デジタル・ネイティブって、知ってます?

デジタル・ネイティブということばをご存知だろうか?2008~9年頃に話題になった、デジタル世代の若者や子どもに与えられた呼称だ。命名元はイギリスの調査会社のガートナーといわれている。「生まれたときからインターネットやパソコンのある生活環境の中で育ってきた世代」(Wikipedia)で、具体的には90年代以降に生まれを指す(70年代以降、80年代以降生まれという指摘もあり、混沌としている。ただし、騒がれたのは2008年)。一方、それ以前の世代は途中からこういった情報環境に接することになったので、これと比較してデジタル・イミグラントと呼ぶ(まあ、ようするに「移民」というわけだ)。

その特徴を一言で示してしまうと、それ以前のアナログ世代(つまりデジタル・イミグラントたち)の感性や習慣を引きずらないところにあるとされていた。具体的にはインターネットやコンピューターを過去のメディア利用スタイルにこだわることなく用いるため、1.金銭より自らの好奇心を満たしたり社会的に評価されることに関心の焦点がある、2.インターネットを利用したネットワークの構築に長けておりリアルとヴァーチャルの区別をしない、3.年齢差や属性にこだわらない、4.マルチタスクが得意、5.情報は無料と考えている、といった心性や行動傾向があげられていた。2008年当時には、 こういった認識でネットを駆使した結果、10代にしてネットビジネスでミリオネアになってしまうような才能を発揮するような若者が登場していることなどが指摘されていた(2008年のNHKスペシャル特集「デジタルネイティブ」など)。また、情報関連機器のマーケティングのセグメントとしても注目されていた。

スマホとSNSの普及でいよいよデジタル・ネイティブ出現か?

ただし、最近はとんとこのことばを聞かないのだけれど……まあ実際、あまり流行語にはならなかったことも事実。ただし、このことば、今年になってもチョボチョボと出現するようになってもいる。というか、ひょっとしたら今度こそ派手なことばになるかもしれない。というのも、このデジタル・ネイティブを取り上げるのに格好な環境が出現しているというような社会的、技術的文脈があるからだ。それはスマートフォン、そしてSNSの普及だ。この二つは、コンピューターのカジュアル化、そしてウェアラブル化を徹底的に推進してしまうメディア=ツール。だから5年ほど前にはパソコンとインターネットをベースにしていたこの議論が、パソコンがスマホに置き換わり、コンピューター=インターネット環境が偏在することによって盛り上がることが考えられる。つまり、スマホを所有することで、前述した特性が一気に引き出される可能性があるのだ。ということは、まさにデジタル時代の「新人類」が誕生するということになるのでは?と、期待を抱かせないでもない。

これは「いつか来た道」だ!

だが、ちょっと待てよ?この手の話ってのは、新しい世代についての語りについてこれまで展開されてきた典型的なパターンじゃないの?そう、いわゆる「若者論」って文脈で。で、調べてもらうとわかるのだけれど、若者論ではこういった高感度で高性能な若者ってのがその都度、議論の俎上に載せられ、大騒ぎした挙げ句、結局全くもってハズレという事態を繰り返してきている。しかも、それは今日の若者論においても全く変わりがない。だから、これも「いつものパターン」として眉にツバをつけて考えた方がよさそうだ。ということはデジタル・ネイティブという世代の存在、つまりことば自体があやしいし、スマホとSNSが普及したところで、決してデジタル・ネイティブが出現して世界を席巻することもないと考えた方がよいのでは?

そこで今回はデジタルネイティブが、実際のところ可能性としてあり得るのかをメディア論的に考えてみようと思う。結論を先に述べておけば「これまで話題になってきたようなデジタル・ネイティブなど存在しない。しかし、立ち位置を変えた瞬間、デジタル・ネイティブの存在はきわめてリアルなものになる」ということになる。ちなみに今回の特集は若者論への批判でもある。

そこで今回は、先ず若者論で語られてきた新しい世代についての典型的な語り口のパターンを確認、これを否定することから始めたい。そして、そこから騒がれてきたデジタル・ネイティブという幻の正体を明らかにしてみたい。これを踏まえ次回、新しい世代についての可能性についての見方を提示し、その見方に基づいてデジタル・ネイティブの可能性について考えていくという段取りで展開していく。

