ご存知のように、大阪都構想の賛否を巡る投票において、反対が賛成を僅かに上回り、この構想は否定された。橋下徹市長は公約に従って、市長任期いっぱいでの政界引退を宣言したのだが。いや、実際のところ大阪都構想は終わっていないし、橋下自身も決して賞味期限切れではない(本人は自らを賞味期限切れとしたのだけれど)。これは民主主義における構造化の必然的結果でしかないのだ。

すでにあちこちで指摘されていることだが、問題はこの投票の中身だ。年代率の賛否をチェックすると、何と六十代以上以外は全て賛成が過半数を超える。それだけを見れば、どう見ても賛成の圧勝に思えるのだが、事実は異なっている。要するに高齢者層の投票率が極めて高く、この年代の意向がモロに反映された形になってしまったのだ。

「投票に行かないのがいけない。投票は国民の義務だ。そういった義務を果たさない輩に政治云々を言う資格などない」

年配者からは、こんなモノノイイが聞こえてきそうではある。さらに

「国政や日本の未来のことを考えることもなく、自分のことばかり考えているから投票に行かないんだ」

こんなモノノイイも、たぶん、あるだろう。

実は、先月統一地方選の投票所で1日、投票のお手伝いをしたのだけれど、まあ、とにかく投票に来るのは年配者ばかりだった。アサイチは本当に年寄りばっかり、午後になって買い物ついでに家族でちらほらとやってくるというのが若年層という感じで。

その時感じたことは
「選挙、投票というシステム自体が、もはや民主主義としてはマトモに機能していないのではないか?」
ということだ。

投票に行かないことを咎めるのは容易い。しかし、投票それ自体に魅力が無くなってしまったことも否めない。それは言い換えれば政治への魅力の消滅。そして、これは若年層において負のスパイラルをつくりあげる。関心が無いから選挙に行かない。選挙に行かないから関心が無くなる。そしてガッツリ投票に出かける高齢者層の意向が反映されると、投票することの無意味さをいっそう感じるようになり、ますます関心を失っていく。

僕は、こういった政治への無関心への拍車がかかる理由を、単に若年層の政治無関心だけに求めることは間違っていると考える。政治に魅力が無い、そして選挙に関心を抱かせないという、現状の民主主義のシステムそのものが、実は賞味期限切れなのでは?こういった視点も当然必要と考えるからだ。

ちょっと「テレビ離れ」を例に考えてみよう。現在、若年層のテレビ離れが激しいのはご存知だろう。インターネットにメディア・アクセスをとられてしまったからだ。そこで、視聴率獲得に躍起になっているテレビは、その矛先をネットリテラシーの低い層に向ける。そう、高齢者層だ。それが時代劇、ほとんど懐メロの歌謡ショー、刑事、事件もの、ベタな朝ドラという、実にコンサバティブな作品群を生み出すことになる。だが、それによって若年層はますますテレビ離れに拍車を駆けていく。

このスパイラルは危険だ。あたりまえの話だが、高齢者層が順番上、真っ先にこの世からいなくなる。ということは、現状ではこれから視聴者層のメインが先細りになっていくと言うことなのだから。つまり、こんなことをやっているようではテレビの未来はない。

政治もまったく同じだ。現在の政治、そして投票システムは、まさにこの「ベタな年寄り向けドラマ」と同じ構造と考えても、おかしくないんではないだろうか。若年層の政治への関心を惹起するような何らかの方策が採られない限り、現状システムでは民主主義では機能しなくなる。その象徴が今回の大阪都を巡る投票だったのだ。いわばシルバーイデオロギーの勝利。いいかえれば民意を反映していない。だって、各年代が同じ割合で投票していれば、大阪都構想は肯定されるのは間違いないのだから。

高齢者層は若年層の政治無関心を「日本の未来を考えていない、身の回りのことにしか関心が無い」と嘆くかもしれないが、いやそんなことはないだろう。高齢者層こそ日本の未来を考えていない。だからこそ今回の投票に積極的に足を運んだとみなすことも出来る。つまり、敬老パスを打ち切られてしまうといったような高齢者層に向けての行政サービスの変化に対する不安が投票所に彼らを駆り立てるという可能性が十分に考えられる。未来がどうなろうと、現在の既得権を守る、現状維持を続けることで自らの身を確保する。こう考えると、高齢者層が若年層に「おまえたちは無責任」だとは決して言えなくなる。「あなたたちこそ、民主主義のシステムを悪用して自分のことしか考えていない無責任な存在」と言い返されてしまう可能性もあるからだ。

政治、投票について、どうあるべきか?考えなければいけない時に来ていると僕は考える。