デジタル・ネイティブの存在と若者論の描く若者像のあやしさについて展開している。前回は若者論が一部の突出した若者を抽出してそれを普遍化=全体化するということで成立してきたこと、そしてこれがメディアと若者関係についての論調ともなるといっそう極端になったこと、だから若者イメージの現在形であるデジタル・ネイティブという「高感度な存在」もきわめてあやしいということを確認してきた。ただし、新しいメディアの出現とともに新しい行動・思考様式を持った人間が出現するということは事実。ということはスマホとSNSの出現と普及は、やはり僕たちの世界観を変えていく可能性を秘めていると考えるべきでもある。じゃあ、どういったものが考えられるだろうか。メディアやマーケティングが叫ぶような「煽り」としての人間像ではなく、もう少し慎重にこれを考えてみよう。
新人類と呼ばれた世代はビデオをどう使いこなしたか
デジタル・ネイティブ、そしてメディアと若者の関係を考えるにあたって参考になる二十五年前のデータ、パターンがある。
当時、若者は新人類と呼ばれていた。メディアや情報機器への親密性が高く、高感度であるゆえ、情報に対する能動性が高いことが指摘されていた。新人類は送り手の提供する情報をただ鵜呑みにするのではなく、これを自らの視点に基づいて積極的に解釈、さらにはカスタマイズする主体的な存在とされたのだ。その典型として挙げられたのがテレビ・コンテンツの見方だった。制作側が意図するストーリー展開など無視し、自由に解釈を加えていく。あるいは制作側の意図を熟知し、それを対象化、相対化するかたちでコンテンツを消費したり、読み替えたりする。そしてこの傍証とされたのが、当時絶大なる人気を誇った大映テレビ室制作のドラマ「スチュワーデス物語」だった。出来の悪いスチュワーデス(現在では、もちろん「フライト・アテンダント」と呼んでいるもの)が訓練所で研修を受け、教官との恋愛を通し艱難辛苦を乗り越えて一人前に成長していく、いわゆる「スポ根」系の物語なのだが、ストーリーは現実からは極端に乖離したデフォルメで構成されていた。つまり、きわめて「わざとらしい」。これをマジメに見ていたら「けしからん!」となるくらい虚飾に満ちた代物だった。ところが当時の若者はこれに熱狂する。ただし、彼らの「熱狂ポイント」は「わざとらしさ」だった。あまりに現実から乖離していてバカバカしいので、かえってその不自然さを楽しんでしまおうという視点に立ったのだ。だから、送り手側が展開していたスポ根物的なストーリーに感動するどころか、「わざとらしい!」と爆笑するという見方になったのだ。こういった能動性の高まった受け手はマーケティング業界では「プロシューマー」と呼ばれた。プロデューサーとコンシューマーを掛け合わせたことば、つまり制作側の視点を持った消費者=視聴者という意味だった。
そして制作側の意図とは異なる独自の見方をするツールとして若者が利用するといわれたメディアが、当時普及し始めたビデオデッキだった。番組を録画、コレクションし、これを繰り返し視聴したり、コマ送りにして詳細を確認したりすることで、番組の構造それ自体を明らかにしてしまう。あるいはトリビアを見つける。こんなことが指摘されていたのだった(その中心的人物は法政大学の稲増龍夫だった)。
しかし、新人類世代であった僕にとってはどうもこの話は、やっぱり「眉唾」ものだった。そんなヤツ、本当にいるのか?そこで88年、大学生(中央大学、東洋大学、熊本短期大学の学生400名程度)を対象にビデオ視聴の調査を行った。そして、その結果は、なんと若者論やマーケティングが指摘していたものとは正反対だったのだ。まず以外だったのが所有するビデオの本数。なんと平均10本程度。だから、映像はコレクションするのではなく、もっぱら時差視聴のために使われていた。つまり一回見たら消してしまう。もしプロシューマー的な視点を持っているなら、こんなことをするわけはない。コレクションとして保存し、繰り返し視聴して制作側の意図を読み取り、それに対して高踏的にこれを批評したり、独自の解釈をするはずだ。だが、そんな七面倒くさいことはやっていなかった。ただ録画してみるだけ。またいろんな視点から映像を見ることもほとんどやってはいなかった。
実は後でわかったことだったのだが、傍証とされた「スチュワーデス物語」の見方についても実はウラがあった。『大映テレビの研究』(竹内義和)という本があり、これがいわば制作側の意図とは異なるもう一つの見方を提示するネタ本として当時の若者にウケているに過ぎなかったのだ。しかも、この本とて手にしている若者はそんなに多いというわけではなく、もっぱらマーケッターたちがこういう「一部の突出した(ただし能動性が高いわけではなく受け売りを喜んでいる)若者」を全体化し高感度な若者を演出するための道具として利用したのだった。「能動的な受け手」という発想自体がメディア・イベント的なでっち上げだったのだ。
デジタル・ネイティブというまぼろし~ チープなスマホ使用
25年も前の調査をここで紹介したのにはわけがある。デジタル・ネイティブに関する記述もこれとほとんど同じパターンだからだ。指摘されていることと実際が大きく乖離している。昨年、僕は大学生(関東学院大学、立正大学、宮崎公立大学300名強)を対象にスマートフォンとSNSの利用動向についての調査を行っている。この結果がデジタル・ネイティブに想定される使いこなしとは、やはり全く異なっていたのだ。デジタル・ネイティブの特徴をおさらいしておく。1.金銭より自らの好奇心を満たしたり社会的に評価されることに関心の焦点がある、2.インターネットを利用したネットワークの構築に長けておりリアルとヴァーチャルの区別をしない、3.年齢差や属性にこだわらない、4.マルチタスクが得意、5.情報は無料。これが、どうなるか?
