小渕優子は危機なのか?

小渕優子経済産業相が政治資金の運用を巡って辞任不可避の状況に追い込まれている。下仁田ネギなんて「ご当地ネタ」もあったが、現在、注目されているのが、周知のように明治座における支援者向け観劇会での不明朗な会計。費用の収支を巡って2600万相当の差額があり、これが公職選挙法あるいは政治資金規正法に抵触するる可能性が高いからだ。「これで小渕も終わりだ!」みたいなモノノイイも出ているところなのだけれど。

ところがで、ある。メディア論的には、今回の小渕のスキャンダル、むしろ五期を迎えて、いよいよ「小渕のはじまり」と捉えることも出来るのだ。

大事なのは「不祥事の後始末」

メディア論的視点からすると、こういったセレブ系のスキャンダルや事件というのは、事実それ自体よりも、これに対してどう対処したか、パフォーマンスしたかの方が問題となる。つまり、将来においてもセレブ(小渕の場合、政治家)として継続する、あるいはさらに上昇するためには、不正のあるなしにかかわらず、こういった問題が発生している時点で、本人がどう立ち振る舞うかが大きなポイントとなるのだ。そして、場合によってはスキャンダルといった「負の側面」が、かえって本人をクローズアップさせ、結果として「負を正にかえる」といったマジックへと転ずることすら可能になる。例えばわいせつ罪で逮捕された草彅剛やイメクラ事件でスケベ男のイメージを付与された東国原英夫の例を思い浮かべてもらえば、これは納得いただけるだろう(前者は記者会見によって誠実性がアップし、後者は事件を利用して県知事に上り詰めた)。そして、今回の小渕優子のスキャンダル。小渕は、こういった「負を正に変える」というメディア戦略としては、ほぼ満点ともいえるような対応を行っている。だから「小渕の(あるいは小渕劇場の)はじまり」と考えることも出来るのだけれど。

不祥事で政治生命を絶たれるパフォーマンスとは

具体的に、今回の小渕のパフォーマンスがどれだけ優れているかについてみてみよう。まず、わかりやすいように、比較対象として小渕がやったのとは正反対の0点のパフォーマンス、つまり政治生命を絶たれてしまうような典型パターンを展開してみたい。

資金不正運用疑惑が発生した。すると当該の政治家はメディアから追っかけられ、ぶら下がりで質問を受けたり、記者会見を開かされたりして説明することが求められる。この時、まずやるのが「疑惑の否定」だ。否定パターンは1.事実や疑惑を提示されても、本人は知らないと突っぱねる、2.言い訳をする、3.支援団体や事務所のミスと言及し、本人は知らなかったとその潔白を訴える。このあたりが一般的だろう。

だが、これらはパフォーマンス的には最低だ。事実はどうであれ、保身のために徹底的に責任回避しようとしている点=メディア性がクローズアップされてしまうからだ。この姿勢が、逆に「あやしい」「誠実さに欠ける」といったイメージを作り上げてしまう。1だったら「無責任」「嘘つき」、2だったら「ごまかしている」、3だったら「身内に対する誠実性がない」といった印象となる。わかりやすいのは前都知事の猪瀬直樹で、バックの中にお金が入る入らないを巡ってわけのわからない押し問答をやって、困った顔をしてしまったパフォーマンスが「語るに落ちる」状態になったのは記憶に新しいところだ。

小渕優子の満点演技

ところが小渕はこの全てをやらない。

まず1。「知らない」とは決してコメントしていない。むしろ「知らなかったでは、済まされない」と、本来ならメディアや野党政治家が攻撃の常套句として仕掛ける言葉を自ら発している。つまり「事実関係はわからないが、私には責任がないとは言っていない」という意味合いがここには含まれる。よって「責任感を持っている」。また、そうすることでメディアの側としては、このネタでこれ以上ツッコめなくなる。相手が否定し続ければ続けるほど、メディアとしてはツッコめるのだけれど、認めてしまったらもうやれないからだ。

次に2。1と少々絡むが、全く「言い訳」をしていない。これは、ほかの大臣のこの手のツッコミに関する返答とは好対照をなす。とりわけ、今回は女性大臣が注目されているが、これらの大臣の不祥事に対する弁明とは明瞭なコントラストを結果として作り上げている(こういった存在は小渕の黒子・かませ犬として機能している)。小渕は記者が「安倍首相に会うのか?」という質問に対しては「今はしっかりこの事実関係を調査すること」と回答しているが、これなどはまさに小渕側の思うツボにはまった質問だ。「ハイ」と答えれば「あ、首相と相談して言い訳さがすのね」になるし「いいえ」と答えれば「じゃあ、別なかたちで言い訳さがすのね」という文脈が登場する可能性があるのだけれど、前述のように回答すると、言い訳をする前に「この問題に逃げることなく、つまり言い訳することなく、真摯に取り組む」というイメージを形成するからだ。

