「ケータイはコミュニケーションを希薄にするのでほどほどに」という嘘?をついた学生

これはもう四年も前の、まだスマホが普及する以前のお話し。
ある日、僕は講義で学生たちに課題を出した。題目は、

「ケータイとコミュニケーションの関係について」

当時、彼らにとってケータイは必需品(ちなみに今ではスマホが必需品で、ケータイは絶滅危惧種)。さぞかしいろんな回答が寄せられると思ったのだが……実際は、ほとんど異口同音だった。

レポートの趨勢を占めた内容をまとめるとだいたい以下のようになる。

「ケータイはいつでもいろんな人と連絡が取れるので便利でよいと思います。しかし、メール、通話などケータイばかり使っていると生身のコミュニケーションが希薄になってしまい、人間関係がおかしくなってしまう可能性があります。なので、使用にあたっては直接的な人間関係を重視し、ケータイ中心のコミュニケーションにならないように、あまり使わないのがよいと思います。」

この判で押したようなベタな回答に、僕は驚きを隠せなかった。
で、その後、授業で、この手のレポートを返してきた学生1人を指名し、内容についてツッコミを入れてみた(ただし、自分のゼミ生でお互いに気心の知れた、シャレのわかる学生をちゃんと選んではいる。ハラスメントになっちゃマズイので)。

僕:「君は、ケータイを使用することの危険性をレポートの中で訴えたよね」
学生:「ハイ」
僕:「本当にそう思う?」
学生:「えぇ、まあ」
僕:「じゃあ、こちらとしては一つ提案したいことがある。今、君はケータイを持っているはずだよね」
学生:「ええ、持ってます」
僕:「それ、危険な道具なんじゃないの」
学生:「……」
僕:「生身のコミュニケーションを奪ってしまうアブナイ装置なんでしょ?だったら、それを今すぐ窓から投げて捨てるべきなんじゃないのかな?」
学生:「いや~っ!それは……できません……」
僕:「だって、危険なんでしょ?是非やるべきなんじゃないの。なんで?」
学生:「だって、これがないとやっていけませんから」

そこで、僕はツッコんだ。
僕:「そうでしょ?ないとやっていけないもんね!っていうことは、つまり、それって、大切なものだよね?じゃあ、レポートではケータイのすばらしさを書くべきなんじゃないの。そんなにお世話になっているケータイ君にちょっと失礼なんじゃないのかな?」

すると、彼は次のように回答してくれた。
学生:「まあ、そうですよね。でも、授業でレポートが課題に出たときには、その一般的な書き方があって、フツーに言われているようなケータイの害みたいなものを書くのが筋だと思ったものですから」

なるほど。これは、いわゆる「べき論」というものが前提されていて、それに合わせた回答をしなければいけないと考えたわけだ。

もちろん、そんなことは全く要求していない。だいいち、それじゃあ学問にならない(ちなみにケータイによるコミュニケーションの希薄化の議論については、90年代末に社会学の分野では調査が行われており、あらかた決着がついている。ケータイ使用とコミュニケーション希薄化の相関関係は全く検証されなかった。むしろ逆にケータイの使用頻度は直接的なコミュニケーションの頻度を反映する傾向があることが判明している。つまり使う者ほどリアルなコミュニケーションも活発。どちらが独立変数かはわからない)。

そこで、大学のレポートでは、社会一般でいわれているような「べき論」に依拠する必要など全くなく、自分が分析したり、考えたりしたことを述べればよいこと。また、それが、たとえ結果として「べき論」が提示するような「正論」とは真っ向から対立するものであっても構わないことを説明した。

すると、件の学生、こう答えた。
「あっ、いいんですか。なーんだ。わかりました」

ということで、話は終わりになったのだけれど。でも、なんで自分の意見を言わずに、こんな「べき論」を持ちだしたのだろう?

