第四象限、オタク論議で一儲け

オタク語りを四分類して分析をすすめている。今回は後半。

第四象限でのオタク語りは、 高いコミュニケーション能力を備えつつも狭いジャンルに拘泥するとみなすものだ。この場合、狭いジャンルとは、いわゆるオタクイメージを象徴するようなマンガ、アニメ、フィギュアなど狭義のサブカルを指す。さて、復習になるが、前回説明した第三象限、つまり低いコミュニケーション能力+狭いジャンルという括りは、オタクのプロトタイプ的なイメージだった。つまりネクラで彼女がいなくて、社会性のなさをこういった趣味に拘泥することで抑圧=ヘッジするといったもの。しかし、この第四象限では、このまさにオタッキーな趣味に深く関わることで、この第三象限のキャラクターに社交性が出てくるというような怪しい語りになる。

この立ち位置を徹底的に展開したのがオタキングこと岡田斗司夫だった。岡田に言わせればオタクとはネクラな人間でもなんでもなく、ひとつの分野に鋭くまなざしを差し入れ、これに徹底的にこだわる「粋」で「洒脱」なキャラクターと言うことになる。情報に対して高感度にこれを入手し、しかも、自らの趣味にこだわりつつも、相手の趣味の領域も尊重する社交性を備える。さらに、こういったキャラクターは江戸時代にまで遡る、日本の文化の伝統に深く根ざしたものだというのである。

オタクは新人類? 

いうならばオタキングたちのこの語りは、オタク以前、80年代に若者に与えられていた呼称「新人類」についての議論の焼き直しに他ならなかった。自らをオタキングと名乗り、実践してみせる岡田のこのやり方は、ネガティブにしか語られることの無かったオタクを正当化させる戦略だったのだ。そして、この戦略に一枚乗ったのが資本で、ここに資本はオタクという市場を発見することになる。「オタク-非社交性+高感度=新人類の焼き直し」という図式は、見事に成功し、これによってオタクについては二つの新しい意味が加えられていく。

ひとつは、オタクが「若者」という世代的括りを脱却し、女性を含めて全世代に該当するという捉え方である。つまりマンガやアニメに拘泥する人間は男子若者に限らない。いや、もっと言ってしまえば「限られなくてもよい」というお墨付きを与えられたと表現したほうが正鵠を射ているかもしれない。

もう一つは、オタクは「クラくない」というもの。オタクであることに劣等感を抱く必要はない、そういったオタクの「市民権」を岡田は与えていったのである。ちなみにその啓蒙として岡田が利用したのが自らの「東大非常勤講師」という肩書きだった。しかも「東大オタクゼミ」と、授業では徹底してオタク論を展開していることを吹聴し、「日本の学問の頂点である東大もがオタクを認めているのだ」というイメージを振りまいたのである。

岡田が思ってもいなかった展開~萌える第三世代の出現

しかし岡田のオタク論は結果としてあらぬ方向へオタク論を導いていく。

ひとつは第一象限=広いジャンル+高コミュニケーション能力の出現だ。これは資本が、岡田の議論をジャンル、世代双方に拡大し、オタクをひとつのマーケット(矢野経済研究所によれば12年度は1兆円弱程度らしいhttp://www.yano.co.jp/press/pdf/1002.pdf。ただしこの統計も、現在扱われるような広範なオタクジャンル全てを含めて試算しているわけではないので、実際はもっと大規模になる)として認知させようとする語りが出現したこと。要は、オタクが金儲けの対象として扱われるようになったことだ。

もうひとつは、こうやってオタクが認知されることで、岡田も想定しなかったオタクが議論上で登場したことだ。それは「萌え」るオタクだ。岡田には新しい世代(オタク第二世代以降)がするとされる「萌え」が理解できない。というのも、岡田にとってオタクは特定のジャンルで自ら世界観を作り、これを語る高感度な存在。一方、「萌え」るオタクは物語=ストーリーなどには全くと言っていいほど関心を示さず、もっぱらその世界を形作るパーツ(キャラや萌え要素)にフェティッシュに熱狂する。語りは二の次だ。これは、哲学者・東浩紀の言う「動物的」=欲望に忠実な状態であり、高感度でもなんでもない。こうなると語らないオタクは「粋」な存在でもなく、それは日本の伝統文化を踏襲しているわけでもなくなるので、岡田の議論とは齟齬を来すことになってしまうのだ。

