アカハラ、セクハラ、パワハラ、キャンハラとよばれる一連のハラスメントは、一般に「他者に対する発言・行動等が本人の意図には関係なく、相手を不快にさせたり、尊厳を傷つけたり、不利益を与えたり、脅威を与えること」を指している。ようするに「相手から精神的苦痛を受けたら、それはハラスメント」ということになる。

しかし、この定義、ちょっと間違えれば、ものすごく恐ろしく、危ないものではないだろうか。というのも、これは文脈が前提されない定義であって、それゆえ、最終的にこの定義を利用する側に絶対的な権力が委ねられてしまうという暴力性を備えているからだ。

大学のハラスメント問題で、大学はたいてい泣いている

僕は大学教員だが、この大学というところでは頻繁にハラスメント(いわゆるアカハラだが、他のものも含めて)が発生している(幸運なことに、僕はまだ訴えられたことはない(笑)。もちろん、やっているつもりはないけれど。でも、ハラスメントは本人の自覚があるなしに関わらないのでわからない)。で、一般的に大学にはこれに対応するハラスメント委員会なるものが存在するのだが、これはある意味「もみ消し会議」とルビを振ってもよいような状況に置かれてしまうことがある。もちろん、大学がインチキ、つまり本当にもみ消しをやっているという意味ではない(やっているところもあるかもしれないが)。ハラスメントの成立状況がきわめてあやしいゆえに、それが結局もみ消しみたいな状況にならざるを得ないのだ。

誤解がないように、もう少しかみ砕いて説明しよう。ハラスメントの訴えがあった場合、大学としては、もちろん、これを取り上げないわけにはいかない。で、それらは大きく「明らかにハラスメントのもの」「グレーゾーンのもの」「単なる思い込みのもの」というかたちで分類される。真っ黒なものはもちろん適切に処理されなければならない。問題なのは残りの二つだ。グレーゾーンはややこしいので慎重を要するが、単なる思い込みは退ければいいというふうに一般的には考えたくなるのだけれど、実はそうはならない。思い込みのものでも大学側は「まあまあ」というかたちで、折り合いを付けようとしてしまう。なぜって?そっちの方が、お手軽だからだ。つまり、私たちはハラスメントなんかやっていませんと突っぱねると、かえって具合が悪くなる。訴えられたり、メディアに公表されてしまったりする恐れがあるのだ。こうなると、その事実がどうであれ、おおっぴらにされてイメージを損なうより、適当に手を打って表沙汰にならない方が費用対効果が高いと考え、その結果、ハラスメントでもない事態に対して穏便に済ますべく、示談に持ち込んでしまったりするのである。

さて、こういった大学の弱腰は、上記のようなハラスメントの定義が何の文脈=コンテクストもなく用いられるがゆえに発生する必然的結果ともいえるのではなかろうか。

ハラスメントの定義の解釈は、結局弱者の文脈に委ねられてしまう

上記の定義は全ての決定権がハラスメントを受けたとされる側に委ねられている。この「ハラスメントが実際にあったかどうか」ではなく「私がハラスメントを受けたと感じた」とするところに最終的な審級が与えられている。少し意地悪な表現をすればクレーマー的、あるいはやたらに対人関係に敏感、自意識が極端に過剰な人間が訴えたとしても、それは「弱者の絶対性」によって担保されるがゆえに正当性が生じてしまうのだ。この時、被害者とされる側は「弱者」という記号によって「絶対強者」へと転じることが可能になる。

メディアによる弱者の強者化
そして、この弱者の絶対性をバックアップするのが、実は、前述したように、こういったことを暴き立てようとするマスメディアに他ならない。マスメディアは「弱者の側に立ち強者を叩く」という立ち位置を保持する。そして弱者=一般大衆が強者=権威者を叩くという図式はジャーナリズム的にもふさわしい。そこで、実際に何が起こっているかどうかはさておいて、弱者の側に立ち、これを絶対化し強者を攻撃するのである。さきほどのアカハラなら学生側が弱者=大衆であり、大学側が強者=権威というステレオタイプだ。で、この図式はジャーナリズム的に広く人口に膾炙しているので、そこそこ支持が得られる(視聴率や発行部数というかたちで、それが現れるとされる)。こうなると、事実関係よりも「ハラスメントが起きている」というメディアイベントの方が持ち上げられ、その背後で実際にそこで何が起きているかは完全に無視されるのである(メディアにとっては、こっちの方が費用対効果が高い)。

これは、もちろん法廷などに持ち込めば、最終的にシロ、クロがはっきりするのだが、それまでに強者側が被る損失は相当なものになる。たとえシロであることが明白になったとしても、その間の大学のダメージはハンパではないのだ(大学名はメディアによって告知されているので相当なイメージダウンになる。弱者の名が世間に知れ渡ることは、もちろん、ない)。だから、早めに負けておいた方がいい、つまり裁判などに持ち込むよりも、相手の意のままにしておく方が傷つかないですむと、大学側は考えるのだ。その結果、弱者は、いっそう強者としての権力を獲得する。権利意識はどんどん肥大化していくのである。

ハラスメント定義のガイドラインを設定すべき

間違えないでほしい。僕はハラスメントをやっている側をかばうつもりは毛頭無いし、この定義それ自体を全面否定するつもりもない。またハラスメントは、やっている側がしばしば自覚がないことも認めるにやぶさかではない(だからハラスメントは怖いのだ)。ただし、この定義に文脈=コンテクストをつけて解釈を行わなければならないということだけは訴えたいのだ。なぜって?この図式、つまり最終的な判断決定権の弱者への全面付与とメディアによる援護射撃は、本人がハラスメントをやっている自覚がないだけではなく、実際第三者から判断しても、どう見てもハラスメントとは思えないものまで、このカテゴリーに入れられるには十分になってしまうからだ。つまり、完全な濡れ衣が、いちゃもんによってクロとされてしまう可能性を、この定義は有している。まさに「魔女裁判」。

もし、むやみにこの言葉を振り回し訴える被害者がいたら、全く自覚がなくシロを確信している訴えられた側もまた、最終手段として弱者になって応酬するしかないだろう。つまり「私はやってもいないハラスメントをやったと言って訴えられ精神的な苦痛を受けた。これは容認できない。逆にハラスメントとして私を訴えた人間から自分は精神的苦痛を受けたので、これをハラスメントとして訴える」と。しかし、これじゃあ、堂々巡りになってしまうだけだけど。

やはり、いちばんまずいのはこの定義の運用法だろう。だから「ただし、ハラスメントを受けたと訴える人間の主張が、正当性があるかどうかについては第三者的視点からの慎重な判断を必要とする」といった留保を付けなければならないのは当然のことだろう(こんなことあたりまえのことなんだが、しばしばあたりまえになっていない)。また、闇雲にメディアに公表するというのは、ようするに圧力(脅迫?)ともなりかねない(メディアが慎重ならよいのだが、残念ながらそうはなっていない。こういったネタは、すぐに飛びつく傾向もある)。だから、これも原則、なし、あるいは慎重に行うべきなのだ(「慎重」とは、そうやって報道した側がその報道について全ての責任を持つことを引き受けて事に及ぶこと。で、これをやると費用対効果が下がるので、得てしてメディアはやらない。つまり「いいっぱなし」で、都合が悪くなると逃げる)。

「相手から精神的苦痛を受けたらハラスメント」という定義を巡る現状での運用法の暴力性。これは、ようするに「思考停止」、養老孟司風に表現すれば「バカの壁」にぶつかっている状態なのだ。