博報堂が命名したマイルドヤンキーという言葉。どうも名前とそれが指し示す若者の関係が僕にはしっくりこない。ヤンキーというと、かつてだったら暴走族、田舎のダサいやさぐれたニーチャン、ネーチャンとかがイメージ的には先ず浮かんでくるのが、一般的と考えるからだ。ところが博報堂・原田曜平氏が指摘する当該の若者イメージは、身なりこそ、まあそれらしい昔のヤンキーなのだけれど、それは実は「なーんちゃって」で、いちばんのポイントは地元志向にある。なので、このマイルドヤンキーをイメージする際には「暴走族的・やさぐれ的凶暴イメージ」は先ず脇に置き、1.地元志向(東京に憬れがない)、2.郊外・地方都市在住、3.「家族」「絆」「仲間」、つまり昔ながらのつきあいを大事にする(だからこれをウリにしているEXILEが好き)、4.ショッピングモールを好む(もちろんイオンモール)、4.低収入(地方だからあたりまえか)、このあたりを頭に入れておくとよいのではないか。

で、今回はメディア論的、都市論的に、こういったマイルドヤンキーが出現した必然性について考えてみたい。最初に僕のマイルドヤンキーについての結論をあげておけば「マイルドヤンキーは、ある意味、究極の東京人≒都会人」という逆説的なものになる。

都会を夢見たかつての若者たち

「モビリティ」という言葉をご存知だろうか。これは社会学者J.アーリが提唱したもので、一般的には「移動性」と訳す。人間が定住からあちこち移動するようになっていく状況を指すのだけれど、移動圏の拡大に従ってわれわれは移動性をどんどん高めてきた。かつてであったら、われわれは運命的に1カ所に産み落とされ、人生の大半をその空間内で終えたはずだ(江戸時代は移動が禁じられたこともあって、この傾向は特に高かった)。それが、いまや交通手段の高速化と低廉化、そして産業のグローバル化に伴ってわれわれが1カ所に永続的に定住することはほとんどなくなった。生まれた場所と、その後生きる場所がそのまんまの人間などマイノリティ。ましていわんや、生まれ育った場所から一度たりと出ることがない人間など、ほとんどいない時代なのだ。とりわけ戦後の第二次産業、それ以降の第三次産業の発達は、若年層を中心に移動圏の拡大を産業的な部分から促進させていくことになった。つまり、戦前の第一次産業、要するに農業従事者が九割を占めていた時代には、その土地を守る、言い換えれば土地に縛られるのがデフォルト。だから移動性は低かった。だが、二次産業が発達しはじめ、工場が大都市圏に建ち並ぶようになると、そこでの労働力はこういった地方の若年層から賄うことになるわけで、当時中卒者が「金の卵」と呼んで重宝されたように、若者たちは次から次へと工場へと駆り出されていったのだ。この流れは第三次産業の発展によって拍車が掛かり、その多くが大都市圏へと繰り出すことになる(A.ギデンスはこれを「脱埋込み化」と呼んだ)。またメディア、とりわけテレビメディアの情報が大都市のものに比重が置かれ、資本主義の発達とともにテレビを媒介として消費生活が喧伝されるようになると、都会的生活こそが現代若者(当時の言葉を用いれば「ヤング」)の生活の場というイメージを彼らに植え付けた。ようするに「田舎はイケてない、都会、とりわけ東京はイケてる」という認識が一般化し、ローカルエリア、つまり地方中小都市や農村からは大量の若者が移動性を高め、故郷を捨てて都会へと向かっていったのだ。

大都市、都会の魅力の減退?

