ISISによって後藤健二氏と思われる音声メッセージ第三弾が29日に投稿され、イラク時間同日日没(日本時間同日深夜)までにリシャウィ死刑囚がトルコ国境に移送されなければ、ヨルダン軍のパイロット(ムアズ・カサースベ氏)は直ちに殺害されると警告した。

日本メディアが報道する「ISIS VS 日本」という図式

今回の事件、われわれはISISによる後藤氏(そして湯川氏)拘束事件、つまり「ISISと日本の問題」と捉えるべきではない。ところが日本のメディアは専らこの側面から捉え、希望的観測も交えて、かなり偏った見方をしている。テレビでの解説者の論評もこちらの文脈が趨勢を占める。このノリは、さながら飛行機事故が起きた際、真っ先に「日本人乗客は……」と報道するのとよく似ている。日本に関することだけに関心が向かってしまい、事の全体像が見えていない「視野狭窄」に至っているように思える。

そうではない。これは先ず始めに「ISISとヨルダンの問題」、あるいは駆け引きの問題なのだ。そして現在、後藤氏は、いわば、その駆け引きの「道具」として利用されているに過ぎない。このことは、われわれが今回の事件の立ち位置を「ISIS VS 日本」から「ISIS VS ヨルダン、それに付随する日本」へシフトすることで、はある程度見えてくるはずだ。

「ISIS VS ヨルダン」図式から見えてくる事態の本質

そこでISIS側の思惑という立ち位置をから考えてみよう。当然、ISISとしては今回の事件を利用して、自らの社会的な影響力、そして金銭的利益、これらを最大化したいはずだ。ところが、もしこれを対日本という立ち位置でやったらどうなるか?あたりまえだが費用対効果はきわめて低いことになる。金銭的利益はともかくとして、日本という当事国とは必ずしも言いかねる国に属する人間を相手にすることは、いたずらに社会的な評価を悪化させるだけ、つまり「ならず者」のイメージを助長するだけなのだから。つまり、大義が立たない。

ところが、これまでの戦略を対ヨルダンという立ち位置で見るとISISはきわめて狡猾なやり方をしていると判断できる。先ず湯川氏の首を刎ね、こちらが本気であることを示すことで相手側に脅威を与える。次に24時間以内にリシャウィ死刑囚を解放しなければ後藤氏の命がないこと、いやそれ以前にヨルダン・パイロットに命がないことを後藤氏の口から語らせた。つまり「どんどんやらないと、あんたのところの兵士の命はないよ、こっちは本気だからね」という強烈なメッセージを相手=ヨルダンに与えることに成功している。で、今回の第三弾でダメを押している。これで、思惑通りヨルダンも困惑した。ヨルダン政府がパイロットとリシャウィ死刑囚の交換といった条件を出してきたのだ。だが、残念ながらISISがそんなものを受け入れる気などさらさらないだろう(その理由は後述)。そして、この「ヨルダンの困惑」、まさにISISにとっては「思う壺」だったのではなかろうか。

なぜ、後藤氏とリシャウィ死刑囚の交換なのか

ISISによるこれら要求で重要なのは、ちょっと不思議に思える「後藤氏のリシャウィ死刑囚との交換」という条件だ。これに、あたかもパイロットの命という「オマケ」が付いているように見える。ところがそうではない。重要なのはパイロットの方が本命で、むしろ後藤氏の方が「オマケ」と認識した方が理に叶っている。ISISにとって政治的に価値があるのはパイロット=ヨルダンの方、だから後藤氏=日本については簡単に交換条件を出してくるが、パイロットの方はそうではない。実際、現在のところ、パイロットを解放するとは一言も言っていないのだから。そんな「おいしくないこと」はやらないのである。

要するに、これは後藤氏の画像と音声を利用してヨルダン政府に圧力をかけているとみるのが適切なのではなかろうか(後藤氏は、もちろん言わされているに過ぎないが、これがかえって強烈なインパクトとなる)。そして、実のところ後藤氏の解放など、ISISにとっては取るに足らないこと。ただし、これを自らの威厳発揚のためのメディアとして最大限利用してやろうと考えていること。言い換えれば、今回の人質交換を利用してパイロットの値段(政治的そして金銭的)のつり上げを図っている。こんなところではなかろうか。

そして、ISISの最も狡猾なやり方(そして多分そうするのではないかと僕は思っているのだけれど)は、前述したようにリシャウィ死刑囚との交換によって後藤氏は解放されるがパイロットの方はそうではないことだ。後藤氏と交換したから処刑を中止してやっただけ。拘束は今後も続く。そして、もし解放して欲しければ……次の要求を突きつけてくる。つまり、このパイロットを、もっともっと「おいしく」いただこうと考えるのだ。具体的にはカネ、そしてより重要な人物の釈放(複数の政治犯)などがそれだ。ISISの側、そしてISISの対ヨルダン戦略という立ち位置を想定すると、僕にはISISの思惑がそんなふうに見えてくる。

ISISにとってリシャウィ死刑囚はそんなに価値のある存在ではない?

ちょっと考えてみて欲しい。リシャウィはテロに失敗した人間であるゆえヨルダン民衆にはインパクトが強いが、政治的に重要な存在であるかと言えば、そうではないだろう。言い換えれば、社会的インパクトを除くと、ISISの将来にとってそんなに費用対効果の高い存在ではない。それゆえISISは後藤氏とリシャウィを同等の価値と踏んでいて、とりあえず次の戦略のための前フリ、そして威嚇として利用しているのでは?(ところが、日本のメディア的な立ち位置だとリシャウイ死刑囚はきわめて価値が高く、パイロットとの交換条件として十分間尺に合っているように認識されている)。メディアの使い方の狡猾なISISのことだから、これくらいのことはやりかねない。

繰り返そう。「ISISと日本、そしてそれに付随するヨルダン」的なメディア報道に距離を置き、この問題がむしろ「ISISとヨルダン、そしてそれに付随する日本」という問題として考えて見ることで、今回の状況は初めて読めてくる。僕はそんなふうに考える。

肝腎なのは「他者の視点に立つこと」。たとえ、それが「ならず者」であったとしても、だ(もちろん、これは「思いやる」ことを意味しているのではない)。