東京ディズニーランドが培った日本文化としてのディズニー

現在の50代未満の日本人であるならば、ディズニーからイメージするのは、先ずは東京ディズニーリゾート=TDR(東京ディズニーランド=TDLや東京ディズニーシー(TDS)等からなるリゾートエリア)だろう。1983年のTDL開園以来、日本人のディズニーに対する知識、いわばディズニー・リテラシーは上昇し続け、その結果、現在ではTDRは年間3000万人以上の訪問者があり、ディズニーに関する映画も『アナと雪の女王』の大ヒット(日本では他国以上にヒットした)に象徴されるように、絶大なる人気を誇っている。それゆえ、現在、ディズニーという文化は日本文化の一部として、われわれ日本人に大きな影響を及ぼし続けているといってよいだろう。

ディズニーランド化する空間

例えば「空間のディズニー化」はその典型と言える。社会学者A.ブライマンはディズニーランドが基調とするテーマパークという考え方がわれわれの日常生活にジワジワと浸透していくプロセスを指摘し、これをディズニーゼーションと読んでいる。これはイオンモールなどをイメージするとよくわかる。イオンモールはその名の通りモール=商店街をテーマとしたテーマパークだ。つまり「全国各地にあるショッピングのディズニーランド」。われわれがイオンモールに積極的に通いたくなるのは、そこに商品があると言うよりも、あのテーマパーク的な、つまりTDR的な魅力に引きつけられてこれを消費したいがため、と表現した方が当を得ているだろう。

だが、こういったディズニーの日本への深い影響、実はTDLの開園を嚆矢としていると言うわけではない。実は、それ以前、日本人はディズニーの洗練を受けている。それは僕のような50代半ばから60年代前半の人間が、その洗練を受けた該当者になるのだが。

今回はTDR以前、ディズニーが日本に及ぼした影響について考えてみたい。

テレビ・メディア普及とキラーコンテンツ

ここでディズニーから話をそらし、一旦、一見するとなんな関係もない事柄に話を振らせていただきたい。それは60年代の「野球」と「プロレス」についてなのだが……実はこれがテレビというメディアの普及を介してディズニーと大いに関係ありなのだ。これらは、60年代の日本人の精神性に大きな影響を与えているのだが、奇妙なところでディズニーはこれに絡んでいる。

60年代、わが国において急激な普及を見せたメディアは、言うまでもなくテレビだった。50年代の後半から普及しはじめたテレビは60年代半ばにはほぼ100%の普及となり、さらに60年代後半からはカラーテレビが普及しはじめ、70年代半ばまでにはやはりこちらもほぼ100%という普及を見せる。

メディアの普及においては必須の必要条件がある。それは普及する当該メディアが「キラーコンテンツ」を持っていることだ。かつて任天堂のドン・山内溥が指摘したように、人々はメディアが欲しくてそれを買い求めるのではなく、メディアが提供するコンテンツが欲しくてこれを求める。テレビゲームはその典型。これが世界的普及をみせたのは80年代半ばの任天堂が提供したファミリーコンピュータ、通称ファミコンによるのだけれど、この時期にはファミコン以外にもテレビゲームのハードはあった。たとえばセガがSG3000という、ややもすると性能自体はこちらの方が高いものが販売されていたが、ファミコンが覇権を握ったのは、要するにゲームセンターで人気を博していたゲームのドンキーコングと、後にそこに登場するキャラクター・マリオを主役としとしたゲーム、マリオ・ブラザース、スーパーマリオ・ブラザースといったキラーコンテンツ(=キラーアプリ)が人気を博したからに他ならなかった。

60年代、テレビ普及にあたってキラーコンテンツの役割を果たしたのは相撲、プロレス、そしてプロ野球だった。このうち、後者二つを積極的にコンテンツとして活用したのがメディアの巨人・正力松太郎率いる民放の雄、日本テレビだった。正力はキラーコンテンツ戦略としてこの二つのキラーコンテンツの中にさらにキラーコンテンツを含ませることで極端な単純化を図り、当時の日本人のテレビへの欲望をクッキリと浮かび上がらせることに成功する。