入試の面接は「べき論」の嵐

その時、僕がふと思い出したのが、大学入試試験での面接だった。もちろん、これは僕が受けたときのことではなく(僕の時代は面接なんかほとんどなかった)、僕が面接官となって受験生の相手をしたときのものをさすのだけれど。

受験生は、やはり、概ね紋切り型の回答をするのが常なのだ。推薦入試などの面接では、事前に調書的なものがこちらに渡されている。その内容は本人の志望動機、高校教員の所見と推薦文、そして高校時代の活動と成績だ。で、受験生は面接時、何をこちらが訊ねても、原則、ここに書いてある内容しか答えないのだ。たとえ、こちらが訊ねている話とズレていても、無理矢理そちらの話に引きつけていく。そこで、これらの「調書」には記載されていないことを訊ねてみると、しどろもどろになった挙げ句、今度は紋切り型の「べき論」を持ちだしてくるというのがパターンだ。

推薦入試でディベート的な集団面接(受験生同士の討論形式)をやったときも同じだった。やはり、これは仕込んできたネタの展開となる(この時は、事前に課題が出ているので、高校教員と一緒に仕込んだネタがひたすら展開される)。で、この時も、残念ながら「べき論」が展開されてしまった。こちらとしては、与えられた課題について、これをどう分析し、どう自分の考えに反映させながら答え、また集団面接なら、どう互いの意見を調整しながら議論を組み立てていくのかを見たいのだが、すべて「仕込み」。そしてそこに書かれている「べき論」が邪魔をする。あるときの集団面接では、仕込んだネタ(これまた高校教員と考えたのがまるわかりなのだが)がどれもほぼ同じで議論にならず、シャンシャンで話が終わってしまったことも。多分、指導教員が同じ資料にあたったのだろう(ちなみに、これだと「出来レース」なので、ネタが切れたら後が続かなかった。あたりまえか)。

面接に穴埋め問題と同じ認識で臨む

こうなってしまうのは、まず高校側での教育が、こういった社会問題を考えさせる際に「考えさせる」と言うよりも「正しい答え」みたいなものを提示し、それに従わせてしまったからではないだろうか?(これは個人的には間違いないと踏んでいる)。だいたい、受験勉強というのは、だいたいそういうもの。「読んで、覚えて、暗記して、それを何も考えることなく吐き出す」(偏差値ゲットに必要なのは、先ず「思考停止」なのだ。ヘタに想像力を駆使しようものなら高得点は望めない)。この図式がこういった面接にも反映される。つまり面接にも正答、つまり「解答」があり、それをどれだけ忠実に再現するかがポイントであると勘違いする(で、高校教員側も、残念ながらそういった指導をしている)。これが弊害となって、自分の頭で考えることをしない(出来ないわけではない)。というか、勉強の場には必ず「解答」があり、それに答えるものと勘違いしてしまう。その結果の一例が、僕のケータイに関する課題の回答だったのだ。

「解答」するのではなく「回答」する力が必要

これは問題だ。僕が要求するもの、というか大学が要求するもの(そして社会が要求するもの)は「解答」ではなく「回答」。つまり「処理」したのち「考え」「表現する」力だ。しかし、与えられた課題との距離をとる、つまり課題に関する知識を収集しながらもこれを相対化し、最終的に自らの意見として表明することが出来ない。ちなみに勘違いしてもらっては困るので、もう少し正確に表現すれば、かれらは「回答できない」つまり「意見を表明することが能力がない」のではない。批判能力がないわけでは決してないのだ。そうではなくて、こういった高校までの暗記式教育のおかげで「自分の意見を表明してはいけない」と思い込んでいるのだ。そして自分の意見を持ってはいても、それを表明する手段=スキルを教えられていないのだ。

結局、こういった「自意識過剰」とは正反対の「自意識過少」の若者に知識を提供し、科学的手続きを教え、物事を相対化させる作業というツケを大学側が払わされることになるのだが……実は、当の大学側も得てして放ったらかしであったりする。そうなると「モノを考える」訓練を受けることもなく大学四年間は過ぎ去り、こういったスキルは大学後の社会人として入っていった環境に委ねられることになる(たとえば、その任務を会社が背負う)……いや、何も考えず「社蓄」になっているという可能性も十分考えられるのだけれど(で、それが日本社会にはとりあえず適合的だったりして。でも、もしこの憶測が正しかったとしたら、これからの日本経済はヤバイってことになるんだろう……)。

僕は、僕なりに「寝た子を起こす」作業に取り組んでいるつもりだが、こういった教育界の「考えさせない」「考える技術を与えない」がゆえに「自意識過少」の若者を再生産させているという現状は、根が深い問題と考えている。