彼らのスマホ所有率は70%と一般に比べると高い普及率にあったけれど、その使いこなしについてはきわめて限定されていた。つまりメール、ネットブラウズ、ゲーム、音楽視聴、そしてSNSといったところ。一番利用されているのはSNSだったが、これもほとんど身内ツールとして使われていた(詳細は後述)。だから、社会的に評価されるというよりも身内に評価されるツールとしてこれが使われていた。したがってそれはリアルとヴァーチャルを極端に分けた使い方になった。具体的にはリアルな人間関係をヴァーチャル上でヘッジするという使い方。これは言い換えるとネットワーク構築能力の脆弱な部分をスマホでフォローするというやり方だった。当然、ネットワークを利用する仲間は互いに有名、つまりハンドルネームであってもその実名を知っている人間に限られ、だから関わる際には年齢と属性に極端にこだわったものになっていた。面白いのは自宅外でWi-Fiを使用することがほとんどなかったこと、そしてデータをパソコンと連動もしていない人間が半数以上を占めたことだ(つまりスマホを紛失したり壊したら全部パーになる)。この部分についてはマルチタスクどころか究極のシングルタスクという印象(ただしフリック入力はものすごく速い)。そして、彼らが購入するアプリのほとんどは無料のもの。一度も有料アプリを購入したことがないという若者が半数以上を占めていたのだ。
SNSは身内コミュニケーション・ツール
SNSの使い方についてもデジタル・ネイティブの指摘する傾向とは対照をなしていた。たとえばTwitter。自由にツイートし、不特定の人間との間でコミュニケーションや情報交換をするという、Twitterについて指摘されているものとは異なり、これまた身内ツールとして使われていたのだ。彼らのフォロー、フォロワー数はいずれも100人未満。つまり、これらのほとんどはリアルですでに知っている人間たちなのだ。Twitterはツイートした内容が世界に開かれているものだが、それは可能性としてそうであるだけ。実際には若者たちは身内の間でのチャットのツールとしてTwitterを使用していたのだ(だから身内の間ではつぶやいてもいいが、外部に向けてつぶやいてはマズイものをつぶやき、それが世間に広く知れ渡った結果、えらい目に合うという、Twitter=「バカ発見器」という利用法になったりした)。またTwitterにそなわる他の機能(ハッシュタグによる検索など)についても、その利用度はきわめて低かった。
Facebookについては、学生たちは意外なほどに利用していない。Twitterと同様、彼らにとってFacebookはちょっと使うのが難しいツール。そこで、Twitterの場合は身内の連絡ツールとして使う方法を思いついた(mixi代わり)。ところがFacebookはよくわからない。また、実名なので怖い、プライバシーが漏れてしまう恐れがあると思い込み手を出さない(その半面、ある意味もっとアブナイTwitterには手を出して、バカ発見器に引っかかる)。グループを作ってみても、これがどこと関わって、どこに情報が伝わるのかわからないので、おっかない。
こうやって考えてみると、う~ん、どこにデジタル・ネイティブなんかいるんだろう?と考えてみたくもなってしまうのだけれど。
それでも、僕はデジタル・ネイティブは存在すると考える。ただし、高感度な存在という文脈でないところに。(続く)
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