低感度な大多数の消費的な若者に注目する

前回は情報を自由に操るデジタル・ネイティブなど存在しないことをスマートフォンとSNSの使いこなしの現状についての調査から明らかにした。

いや、しかしやはりデジタル・ネイティブは存在する、と僕は考える。そして、これは若者を高感度な存在とするような、資本の側に阿ったイメージを前面に立てなければ、以外にくっきりと浮かび上がってくるはずだ。具体的にはデジタル・ネイティブとは、新しく出現するメディアを消費的に、そして既存のリアルな場でのコミュニケーションをメインテナンスするために利用する若者という側面で考えれば、つまり前回示したスマホとSNSの使い方を踏まえれば案外わかりやすい。

それは、要するに僕が前回示した二十五年前のビデオ視聴について調査した結果の側面と同じところに目をつければいいということになる。あのとき、若者たちは様々な機能を使いこなすのではなく、ただ時差視聴のためにビデオを録画していた。つまり、限られた機能を実にシンプルに、そして消費的に使っていたのだ。そして、現在ビデオ視聴は完全にそういったスタイルで利用されるようになっている。要するにメディアの発達はこういった「時差視聴」にシフトしたかたちで録画という情報行動や情報意識を涵養したのだ(もちろん、これはメーカー側が時差視聴に振ったというよりも、消費者の方がメーカーに振ったと考える方が的を射ている。つまりいくら多機能にしていってもユーザーたちがなびくことは決してなかったのだ)。その結果、録画はどんどん簡単になり、なおかつ保存も安価にできるようになり、さらに録画しようとするコンテンツもアーカイブから手軽に引っ張り出せるようテクノロジーは発達していった。で、そうなったとき、若者たちは映像をコレクションしたり、カスタマイズしたりなんてことを、ほとんどしなくなってしまったのだ。だからDVDやBlu-rayなどレコーダーは(そしてディスクも)思ったほど売れない。見たければいつでもレンタルできるし、ネットから探してくることもできる。撮っておきたければHDレコーダーにワンタッチ予約しておけばいい。そう、メディアの様式を変容させたのは偏差値50の消費者=若者だったのだ。そしてこれは意識的というより、無意識的、身体的に涵養された行動パターンだった。で、これは高感度とはいえないかもしれないが、情報行動・意識の大きな変化とはみなせるだろう。

この図式をスマホやSNSにも敷衍すればいい。つまりスマホを高感度ではなく徹底的な消費物として、どのように利用しているのか、またSNSが世界ではなく、身内や仲間にどう開かれているのか、その様態はどうなのか。このへんが、実のところの目のつけどころではないのだろうか?

偏差値50の層が身体的に反応するメディア様式こそがデジタル・ネイティブの情報行動を規定してきた
だからデジタル・ネイティブとはインターネット、スマホ、SNSについての偏差値50の対メディア行動を探るということになる。そして、こういった偏差値50を探り当てたところが、実を言うと新しいメディアの覇権を握ることになる。スマホであるならば、それはiPhoneだった。iPhone出現以前にSymbianやBlackberryといったスマホ用のOSが存在したが、これはどう見てもオタク=メディア機器に長けた高感度なユーザー向け、それなりに技術を必要とする代物だった。だがiPhoneのiOSは素人=偏差値50でも利用可能なインターフェイスを備えていた。だからどっと人々が飛びついた。そして、このインターフェイスをコピーしたAndroidも普及し、現在のケータイからスマホへのシフトという流れが発生したのだ。

