都知事選に突如出現した原発問題

ご存知のように、都知事選に元首相の細川護煕が立候補している。「後出しジャンケン」方式でギリギリまで候補者が定まらなかったが、開けてみれば舛添、田母神、宇都宮と、それなりの候補者が出馬。だが、ここにきて意外な候補者として細川が登場した。争点は言うまでもなく原発問題。原発ゼロを東京からということで、これを小泉純一郎元首相が後押しするという図式。小泉は11月の記者クラブの会見で、原発ゼロ発言を展開し、マスメディア、そして自民党に爆風を吹かせることに成功したが、どうやらこの文脈での細川の出馬は「小泉が細川という刺客を放った」という認識が一般的。つまり、主役は小泉。

だから、現状では、どうやら桝添には届かないというのが下馬評のようだ。細川ー小泉というゴールデン元首相コンビ、そして小泉お得意のワンフレーズ・ポリティックス=ワン・イシューだけで勝負する戦略という図式が、どうも機能していないようなのだ。来週日曜日(9日)の投票日に向けて盛り上がる様子もみせてはいない。ということは、桝添の当選で話は決着しそうだが……。今回はワンフレーズ・ポリティックスの可能性と限界について考えてみたい。

2005年の郵政民営化衆議院選と違うのは「コンテクスト」

ワンフレーズ・ポリティックスの効果を考えるにあたっては2005年、小泉が仕掛けた郵政民営化衆議院選挙と今回の都知事選を比較するのがわかりやすい。あの時、小泉は「郵政民営化は改革の本丸」とし、選挙期間中、ほとんどこの民営化のネタしか争点としては取り扱わなかった。つまり、今回の都知事選の「原発ゼロ」と戦略的にはまったく同じだ。

ただし、根本的に異なるものがある。それはこのワンフレーズの背後にあるコンテクストの存在だ。

このコンテクストはさらに二つある。一つは、ワンフレーズが他の政策とどのように連動しているかと言うこと。いや、実際に連動していなくてもかまわない。ただ「連動している」というふうに思わせることが出来ればそれでいいのだけれど……。郵政民営化選挙の際には、このイシューの他にも構造改革という言葉でまとめられた様々な課題が山積していた。そして、それらは実はほとんど郵政民営化とは関連がないものだったのだけれど、前述したように小泉は「郵政民営化」が「改革の本丸」と謳ってしまったのだ。そして、その改革を国民が望んでもいた。だから、なんだかわからないけれど「郵政民営化」は、それが達成されれば他も一気に解決する、なんでも叶えてくれる「四次元ポケット」のように思えてしまった。そして、それを邪魔する名悪役たち(しかも、なんと自民党の国会議員!)も登場し「善が悪を倒す」という、ベタな勧善懲悪図式上で小泉劇場は重層的かつムダに盛り上がった。この二つのコンテクストが郵政民営化というワン・イシューにあやしげなリアリティを与えてしまったのだ(その後、われわれが酷い目にあったのはご存知の通り)。

さて、今回の都知事選はどうか?残念ながら「原発ゼロ」というイシューは他の都政に関わる問題となんらリンクしているようには思えない。都民として関心のあるのは、やっぱりオリンピックとか、待機児童ゼロとか、福祉とか、教育とかになる。それが国家の一大事たる原発問題とどう繋がるのか……ちょっとかなり想像力を要求するのだ。だから、争点として持って行くにはかなり無理がある。むしろ親の介護経験のあるという桝添が、それを担保に福祉問題を語った方が、コンテクスト的には圧倒的に説得力がある。

もう一つのコンテクストは、そのワンフレーズを発する人物のキャラクター、とりわけそのカリスマ性、言い換えればメディアの魔術師としてメディアを操作する能力だ。前述した小泉の場合、全くブレず、真正面を据えて確信犯的にワン・フレーズでイシューを訴える。前述した記者クラブでの原発に関する発言がまさにそれで、もはやただの民間人に過ぎない小泉が自民党をうろたえさせることすら出来たのだから。ワンフレーズを語る人間に共通する特徴は「先ず人を信じ込ませる前に、自分を信じ込ませる」点だ。新庄剛志、東国原英夫、橋下徹といったメディアの魔術師たちがまさにそれで、ある意味、完全に自己陶酔している。それによって、その発言が、こちらには「真実」に思えてしまう。「敵を欺くには先ず見方から」ではなく「敵を欺くには先ず己から」という図式がないとワンフレーズ・ポリティックスは機能しない。記者クラブでの会見の時、小泉には、これがいまだに健在だった。

しかし、である。細川の場合、いかにも小泉に操られているという感じがしてしまう。つまり、細川は「己を欺いていない」というイメージをこちら側に抱かせてしまう。だから、バックに小泉が控えていても、イマイチ、パッとしないのだ。いや、むしろ小泉が控えるからこそ、キャラクター=メディアの魔術師としてあやしさが感じられないのだ。

無党派層はなびかない

で、こういったコンテクストが存在しない場合、当然、政策よりもコンテクスト=ムードに煽られることで投票する無党派層はなびかない。かつて、小泉は「無党派層は宝の山だ」と言い放ち、見事に宝の山を掘り当ててしまったのだけれど、今回、その宝の山を掘り当てることは出来ないだろう。有権者の「探知機」がこういったコンテクストを探り当てられないのだから。探知機は小泉の身体をサーチすることは出来るが、細川のそれはサーチできない。だから、ワンフレーズ・ポリティックスで都知事選に勝利しようとするのならば、本人か息子の進次郎でも出すしかない(この場合も他の政策とのリンクがほとんど感じられないからコンテクスト的には「片肺飛行」。だから、郵政民営化の時のような圧勝というわけにはいかないだろうが)。

かくして2月10日(日)投票日、無党派層は動かず、投票率は上がらず、組織票がモノを言って、結果として桝添が楽勝するという「何事もなかった都知事選」が繰り広げられることになる。

日本人のワンフレーズ・ポリティックス・リテラシーが向上した?

もっとも、ここ数年のこのワンフレーズ・ポリティックの繰り返しに辟易して、われわれが「ワンフレーズ・ポリティックス・リテラシー」を培ったので、もうこういったやり方には慣れっ子になってしまい、なびかなくなったのかも知れないが。そして、もしそうであるのならば、それはきわめて健全なことと考えてもいいのだけれど。

ま、まだそんなに甘く考えることは出来ないか?小泉進次郎がウケているんだから……