もちろん、情緒的な思考も必要

前編では林修氏の数学が出来ない人はものを教えるべきではない」という発言が「教育者においては数学的な論理的、科学的思考が必要」といったところに本意があること、そしてこの主張は至極まっとうであることを指摘しておいた。
ただし、こういった数学に象徴される論理的思考だけで教員が務まるというわけでは、必ずしもない。たとえば、理路整然とした授業を行ってはいるけれど、退屈で仕方がないような授業をやられるなんてことを考えればよくわかるだろう。人間は感情的な動物だ。論理的な思考を演出するためのメディア性、一般にはプレゼンとかパフォーマンスと呼ばれるような情緒的な側面で論理性を演出しなければ指導する内容についての関心はなかなか惹起されないわけで、やはり教育としては成り立つのが難しい。いいかえれば、いかに数学的=論理的に優れた教育を展開したところで、その伝達方法がダメなら、この前提条件は実を結ぶことはない。ちょっとヘンな表現になるが、これじゃあ「松阪牛を市販の安物のタレをつけて食べる」みたいなことにしかならない。せっかくのものが台無しになる。ちなみに、大学教員の授業は、しばしばこんな状況になっている。教員の多くが研究者ではあっても教育者ではないからこうなるのだが(もちろん研究者ですらない人間も存在するが(笑))

ジョブズのプレゼンは授業としては究極だ!

そこで、教育者の指導の仕方として理想的なスタイルを備えている例、つまり必要条件に十分条件が加わったを紹介してみたい。取り上げるのはスティーブ・ジョブズだ。ジョブズは教育者ではないが、こういった論理的側面と情緒的な側面を備えていたがために、そのレクチャーに圧倒的な説得力を備えていた。そこでジョブズのキーノートを「授業」と捉え、この二つの側面がいかに有機的に融合していたのかについて具体的にみていこう。
ジョブズのキーノートでのプレゼンの評価については、そのプレゼン能力の情緒的側面に専ら焦点が向かいがちだったが(どうでもいいことを、そのプレゼン能力で絶対に必要なことのように思わせる「現実歪曲フィールド」を備えていたといったエピソードはその典型)、実はプレゼンにおける構成はきわめて論理的=数学的な構成に基づいていた。ミクロなレベルでは一つの項目について説明はたったひとつしかしない、つまり、あれもこれもとは言わない(定義が明確だった)。またマクロな構成においてもすべて同じ。具体的には、すべてが「3」で構成されていた。わかりやすいように、ここでは2007年、iPhoneの発表時の一部を取り上げて、これをバラすかたちで説明してみよう。


ジョブズのiPhone発表プレゼン。その冒頭部分。

上記の映像の流れを分解すると、次のようになる。


A.iPhone宣言
A-1.Appleが全てのものを変えてしまう新製品を登場させてきた実績を披露。
A-1-1.Macintosh
A-1-2.iPod
A-1-3.そして今回(当然ながらiPhoneを暗に指している。ちなみにAppleは他にも革命的な新製品、たとえば「AppleⅠ」や「LocalTalk」など画期的な製品を開発しているが、ここでこれらは「3」のルールに基づいてバッサリと切り落とされている)

A-2.革新的な新製品とは
A-2-1.ワイド画面タッチ操作のiPod
A-2-2.革命的な携帯電話
A-2-3.画期的なインターネット接続機器

A-3. 上記のA-2を繰り返す
A-3-1.iPod、携帯電話、インターネット接続機器
A-3-2.iPod、携帯電話、インターネット接続機器
A-3-3.iPod、携帯電話、インターネット接続機器(実際にはネット接続機器は繰り返していない)


そして、これらは一つのデバイスであり「iPhone」と呼ぶとし、「今日Appleは電話を再発明する!」(再発明も三回繰り返している)と宣言する。これは、次へのプレゼンのつなぎだ。つづいて、今度は「iPhoneとは何か」についてのプレゼンが続く。


B. 入力ディバイスはタッチコントロールであるべき
B-1.スマートフォンはどうあるべきか
B-1-1. 携帯電話はそこそこ使いやすいが賢くない
B-1-2. スマートフォンは賢いが使いやすくない
B-1-3. ?(賢くて使いやすいディバイスの必要性。iPhoneを暗に示している)

B-2. 既存スマホに搭載されるプラスティック製のキーボードの不毛性
B-2-1. アプリによって異なる配置に対応できない
B-2-2. 新しいボタンを追加できない
B-2-3. ?(柔軟性に富んだ入力手段の必要性。iPhoneを暗に示している)

B-3.ソリューションはマルチタッチ・コントロールだ
B-3-1. マウスはデスクトップ上に全ての機能を表示させていた。この利便性をそのまま移植したい。
B-3-2. スタイラスペン。無くしてしまう
B-3-3. 指によるマルチタッチ・コントロールだ(iPhoneでのソリューションの提示)

こんな具合で、マクロなかたちで三部構成(A-1,A-2,A-3/B-1,B-2,B-3)になっていて、次に、ミクロなかたちでそれぞれの構成要素がやはり三部構成(それぞれ1-1,1-2,1-3)になっているという、数学の証明みたいな展開なのだ。しかも無駄が一切無い。カテゴリーエラーもない。余分なものは一切省かれているミニマリズムに徹した展開。だから、実にわかりやすい。

