あっちもこっちも思考停止

最近メディアを騒がす様々なアジェンダにちょっと引っかかるところがある。たとえば宮崎駿監督の新作「風立ちぬ」をめぐって日本禁煙学会がクレームをつけたこと、学園祭の飲酒をめぐってあちこちの大学がこれを取りやめたこと、体罰をめぐって教育における非暴力の徹底が過激なまでに図られたこと、311の福島第1原発事故をめぐって原発の廃止が叫ばれていること、海外では日本が鯨保護をめぐってバッシングを受けていること、そして韓国が竹島の領有を主張すること。

こういった一連の動きについて、とりあえず僕はこれが正しいとか間違っているとかという指摘は今回の特集では脇に置いておく(もちろん、僕なりに、これらについては立場を持っていることをお断りしておく。たとえば喫煙なら「神奈川県ではタバコが吸えんゾウ」http://blogs.yahoo.co.jp/mediakatsuya/61388334.html、学生の飲酒なら「大学祭での飲酒は、よいキャリア教育になる」http://blogs.yahoo.co.jp/mediakatsuya/archive/2012/10/29、体罰なら「体罰を飼い慣らせ!」http://blogs.yahoo.co.jp/mediakatsuya/64178809.htmlを参照いただきたい)。僕が引っかかっているのは、こういった個々の価値判断ではなくて、これらに共通する価値判断の形式、つまりメディアの様式=語られ方だ。これがどうも危ない気がして仕方がない。で、今回はこれについて考えてみたい。そして、これらすべてに共通する形式を一言で表現すれば、それは「思考停止」ということになる。

思考停止とは~「天才バカボン」で展開された認識論と存在論

「思考停止」はつぎのように定義することが可能だ。すなわち

「自らの立ち位置や前提を一切振り返ることなく、議論を展開すること」

これは哲学の基本用語で言い換えれば「存在論的問いの欠如」と言い換えることができる。つまり、思考停止とは存在論なく認識論のみで議論を展開する態度を示す。ちょっとわかりやすいように引用で示そう。引用元はマンガ「天才バカボン」からの一話だ(ちょいとうろおぼえで多少誤りがあることをご容赦願いたい。あくまで説明のための方便なので)。


学者たちが議論していた。

「『バカとお金は使いよう』ということわざがある。これが本当かどうか実験してみよう。」

ということで、バカの被験者としてバカボンパパが選ばれた。パパに100万円を渡すとどうなるのか?という実験だ。ところがパパは意外なほどにこのお金を「まっとうに」使ってしまった。

何の実験成果も得られない学者たちは、苛立ってとうとうパパに苦言を呈したのだ。つまり、

「なんでキミはバカなのにちゃんとお金を使うのか」

これに対してバカボンパパは次のように返答した。

「それは違うのだ。それをいうなら『バカとハサミは使いよう』なのだ!」

(ちなみに、バカボンパパの職業は植木屋である。つまり「バカにハサミを持たしたら使いようになった」というダジャレ)


このときの学者たちの立ち位置こそが認識論に他ならない。つまりことわざの間違いに気づいていないで、それをそのまま「実験」という「科学的スタイル」(あくまでマンガでの話だけれど)を運用した。一方、バカボンパパはそれに対して存在論的問いを投げかけた。つまり「あなたたちは立ち位置が間違っている」。まあ、ようするにパパは「ちゃぶ台返し」をやったわけだ。

存在論と認識論はモノの認識の二つの側面であり、どちらがより価値が高いのかという議論は意味がない。われわれは考察する際に、時には認識論的に(ディベートなどはその典型)、時に存在論的に振る舞う必要があるだけの話。

問題なのは「片肺飛行」になってしまうこと。例えば存在論的問いばかりやっていれば虚無主義=ニヒリズム(アニメ「ムーミン」に登場するジャコウネズミさん的態度。つまり、この場合、すべては「ムダじゃ、ムダじゃ」といって存在そのものを無化してしまう。これじゃあ議論が成り立たない)に陥ってしまう。一方、認識論的問いばかりやっていれば、いくら手順が正しくても、そもそもその立ち位置が正しいかどうかがわからない。

以前、イザヤ・ベンダサンこと山本七平が著書『日本人とユダヤ人』で「ユダヤ教では全員一致は否決」という記述をしていたが、これは認識論の危うさを回避するためのルールと考えることが出来る。議論というのは必ず反対意見が出るはずという前提があり、ということは一致してしまっている状況は、全員がダマされている、あるいは洗脳されているということになると考えるわけだ。これは、うまい具合に認識論と存在論のバランスをとるルールと言える。

思考停止は○○至上主義

さて、装置が出たところで最近メディアを騒がせている議論にこれをあてはめてみよう。つまり、「これらはどう思考停止しているか?」

禁煙は「タバコ吸うヤツは人間じゃあない。言語道断。映画で描いてもダメ」「お酒は危険。学祭の場であったとしても本来は学業の場であるわけで、飲酒するなんてのは言語道断。そもそも学生が飲酒するのはダメ」「どんな理由があれ暴力は言語道断。躾でもダメ。デコピンすらダメ」「原発は存在自体が言語道断。まったくダメ」「鯨は絶滅危惧種であり、知能が高いので漁をするなど言語道断。調査捕鯨なんてのもダメ」「竹島はもともと韓国の領土なので議論をすること自体が言語道断。日本が領有権を主張するなんてのはもちろんダメ」まあ、こんなところになる。つまり、すべて「○○至上主義」で、立ち位置について議論することそれ自体がタブーになってしまっている(やると激しいバッシングに遭う。議論それ自体より人格を疑われるような非難が展開される)。飲酒や喫煙が法律的に認められていること、体罰が歴史的にある程度教育的効果を持ってもいたこと、場合によっては暴力より精神的な打撃の方が影響力が強いこと、原発がわが国の電力のかなりを担ってきたこと、鯨が日本ではかつてから食文化であったこと、竹島が本来どんなものであったのかについて様々な議論があったこと。こういった「存在論的問い」が、一切考慮されることなく、認識論レベルで議論の補強が延々繰り返される。つまり、繰り返すが「認識論の片肺飛行」。これが思考停止というわけだ。

でも、これって、ちょっとヤバいんじゃないんだろうか?で、思考停止というのは「他者への視線の欠落」。もっぱら自分の主張ばかりを展開し、言うだけ言い放って、決して相手の話に耳を貸そうとはしないという態度なのだから。

この場合、対立する議論が拮抗しているならば、これは延々と不毛な議論が展開するだけだし(社会学の父、M.ヴェーバーは、これを「神々の闘争」と呼んだ。そう全員が神になってしまって譲らないという状況だ)、逆に片方が優勢になってヘゲモニーを握ってしまえば、劣勢の方は一切、主張が通らなくなる(現在、日本で典型的にこの状態になっているのは喫煙だろう。喫煙者は今やレイシズムの中の差別的対象と同じような状態にすらなっている。しかも、これは日本国憲法の人権尊重という理念まで平気で踏みにじって展開される勢いだ)。これじゃ、ヒステリー、いやファシズムだ。

そして、この思考停止=認識論の片肺飛行=○○至上主義=他者への視線の欠落が、結果として社会に対する不寛容と一方的なクレームの跳梁をほしいままにしているように僕には思えてならない。それは、まるでカルト集団のやり方に近い。僕らは、もう少しおおらか=寛容であってもよいのではないか?

しかし、なんで、こんなことになってしまったんだろう?実はこれは情報化社会の、ある種の必然的結果でもあると僕は考えている。次回は情報化社会の進展との関わりでこの原因について考えてみたい。(続く)