スマートフォンの先端に装着して、自分の方にカメラを向け自らを撮影する「自撮り棒」が若者の間で大人気だ。このディバイスが発明されたのはもう40年近くも前に遡るそうだが、ニョキっとバーを伸ばして撮影している姿、やたらと目立つ。

自撮り棒はカメラの備えている致命的な欠点を補ってくれる。カメラとは、あたりまえの話だが原則、撮影者が被写体になることができない。タイマーを使う手もあるが、明確なアングルを決めるというのはちょっと無理。で、これが可能になる便利なツールというわけだ。

そこまでして撮りたいのか?

ただし、である。これを使って「自撮り」している風景、なんとなく傍目からは(とりわけ年配者からは)不自然に思えないこともない。「そこまでして自分を撮りたいのか?」みたいな印象を抱く人間、結構多いらしいのだ。

そこで、こんな物言いが出てくる。若者は承認願望が強い。だが現代社会において弱者、しばしば社会的にはほとんど存在が無きに等しい。そこに自撮り棒。これは「存在証明」「自己主張」にはもってこいに映っているのではないか……若者論論者なら、こんな分析をするかもしれない(若者論は、しばしば「自己」とか「アイデンティティ」とか「存在証明」みたいな言葉を使いたがる領域なのだ)。ただし、もしあなたがこういった分析に同意したとするなら、それは単に「自撮り」することに躊躇する自分の立ち位置を無意識に正当化しようとしているゆえに、そうなるに過ぎないのだと考えたほうがいい。もとより、彼らの自撮りの理由はメディア論的視点からすれば、もっと他のところにあると見るべきなのだ。ちなみに、昨年の夏、僕はバンコクとタイのリゾート、暮れにはバルセロナに滞在したが、旅行者の集まる繁華街やリゾートのあちこちでこの自撮り棒を目撃した。これは一昨年には見られなかった風景だ。そして、これを利用している人間は別に日本人に限定された話ではない。欧米、アジア、とにかくあっちこっちからの人間が利用しているのだ。なんのことはない。現代社会における便利なツールと考えた方が的を射ている。この連中が存在証明したい、自己主張したいなんて思っているとは、到底思えない。

自撮りを巡るインフラの変容~テクノロジーの側面

自撮り棒が突然ブレイクした背景には、あたりまえの話だが「撮影する」という行動におけるインフラの変容=整備があることを踏まえる必要がある。いまどきの若者の特殊事情とか特殊気質によるという説明は、ちょっと×なのだ。

かつて自撮り棒は「珍発明」のカテゴリーに属していた。重たいカメラを棒の端に付け、こちらに向けて撮影する姿は、不格好を超えて滑稽だったからだ。先ず、カメラ自体が重すぎる。またシャッターを切るのもなかなかたいへん。そして、結局のところモニター(=ファインダー)を見られないからアングルも決められない。ということは、タイマーとほとんど同じ機能しか無いにもかかわらず、がさばるわけで、こんなものを旅先に持ってくる人間など「変わった人」でしかないという位置づけになる。

ところが時代は変わった。カメラはスマホのカメラ機能に代替され、前面カメラでディスプレイをモニターしながらアングルやポーズを確認できる。ジャッターもBluetoothを利用しているからリモートで楽チン。また、スマホ自体が軽量だから、これに合わせて自撮り棒も大幅に軽量化できるし、がさばることもない。バックにちょいと忍ばせ、必要な時に取り出して棒をスルスルっと伸ばすなんてことが出来るのだ。もちろん自分だけを撮るだけでなく、自分を含めて仲間と撮影することも可能だ(というか、こちらの方が主流)。

自撮りを巡るインフラの変容~情報意識の側面

自撮りするという行為自体にも抵抗がなくなっている。これにはいくつかの要因がある。先ず1つは90年代半ばに登場したプリクラの存在だ。これで仲間と連れだってプリクラ・マシンで撮影することがコミュニケーションの一つとして位置づけられた。もはや三十代から下のプリクラ世代がプリクラ撮影に躊躇するなんてことはないだろう。で、プリクラのようなカジュアルなコミュニケーションツールに、自撮り棒を利用した撮影というスタイルが仲間入りしただけの話だ。ここで、自撮りに対する抵抗は一歩後退する。つまり、ただ単に「あっ、これ、便利じゃん!」。

もう一つはケータイ、そしてスマホにおけるカメラ機能の存在だ。かつて銀塩の時代、カメラはまさにホビーのひとつであり、それなりに費用のかかるものだった。ところが、いうまでもなく現在は全く異なっている。フィルムを購入する必要はなく、デジタル的にデータを取り込むだけ。だから失敗したくないので気合いで慎重に撮るなんてことはせず、とにかくこちらもカジュアルな感覚でジャカジャカ撮影してしまうのだ。そのジャカジャカ感が、翻って自撮りという撮影スタイルを生んだとしても何ら不思議はない。しかも、撮影行為はもはや男性に限られたものでもなくなった(「カメラ女子」なんて言葉もフツーに使われている)。もちろん、さっきは否定的な書き方をしたが、自撮りには自己確認=存在証明のための行為という側面もある。これはかつての若者だったら日記なんてのがこれに相当するのだろうけれど、これがカメラというメディアが身近になったことで、同じレベル=メディア性に降りてきただけのことだろう。カメラは日記になったのだ。そして、その際に自撮り棒を使うというスタイルも一部に生まれた。

コミュニケーションツールとしてのカメラ、そして自撮り

スマホの時代、こういった撮影のカジュアル化、それに伴った自撮りのカジュアル化はさらに加速したといえるのではないか。前述したように撮影したフィルムならぬデータ・ファイルはパソコンなどのストレージに保存可能であるだけでは無い。いや、今日ではこれをSNSにアップするというほうがむしろ一般的だろう。しかもこれがほとんど瞬時に行われる。つまり、撮影→即アップという流れ。

こうなると、たとえばFacebookやインスタグラム、LINEに挙げれば、即コミュニケーション・ツールとして写真が機能することになる。いわば「どこでもプリクラ」。この時、もはや「撮影」という行為は限りなく透明な行為となっているのではないか。つまり、コミュニケーションすることが先にあり、そのメディア=手段としてたまたま撮影、自撮りが登場するだけに過ぎない。

この意識が定着しているとすれば、若者たちが自撮り棒で自らを撮影する行為は自己確認でも何でもない。ただの「ネタ」だ。まあ、もちろん存在証明的に撮影している若者もいるだろうが、そちらはむしろマイノリティだろう。

そう、自撮り棒が流行るのは、自己アピールと言うより、むしろ撮影を巡るインフラ、とりわけケータイ→スマホとSNSの普及というインフラによって技術的、そして心性的に生み出された必然的結果と考えた方がよいのでは?そういったニーズを的確に捉えたツール、それが自撮り棒。だからヒットしていると、僕は考えている。