僕は現在50代前半。三十年前の大学生時代からバックパッカーとして海外をウロウロすることを趣味としてきた。バックパッカーなので安宿街(バンコク・カオサン、コルカタ・サダルストリート、カトマンズ・タメル、ホーチミン・データムなど)やチープなリゾート(タイ・コサムイ、コパンガン、バリ、フィリピン・ボラカイなど)などがその宿泊場所になるのだけれど、こういったところには必ずと言っていいほど旅行者向けのレストランやバーがある。提供されるのはサンドイッチ、ハンバーガー、ピザ、パスタと言ったいわゆる「インターナショナル・フード」。これにちょっとだが地元の料理メニューが並ぶ(ただしツーリスト向けに妙ちくりんな味にアレンジしたもの)。この状態はずーっと変わらない。

まあ、あたりまえと言えばあたりまえだが……ところがあたりまえではない変わらないものがある。

ビートルズ、クラプトン、ボブ・マリー、イーグルスの繰り返し

82年、インドを訪れたときのこと。リゾート(プリー)のレストランで流れていたのはエリック・クラプトンの「コカイン」だった(その横で旅行者がガンジャをやっていた)。
84年、アルジェリアのサハラ砂漠のとあるバスターミナルで耳にした音楽はマイケル・ジャクソンの「ビート・イット」そしてビートルズの「ウイズ・イン・ウイズアウト・ユー」だった。
86年、タイのサムイ島で流れていたのはボブ・マリーの「アイ・ショット・ザ・シェリフ」、そしてポリスの「見つめていたい」だった。
その他、こういったエリアでよく流れていたのはカーペンターズ、イーグルス、アバといったところ。
では90年代、これらの地域ではどんな音楽が流れていたのだろう。95年、タイのコタオで耳にしたのはやはりボブ・マリー、そしてクラプトンだった。間違いなく流れるのは「アイ・ショット・ザ・シェリフ」そして「コカイン」だ。加えて「ホテル・カリフォルニア」
0年代はどうだろう。バリやカオサンで流れていた曲は、やはりクラプトン、ビートルズ、ボブ・マリー、イーグルスだった。

つまり、全く変わっていないのだ。80年代以降の音楽はほとんど流れていない。

カウンターカルチャーとしてのロックの終わり

70年代前半くらいまでロックはある意味、商業主義に抗うことをウリにしていた。たとえば69年に開催されたウッドストックのライブは当時の若者世代による商業主義を排した、徹底的なカウンターカルチャーに彩られた祭典だったと評価されている(ただし、実際にはこれはイメージであってここに商業主義が全く関与していないというのは幻想に過ぎない)。そして最後に商業主義とバトルを繰り広げたのが70年代後半に登場したセックス・ピストルズで、それ以降、ロックは商業主義、つまりショー・ビジネスに完全に取り込まれていったとされている(94年に開催されたウッドストックⅡは、完全にショウビジネスの祭典だった。で、これに最初のウッドストックに出演した連中も登場した)。

ただし、こういったロックの教科書的な見解も、実のところ幻想だ。たとえばカウンター・カルチャーの最後っ屁と言われた前述のセックス・ピストルズは背後にマルコム・マクラーレン、クリス・トーマスと言った超有名なプロデューサーたちが仕掛けた「なーんちゃっって反体制」だった。マクラーレンはパンクファッションを世界的に認知させ、クリス・トーマスは70年代ビッグ・ネームとプログレッシブロックで暗礁に乗り上げていたシーンに「パンク」という新しい流れ=ショウビズ・ラインを作り上げた。つまり、ロックはセックス・ピストルズという「反体制」と「ビジネスの」両面を備えるユニットによって完全に商業主義に取り込まれたのだ。

産業ロック=文化産業としてのミュージック

代わって登場したのが、いわゆる「産業ロック」と呼ばれる徹底的にビジネスを突き詰めたジャンルだった。膨大な資本を投入し、完全に規格化されたものを大々的に売り出すというやり方で、その最たる存在がKing of Popことマイケル・ジャクソンだった。ジャクソン・ファイブの末っ子としてそれまでも人気を博していたマイケルだったが、これにクインシー・ジョーンズというジャズ界の超大物プロデューサーがつき、さらにMTVの開始に合わせてビデオクリップが作成されたのだが、これこそが「見る音楽」の元祖となった「スリラー」だった。製作担当は映画「ブルース・ブラザース」で知られるジョン・ランディス(その後のビデオクリップ「バッド」はマーチン・スコセッシが担当している)。ちなみに本作で、マイケルはロック界の大御所ポール・マッカートニーと「ガール・イズ・マイン」をデュエットするというオマケまでついている。何から何までチョー豪華だったわけだ。

そして、この産業ロックはシステム化していく。女性アーチストならマドンナあたりを嚆矢とするが、こういった文化産業=消費物としてのロックはその後のロックシーンの基本となっていくのだ。このシステム最先端がレディ・ガガであることは言うまでもない。

ところが、こういった文化産業=産業ロックはスタンダードとしては定着することがなかった。その傍証が、実は今回提示したリゾート先に流れる音楽が70年代で止まっていることだろう。いわば、「尖ったとされる」ロックは70年代半ばくらいまでには終わってしまったのだ。そういえば21世紀に入ってからというもの安宿街やリゾートでマイケル・ジャクソンを耳にすることは、あまりなくなった(マドンナも)。

