コンピュータ=人工無能はわれわれの幸福度を上げる

前回は、コンピュータが実質的に「人工無能」であり、オウムのような条件反射を膨大な数で持っているに過ぎない、しかしビッグデータに集められたデータはあまりに膨大であるがゆえにチューリングテストに合格してしまうほどのパターンを保持し、それが結果として統計的にわれわれを最も快適な環境を作り出してくれていることを説明しておいた。例えばチェスのチャンピオンにコンピュータが勝利するなんてことがあたりまえのように発生するのは、こういった理由による。コンピュータはチェスの手に関する膨大なパターンを暗記し、その中から最適値を選択するパターン・プログラムに基づいて次のコマを進める。そういった「問題処理」レベルではとっくに人間を凌駕してしまったのだ。ところが「問題解決」、つまりパターンとパターンを組み合わせてメタパターンを作り上げる、つまり関係性について思考するというような主体性を伴う「意味論レベル」の知能は残念ながら持ちあわせていない(このパターンは結局のところ人間がコンピュータにプログラムをインプットしている)。

また、G.オーウェルが予想したビッグブラザーのような、われわれを監視・統制して自由を奪うようなコンピュータが登場することがないことも指摘しておいた。「支配しろ」というプログラムを人間がインプットしない限り、それは不可能。そして、そういった事態が発生すると懸念するのはいわゆる「陰謀史観」で、まったくもって現実的ではないし、実際にこういったことはプログラムミスといったヒューマン・エラーが無い限りは発生しない(つまり人工無能=コンピュータの責任ではない)。むしろコンピュータは統計的にこういったエラーを回避するプログラムが書き込まれ二重三重の防御がなされることになる。つまり、人工無能のおかげでヒトラーが誕生することはかえって出来なくなってしまうのだ(コンピュータ科学と認知科学の巨匠であるマーヴィン・ミンスキーはコンピュータ研究において、この三十年間、専ら統計=数値を処理させることだけに焦点が当てられ、意味=言語を理解させる研究が行われていないことを批判している。ミンスキーに言わせればコンピュータの言語研究は、やはり「人工無能=cognition」のそれであって「人工知能=recognition」ではないということになる)。

つまり「人工無能」のおかげで、われわれの幸福度は相対的に上昇するのだ。

ただし、この「快適さ」「幸福度」、実はかなり危険なものでもある。前回の、そして今回のタイトルを覆して表現すれば「ビッグデータはビッグブラザーにはならない」が、別の側面、メディア的な側面からするとビッグブラザーとしての機能を果たしてしまう。後半はこのことについてメディア論的に考えてみよう。



行動の規格化

考えられるのは二つの側面だ。
一つは前回指摘したことと重複するが、多様な人間的事象について次々と情報がビッグデータに集積され、それが統計的に解析されて「最適値」を返すようになり、なおかつこの最適値に対してリアルタイムに人間行動をフィードバックし更新し続けることで、きわめて快適な環境をわれわれが享受できることになり、これに抗うことが出来なくなるという側面だ。

それ自体は「すばらしいこと」のように思えないこともないが、これはわれわれの行動それ自体の規格化=均質化といった現象を生むことを結果することでもある。つまり、人間は意味世界に暮らしており、それぞれが勝手な解釈をし、勝手な行動をしているのであるけれど、ビッグデータが作り上げるシステムが、こういった自由気ままな行動の背後で、身動きが出来ないほどにまでわれわれの行動を規定してしまい、他のチョイスを許容しない環境が作り上げられる。言い換えれば行動においていくつかのチョイスがデジタル的に提供されることはあっても、アナログ的なチョイスが許容されないことになる(つまり、与えられた選択肢のなかからどれかを選ぶことだけがこちらの仕事となり、その選択肢の範囲の設定や、選択肢と選択肢の間の選択は不可能になる)。これは、実はもうすでにとっくに消費の世界では進行済み。今や世界の人々がコンビニやショッピングモールで規格化された商品を購入し、またAmazonのようなネット販売を利用して商品を購入し、ファーストフード店でハンバーガーやピザを食べるという同質化=グローバル化された行動をとるようになっている。

こういった”統計的データがこちらに強制してくる行動パターン”は快適ゆえ、それに飼い慣らされていることには気づかない。いや、たとえ気づいたところで快適なので「だからどうした?」ということになる(こういった規格化された権力のことを哲学者の東浩紀は「環境管理型権力」と読んでいる)。そう、ビッグブラザーはどこまでもやさしくわれわれを管理するのだ。

認識の細分化

もう一つは、それとは逆に人間を完全にバラバラにしてしまうという側面だ。これはイーライ・パリサーの「フィルターバブル」という概念で説明するのがいいだろう。例えばあなたのAmazonやfacebookのホームページをチェックしてみてほしい。そこに出てくる画面は、他のメンバーとは全く異なる情報で埋められているはずだ。これは、ユーザーであるあなたが頻繁にこれらページにアクセスし、そのデータがサーバーに送られ、ビッグデータと照合されて、あなたにとっての最適値としてカスタマイズされたかたちで情報が返されてくるからに他ならない。

やはりこれもまたきわめて快適なことでもある。あなたにとっておいしい情報ばかりで埋め尽くされるのだから。ところが、これはかなり危ないことでもある。というのも、それは「おいしくない情報はそこから排除される」ことだからだ。その結果、あなたの情報環境はインターネットとビッグデータのアルゴリズムによって「あなただけの世界=フィルターバブル」になってしまう。つまり、徹底的に個別化された世界の中で暮らすことになり、あなたは孤立する。おいしいものばかり食べていたら食べ物のバリエーションが狭まり、なおかつ味盲になり、世界は食べられないものでいっぱいになってしまうのと同じことだ。

規格化と細分化による社会的統合の崩壊?

そして規格化とフィルターバブルは相乗効果をもってあなたをいっそうビッグブラザーの管理下に従えることになる。つまり羊飼いと牧羊犬の監視する空間(=フィルターバブル)の中では、思いっきり自由なのだが、監視された空間の外に出ることは決して許されない。しかし、快適ゆえ、あなたはそのことに一切気がつかない。で、こういった「徹底した個別化対応によって、実は均質化をもたらす超管理社会」を推進するのが、実はビッグデータという存在なのだ。

それは結果としてわれわれが孤立化されたかたちで徹底した管理下に置かれることを結果する。しかし、これがさらに突き進めば、社会はアトム化された人間によってバラバラになり、社会統合を失ってしまうのではなかろうか?

…………いや、待て!よく考えれば、そんなことはないだろう。人間はバラバラになってしまうかも知れないが、そのバラバラの人間をビッグデータ=ビッグブラザーは統計的に管理することで社会統合を代替してくれるはずだから。これぞ、超管理社会と言わずしてなんと言おうか。


25世紀、宇宙人が地球にやってきた。するとそこにはきわめて整備された文明が存在した。ゴミ一つ落ちておらず、システムは完璧に作動していた。しかし、宇宙人は首を傾げた。地球には完璧に整備されているシステムはあるのだが、肝腎なものが存在しなかったからだ。

肝腎なものとは?……そこに住み、システムの恩恵を受ける「宇宙人」のこと。……そして宇宙人とは……もちろんわれわれ人間=地球人にほかならない。システムを構築した人間はビッグデータに守られて孤立化し、関わりを失い、人口を減らし、ついには消滅したのだった。しかし、システムはいつまでも稼働し続けていたのだ。さながら人間が存在するかのように。