個人情報保護法の徹底、インターネット環境の偏在化に伴って、以前にも増して意識されるようになった「匿名」ということば。しかし、プライバシー防衛に関するヒステリックなほどの対応の加速(テレビの画面はボカシだらけ、マンションやアパートの玄関に表札をかけない、マンション住民が自治会や理事会に世帯構成員の名前どころか人数を告げることすら拒絶するなどなど、今や日本人はプライバシーに関して完全に過敏になっている)によって、とにかく「匿名」であること、言い換えれば「実名」が表に出ないことが重要視されている。僕の知り合いの中に「絶対にFacebookはやらない」と断言する人間がいるが、まさに、これなどは、この「実名」「匿名」という分節に過剰になっている典型例だろう。

もちろんプライバシーを保護するために「実名を隠す」「匿名である」と言うことそれ自体は重要ではある。しかしながら、ちょっとヒステリックになりすぎなんではないか?あたかも腫れ物に触るかのようなこの対応。かえって危険なんじゃないだろうか?これじゃ、臭いものに蓋。ますます生ゴミの中身が発酵して危険意識が高まるだけだ。そして匿名の扱い方をおかしくするだけだ。

ということで、今回は、この「匿名」についてインターネットとの関わりで考えてみたい。で、最終的に提案したいのは「匿名」「実名」という考え方の賢い使い分けだ。先ず、今回は「匿名による誹謗中傷コメント」の構造について考えてみる。

匿名のメリット~自由な発言のワンダーランド

先ず、匿名であることのメリットは何か?言うまでもなく、自らが発した発言に対して責任を負う必要がない点だ。だから、ある意味、発言はナンデモアリだ(もちろん、その発言を発した匿名の人間のプロフィールを暴き立てるという連中もいるが、その際にはもはや、それは匿名ではない)。こういった「やりたい放題」の場所は、いうまでもなく2ちゃんねるだ。「便所の落書き」とも揶揄されるこの掲示板。匿名であるがゆえに、「荒らし」は起こるは、「祭り」は起こるは、とにかく賑やか。誹謗中傷的な話題にも事欠かない。ただし、そこには実名では語ることの出来ないインサイドな情報、言えない情報も流れてくる。それが議論それ自体を活性化するということもありうる。

匿名という名の「通り魔」

ただし、匿名であると言うことは「通り魔的行動」もまた可能になるということでもある。2ちゃんねるのような掲示板であれば「便所の落書き」的なものであるがゆえに、誹謗中傷、過激なコメントであったとしても、それはあくまでも落書き上のこと。つまり匿名の他者に向けられたもの。特定の他者に向けられたものではないし、たとえ特定の他者に向けられていたとしても、その特定の他者もまた匿名の他者。いいかえれば、「これらはあくまでヴァーチャル世界での出来事」と済ましてしまえば、まあそれで事は収まる。

ところが、コメントされる方が実名で、これに対してコメントが匿名で、しかも内容が誹謗中傷である場合、これは2ちゃんねるとは異なった状況が展開される。誹謗中傷が特定の他者に向けられているため、まさにこれは「通り魔的行動」になるのだ。つまり、「これを書いているヤツがいけ好かない。だったら殴ってやれ!」となり、便所の落書きをする掲示板が、突然、生身の人間に転じてしまう。しかも、自分はあくまで匿名ゆえ「通り魔的」に誹謗中傷を浴びせ、そのままやり逃げしてしまえば、コメントした側は傷つくことはない。一撃をくらわせたことに快を覚えるだけだ(時に、他のコメントにカウンターを食らうことはあるけれど)。BLOGOSなどに寄せられるコメントの中には、こういった「通り魔的コメント」が散見される。

ちなみに、僕のブログにもこういった「通り魔的コメント」がなされることがあるが、原則ほとんど内容を無視している(まあ、「恥ずかしい事をなさっているのに、お気づきにならないようだ。お気の毒に」くらいには思うけれど)。また、匿名でのコメントで酷いもの(中身を全く読めていない、ことばの一部だけを取り上げて恣意的な解釈を繰り広げる、自分の意見だけをもっぱら展開する、なぜか僕についての個人的な誹謗中傷をあげつらうなど)については一切、返事をしない。まあ、こんなコメントにいちいち目くじらを立てているようじゃ、ブログなんか書けないんだけど(笑)