論理を円滑に理解させるために情緒を挿入

ところがジョブズのプレゼンはこれだけにとどまらない。この論理的プレゼン構成の中にあえてノイズを入れて観客、そしてネット越しにこの中継を見入っているオーディエンスの情緒に訴える
ポイントは三つ。
一つ目はA-3の部分。同じことを三回連呼するのだが、会場はこの三つが独立した製品ではなく一つの製品の三つの機能であることをウワサから知っている。しかも、その名前がiPhoneであることも。それを知りつつジョブズはじらし、次第に会場から期待感と笑いを誘っていくのだ。そしてA-3-3でiPod、携帯電話としつこく三度目を繰り返して、会場は爆笑になった時点で「わかっったかい?”Are you getting it?”」とツッコミ返す。会場は大爆笑となる。そこで「Appleは、本日電話を再発明する。iPhoneだ」と高らかに宣言。会場は熱狂の渦に包まれるのだ。これで、論理的な展開が情緒的な展開へと転調してしまう。
さらにここに二つ目が登場する。ここまで持ち上げておいて。「これです!」といって画面に提示されたものは、なんとiPodのクリックホイールのところに昔懐かしい電話のドラム式ダイヤルが付いている映像。会場はこのジョークに再び大爆笑。この時点で、会場の客はもうiPhoneに夢中になってしまっている。で、そのあとこれみよがしに「いちおう、ここに現物があるんだが」といいながらジョブズはプレゼンを開始する。それは、なんとジョブズがそこで操作するiPhoneの画面がリアルタイムに会場のスクリーンに表示されるという代物だった。あたりまえのように、喉がカラカラになっていた会場の客は堰を切ったようにスクリーンに釘付けになるのだった。

イメージ 1

ニセモノのiPhoneを登場させ、会場の爆笑を誘うジョブズ。情緒面の見事な演出だ。

三つ目はB-3。ここではタッチコントロールの優秀性を示すにあたり、悪役となるもの二つを登場させる。マウスとスタイラスなのだが、マウスの方はパソコン用であるし、マウスを世界に普及させたのはAppleであるのでむしろ適当かつポジティブにスルーして、悪役は専らその時点でスマートフォンの主流のなるであろうとみなされていたポインティング・ディバイスのスタイラスに振られている。「誰がスタイラスを欲しがる」「スグに無くしてしまう」といったあと「ヤップ!」と舌を出しながら大きな声を発するのだが、これは日本語だと「ゲッ!」「クソッ!」といったきわめて下品な表現。そこまでケチョンケチョンにすると、むしろこれがジョークにしか聞こえてこないとともに「やっぱりスタイラスはダメだ」という感覚が論理的かつ情緒的に感じられてしまうのだ(おまけにマルチタッチコントロールについては特許も取得済みと他メーカーを揶揄して、観衆を味方に引きつけている)。

医学界の権威とヤブ医者の才能を兼ね備える

ジョブズのこのプレゼン≒授業は、授業というものが論理的な側面と情緒的な側面、双方を用いることで最も効果的になることを明瞭に示している。論理的な仕立てを情緒的な側面を加えることで、より効率的に教育効果を発揮する。ヤブ医者は医師としての訓練を受けておらず、本人もそのことを認識しているので、患者に対しては「より医者らしく見せる」ことに精力を注ぐ。で、得てしてそれは効果を発することもある。患者に対して懇切丁寧に対応することで、患者に一種のプラシーボ(暗示/偽薬)効果をもたらし、改善に向かってしまうなんてことがありうるからだ。で、そのまた逆もあり得る。つまりきちんとした医師が適切な医療処置をしたにもかかわらず改善しない(まあ、だから「病は気から」というのだろうけれど)。
だったら医学界の権威がヤブ医者的パフォーマンス能力を備えたらどうなるのか。言うまでも無く「鬼に金棒」ってなことになるのだろう。教育者としてみた場合、スティーブ・ジョブズ「先生」は、まさにそういった授業(キーノート)を展開しているということになるだろう。

最後に優れた教育者の定義を……

最後に、誤解のないよう、今回取り上げた教育者についての定義をしておきたい。ここで僕の言う「優れた教育者」とは「スキルを伝えることに熟達した人間」という意味だ。言い換えれば、教育者の人格は一切顧慮していない。ということは、ここまで述べてきた教育者としての二つのスキル(論理、情緒)を二つ持ってはいるが、このスキルを利用して悪魔的なことを人々に植え込む人間もまた優れた教育者ということになる(厳密には「インストラクター」と表現した方が適切かも知れない。そういえば林修氏は予備校教師という、いわば「プロのインストラクター」だったから、今回の発言が出たのかも?)。それはたとえばヒトラーや一部の宗教的カリスマがそうであったように。そして、もちろん、ここで一例として挙げたジョブズがそうであったように。
ということは、教育を受ける側としては、こういった優れた教育者は歓迎すべきものでもあるが、警戒すべきでもあることは、当然の前提としなければならないと言うことでもないことをお断りしておきたい。