「尖ったロック」が、いまや究極の「産業ロック」になった

こういった現象は、現代の音楽シーンにメヴィウスの輪のような奇妙なねじれを発生させている。前述の「いつまで経ってもクラプトン」というのがそれだ。今や70年代までのイコン=ビッグネームはいつまでずっとイコンのままなのだ。何度も引退を表明しては日本にやってくるクラプトン。ライブチケットを売り出すたびにあっという間にチケットが売りきれる。ポール・マッカートニーに至っては2万円近くするチケットが完売する。今年は病気で講演中止になってしまったが、追加公演として武道館を加えたときには10万円の席が用意され、これが真っ先に売れ切れになるという状態だった。そう、70年代のイコン立ちには、昔みたいに、落ちぶれると言うことが永遠にないのだ。まるでゾンビのように何度でも生き返る(その一方で80年代以降のビッグ・ネームはどんどん落ちぶれていく(そういえば、M.C.ハマ―って、どうしているんだろう?)。

つまり、文化産業としての産業ロックの成立によって、かえってこの「70年代尖っていたといわれる連中」たちが、21世紀になってもひたすら莫大な売り上げを続けるという「メタ的な産業ロックの旗手」としてビックビジネスを成立させることに、結果としてなってしまったのだ。言い換えれば70年代半ばまでのロックはもはやクラッシック=古典となり「学ぶもの」となった。つまり「権威」。

その証拠をいくつかあげてみよう。こういった70年代ロックシーンに深く感銘を受け、一生懸命耳を傾けるティーンエイジャーがいま、結構いる。僕の教え子の中には「マイ・フェバリート・ミュージシャンは、やっぱりシド・バレット(ピンク・フロイドの初期メンバー、Mr.Crazy Diamond!)ですね」なんて、したり顔で答える者すらいる始末(この学生十代です)。これは、それが良いとか悪いとかという判断よりも、親がライブラリーを持っていて自然と馴染んでしまったとか、お気に入りのJ-POPミュージシャンが尊敬しているとかという環境を媒介にして若者たちがこの世界に足を踏み入れていった必然的結果だ。つまり、ロックはもはや円環している。大槻ケンジはテレビ番組「NHKアーカイブ」に出演した際、77年に放送されたキッスの武道館ライブ(「ヤング・ミュージック・ショー」)を振り返りながら「キッスは歌舞伎のように世襲制にすべきだ」とまで言い切った。つまり、これは「二代目、三代目のジーン・シモンズを用意しろ」ということだ。また皮肉屋のドナルド・フェイゲン(スティーリー・ダン)は、自らが2013年に繰り広げたライブ・ツアーを自著『ヒップの極意』(DU BOOKS)の中で振り返り、この活動を自虐的に「老人介護」と表現した。つまり、自分は後ろ向きの連中のためにやっているに過ぎない(自分も含めて)というわけだ。逆に言えば、これはどれだけ歳をとっても70年代ビッグネームは活動をやめさせてもらうことが出来ないということでもある。いやジミヘンやボブ・マリーのように死んでも生きたままみたいなイコンすら存在するのだけれど。

ジジイが新しいロックの芽を摘み取っている?

誤解してもらいたくないのは、これによってロックシーンが死滅したと僕が言おうとしているのではないことだ。こういった産業資本に支えられたゾンビなビッグネームの背後で、新しい世代が音楽シーンを切り開こうとしているという事実は、もちろんある。だが、これはビジネスシーンには馴染まない。そしてビッグネームたちが市場を塞いでいるがために、そして文化産業が音楽市場を支配しているがために、ここに入り込む余地を与えられないという構造化が起きている。だから、こういったミュージシャンたちは目立たないで、一部のマニアだけの間でロックがやりとりされている。その必然的結果が、少なくとも安宿街やリゾートという「メジャーな空間」ではクラプトンやビートルズ、ボブ・マリー、イーグルスばかりが延々と流されるということになっているわけで……。

今年8月、僕は例によって世界最大の安宿街、タイ・バンコク・カオサン地区にいた。カオサン通りを中心とするこの街は、その発展によってエリアをとっくの昔にはみ出し、拡大化された一大カオサン・エリアを構成している。僕が宿泊していたのは、カオサン通りの北を並行して走るランブトリ通りにあるビエンタイ・ホテル。かつて静かだったこの通りもレストラン、中級ホテル、そしてバーが林立するようになった。つまりカオサン化が進んでいた。もはや下の階の部屋ではライブの音がうるさくて夜眠ることすら出来ない。

ある日のこと、ホテルの前のバーでは例によってライブバンドの演奏が始まっていたのだが……やっていたのは……やはり定番の「コカイン」だった。するとすぐさま、今度はその二軒先のバーでもライブが……始まった演奏はここも「コカイン」だった。つまり「コカインの時間差攻撃?輪唱?」。やれやれと思いながら道を東に向かった僕。すると50メートル先のバーでもライブの演奏が。ギターをかき鳴らしながら、あまり上手くもないミュージシャンが歌っていたのは……「ホテル・カリフォルニア」だった。

止まってる!(止められている?)