ところが、である。実際には都会に出て行ったからといって、イメージしていたような都会的生活が出来るわけではない。その多くは都会の中での低所得者としてその経済を下支えするような立場に置かれたのだ。そして高度経済成長、バブルが終わり、どんなにガンバったところで大して収入が得られるわけでもない、豪華な暮らしが出来るわけでもないことがリアルなものとして感じられるようになる。ここで都会の魅力が一つ失われた。

だが、都会の魅力を失わせたのは、もう一つの要因である情報化によるところが大きい。

かつてであれば若者たちが受容するメディア情報はテレビを中心としたものであり、またそれに付随したかたちで展開される雑誌群によるものだった。そしてこれらはほとんど都会、とりわけ東京の情報で埋め尽くされており、だから若者は都会を目ざしていた。

ところが情報化の進展は、こういった認識=都会志向を二つの側面から一新させる。一つはインターネットを中心とする情報アクセスの易化だ。都会にいるからこそ得られる情報が一般の若年層にはあまりなくなっていくというかたちで情報化は進展した。つまり、ネットにアクセスすれば,いつでもどこでも都会的な情報を概ね入手することが可能になったのだ。もちろん、そこで志向されたのは地方の情報ではなく都会の情報だった。だったらテレビと同様にこういったインターネット的な情報もまた、さらに都会・東京への憬れを助長するはずなのだが……以外にもそうはならなかったのだ。つまり、むしろマイルドヤンキー的な心性の人間が誕生するようになるのだが、これもまた情報化によるものだった。これがもう一つの認識変化を起こした側面だ。

情報化は情報へのアクセスの易化をもたらすのみならず流通の合理化も可能にした。POSを典型とする迅速な流通システム、楽天、Amazonなどに典型的に見られる情報を徹底的に合理化したネットビジネス、さらに交通手段の発達。こういった流れがもたらしたのは「地方の都会化」、極論すれば「地方の東京化」だった。

テレビ、インターネット、雑誌などが提供する都会の情報とは何か?それは消費を煽ろうとするがゆえに、そこに「都会」というイメージ=コノテーションを忍ばせた情報だ。若者たちはこれを消費しようとする。UNIQLO、GAPといったファストファッション、STARBUCKS的な第3の空間、ニトリやIKEAに見られる典型的な都会的インテリア、地方ではなかなか見られないインディーズ上映も含んだシネマコンプレックス、膨大な本を抱えた大型書店、ヤマダ電気のようにかつてのアキバ並に大量を在庫を抱え、しかも激安の電器量販店、サイゼリヤやジョリーパスタのようなカジュアルなイタリアンレストラン、世界各国のちょいとエキゾチックな食料が手に入るカルディ、そしてマック、ケンタッキー、ロッテリア、ミスド……こんなものが、メディアを媒介として「都会的消費物」「都会的消費空間」として喧伝された。これこそ、まさに「東京」の魅力だった。

「東京的空間」の遍在

だが、この「東京」、すでに東京に行かなくても地方に存在する。その典型というか、この全てが1カ所に凝縮された空間こそ「イオンモール」だ。イオンはその名の通り「モール」=商店街。ここには情報化によって媒介された「東京」のほとんど全てが揃っていた。

2005年、宮崎にイオンモールがオープンしたときのこと。イオン側としてはこのエリアの商業圏人口を50万人と計算していたが、周囲に競合店舗がないことを鑑みて70万人規模のモールを建設した(開業当時は九州最大だった)。ところがフタを開けてみればやって来た客はそれ以上で、90万人規模の商業圏として成立してしまったのだ(これによって地元の商店街がほぼ壊滅してしまったのは言うまでもない)。

イオンの魅力は、ようするに「今そこにある東京」「メディアが媒介した通りの大都市空間」であるところにある。加えて商店街が屋内だから快適、しかも計画的に空間が設計されているので、こりゃディズニーランド=テーマパークだ。地方の若者たちは、そこに「東京という名のテーマパーク」を見たのだ。

もちろんイオンモールだけではない。もはや地方の空間は、こういった「東京的なもの」で埋め尽くされていると言ってもよい。典型的なものとしてはコンビニエンスストア、TSUTAYAを典型としたレンタルビデオショップ、紳士服量販店、ファミレス……かつて三浦展が呼んだ「ファスト風土化」といった事態が地方空間に出現し、これまた「東京的空間」を演出している。ちなみに「東京的」文化のキッチュな部分ならヴィレッジバンガードやドンキホーテ、そして前述のカルディが担っている。また、こういった空間的な環境だけでなく、それ以外の細分化された消費物もネットを介して購入が可能だ。

究極の田舎は東京である?

