前回の記事「みのもんたをめぐるジェラシーの連鎖」http://blogos.com/outline/70419/?axis=p:5について、一日の内に多くのコメントが寄せられた。僕の意図をきちんと読み取ってくれたコメントがある半面、まったく意図から逸れたものもあり、半々といった具合だった。ただ、この記事ではみのもんたという有名人=記号をめぐって、これをわれわれがどのように取り扱うべきかについての提案を行ったのにもかかわらず、それがまったく理解されず、むしろそのようにみのを扱ったのではこちらが伝えようとしたこととは正反対というか、「それはまずい」という理解になってしまうコメントが存在したのは残念だ。本ブログはメディア社会論、つまりメディア論という概念を用いながら社会のさまざまな事象を分析し、人々のメディアリテラシーの向上に少なからず貢献しようという前提で展開している。なので、今回は今一度、前回の議論を、いわば「解題」のかたちで説明してみたいと思う。内容をよくご理解いただいた方には、さらに詳しい説明、ご理解いただけなかった方には再度視点を変えて説明ということになる。

みのもんたはメディア的存在

僕が前回指摘した内容を要約すれば以下の通り。みののセクハラ疑惑と息子の逮捕という事件の言説は、事件そのものよりもみのもんたというメディア的存在に対するオーディエンス、そしてマスコミのコンテクストに基づいて形成されている。だから、この疑惑や事件の対象になっている「御法川法男」(みのもんたの本名)というリアルの人物が、メディア上に形成されている「みのもんた」という記号、つまりヴァーチャルな存在によって恣意的に切り刻まれているということを先ずは踏まえて、これらを読むべきである。「みのもんた」については態度がデカい「いけすかないやつ」というコンテクストがメディア上で形成されており、にもかかわらずメディア上でセレブとして扱われている。それゆえ癪な存在、つまりジェラシーを抱いてしまう存在というイメージが成立している。だから「いけすかないやつだから、スキが見つかって叩けば面白い」。そして、今回の事件は格好のトリガーとして機能した。で、こういった「勝手に持ち上げて、勝手に引きずり下ろす」ようなベタな図式は、もうネタにするほどでもないほど使い古されているので、ネタにすらならないんじゃないの?といいたかったのだ。つまり、マスゴミといわれることすらある低レベルの報道を繰り返す連中のクリーシェ=思考が停止した定型的な取材パターンに付き合うな、と。

ところが、コメントの中にあったのは「なぜ、オマエはあんなセクハラタレントの肩を持つのか」「こんなやつを擁護するオマエはセクハラのことがわかっていない。オマエこそセクハラに気をつけろ」「みのは芸能界を私物化している」的な発言だった(くどいようだが全体の半分程度)。で、こういったかたちで僕の今回の記事を批判したコメントこそが、実は、僕がいちばん「やるべきではない」と指摘したかったことなのだ。というのも、こういったコメントはマスゴミというお釈迦様の手のひらの上で操られているだけと考えるからだ。

これらの議論の前提にあるのは明らかにメディア上のヴァーチャルな存在であるみのもんたに関するこれまたマスゴミ的な言説によって染められた文脈=コンテクスト、つまり「みのもんたはメディア上で構築した権力を利用してやりたい放題のことをやっている」という立ち位置だ。しかも、これらのコメントは、自らがこういったコンテクストに立脚しながらこちらを批判しているという自覚が全くない。つまり「思考停止」(そういえばTwitterには僕に対して「どんだけ思考停止って言葉が好きなんだ?」という批判もあった(笑))。そして、こういったコンテクストが「うまいことやっているみのもんた」という存在に対するジェラシーに基づいている可能性があることにも気づいていない。

わかりやすいように、まず僕のみのもんたに対する立ち位置を明らかにしておこう。僕は小学生の頃、文化放送でみのもんたのラジオ番組を聴き始めた頃(72年)から彼の存在を知ってはいる(「Come together」という短めのピンの番組だった)。かといって、みののファンというわけではない。つまり、特に思い入れはない。で、今回の二つの事件。セクハラについては、 みのはセクハラをしているかも知れないし、していないかも知れないと考えている。 つまり、みのがやっているのかやっていないのかについてはまったく判断基準を持っていない。 なぜって?あたりまえだろう。本当のことを知らないのだから。そして、こういった立場はメディアを通じてのみ、みのを見ている人間ならばまったく同条件のはずだ。だって、ディスプレイ越しにしか、みののことを知らないんだから。ようするに証拠をもっていないのだから非難も擁護も出来ないはずなのだ(二つ目の件、つまり息子の逮捕については前回も述べたが、31歳という、とっくに社会人の息子の不祥事に親の責任は問えないという立場だ)。まあ、もちろん仲間内で話題のネタとして利用する分には一向に構わないが、ネット上、とりわけこういったブログとりまとめサイトは公論の場なのだからある程度責任を持った発言が前提される(BLOGOSは2ちゃんではありません)。

にもかかわらず、みのをなぜ非難するのか。その結論が、メディア上の「いけすかない」というみのに対する文脈、つまり「うまいことやっていやがるみの」に対するジェラシーに基づくということなのだ。