プロレスは日本テレビによる日本プロレスの中継で、キラーコンテンツによる単純化が図られていた。図式は「日本対アメリカ」。試合はそのほとんどが日本人と外人の対決、しかも実際のところはともかく、外人はアメリカ人であることが想定され、日本人=善玉、外人=悪玉というお約束の下で試合が展開されたのだ。日本を代表するレスラーは力道山。国技の相撲(実際はそうではないが)で関脇にまで登り詰めた日本の伝統を背負う男(実際は朝鮮人だったが)が、白人≒アメリカ人と一戦を交え、苦境に立たされて反則技に出た白人レスラーに堪忍袋の緒が切れた力道山が、最後に”伝家の宝刀・空手チョップ”をこれでもかと相手に打ち付け、最終的に勝ちを収めるというベタなパターンが当時の日本人たちから大喝采を浴びたのだ。日本人対アメリカ人を想定した試合のパターンは63年の力道山死後も弟子のジャイアント馬場やアントニオ猪木によって引き継がれていった(この時もジャイアント馬場がスターとしてキラーコンテンツの役割を果たしている)。

一方、プロ野球は12球団による構成だったが、正力はその内、自社が所有する巨人を徹底的にキラーコンテンツとしてクローズアップさせ、さらにそこに長嶋茂雄(六大学のスーパースター)と王貞治(甲子園の星)の2人をさらにクローズアップさせる、つまり、これまたキラーコンテンツとするというやり方でプロ野球人気を煽ったのだ。日本テレビは後楽園球場(現東京ドーム。厳密には場所がちょっとズレているが)での巨人戦の独占放映権を保有し、これによって巨人は圧倒的な人気の誇るようになる。プロ野球は国民的なスポーツとなり、しかもプロ野球ファンの九割が巨人ファンという偏った構造が出来上がった。長嶋茂雄の仇名は「ミスター」だが、これは要するに「ミスタープロ野球」を意味していた。よく知られるように、当時の子どもたちが好きなものが「巨人、大鵬、卵焼き」と呼ばれるほど巨人の人気は高かったのだ。


キラーコンテンツがコンテンツとなるためには

新たなメディアが出現し、そこで提供されるコンテンツがキラーコンテンツとなるためには、実は一つの条件が必要となる。あたりまえの話だが、そのコンテンツを受容する受け手=オーディエンスの精神性に訴えるものでなければならないということだ。プロレスとプロ野球は60年代、その役割を十分すぎるほど担っていたのである。

先ずプロレス。ご存知のようにプロレスはスポーツと言うよりはエンターテインメント、ショービジネスだ。プロレス興行にあたって力道山が考えたのは日本人が潜在的に抱えていたコンプレックスを拭うような演出だった。そのコンプレックスとは、ズバリ「敗戦国」「アメリカに負けた日本」「アメリカよりも劣る日本」という意識だ。力道山は前述したように日本対アメリカという図式を設定し、日本=善玉、アメリカ=悪玉という単純化を施し(実際、多くの外人レスラーが反則を演じて見せた)、これを空手チョップという「日本古来、伝統の」と思わせる技(実際、そんなわけはないのだが)でなぎ倒すことによって、負けた日本がアメリカにリベンジするシナリオを展開した(空手チョップなどはさながら神風特攻隊が功を奏したかのような存在に見えたのではなかろうか。試合の合間には番組のスポンサーだった三菱電機が自社の掃除機をリング上でかけるというパフォーマンスがあったが、この掃除機の名前が「風神」だった。これは、逆さに読めば神風だ)。いわば敗戦によって国民全体が背負った「負け犬根性」を補償したのだ。