フィルターバブル:匿名コメントによる誹謗中傷はコメントする当人の社会性の後退を促す

また、匿名での誹謗中傷コメントの場合、発言にブレーキがかからないので、これをもっぱら匿名上で展開する人間は、イーライ・パリサーの指摘する「フィルターバブル」を来すことになる(『閉じこもるインターネット』E.パリサー著、井口耕二訳、早川書房2012)。これは、情報をインターネット上で任意に収集していくことで、情報がパーソナライズされ、その結果、自分だけの情報宇宙が構築される現象を指している。(今や検索エンジンや協調フィルタリングシステムによって、あなたは好きな情報だけを収集し、それ以外のものを排除することが出来る。たとえば、身体の具合が悪いとき「自分は癌だ」と思って検索をかければ、実際はそうでないのに自分が癌でしかも不治であるとか、反対に実は癌なのに「癌ではない」と思って検索をかければ癌とは無縁であるという結論に達することが出来るのだ。つまり、自分の思いに合わせていかようにでも情報を収集し、任意の世界観を作り上げることが出来る。詳細については本ブログ「自分の病気の症状をネットで調べると……必ず死ぬ?」http://blogs.yahoo.co.jp/mediakatsuya/archive/2013/04/15参照)こういったフィルターバブルの歯止めをかけるのがリアル、言い換えれば実名による責任ある発言なのだが、それがないということは、フィルターバブルによって構築された世界観に基づき、責任の発生しない匿名によるコメントによってネット上にコメントすることで、どんどんと自閉的な世界観を構築することが可能になってしまうのだ。そして、気がつかないうちにきわめて偏狭な、そして社会性のない世界観が作り上げられていく。ただし、それが通用しないことは実際のリアル=現実世界に関わらない限り自覚することは不可能。つまり、ひたすらネットにアクセスし続けることでタコツボ的な世界は維持され続ける。パーソナライズを続ける限り、自らを正当化する情報が延々とインプットされ続けるからだ。かくしてフィルターバブルはどんどん膨れあがっていく。

なぜ実名で公開されている情報に、匿名で誹謗中傷コメントを浴びせるのか

ブログなどで実名でコメントしている人間に対する、匿名による誹謗中傷コメントは、こういった人間が自閉的世界へ自らが閉じこもっていること=社会性が喪失されているという事実を抑圧するには格好の手段である。相手は実名、つまりリアル世界と接続している人間だ。ならば2チャンネル上のようにバーチャルな人間=匿名の人間にコメントで誹謗中傷するよりも、自らのコメントに社会性が生じているようにみえる。また、誹謗中傷コメント上で、匿名でコメントしている同士が呉越同舟して実名=リアルのコメントを誹謗中傷すれば、今度は「自分と同じことを考えている他者がいる」ということになり、その場限りではあるが社会性らしきものを獲得できる。便所の落書きより、生身の人間の方が反応がありそう、つまり「殴り甲斐=社会と関わったという実感」がある。しかも、殴った相手の反応を見る可能性を期待できるし(コメントし返してくるかも知れない)、その一方で、間違ってもこちら側は匿名だから「殴り返される」心配は無い。

こうやって、匿名によって実名ブログなどへのコメントに誹謗中傷を浴びせる人間は、自らフィルターバブル状態をメインテナンスしていくというわけだ。だから、常習化する、つまり、やめられない。なんのことはない、それはヴァーチャル上でのアイデンティティ確保・メインテナンスの手段なのだから。しかし、その結果、自閉性=非社会性はますます高まっていくことになってしまう。つまり「匿名によるネット上へ誹謗中傷的コメントは自傷行為」。

この非社会化のスパイラルから脱却する方法は……そりゃ、簡単。実名でコメントしている人間には実名でコメントすればよいだけのこと。ただし、それは、当然のことながら、そこからリアルの作法が適用されるということでもある。つまり「殴れば、殴り返される恐れがある」。ということは、おいそれとは殴ること、つまり誹謗中傷を浴びせることが出来なくなると言うことなのだけれど。

次回は本題の「実名と匿名の使い分け」について考えてみたい。