結局、岡田は自ら「オタク・イズ・デッド」=おたくは、もう死んでいる、と宣言し、オタク論から撤退していった。

ただし、実際に「オタクはもう死んでいる」という議論は無理がある。それは第四象限を展開した岡田の図式が合わなくなっただけだからだ。言いかえれば、岡田が展開したオタク論は新人類という旧式のシステムの焼き直しでしかなかったとツッコミを入れられても仕方がないような展開だったと言ってもいいのかもしれない。事実、オタクはますます市民権を獲得し、またオタク論も相変わらず活発な状況に代わりはないからだ。だから、実のところ「オタクはもう死んでいる」のではなく「オタキングのオタク語りはもう死んでいる」ということだった。

総括すると……社会的性格としてのオタク

こうやってオタク論議のオタクイメージを見てみると、その流れは第三象限(低コミュニケーション+狭いジャンル)の「ネクラ」から、第四象限(高コミュニケーション+狭いジャンル)の「粋で洒脱な趣味人」を経由し、現在、第一象限(広いジャンル+高コミュニケーション)の「資本のマーケットとしての消費者」へ至っていると考えることが出来るだろう。そして、そこでオタクのイメージからは「クラい」というイメージ、「若者の特性」という世代論的な語り、「男性」というジェンダー的な語りが消滅し、あらゆるジャンルがオタクにとっての対象ということになることで、巨大なオタク市場がメタ的な「オタク語り」として登場している。つまり、今やオタクは日本国民のほとんどが分有する「社会的性格」として語られている、いわば「オタクなあなた」から「あなたの中のオタク」という語りに変容していることになるのだろうか。


オマケ:OTAKUはまったく別物

ついでに一つだけ、海外でのオタク事情について触れておこう。メディア的にはクールジャパンの牽引車と目されているオタクだが、これはいろんな意味で誤謬がある。そして、ここまで展開してきた、われわれがイメージするようなオタクとはちょっと異なるので、あえて”OTAKU”と横文字で表記し、この特性について考えてみよう。

OTAKUは局所的な現象

OTAKUには日本文化の中で繰り広げられてきたようなオタクに関する文脈がほとんどない。おそらく、アニメ文化を軸にするサブカルチャー文化が欧米文化の中でクール=カッコイイものとして受け入れられたといった文脈くらいしかないだろう。で、むしろクールなものなのだから、それに抵触する人間は一般よりアーリー・アドプターでコミュニケーション能力の高い存在。だから「ネクラ」なんて言葉はまったく該当しない。

これは、言い換えればいわゆる文化について外人(とりわけ欧米人)が抱く典型的なステレオタイプと同質のもの考えることができる。日本文化といえば禅、武士道、芸者、フジヤマ、秋葉原、スシ、スキヤキみたいな、日本人ならちょっと笑ってしまうような古びたような日本イメージだ。だから、これは日本文化で認知されているようなオタクとは別物と考えたほうがいい。

日本人のOTAKUに対するステレオタイプ

もう一つは、日本人のOTAKUに対するステレオタイプだ。われわれ日本人は自国文化にコンプレックスを持っているのか、どうもちょっとでも世界のどこかで日本のことを取り上げられていることを発見すると、これが、あたかも世界を制覇したかのごとく語りたがる癖がある。例えばサブカル系だったらジブリの作品に対する海外の認識についての誤謬がその典型。実は、全然知られてない(日本国内でジブリはサブカルどころか、とっくにメインカルチャーだけれど)。むしろ世界で知られているのはハローキティやドラゴンボール、アジア圏ならドラえもん、クレヨンしんちゃんといったところ(ちなみに、日本に関して今や最も世界に普及している文化は、間違いなく寿司=Sushiだろう。ただし、このSushiも輸出された先では、その趣をガラッと変える。これは文化人類学でいうところのクレオール化が発生しているからだ)。そしてOTAKU文化の広がりは、実はこのジブリに相当するレベルの局所的なものでしかない(もちろん例外的なものはある。例えば中国でのコスプレブームがそれで、毎年政府が主催するコスプレフィスティバルでは数十万人が参加し、その様子が全国で放送されている。でも、やっぱり全体的には局所的)。

「一部の連中が勘違いしながらオタク文化を享受している」

これがOTAKU文化の現状だろう。

オタクといっても、そう簡単に一括りにはできない。だが、それこそがわが国におけるオタク文化の広がりを示す証左でもあるのではなかろうか。