一方、プロ野球。巨人軍は川上哲治監督の下、65年から73年まで9年間にわたり日本一の座を確保し続けた(この中心となったのが長島と王だ。長島はV10を逃した74年シーズンを最後に引退している)。そして、この期間はほぼ日本の高度経済成長と重なっている。すなわち巨人が勝ち続けることと高度経済成長は同時進行であり、日本人にとって巨人は、いわば高度経済成長を「正当化」するメディアのひとつとして捉えられていた。巨人を設定に作られたマンガ・アニメ『巨人の星』では、その主題歌は「思い込んだら試練の道を行くが男のど根性……巨人の星をつかむまで、血汗を流せ、涙を拭くな」と歌われているが、これはいうまでもなく栄光に向かって艱難辛苦を乗り越えていくことがスローガンとなっている。

そしてこの時期、高度経済成長のスローガンは「豊かな生活」へ向かって刻苦勉励することだった。今は中の下の生活、しかしここで我慢して努力すれば、やがて豊かな生活が待っているというわけだ。そして、その先の「豊かな生活」として描かれていたのがアメリカの消費生活だった。それゆえ、このスローガンは言い換えれば「アメリカに追いつけ、追い越せ」に他ならなかった。

そして、ここでディズニーがこういったテレビメディアが煽る戦後復興意識と高度経済成長神話にとどめを刺す。最終的に目ざす「豊かな生活=アメリカ消費生活」の実際を、当時の日本人はどうやってみることが出来たのか?それは言うまでもなく、やはりテレビだった。60年代はまだまだテレビコンテンツが不足した時代。テレビ局の予算も70年代以降のように多くはなく、技術的にも遅れている。そこで、アメリカのテレビコンテンツが輸入されて放送された。『パパは何でも知っている』『名犬ラッシー』『奥様は魔女』といった一連のテレビドラマがそれだったのだが、ここで映されていたライフスタイルがアメリカの都市郊外にある、庭、芝刈り機、自動車、リビングルーム、オーブン、エアコン、そしてテレビなどからなる典型的な白人の消費生活場面だったのだ。これこそが最終目的地だった。

高度経済成長神話を加速させる文化装置としてのディズニーランド

ディズニーもこういった輸入物の番組の一翼を担っていた。日本では1958年より『ディズニーランド』という名前の番組がⅠ時間にわたって放送された。これももちろんアメリカのテレビ局ABCの番組(その後、番組はNBCへと移り、タイトルも『Walt Disney's Wonderful World of Color』と変更された)を輸入したものだったのだが、これは他の番組以上にアメリカの消費生活を徹底的に映し出した。ディズニーのテクノロジー重視の姿勢が「最先端の国アメリカ」を、冒頭に登場するウォルトの書斎(実際には本物をそっくり真似たセット)やディズニーランドの映像が「究極の消費文化」と映ったのだ。そして、それは「どんなに頑張っても絶対に到達不可能の究極のアメリカ=消費生活」に他ならなかった。なんのことはない、ややもすればこれを見ている日本人は裸電球一発の電灯、ちゃぶ台の上に一汁一菜といった食事だったのだから。

こういったアメリカコンプレックス、高度経済成長神話、そして到達すべきアメリカ的生活が、なんと当時まったく同じ時間で繰り広げられていた。日本テレビ金曜夜八時がその時間帯だ。なんと『プロレス』と『ディズニーランド』が隔週で交互に放送されていたのだ。つまり力道山→ディズニー→力道山→ディズニー。言い換えれば「コンプレックスの代償的克服→再び奈落の底への突き落とし」というマッチポンプが繰り広げられた。しかも、これは隔週といっても、時には巨人戦がこの時間帯に入り込んでくる。『ディズニーランド』は1968年からは時間帯が日曜夜八時に移行し毎週放送となるが、これも夏場にはしばしば巨人戦によって中断させられた。つまりコンプレックスの代償的克服→再び奈落への突き落とし→これを克服するための高度経済成長神話に対するアイデンティファイといった具合に、この時間帯は、戦後日本60年代の日本人の精神性をマッチポンプ的にエコノミック・アニマルへとかき立てる文化装置として機能したのだった。