タレント・ざわちんによる顔真似がスゴイ!元AKB48の板野友美の真似から火がついたらしいが(そもそも本人の顔が「ともちん」にソックリ。だから「ざわちん」なんだろうけど)、その後AKB48の様々なメンバー(大島優子、前田敦子、篠田麻里子など)の他、滝川クリステル、きゃりーぱみゅぱみゅ、ローラ、沢尻エリカ、倖田來未、浜崎あゆみなどなど次々と女性タレントの顔真似を展開(ちなみに、そのほとんどは鼻から上だけで口元はマスクで覆われている)。さらに物真似は嵐、SMAP、羽生結弦などの男性にまで及び、挙げ句の果てにはテリー伊藤、松本人志といったオッサンまで演じてみせる。やっていることはメイクだけなのだが(演出もあるが)、これが実に精密でよく似ていて、見ている側を唸らせる(コンピュータでレタッチしたのでは?と疑われるほどの精度)。このざわちんの顔真似、実は物真似のジャンルとして新しいだけではなく、物真似に対する僕らのモノの見方そのものを根底から覆す新しさも備えている。つまり、メディア論的に、きわめて面白い。いや、それだけではない。物真似のターニングポイントを示していると同時に、僕らにとっての「リアルとは何か?」を根本的に問いかける、言い換えれば現代におけるリアリティの変容を考えさせすらするのだ。今回は物真似というジャンルについて言及し、その中でざわちんの持っている物真似としての、そして社会のリアリティの映し鏡としてのリアリティについて考えてみたい。

ちなみに、物真似は人間の「学習」、そして「遊び」というメカニズムにとって根源的なものだ(社会学者R.カイヨワは遊びの四大要素の一つとしてミミクリ「=物真似」を挙げている)。ただし、ここで題材として扱いたいのは、そういった包括的な物真似ではなく、演芸、とりわけテレビ出現以降のビジュアルにこだわるマスメディアを媒介とした物真似だ。これを一般的な物真似と区別して、カタカナで「モノマネ」と表記しておく。

60~70年代、そっくりショーの時代は、どれだけオリジナルに近づくかがポイントだった

モノマネがテレビメディアのコンテンツとして大々的に取り上げたのは、おそらく1964年から70年代後半まで断続的(タイトルが微妙に変えられた)に続けられた「そっくりショー」(読売テレビ)を嚆矢とするのではなかろうか。視聴者参加型の番組で、有名人(当時は「スター」と呼ばれていた)のそっくりさんの素人、つまりコピーが登場し、これがスター、つまりオリジナルにいかに似ているかが競われた。僕の記憶では、歌や演技が似ているというよりも、やはり顔立ちの類似度が評価のポイントとなっていた。まさにテレビ時代のビジュアルを重視したコンテンツだったわけだ。この時点でオリジナルには絶対的価値、絶対的優位、つまり理念系としての位置づけがあり、それにコピーがどこまで近づけるかがポイントになっていた。

80年代、コロッケはオリジナルとコピーの価値を逆転させた

こういった価値におけるオリジナル>コピーの図式を破壊したモノマネタレントがコロッケだった。コロッケはフジテレビの番組『ものまね王座決定戦』で活躍し、「ものまね四天王」の1人と呼ばれる地位を獲得する。コロッケは美川憲一、ちあきなおみ、田原俊彦、岩崎宏美など、実にさまざまなタレントのモノマネを披露したのだが、その芸風はこれまでのモノマネとは質的に異なっていた。というのも、実は全然似てなかったのだ。誤解を避けるためにもう少し厳密に表現すると、コロッケはモノマネ対象となるタレントの特徴的な部分のみをデフォルメし、一方でその他の部分をバッサリと省略して別のキャラクターに仕上げてしまうというスタイルだったのだ。美川憲一はオカマ、ちあきなおみは何かに取り憑かれた女性、田原俊彦はちょっとオツムの足りない人間、岩崎宏美は歌う途中で突然発狂するといった具合だった。つまり、コロッケが演じて見せたモノマネはオリジナルを素材としつつも、それを忠実にコピーするのではなく、お笑いのネタ=メディアとして利用し、これをひとひねりすることで成立するモノマネだったのだ。実際、その時点(80年代)では、美川憲一のことを誰もオカマとは思っていないし、もちろんちあきが霊媒師?だとも思っていない。

だが、ここで面白いことが起きた。実はコロッケが取り上げた時点で美川とちあきは芸能界からほぼ干された状態にあった。ところが、この2人をKINCHOがCMに起用したのだ。地方のアーケード街を、ちあき扮する主婦が首を振り身体を揺すりながら、何かに取り憑かれたように「臭わないのがタンスにゴン」と連呼する。すると後ろからママチャリに乗った美川がやってきて、オネエ言葉でちあきに向かい「もっとはじっこ歩きなさいよ」と警告する。コロッケのマネをヒントにしていることは明らかだった。

