高級文化とポピュラー・カルチャー

ホンモノの北の海女さんが、ニセモノの海女方言「じぇじぇじぇ」を使っていることから文化について考えている。今回は後編。

われわれは文化ということばから僕らはどんなものをイメージするだろうか。おそらく文化会館とか文化庁とか文化遺産とか、まあ、そんなところではなかろうか。たとえば無形文化財といったときには歌舞伎や能の役者、陶芸師、そしてこういった人物のパフォーマンスや創り出したものが一般的には認定されている。メディア論では、こういったカテゴリーに属する文化は「高級文化」と呼ばれるカテゴリーに組み入れられている。ようするに「高尚な文化」だ。ただし、これらの多くは「保護」されるべきもの。そして、その多くが放っておくと衰退・消滅する恐れのあるものだ(まあ、だから保護されているのだけれど)。ちょっと表現はあまりよくないが、この文化は、いわば「干物」である。ややもすると、もう先がない。

だが、文化にはもう一つある。大衆文化とかポピュラーカルチャーと呼ばれるものがそれ。これは政策的に保護されることはあまりなく、むしろビジネスなどの消費社会の中で営まれる文化。それゆえ、勝手に盛り上がり、勝手に消滅する。いいかえれば記録に残りづらい文化でもある。そしてこちらは「生もの」ということになる。

北の海女はどっちだ?

さて、北の海女という文化だが、もしこれが消滅の危機に瀕していて、何らかの保護を施すようなことがあるのならば、それは「干物」であり、もはや高級文化に属することになる。あるいは何ら保護を施さなければポピュラーカルチャーの末端の一つとして知られることなく消滅するということになる。

そして、こういった分岐点の最中、北の海女にメディア=朝ドラが声をかけた。もちろんこちらはポピュラー・カルチャーからの働きかけだ。そして、ご存知のように現在大ブレーク中。ただし、本来の北の海女を高級文化的な立ち位置で捉えたら、これはメディア・イベント、つまりテレビ・メディアによる勝手なでっちあげであり、誤りであり、不謹慎なゆゆしきものものとなる。もと北の海女が「じぇじぇ」と喋るなんて許されるものではない。またポピュラー・カルチャーからの働きかけは消費文化として扱われること。だからビジネスめあてに勝手に盛り上げられ、儲からなくなれば見捨てられ、やがてやっぱり勝手に消滅する。実際、こういったメディア・イベント的な盛り上がりは、メディアのまなざしがなくなった途端(ドラマなら放送が終了したとき)、終わる。だから、こうやって勝手に盛り上げて期待させておいて、最終的に捨てられた地元はメディア・イベントを仕掛けた側をしばしば「無責任」と批判する。

自らもメディア・イベントに乗り、イベントを超越してしまうこと

これじゃあ、マッチポンプでどうにもならないわけなんだが。だが、これを回避する方法がある。実は、その端緒こそが元海女さんたちの使う、テレビが作った新方言「じぇじぇ」「じぇじぇじぇ」なのだ。つまり、メディア・イベント的に喧伝された地元のイメージを取りこんでしまい、自分の文化にしてしまうという「したたかな」やりかたが、それ。もちろん、それは高級文化からしたらオリジナルを破壊するもの。しかし、こちらに乗ってしまうことで自らの文化をメインテナンスし、活性化することが可能になる。

実は文化というのは、マス・メディアの発達の過程で、こうやって外部からのメディア・イベント的な要素の取り込みによって継続してきた、いや活性化してきたというのが実際のところだろう。この典型として観光人類学でしばしば引き合いに出されるのがハワイとバリだ。ハワイは「常夏の島」であり、一般にフラダンス、ハワイアン、アロハシャツ、ウクレレ、トロピカル・ドリンクといったものがイメージされるが、19世紀にはこれらのものは一切存在しなかった。20世紀になってハリウッド映画が常夏の島というイメージをでっちあげ、これに合わせたかたちで現在のハワイが創造されたのだ。たとえばフラダンス(正しくはフラ)は、それ自体は以前から存在したが、ビキニに腰蓑というスタイルで、ハワイアン・ミュージックに合わせて踊るというのはハリウッド製だ(ちなみにアロハシャツは日本移民の着物をシャツにしたのがはじまり)。バリは20世紀初頭、オランダの保護政策の下で「最後の楽園」というキャッチフレーズの下、メディア・イベントが展開され、ケチャ、ガムラン、バリダンス、ウブド芸術といったものが再創造あるいは創造されている。これらはいずれも消費文化=ビジネスによるでっち上げだ。だが、これに現地の人間たちが乗った。それによってハワイもバリも活性化し、現在の観光地としての地位を確固たるものにしたのだ。そして現在、それはもちろん、独自の文化として世界に知れ渡っている。

となれば、北の海女さんたちが、自分たちの使わない「じぇじぇ」「じぇじぇじぇ」という宮藤官九郎によって創造された海女ことばを用いるのは文化的にきわめてまっとうで、正しい行為とすべきということにならないだろうか。マスメディアに飲み込まれながら、したたかに飲み込み返してしまえばよいのだから。

6年前、宮崎県知事になった東国原英夫はトップセールスと称して地鶏とマンゴー、焼酎といった県産品をテレビに露出すること、つまりメディア・イベントを展開することによって全国に売り込み、たとえば地鶏=宮崎といったブランドイメージを作り上げることに成功する。そして、これに宮崎県民が乗った。県民が地元の産業を再認識し、県外に向かって自信を持って売り始めたのだ。そして今や、たとえば全国各地に宮崎料理の居酒屋が出店、定着するという事態に至っている(僕が住んでいる川崎は駅前周辺に現在3店舗がオープンし、定着ている)。そして、こういった宮崎県産品の全国展開は、翻って遠心的に宮崎県民に地域アイデンティティーを形成することにも成功している。宮崎の県産品を東国原がヴァーチャルにクローズアップし、全国展開することで、宮崎県民は地鶏やマンゴーを再認識?発見?したというわけだ。これもやはりハイパーリアルが生んだ活性化に他ならない。

文化は生もの、そして常にハイパーリアルなもの

そう、よく考えてみれば、文化というものは「生もの」であることがもっとも正しい「あるべき姿」なのではなかろうか。既存の文化をただ頑固に守るのではなく、文化の外部を常に取りこんでいくことによって文化それ自体をメインテナンス、そして活性化し、さらに自らを不断に変容させていくこと。そしてハイパーリアルとして、常にリアルを更新していくこと。こういったダイナミズムを持ち続ける限り、文化というのは永続することになるだろう。そう、文化とは干物=その中身・コンテンツではなく生もの=変転し続ける形式なのだ。

ようするにホンモノとは何か?そのこたえは「歴史的に実証されたもの」「オリジナルに忠実なもの」ではなく「今、息づいているもの」ということになる。

だから、繰り返すが北の海女さんたちが「じぇじぇ」「じぇじぇじぇ」ということは、きわめて正しい。さらに突っ込んで言えば「じぇじぇじぇじぇ」という新方言を使うことも。ただし、したたかに。