「こんまり」こと近藤麻理恵さん(自称「かたづけコンサルタント」)の執筆した『人生がときめく片づけの魔法』がアメリカを中心に世界的にベストセラーとなっている。本書は2010年に出版され100万部の大ヒット。さらにアメリカだけで60万部、世界では200万部の売上という。そして今年、近藤さんはアメリカでタイムが選ぶ世界的に影響を及ぼす100人にも選ばれた。それにしても、なんでこんなに人気が出たのだろう。今回はこれについてメディア論的に考えてみたい。

整理法というジャンル

近藤さんは「片づけ」という、とってもカジュアルな言葉を使っているが、実はこれ、いわゆる「整理法」と呼ばれるジャンルに属する。ゴチャゴチャしたものをどうやって整理するのかというのがテーマで、古くは川喜田二郎の『発想法』(1967)、梅棹忠夫の『知的生産の技術』 (1969)、などがその典型的な文献だ。ただし、これらはいずれもかなりアカデミックなレベルでの整理法の提案だった。川喜田はフィールドワークでのカードによる情報整理というもの、梅棹は京大カードの作成やひらがなタイプライターの使用(当時ワープロはなかったので)を提案しており、日常生活で一般的に用いられることはないような「その筋の人間向け」の整理法だった。

これがある程度大衆化されたかたちで登場したのが野口悠紀夫の『超整理法』(1993)だ。押し出し式ファイル法という、角2サイズの封筒(A4ファイルが収まる大きさ)にどんどん書類を放り込んでいくもので、ポイントはジャンルごとの整理ではなく、時系列で並べるのが最も記憶を辿りやすいという前提に従って、左から右へ封筒を並べていくことで、整理方法を単純化しようとするものだった。とはいっても、これもまたアカデミズムやビジネスの領域以外で使用するにはあまり現実味のないものという点では五十歩百歩。また、これら先人たちの技術は、パソコンそしてインターネットの普及である程度達成された部分もある。

情報とモノの氾濫、メディア誘導で錯乱する欲望

とはいうものの、情報やモノを整理することはアカデミズムのみならず、一般人にも共通する悩み。そして、時代はこれらを整理することがきわめて難しくなる状況を生み出していた。流通、そしてインターネットの普及によって、あまりに多くの情報やモノが流通し、われわれはそれを処理することが限りなく難しくなってしまったのだ。消費社会はわれわれの情報や消費に関わる欲望を不断に煽り続ける。するとわれわれはこれらの煽りに抗うことが難しくなり、とにかく「押さえておかなければ」という強迫観念が働いて、これを手に入れようとするというライフスタイルが常態化したのだ。いわばメディア誘導型の消費。気がつけば、身の回りには、なぜこれを手に入れたのだろうかすらわからない情報とモノに溢れているという環境が作られていた。これは情報の氾濫の中で溺れているという状態。つまりわれわれは情報とモノによって常に不安な心理の中に置かれることになったのだ。

大衆的整理法の出現

そんな時代のもたらした困難への対処に応えるかのように出現したのが大衆向けの、もっと簡単な整理法だった。その嚆矢がやましたひでこの「断捨離」という考え方だ。日本人が共通に備えているといわれる「もったいない」という感覚をバッサリと捨て去り、もったいなさに執着することなく不要なモノはどんどん捨てる(人間関係まで含めて)という考え方は、前述の整理法よりも、はるかに簡単にやれそうに見えた。
ところが「断捨離」の直後に現れた『人生がときめく片づけの魔法』は、それを凌駕する勢いを備えていた。というのも「ときめく片づけ」は「断捨離」の欠点を補い、しかもさらに簡単に実行可能な整理法だったからだ。

「断捨離」と「ときめく片づけ」のあいだ

断捨離の問題点は何か。それはポイントである「不要なモノは捨てる」という考え方だ。「不要」の反対は「必要」。だが、この二つを分ける基準はどこにあるのか?これが難しい。一般的な基準から不要ー必要を分けるとしよう。ところが、その場合、一般的な基準がなんだかわからない。情報やモノがたくさんありすぎるゆえ、一般的な基準も相対化されてしまっている。だから、定めようがなくなってしまっているのだ。結局、下手すると、不要―必要の軸が「もったいない」という基準に後退してしまうことすら考えられる。いや、実のところ、そうなってしまい、功を奏することはなかったのでは?