ここで美川とちあきが演じているのは、かつてあった2人のイメージではなく、芸能界から消え去ったあとコロッケがネタとして取り上げ、ひとひねりした別人格としての新しい2人のイメージだ(そして、この後、美川憲一は「オカマキャラ」として復活し、現在もそのイメージを維持することで芸能界に生きながらえている)。ということは、ここでは美川・ちあき=オリジナル、コロッケ=コピーという図式が崩壊し、コロッケのコピーがオリジナル=メタ・オリジナルとなり、そのメタ・オリジナルをオリジナルだった2人がコピー=メタ・コピーするという図式が出来上がっている。つまりコピーとオリジナルの逆転(オリジナル<コピー)。さらにコピーの自立。う~ん、実に80年代的、J.ボードリヤール的なシミュラークルな話ではあった。

コロッケの構築したこういったコピーの自立、コピーによるオリジナルの凌駕、オリジナルのネタ化は、その後のモノマネ、そしてテレビ芸能ネタの定番となっていく。「俺たちひょうきん族」「とんねるず」「SMAP×SMAP」などでは、こういった「芸能人ひとひねりパロディネタ」があたりまえの出し物として定着していくのである。

2010年代、ざわちんはオリジナルを否定する!

さて、そして2010年代、ざわちんの登場である。ざわちんの技法を表現するメタファーとしてはアート技法のスーパー・リアリズムがピッタリだ。リチャード・エステス、チャック・クロース、ロバート・ベクトルといったアーティストたちが60~70年代にかけて提唱した絵画手法で、別名フォト・リアリズムともよばれるように、写真そっくりに描く手法だ(サンプルはこちらを参照http://matome.naver.jp/odai/2135299216508206701)。ただし「写真よりももっと写真らしく」というのがポイントで、その多くはシャープネスとコントラストが強調されたものになっている。彼らがこの技法=運動によって志向したことは多岐にわたるが、そのひとつが写真のリアリズムの否定だ。つまり、技法においてその写真的性質を徹底的に強調することによって、逆に写真の備えている無機質な感触、その不自然な色彩を浮き彫りにすること。つまり、写真をもっと写真らしく描いてしまうことで写真がコピーでしかないことを白日の下に晒してしまおうとするのだ。

ざわちんのやっていることは、まさにこれに該当する。ざわちんの顔真似=鼻から上の模写はハンパではない。病的なまでにそっくりだ。これはモノマネと言うより、もはやアートといった方が適切なほど。彼女の顔真似写真をご覧いただければお解りになると思うが(サンプルはこちらを参照http://matome.naver.jp/odai/2139644241084128601?&page=1)、これを見た人間のほとんどは「わーっ、よく似ている」というよりも、まず「スゴイ!」と驚嘆する。それほどまでにそっくりなのだ。ある意味、本物より本物をもっと強調していて本物らしく、本物がヘタするとコピーにすら見えてくる。

そして、この「本物よりももっと本物らしいコピー」が、ざわちんのようなアーティスト的、そしてアカデミック、アクロバティック的な技術を持っている人間の手によって手がけられたとき、われわれの中に恐ろしい認識の逆転が起こる。まず、われわれは「ひょっとして、ざわちんこそがオリジナルではないのか?」という錯覚にとらわれる。もちろんそうでないことは、驚嘆の後、冷静になったときにフィードバックされてくるのだけれど、その次に揺り戻しとしてやってくるのは「そうか、徹底的に顔を作れば、ああいったタレントの顔になれるのか」という認識だ。つまり、ざわちんは徹底的にコピーすることでオリジナルが作れることを示してしまった。

と、いうことは……この認識は、そもそもオリジナル自体が「作成されたコピー」ということを逆照射的にわれわれに明らかにしてしまうということでもある。

「あの連中、整形手術したり、メイクで顔を作っているんだ!」

ざわちんの顔真似は、スーパーリアリズムが写真のリアリズムを否定してしまうように、オリジナルのタレントたちのリアリズム、つまりオリジナリティの虚構性を暴いてしまう。そう「あんたたち、つくってるんでしょ」ということ。

さて、あらためて整理しよう。モノマネは60年代オリジナル>コピーというかたちではじまった。それが80年代、コロッケによってオリジナル<コピー、あるいはコピーの自立といったスタイルを生んだ。そして2010年代、ざわちんはモノマネにおける「オリジナル―コピー」という軸それ自体を解体する。繰り返すが徹底的にコピーすることで、実はオリジナルと思われたものがコピーでしかないこと、リアルでも何でも無いことを示すと同時に、今度は「コピー一元論」的な視座をわれわれに提供したのである。そして、それは現代社会のリアリティを、きわめて象徴的に示していると、僕は考える。つまり「コピーしかない」。

ポストモダン、ハイパーリアルの次をみせてくれたざわちんに、喝采!(ちあきなおみの歌曲では、ありません)。