こうなると地方はもはや「東京」だ。東京にあるものが地方にもあるし、ネットを通じて入手も可能。つまり「移動性」の副産物は、もはやこちらが移動して獲得する必要は無く、向こうからやってくるので、充足可能。いっぽう東京=都会には家族も友だちも仲間もいない。だから「絆」を感じることが出来ない。そして将来が開けていないのは地方も都会も同じ。だったら無理して東京へ移動する必要などない。

こうやってマイルドヤンキーが量産されることになる。ただし、地方における雇用条件を踏まえれば、必ずしも誰もがマイルドヤンキーとして地元にとどまることが出来るわけではないが。逆説的だが、ややもすると都会=東京は雇用の関係で地元にとどまれない人間がやむを得ず追い出される場所なのかもしれない。そうであるとするならば、東京への志向性はかつての「憬れ」とは正反対のものとなる。

必然的に、これはもう一つの逆説を生むことになる。こういった「東京=都会」のインフラを環境として持ち得ていない人々は誰か?それは東京人≒都会の住民だ。僕は川崎の近くに住むが、カミさんが買い物に行く場所は相鉄ローゼンであったり、あおばであったり。もちろんイオンモールに行くのとは違って、そこに向かう手段はクルマではなく、徒歩か自転車。もちろん川崎にもコンビニやTSUTAYA、マック、カルディ、吉野家といった「東京的施設」もあるけれど、結構、個人事業主のお店も利用してもいる。ということは都会の人間ほど「都会的生活」をしていないわけで、要するにこの連中こそ「田舎者」になるのだ。

「都会」「東京」を志向すれば、必然的にマイルドヤンキーになる!

もはや「都会は田舎」で「田舎は都会」。だから都会を志向するマイルドヤンキーは田舎=地元定住を選択する。もちろん、そこで彼らが志向しているのは本当の東京=都会ではなく、記号としての「東京」「都会」なのだけれど、現代的消費空間としてはそれで十分なのではなかろうか。実際の東京≒都会より、メディア的に媒介している記号としての「東京」の方が趨勢であり、そちらを支持していた方が「都会人」であると実感できるのだから。そして、そういった規格化された都会こそ、実は消費文化を通じて、自分がいちばん日本人であることを実感できるものなのかも知れないのだから。まあ、これもまた逆説的な結果になってしまうのだけれど。

ただし、これはマスの「東京≒都会」。実際の東京≒都会には「東京」、つまり規格化された記号的東京には絶対に無いものがある。それは大都市のスケールメリットを生かしたもの。つまり膨大な数の人間が住まうことで出現する極端に特化された空間。アキバみたいなキッチュでマニアックな空間だ。これはインターネットの情報と同じで、規格化された空間では確保することがきわめて難しい「物理的・実在的な局所情報空間」だ。だからマイルドヤンキーは地元で「東京」を消費し、自らのオタク的でマニアックな趣味の領域については、やっぱり東京に出てくるしかなくなる。ただし、この「東京」と東京の往復をすることで事は足りる。なんのことはない「東京」は日常の空間で、東京は非日常の空間だから。あたりまえの話だが、われわれがデフォルトとして住むのは日常空間。だから地方=田舎に暮らすマイルドヤンキーで十分。こんなところなのではなかろうか。

マイルドヤンキーとは、若年層の移動性が高まった挙げ句、これに情報化社会が過剰適応し、移動性を志向する若年層の心性が実際の移動を伴わずに実現可能になったことで必然的に誕生した「社会的性格」としての「ネオ都会人」のこと。僕はそんなふうに捉えている。