パリで日本のポップ・カルチャーを紹介する『JAPAN EXPO』が開催され、初日の日本文化を紹介するステージに船橋市非公認キャラクターで、日本で大ブレーク中の”ふなっしー”が登場した。ふなっしーはいつものようにキレキレのパフォーマンスを披露したのだが……どうもウケなかったようだ。ふなっしーに関心を向け、ケータイを向けてていたのは、どうやら現地の日本人ばかりといった状態だったらしい。

国内では大人気ーのふなっしー。なぜフランス人にはウケなかったんだろうか?

実のところ、この現象はわが国のキャラクター文化を考えるには格好の出来事に僕には思えた。で、ちょっと考えてみた。

マンガ=アニメ世代はもはや60代半ばから下

日本のマンガ=アニメキャラの歴史は長く、裾野の広がりも広い。マンガ世代と言われた年代が該当するのが団塊世代、つまりもはや60代半ばに達しているわけで、ようするにマンガ、アニメはもはや日本の代表的なサブカルチャー、いやポップなマスカルチャーとして完全に定着している(ちなみに鳥獣戯画あたりからはじまる「漫画」の歴史的な文脈ではなく、手塚治虫以降のこの「マンガ」の定着を踏まえてこの議論を進めている)。その結果、日本のマンガ=アニメ文化はどんどん成熟を極めていった。

楷書と草書

だが、成熟とは、いいかえればちょっとレベルが複雑な方に展開するということでもある。このことをわかりやすく説明するために、一旦、ここでは別の話を持ち出そう。それは「書道」だ。書道は一級までは「楷書」、つまりキチッとした文法に従ったかたちで学ぶが、有段者となると「草書」、つまり文法を崩すような流麗な書体に取り組むことになる。いうならば「ミミズがのたくったような字」を書くようになるの。確かに、これは一般人にとっては、まさに「ミミズののたくり」で、文字の解読もままならず、まさに意味不明。ただし、玄人にとっては「楷書を知りつつ草書を展開する」、つまり文法を十分に踏まえつつ、これを崩していくわけで、素人が殴り書きするのとは訳が違うハイブロウなアートの世界と認められている。

マンガ=アニメキャラはもはや草書の時代

で、手塚を嚆矢とするマンガ=アニメ文化が50年以上を経過した現在、これを受容する層はマンガ=アニメリテラシーについては、いわば「草書」の域に達している。つまり、手塚文法=楷書的キャラクターはすっかり身体に馴染み、それを崩したようなキャラクターに関心が向かうようになっている。その典型は”くまモン”だ。くまモンはゆるキャラだが、実は一般のゆるキャラとはちょっと違っている。くまモンは超一流のプロ(小山薫堂+水野学)によって手塚文法を意図的に崩して作られているからだ。つまり、これは草書の領域。そして、これを一般人が受容するようになっている。瞳孔が開いたような、焦点の合わないくまモンに人気が集中するのは、こういったキャラクターに対するオーディエンスのメディアリテラシー成熟によるところが大きい。

草書と素人の殴り書きの区別がなくなった?

ところが、この分析は少々留保を付け加えなければならい。それは後続世代のリテラシーの問題だ。典型はティーンエージャーより下の世代。彼らは、こういった「草書体のマンガ=アニメキャラ」が定着した状態で、これらに馴染んできた。つまり「楷書→草書」というプロセスを経ることなく、いきなり草書=ゆるキャラに接した。となると、彼らにとっては草書も楷書もない。全て楷書というか、全て草書というか。なので「文法を崩すことの諧謔を理解・堪能する」といったことはない。だがそれは、言い換えればくまモンのように「楷書→草書」というプロセスを経たゆるキャラと、ただ単にゆるいだけのゆるキャラの区別は当然不可能ということでもある。これらをまとめて「ゆるキャラ」として楽しんでしまうと考えた方が納得がいく。

ふなっしーは文法を持たない子どもの「お絵かきキャラ」

そしてふなっしーである。ふなっしーは今やくまモンを凌駕するほどの大人気だが……ふなっしーはどう見ても「楷書→草書」のプロセスを経て作り上げられたもの、つまり文法に従ったキャラクターとは言い難い。子どものお絵かきみたいなキャラで、内側のフレームが外側からもよくわかる、きわめて詰めの甘いベタなゆるキャラ、ツッコミどころ満載のキャラだ(もともと「ゆるキャラ」名付け親のみうらじゅんは、こういった「ツッコミどころ満載のご当地キャラクター」に注目していた)。

ふなっしーの人気はキャラの外観に依存していない

だが、これが現在、大ブレークしている。しかし、こういった「ベタにゆるい」キャラクターは国内にあまたあるはずで、ふなっしーだけがこれだけブレークするのはきわめて不自然といえないこともない。それは要するに、ふなっしーに対するキャラクターデザイン=外観ではなく、ふなっしーの他の要素がその人気を支えているということになる。言うまでもなく、あのキレキレの動き、早口で喋るキャラ、半分素人で半分プロといった曖昧なコメント、そしてすぐにキレる性格、さらには「船橋市『非』公認」というメタなブランド性といった「メディア性」が、ふなっしーの人気を支えていると考えた方が当を得ているだろう。

ふなっしーの外観的なデザインはいつまでもゆるく、われわれイメージの中で揺らいでいる。でも、そんなことはどうでもいい。ふなっしーは、こういったマンガ=アニメ文化の「成熟」の先にある「爛熟」をデフォルトとしたメディアリテラシーをわれわれが共有し、そのリテラシーの延長上に位置づけられているのだから。まあ、簡単にいってしまえば「なんでもあり」をもっとあも理想的なかたちで具現したキャラ、「文法なき文法」がウケる時代を忠実に反映したキャラ、爛熟時代だからこそ支持される奇形=異形それがふなっしーなのだ。

マンガ=アニメキャラの有段者が存在しないパリでふなっしーは認められない

一方、フランスにおいてマンガ=アニメ文化はさほど歴史と広がり持っているわけではない。日本的なアニメ文化がフランスに広く浸透しはじめるのは70年代、とりわけアニメ「キャンディキャンディ」ブレイクあたりからだ。そしてOTAKUやフィギュアといった「サブカルチャー」もフランス人の若者のあいだで人気を獲得していくが(この後にドラゴンボール、機動戦士ガンダム、ワンピースといった一連の作品が続く)、これはあくまで「楷書」の世界。いいかえればフランスの支持者達は「有段者」ではない。ましていわんやマンガ、アニメの後に登場した「ゆるキャラ」に関しては級も下位のレベルでしかない。ひょっとしたら級すら持っていないかも?

そこに、突然、有段者向け、草書体のふなっしーが登場したらどうなるか。当然わけがわからないに決まっている(そのパフォーマンスはデザイン=外観以上に理解不能だろう)。JAPAN EXPOに日本文化見たさにやってきただけで、アニメ=マンガにさしたる興味をもっていない客であれば、おそらくふなっしーはひたすら不気味な存在でしかないだろう。またマンガ=アニメファンにしたところで、前述したように有段者ではない、言い換えればアニメ=マンガについてのメディアリテラシーは低い。だから、ふなっしーを一生懸命理解しようとしても、おそらくわからない。ただ、戸惑うだけ。

フランスでふなっしーがウケなかったのはマンガ=アニメリテラシーのギャップに基づく。要するにマンガ=アニメ文化の成熟度が全く違っている。このリテラシーのないフランス人にふなっしーが了解不能なのはあたりまえなのである。