SNSも同様だ。身内でのクローズドなコミュニケーションをヴァーチャル・コミュニティ上で確保しようとしていた若者たちは、まずmixiからTwitterやFacebookへとシフトしたが、最終的に、もっと低感度な情報リテラシーで利用可能なSNSを発見する。それがLINEだった。LINEは無料通話を売りにしたが、その実最も利用されたているのはトークと呼ばれるチャット機能であることはもはや説明の必要すらないくらいあたりまえのことだろう。LINEはmixiとケータイメールとFacebookとTwitterとSMSの「いいとこ取り」かつ「簡略化」といった文脈で使われている。つまり電話帳とアドレス帳のみのデータをアクセスする対象=友達とするので(ワンクリックでこれらデータを検索してリストを作成してくれる)、mixiの閉鎖性を維持しつつ「足あと」などのうっとうしさを排除し、ケータイメールでの絵文字機能をスタンプ化することで拡張して表現力を高め、Facebookのグループ機能が備えるグループの外に自らの情報が流出するという危惧を取り除き、その一方でトークのタイムラインでダラダラと話を続けることが可能になり、Twitterの「バカ発見器」機能に引っかかることもなく、SMSのように一言で済ますこともできるのでメールみたいに長々書き続けたり、終わり方がわからなくて困ったりすることもない。またパケット定額での利用が基本なので、プッシュ機能をオンにしておけばいつでもリアルタイムでつながり、気軽にチャットできる。しかも、これらすべてがスマホというウエアラブルなメディアで、かつチープなインターフェイスゆえメディア機器に対する対した知識も必要とせず、即座に可能になるのだ。


デジタル・ネイティブを再定義する

さてこういったスマホやLINEの使いこなしからデジタル・ネイティブを再定義してみよう。

毎回出していて申し訳ないけれど、もう一度、指摘された「高感度」なデジタル・ネイティブを確認する。つまり、

1.金銭より自らの好奇心を満たしたり社会的に評価されることに関心の焦点がある、2.インターネットを利用したネットワークの構築に長けておりリアルとヴァーチャルの区別をしない、3.年齢差や属性にこだわらない、4.マルチタスクが得意、5.情報は無料。

だった。

一方、スマホでLINEをガンガン使う「偏差値50」のデジタル・ネイティブは

1.社会的評価より身内の評価に関心がある、2.ネットワークを利用したネットワークの構築が苦手で、リアルを重視しているので、リアルをヴァーチャルにしか上げることはない。ヴァーチャル間でのつながりなんか怖くてできない、3.年齢差や属性に徹底的にこだわる、つまり同じ年齢と同じ属性(高校生とか大学生とか)がネットワークのポイントになる、4.LINEの基本的機能しか使わないからマルチタスクは苦手でシンプルの機能ばかりを一本調子で使う。ただし消費的にガンガンと、5.有料スタンプやアドオンには手を出さない(ということは、LINEがプラットフォーム化を図っても、カネを使わないユーザーであるから、付け加えられた有料アプリを購入しない。だからLINEのプラットフォーム化は進まない)。

となる。つまり、面白いくらい全くの正反対になってしまうのだが、こういった層がスマホとSNSのLINEを圧倒的に支持したのだ。そう、こういった消費性を加速する若者こそがデジタル・ネイティブに他ならない。で、これは能動的ではないけれど新しいスタイルなのであり、これはこれでクリエイティブと考えるべきなのだ。

要するにスマホもLINEも偏差値50の若者の「消費性」と「身内コミュニケーション」への欲望をしっかりと見抜いたから爆発的な勢いで普及したのだ。そして、こういったメディアがいずれも若者から普及するということは、やはり「若者は時代を先取りしている」という法則がキッチリ当てはまっているということになる。

で、もっというと、こういった層こそが若者論を研究する側も、マーケティングをする側も注目すべきターゲットだろう。若者論は多くは社会学者に担われているけれど、マーケティング業界のやっていることとほとんど同じという状況になっている。つまり、今回指摘したように偏差値60以上か40以下のマイノリティに焦点を当てる。マーケティングはとりわけ60以上に焦点を当てる傾向があるのだけれど、これは要するにメディアの新しい機能を使わせたいがゆえに、こういった新しい機能にすぐに飛びつく高感度なアーリー・アドプターの実態をことさらに取り上げ、さも「これからはこうやって使うのがあたりまえ」というイメージを形成しているのだ。要するにビジネス的な煽りとして若者というユーザーがでっち上げられる。で、なぜか若者論を担う社会学者もこれに追従してしまう。まあ、資本の側に阿っていればメディアからお座敷の声もかかるだろうし、小銭も稼げる。そんなところなのかもしれないが。でも、社会学は社会病理学ではない。ということは本来偏差値50を探り当てることが課題の学問領域のハズなんだけれど。どっちにしても「掘る穴を間違えている」ことでは同じ穴の狢ということになるだろう。

デジタル・ネイティブなんかいない。でも、デジタル・ネイティブはやっぱりいる!