が問題なのだ。

確かに、そういった「偽装難民」、存在するだろう。ただし一部であり、それを一般化することは当然出来ない。「あのクラスのAはバカだ。だから、あのクラスは全員バカだ」とは言えないのだから、あたりまえだ。そして、こういったいわゆる「フリーライダー」の類いはどんな時にも必ず存在する。また、陰で「こういる連中、いるんだよね」という話題もわき上がる。まあ、こうやって内輪でやっている分には構わないだろう。でも、普遍化は出来ない。

ただし、これをネット、SNSにアップして拡散することは別の話だ。やった瞬間、世界中に開かれているネット上では、場合によってはとんでもない勢いで拡散されるおそれがある。とりわけそれがデリケートな問題の場合には。そして今回が、その「場合によっては」の「場合」なのだ。社会的な認識の趨勢としては「シリア難民をなんとかしなければ」という正義が成立している。しかもEU圏では深刻だ。そんな重大な問題について、その気をくじいたり、逆撫でするような行為をした場合には、一気に拡散し、ネタ元の当事者がネットいじめ=サイバー・ブリーイングの餌食となってしまう。これがSNSやブログの恐ろしいところなのだ。で、今回の場合、この騒ぎが世界中に広がってしまった。BBCをはじめとする世界中のメディアがこの「はすみとしこの世界」氏のイラストを掲載し、これを非難したのだ。でも、これってあたりまえの話だろう。

そして、これがネットのみならずマスメディアでも拡散されるに至って、今度は「こんな事をやっているなんて日本人はとんでもない」というようなムードが作り上げられる。たったひとつのアップネタが、ここまで行ってしまうのが現在のメディア(インターネットとマスメディアの情報のスパイラル=循環が発生している)状況なのだ。「はすみとしこの世界」氏、なんともはた迷惑な御仁である。

これはバカッター騒ぎと同じ構造

さて、この騒ぎ、数年前にSNSを介して発生し、話題となったいくつかの事件とまったく同じ構造に基づくことにお気づきだろうか。それは、例えば「ローソン、コンビニバイトの若者が裸になって店のアイスクリームの中に横たわった」という事件だ。これも内輪でやっている分には騒ぎにはならない(もちろん、これ自体は大いに問題だが)。騒ぎになったのはこの写真をTwitterにアップしてしまったから。その結果、これがマスメディアにも取り上げられ情報のスパイラルが発生。大事件という扱いとなり、ローソンは謝罪、当該店舗とのフランチャイズを解約といった事態にまで及んでしまった。

この二つに共通することは、要するにインターネット・リテラシーの無さだ。SNSやブログに、本来なら内輪ネタで済ますべき内容を無造作にアップすれば、当然、これはサイバーブリーイングの餌食となる可能性があることが分かっていない。いわばネット上の他者の反応に対する想像力が根本的に欠けているところが共通の問題なのだ。「そんなことをしたらどうなるのか?」これがわかっていないのである。

「はすみとしこの世界」氏が叩かれる理由、それは本人がフリーライダーを指摘しレイシストだからとか、世界の社会情勢に無知だからではない(まあ、それもあるが)。いちばんの理由はインターネット世界に無知であるからだ。そして、その無知が日本人全体のイメージを穢すような事態を生んでしまっている(このメカニズムも一部の事実をあげてそれを一般化するという点では「はすみとしこの世界」のネタの展開とまったく同じメカニズムであるところがなんともいえないが。言い換えれば、これを見て怒っている人間も「一部のメディアの機能に無知な日本人がやっただけ」と相対化する必要があるということでもある)。

「そうだ難民しよう!」のデザインはパクリか?

さて、二つ目の非難であるオリジナル写真のパクリ問題。「はすみとしこの世界」氏の元ネタとなっているのはレバノンの難民キャンプでジョナサン・ハイアムズ氏が撮影した六歳の難民少女の写真だ。背景とタンクトップの柄こそ変更されているが、それ以外は女の子のポーズ、そしてタンクトップの皺に至るまでまったく同じだ。