そして3。よくよく考えてみれば、これは自らの支援団体の事務上のミスの可能性もある。つまり小渕自体はこういった地元での政治活動を支援団体に任せている。そして、その支援団体は元はといえば父親・小渕恵三の支援団体。いいかえればドドメ色の旧態然とした体質をそのまま引き継ぎ、その上に小渕優子が乗っかっているというふうにもイメージできる(多分、そうだろう)。「お嬢様、銃後の守りはお任せください」ってなところなのかもしれない。で、にもかかわらず、ドドメ色体質なのでカネをバラまいた(こんなことは政治家には、まあ、よくあることなのだけれど)。だから、小渕自身は潔白で支援団体=事務所のミスということもあり得る(勘違いしないでいただきたいが、もちろん、現状では事実ははっきりしていない。あくまで「あり得る」レベル)。しかしながら、これまた事務所、秘書、支援団体という言葉を小渕は一言も発していない。つまり、責任を転嫁していない。こうなると今度は「たとえ支援団体等のミスであったとしても、身内を庇い、自分の責任として引き受ける」というパフォーマンスになり、たとえ大臣を辞任しても、さらには国会議員を辞任したとしても、地元の信頼はむしろ高まってしまう。だから、たとえば一旦議員を辞して謹慎し、次の選挙で「禊ぎが済んだ」ということで再出馬すると、今度は前回以上の票を獲得してしまう現象を起こす可能性すらある。つまり「先生は何も知らなかったのに、支援者たちの不祥事を自ら被ってお辞めになったわけで、可哀想」。不祥事の元凶となった(なった場合だが)支援団体の方は「先生に責任を負わせてしまった罪滅ぼしをしなければ」ということで、いっそうの忠誠を誓いその紐帯を強めていく。で、この時、支援団体や事務所が不祥事をやって議員はそのことを知らなかったと言っても公職選挙法や政治資金規正法には抵触しているし、その責任は議員の方に降りかかってくる(要するに管理不行き届き)と言うあたりまえの規定(もちろん適用される)すら、イメージ的には払拭されてしまうのだ。

満点演技を彩る加点要素~アーティスティック・インプレッション?

そして小渕のパフォーマンスには、これら払拭要素の他に、さらに加点要素すらある。一つは「質問に対して常にやや上、そして前を見据えている」というパフォーマンス。このときほとんど瞬きをせず、表情をほとんど変えない。つまり「毅然としている」。これは、「今、自分に降りかかっている状況に真摯に対峙している」という演出としては強烈な説得力だ。

で、ここにもう二つバイアスがかかる。
一つはジェンダー的なバイアス。それは小渕優子が「美人」であることだ。浅田舞(浅田真央の姉)似の彼女の容貌は、概ねの人間が美人と認識しているだろう。そう、「美人はトク」なのである。

もう一つは階層(階級?出自?)的なバイアス。不幸にして就任時に逝去した元首相の娘で、その急逝のために出馬せざるをえなくなってしまったという、一般に流布されている物語=文脈の存在。つまり「本人の意志にかかわらず運命的に政治の世界に投げ込まれてしまった。しかもお嬢様が」というイメージだ(もちろん、しつこいようだが、これもどこまで真実かは、わからない)。これじゃ、まるで先頃公開された映画『グレース・オブ・モナコ』の中で描かれているグレース・ケリーみたいな境遇だ。つまり悲劇のヒロイン。

で、これと同じことを男性の大臣(あるいは並の容貌以下の女性議員)がやったらどうなるか。知らないといい、いいわけして、事務所のせいにし、そのパフォーマンスがグダグダしているので品がないと言うことになり、政治生命を抹殺される。

パフォーマンスは政治家に必要不可欠の資質

小渕優子はそうはならないだろう。やっていることはまったく同じであったとしても、小渕の場合は同情されてしまうようになってしまう。つまり、このパフォーマンスは、結果として「これは支援団体のせいであって、小渕は被害者」みたいなイメージを与えてしまっているのだ。不思議なことだが、追及するメディアや野党政治家の方が悪役に見えてくるほどなのだ。

小渕は、おそらく大臣を辞任するだろう(ここまでの本ブログの展開からすれば辞任した方が、本人はトクをする可能性が高い)。ただし、そうすることで、結果として小渕は前述したように大復活を遂げる。小渕は自らが備える全てのパフォーマンス能力を使って、今回の苦境での被害を最小限に抑えているどころか、むしろ「小渕優子キャンペーン」を張り(ただし無意識で)、これを実に巧妙に利用しているからだ。

小渕は卑怯な人間なのか?そうかもしれない。しかし、こうやって大衆をキレイに巻き込んで大復活のシナリオを描き、これが功を奏したとなれば……大政治家の素質は十分ということになるのだけれど。現在、彼女がこれを計算してやっているのか?……僕には、どちらかといえば、むしろ身体的なパフォーマンスに見える。しかし、身体的であればあれほど、政治家としての素質は十分ということになるんだろう。田中角栄、小泉純一郎、そして鈴木宗男がそうであったように。

パフォーマンス能力。政治家にとっては必要不可欠の資質のひとつである。