「ときめく片づけ」は、この問題をクリアしている。ポイントは「ときめく」という言葉にある。誰もが経験のあることだが、時にわれわれはパニックに陥ることがある。これは、いわば「周辺情報の処理が出来ず、身の置き場がわからなくなって混乱に陥っている状態」。現代社会はまさにこのパニック状態が常態の状態なのだ。前述したようにあまりに情報とモノが溢れてわけがわからない。そんなときのベストの対処法は「足下を見ること」。つまり、情報を最小限化してしまい、確実なモノだけを残して、それを再整理し、足場を固めて、再び世界に目を向ければいいのだけれど、「ときめく片づけ」にはそのやり方がちゃんと用意されてある。それが「ときめく」なのだ。

キーワードの「ときめく」。これはきわめて自己中な言葉だ。「ときめく」か「ときめかない」かは自分が決めるからだ。ここには断捨離が密かに要請するような一般的な基準といったものは存在しない。とにかく「私がときめく」ことが基準なのだ。だから、自己中。でも、逆にハッキリと基準を定めることが出来る。これは要するに、一旦足下を見ると言うこと。自分だけの世界にとりあえず退行することで「自分にとって必要か否か」という取捨選択が可能になる。この自由さが「ときめく片づけ」にはあるのだ。逆に一般的な基準が密かに要請されているような断捨離は、下手をすると教条主義的な押しつけになりやすい。「不要なもの」という消去法的かつ自己否定的な考え方と、「必要なものでときめくもの」という加算的かつ自己肯定的な考え方は、ここが根本的に異なっている。

また「ときめく」については「片づけをしようとする際にときめくか否か」が基準となる。これは消費生活の中で、メディアに煽られ、思わず「ときめいて」、手に入れてしまったものを処分するのにも有効だ。とにかく、「その場」でときめいた情報やモノを購入してしまったのは仕方がない。でも、「片づけの時」にときめかなかったら、それは不要な情報やモノなのだという見切りがつけられる。ここでも自己肯定、情報やモノに対する人間優位の思想がある。「ときめく片づけ」は、ひたすら人に優しい整理法なのだ。

「ときめく片づけ」の副次的効果

「ときめく片づけ」は情報化社会を生き抜くための処世術でもある。こういった自己中なかたちで身の回りを整理し「ときめく環境」の中に身を置くことで、あるものを可視化することが可能になるからだ。その「あるもの」とは自分自身に他ならない。片づけが終わって出来上がった「ときめきだらけの情報とモノからなる環境」が、翻って「私とは何か」を片づけを行った当の本人に視覚的に提示してくれるのだ。つまり、これら可視化された情報とモノを肯定し、それが私の世界であることを承認することで、省察的に「私自身」も肯定可能になる。ここで行われているのは、いわば「自己確認」だ。いや、それだけではない。さらに一歩踏み込んで、今度はその「ときめく私」を立ち位置に、外界に向かって足を一歩前に踏み出すことが出来るようになる。

近藤麻理恵さんは「こんまり」というあだ名が付けられ、なおかつ世界(とりわけアメリカ)で人気を博するに至ったが、そうなったのは彼女が提示した整理法が、要するにグローバルに展開している情報の氾濫に適応するためのユニバーサルな処方箋だったからに他ならない(もちろんアメリカでウケた背景には、アメリカ人独特のアメリカンドリーム的なイデオロギーとか、商売上手な出版元・サンマーク出版の影響とか、本人が若い女性であり、これをメディアがキャッチーだから取り上げたこともあるだろうけれど)。