唯一の証拠=映像の確証性の無さ

僕が、こうやって「証拠がない」と言ったとき、反論として想定されるのは、テレビ「朝ズバ!」で流された通称「セクハラ」とみなされる映像だ(YouTubeで見ることが出来る)。そう、確かにみのは吉田明世アナの尻の上、腰の部分に触れている。「これこそ動かぬ証拠である」というわけだ。だが、こういったとき、「映像」は事実であっても、しばしば「真実」ではなくなる。たまたま男性が女性の身体に触れた瞬間を切り取り、それをセクハラだと決め込むようなやり方は、かつて3FETと呼ばれた写真週刊誌がやった典型的手法と代わるところはない。たとえば芸能人がドラマなどの打ち上げでパーティを開き、その引け際、たまたま女優と男優二人が先に出てきたところを撮影し、あたかも「密会」に仕立てると行った手口は常套手段として行われてきたのだから。これは、取材する側に先ず「スキャンダルやゴシップという特ダネが欲しい」というコンテクストがあり、そのコンテクストに合わせて写真という事実が切り取られたのである。実際には単なる打ち上げという「真実」が、たまたま二人だけが映っているという「事実」によってねじ曲げられたというわけだ。こういうやり方が典型的な「マスゴミ方式」と呼ばれるものだろう。あることないことでっちあげるわけだ。で、映像・画像という証拠で正当化する。


で、みのもんたのこの映像=事実を見た瞬間、「これはセクハラである」と即断してみのを断罪するというのは、まさにこの「マスゴミ方式」をみのを批判するオーディエンスもまた踏襲しているということになる。しつこいようだが、映像だけを見ていたとしても、一般の人間はその背後の真実を見てはいないはずだ(見ているとすれば、それはオーディエンスではなく業界でみのとかかわってきた当事者たちだ)。しかも映像は一秒にも満たない。それを「いけすかない」というコンテクストに基づいてみのを断罪する。こうやって「みの、けしからん」「それを擁護するやつもけしからん」というとき、そういった発言をする当人は、実は「世界でいちばんエラい神様」になってしまっている。つまり、自分は天の上から全てお見通しと思って疑わないのである。で、これこそが「思考停止」の典型ではなかろうか。

さらに、もっと過激なものもある。いわゆる「陰謀史観」に基づくみの批判だ。みのは芸能界を牛耳る帝王であり、全てのことがやりたい放題という文脈、いわばM資金、フリーメーソンばりのスゴイ力を持っているというもの(まあ、ひょっとしたらそうかもしれないが(笑))。やはり、これもまったく根拠がなくメディア的に媒介されたコンテクスト=みののイメージを無批判・無意識に援用していることはいうまでもないだろう。そして、こういったコンテクストが無造作に適用されたのが息子の逮捕についての「みの責任論」に他ならない。これじゃ、USJでバカをやった学生に対する責任が大学側に求められたのと大してかわらない。果たしてみのはそんなにエラいのか?この文脈だとナベツネや安倍首相すら凌駕する巨大な権力っていう面白いことになってしまうのだけれど。

全ては確たる証拠に基づく

まあ、ここまで書いておくと「どうして、オマエはそこまでみのもんたの肩を持つのか」というツッコミをいれられそうだ。そう、確かにみのもんたは、とんでもない人間かも知れない。しかし、実際にそうであるかどうかは、さしあたり、ここでは問題ではない。批判するなら事実を持ってこなければならないからだ。たとえば、正直、僕も「この人、ちょっと」と思わないでもない。しかし、だからといってみのをバッシングすることは出来ない。それこそ「半沢直樹」ではないが、悪を叩くためにはキチッと証拠で固めて「倍返し」しなきゃならないわけで(みのが「悪」かどうかはわかないが)。そういえば島田紳助(この人も芸能界を牛耳ったとよく言われていた)は確たる証拠を提示され、芸能界を去ったはずだ。

いちばんの問題は、くりかえすが、こういったマスゴミ式のベタな図式にわれわれが振り回されることだ。もはや、何度も繰り返されてきたワンパターンのクリーシェ=常套手段。いくらなんでも、もう乗り越えるべきだろう。「悪の限りを尽くし人々を苦しめてきた輩が、ちょっとしたことをきっかけにひっくり返される」的な安直なマスゴミ的図式に無批判に従っているようでは、本当の悪など倒せはしないのだから。いや、これは口がスベった。もとい、真実など見抜けないのだから。

ネタがもっと面白いものを笑い飛ばしましょ!ただし、仲間内で。

オマケ……なぜ文章をちゃんと読まないのか

ちなみに、ブログに対するコメントについて加えておけば、記事をよく読むこともせず批判するものがあるが、問題外だろう。残念ながらこういったコメントが、結構多い。コメントの中には「(僕が)「女性アナが(みののセクハラを)意に介していないなら、問題無し」(と指摘したの)は、その通りですが、先生は「女子アナは、なんとも思ってない」という前提で話進めてますよね」」というものがあったけれど、これなどは、文章を丁寧に読むこともせず展開したものの典型。ここの下りはセクハラがどういったかたちで成立するのかについて展開したもので「された側がセクハラと感じたらセクハラになる」という原則を述べたに過ぎない。しかしながら、そう読めてしまうのは、彼らの文章読解能力が低いからなのだろうか?(僕のブログは「メディア社会論」なので理論的に展開することを旨としている。だからちょっと難しくなるときもあるが、偏差値50くらいの大学が出題する現国の問題が解ければ十分に理解可能な程度の文章にしているつもりだ)いや、そうではないだろう。読解能力が低いのではなく、要するにこれもメディア的に無意識にすり込まれたみのもんたについてのコンテクストが原文=テクストをねじ曲げて読むように仕向けているからではないか。つまり「飛ばし読み」。僕にはそう思えるのだが。まあ、どちらでもよいが、先ずは文章をしっかりと読んでいただきたいと思う。