ハイアムズ氏にしてみれば迷惑な話だろう。自分が訴えたかったメッセージと全く逆の立場でイラストが利用されたのだから。ただし、これをパロディと考えれば(政治性を含んだ過激なパロディだが)これはこれでありだろう。この程度でパクリだとか著作権に触れるだとか言われてしまったら身も蓋もない。そもそもパロディとは「既成の著名な作品また他人の文体韻律などの特色を一見してわかるように残したまま,全く違った内容を表現して,風刺滑稽を感じさせるように作り変えた文学作品」(スーパー大辞林)なのだから、これを否定することはパロディという行為それ自体を否定したことになってしまう。それゆえ、パクリと非難するのは誤りだ。そもそも「はすみとしこの世界」氏は、はじめからハイアムズ氏のメッセージを否定するためにやっているわけなんだから、このアップネタは見ている側にオリジナルが判明するようでなければ意味がない。で、氏はその作業、いわばネガティブなパロディの操作をやっているにすぎない。

われわれは先有傾向に基づいてオリジナル写真を解釈している

そして、ちょっと視点を変えて、ここでもう一歩メディア・リテラシーについて踏み込んだ考察をしてみたい。注目したいのは「はすみとしこの世界」氏のイラストではなく、むしろその引用元となったハイアムズ氏の写真のほうだ。実は、僕はこの写真に疑問を感じている。っていうか「新味のない、お定まりの手垢のついた写真」に思える。

というのも、この写真がシリアで悲惨を極め這々の体でレバノンキャンプへと避難してきた難民の女の子というふうに規定するには、ちょっと難しいからだ。もちろん、われわれはこの写真を見た瞬間、難民の悲惨な状況を想像することが出来ることも事実だ。だが、それはこの写真にテキストが、いわばキャプション、あるいは文脈として先行的に加えられているからにすぎない。つまり、レバノン難民+悲惨+いたいけな少女(子ども+女子=弱者というジェンダーがしっかりと刷り込まれている)という組み合わせ。ところが、もし情報がこの写真のみで一切コメントやキャプションがなければ、ただの子どもの写真でしかないのだ。言い換えれば、「はすみとしこの世界」氏が仮にこの写真を背景を含めて完全にパクり(つまり女の子も背景も写真のまま)、ここにパロディ化した文章(「安全に暮らしたい~そうだ難民しよう!」)のみを加えたとしたら(もちろんこちらがオリジナルを知らないという前提だが)、おそらく僕らはこの写真の女の子を「邪悪な子ども、餓鬼、欲望だけの存在」というふうに認識してしまうだろう。

これを概念的に説明すれば次のようになる。

先ず前提的な知識が存在する(難民問題についての情報を知っている+写真のキャプションや説明のテキストを読む)→それに基づいて写真を理解する。言い換えれば、これは解釈誘導型の写真なのだ。これをたとえば、ピリッツアー賞を獲得したベトナム戦争に関する二つの写真である沢田教一の「安全への逃避」(川の中を逃げ惑う親子)やヒュー・コン・ウの『戦争の恐怖』(爆撃を受け火傷を負いながら全裸で逃げる九才の少女)あたりと比較してみると、そのコントラストは明確だ。こちらは先ず写真がある(もちろん、ベトナム戦争という知識は前提されてはいるが)→これを見た側に強烈な印象が植え付けられる→戦争の恐ろしさを感じる。つまりこちらの場合は文脈ではなく映像に語らせているのである(ちなみに、すべてのピリッツアー賞受賞作品が必ずしもこうなっているというわけではない。超有名なロバート・キャパのスペイン内戦は実は別の写真で、しかも撮影したのはキャパではないし、硫黄島での星条旗を掲げる写真は撮り直しであることが判明している)。

写真は真実を語らない

こうやって今回の問題をパクリ、そしてパロディという視点からメディア・リテラシー的に捉え直してみると、オリジナルの写真も「はすみとしこの世界」氏のアップネタのイラストもきわめて恣意的で、読者に映像を誘導的に読み取らせようとしているという立場からすれば大差がないということになる。

「はすみとしこの世界」氏の行為は、結果として、われわれに「映像は必ずしも真実を映し出さない」という教訓を与えてくれる。いいかえればオリジナルの写真の虚構性を剥ぎ、これを相対化するきっかけを提供している。もちろん氏自身のメディアリテラシーからすれば、そんなことは知る由もないことだろうが。

自分の映った写真を見た時、「これ、自分じゃない」と思ったことがしばしばあるんじゃないだろうか?その一方で「このオレ(アタシ)、イケてるよな」という写真もあるんじゃないんだろうか。でも、この時、私たちは私たちがイメージする自分自身に基づいて写真に写った自分を評価しているにすぎない。そう、写真はどのようにでも解釈されるように出来ている。そして、そのイメージがメディア(マスメディアやインターネット)を介して流通することで、それは「真実」というフィクションを構築する。このことは肝に銘じておいた方がいいだろう。