東京ディズニーランド(TDL)とタイ・バンコク・カオサンの安宿街は、ともに「テーマパーク」と言った側面で共通点を備える。ただし、前者は一元管理の下に全体が整然とシステム化された「閉じた系」、一方、カオサンは有象無象の欲望の関数として結果的にテーマパークが出現した「開いた系」、いいかえればテーマがトップダウン、ボトムアップどちらに基づいて構築されているかに違いがあることを前回は示しておいた。
ただし、こういった表現は90年代末までのこと。それからもはや15年以上が経とうとしている現在、二つの「テーマパーク」の様相は大きく変貌を遂げている。そして、この二つ、実は、次第にその環境が近接化しつつあるのだ。

カオサンのシステム化

カオサンは、相変わらず有象無象の欲望がその空間に入り込み、空間それ自体を道のみを残して変容し続けている。かつて、一般の民家が家を改装してゲストハウスにし、ちょっとソイ=辻を入ったゲストハウスの中ではドラッグ(主としてガンジャマリファナだったが、その他にもブラウンシュガー=ヘロイン、コカインなどが扱われていた)に興じる者がいたり、ゲストハウスの使用人の女性とバックパッカーが出来てしまったりという感じで、まあ、ある意味「のんびり」した「牧歌的」「素朴」な欲望が空間を構成していた。もちろん、これも欲望がなせる業だ。
ところが90年代半ばから、その欲望の主体は変容しはじめる。バンコク市内に散在していたゲストハウス群がカオサン1カ所に集結するという現象が起こり、その規模に魅力を感じた起業家たちがここにビジネス・チャンスを見いだすようになるのだ。この連中の企画する設備は、これまでの学園祭の飾り付けに毛の生えたようなゲストハウスやレストラン・バートは違う。システマティックに構築され、ゲストハウスは従業員も雇われ、入り口にはそれらしいレセプションもあり、屋上にはプールも設置されるという、ホテル並みのシステムを準備するようになった。またレストランも同様で、ドラフトビールが飲めるなどあたりまえ、バーやクラブもちょいとイケてる感じになった。

だが、その背後で、かつての怪しさは影を潜めるようになる。企業が経営するシステムがカオサン一体を覆い尽くすようになっていくのだ。ゴチャゴチャ、混沌であったはずのカオサンは、気がつくと企業が作り上げるパッケージが醸し出す環境を現出していた。もちろんこれも、かつてのカオサン同様、有象無象の欲望がボトムアップ的に作り出していく環境なのだが、その欲望の主体は素人とバックパッカーではなく、起業家とタイ人とツーリズムによって担われるというシステムとなった。カオサンはどんどんクリーンになっていき(もっとも、夜になると白人たちやタイ人のごろつきがよくケンカしている風景は残存しているが)、整然とした世界が作り出されていた。街並みも平屋に代わってビルが建ち並ぶようになる(2014年、遂にカオサン通りからは平屋は一軒もなくなった)。いわば、認識論的には相変わらず混沌と猥雑なのだが、その背後でこれを動かしている、つまり存在論的レベルで機能しているのは情報化社会とそれが作り上げるシステムとなったのだ。今やゲストハウスまでネットであらかじめ予約可、各種チケットだってあっと言う間に電子システムで発券される。あやしいチケットに出くわすこともなかなか難しくなった。もちろん、ドラッグがやれる「ハッピーな場所」というイメージも一新された。「沈没」と呼ばれるゴロツキ・バックパッカー、いやバックパッカー崩れも、居心地が悪くなったのか、今や絶滅危惧種に指定されつつある。

TDLのカオス化

一方、これと逆の方向、つまり認識論的なシステム化と、存在論的なカオス化が同時進行していったのが21世紀に入ってからのTDLだ。TDLを運営するオリエンタルランドは、相変わらずディズニー的な一元的世界を演出することに心血を注いでいたが、ゲストの側がそれを許さなくなっていったのだ。21世紀初頭、開園20年を経て膨大な数になり、そのディズニーリテラシーをすっかり上昇させたゲストたちは、TDL側が提示する一元的なテーマ性に飽き足らなくなっていく。ゲストたちはマニア化≒オタク化し、ディズニーに対する嗜好を細分化させ、それぞれがみずからの嗜好に従ってパークを読み込むようになった。かつてのように与えられた物=物語やテーマ、をただ受動的に教授することをやめ、パークの中をバラバラに解釈しはじめたのだ。テーマなど、もはや「うざったい」ものとなった。

TDL側としては、これに対応せざるを得ない。ただし、細分化された嗜好にそれぞれ対応すると言うことは、要するに統一したテーマ性を放棄することを意味する。その結果、TDLはアキバやドンキホーテのようなカオスの様相を呈しはじめるのだ。カオサンでは起業家の欲望が環境をシステム化していったのだが、TDLではゲストの欲望が環境におけるシステムを破壊するという状況を生んだのだ。

その結果、二つは極めて類似の世界を現出することになった。つまり「ごった煮」的な状況をシステムが支えるという図式の共有だ。違うのは「ごった煮」と「システム」の位置だ。カオサンは「認識論的ごった煮+存在論的システム」、一方TDLは「認識論的システム+存在論的ごった煮」という状況。だから、ベクトルが逆なのだが、結果として「システムと混沌のあやしげな融合」ということではまったく同様なものになったのだ。

脱ディズニー化する二つの環境

かつてA.ブライマンは『ディズニー化する社会』(明石書店、2006)の中で、世界がディズニー化(Disneyization)すると指摘した。これはざっくり言ってしまうと、環境がテーマパーク化していくことを指している。前回も指摘したようなイオンモールはその典型で、要するにイオンモールは空間が商店街のテーマパークになってしまっている(しかも、屋根付き、つまり全天候型の)。いや、それだけではない。いまやちょっとしたお店も全てテーマパーク化しているのは誰もが納得することだろう(「半兵ヱ」のような昭和レトロ居酒屋チェーンを思い浮かべていただきたい)。

ところが本家のTDL、そしてカオサンはやはり近未来、つまりもう一歩先を行っている。つまり社会がディズニー化なら、この二つはもはや「脱ディズニー化」の状態にあると言っていい。テーマ性をどんどんと突き詰めた結果、これが巨大化し、細分化され、その結果、環境を作り上げているテーマが不可視化し、やがて崩壊していく。ただし、こういったテーマは元々システムによってヘッジされてきた。だからシステムは残存している。すると、今度は、このシステムが崩壊し、カオス化した「元テーマパーク」を混沌のままに管理していくようなメタシステムを構築してしまうのだ。

いいかえればTDLとカオサン、まさにアキバとドンキとまったく同じ脱ディズニー化という近未来に発生する事態を象徴的に物語っているといえるのだ。

やっぱり、この二つ。面白い!