偏差値60以上(あるいは40以下)の世界

これまで若者論での若者像は常に「一部の若者を取り上げ、それを無根拠に普遍化=全体化する」というやり方で展開されてきた。これは若者についての語りが「若者論」と呼ばれる以前(「青年論」と呼ばれていた)の60年代から変わるところがない(昨年出版された『絶望の国の幸福な若者たち』古市憲寿、講談社などはその典型で、古市がまとめている若者文化の歴史は、この「一部の若者を取り上げる」パターンを並べるという、荒唐無稽にダメを押したような展開になっている)。そして、取り上げられる若者を一言で示してしまうと「偏差値60以上の若者」ということになる。もう少し丁寧に説明すると「大都市圏にある偏差値60以上の大学に所属している文系男子大学生」のうち「より行動が活発でコミュニケーション能力が高い若者」というマイノリティとなる。60年代末なら学生運動に打ち込んでいた学生、80年代なら出回り始めたパソコンを駆使し、ギョーカイに詳しく、イベントなどを立ち上げる文系の若者(「新人類」と呼ばれた)が抽出され、これが「いまどきの若者」として若者の全てであるかのようにおおっぴらに書き立てられた。ちょっと考えればすぐにわかることだが、若者論で取り上げらた若者は、当該世代の若者のほんの一部でしかない。言い換えれば偏差値50あたりの「マス」な学生たち、アクティブで無い学生たち、そして学生ではないそれよりもはるかに大多数となるフツーの若者たち(70~80年代の大学進学率は30%以下。現在は50%)は蚊帳の外の存在として無視され続けてきた。

ちなみに偏差値40以下の若者を扱うという傾向もある。バブル崩壊後の90年代以降、若者に対する論調は時代の低調さを反映し、それまでのもの(たとえば「新人類」など)と打って変わってネガティブなものとなった。オタク、引きこもり、ニートなんてのがその典型。だが、これもまた当該世代の若者の一部を強調し普遍化=全体化したものであることでは全く同様だ(ちなみに「偏差値40以下」と表現したが、要するに「否定されるべきマイノリティ」という意味で用いているのだ、実際に大学偏差が40以下というわけではないことをお断りしておく)。

こうなってしまうのは、要するに若者論を展開する論者の多くが首都圏の高偏差値系大学に籍を置く「大学教員」であるからというところにある。教員が余技で身の回りのちょっとトンガった若者を描いてみたというのが若者論の本質といっても過言ではないかもしれない。

若者論の中でも最もデフォルメが激しい「若者とメディアの関係」

そして若者論はメディアの議論になると、この「一部を普遍化する」というデフォルメがさらに極端になる。80年代前半なら「新人類」ということばについての議論がその典型だった。新人類は「既存の価値観に流されることなくパソコンやメディアを用いて情報を駆使し、コミュニケーション・ネットワークを構築して自己実現を達成していく高感度な存在」と表現されたのだった。僕は新人類世代のド真ん中に位置していたのだけれど、自分の周りで、こういった新人類的な人間をほとんどといっていいほど見かけることはなかった。むしろメディアが流布する「新人類という価値観」に翻弄され、自分も新人類じゃないとヤバいみたいな強迫観念に駆られている「既存の価値観にもっぱら流される」「低感度な」若者ばかりだった。

それでも、若者たちがメディアを駆使するという前提で語られるのが若者とメディアの関係だ。前述の新人類ならWALKMANやビデオ、そしてパソコンが引き合いに出され、これを使って外部世界に大きく打って出るというような表現がもっぱらなされたのだ。

で、こうなってしまう理由は結構単純。新しいメディアの出現は、その機能を駆使することで生活の利便性や行動パターンの変容が期待できる。つまりメディアは「カーゴ信仰」的に捉えられ、それに最も順応が早いのが若者である、いや若者であって欲しいという資本の側(そしてマーケティング側)の都合によって「煽り」として、こういった「高性能で高感度な若者」がデッチ上げられたのだ。だから、当時からメディアに関する記述で若者論にエピソードとして登場する若者は、新しくビジネスを始める、すっごくクリエイティブなごくごく一部の若者ということになった(当然、ビル・ゲイツ、スティーブ・ジョブズ、西和彦といった、さらにごくごく一部の若者がさながら全若者の代表=イコンのように語られたのだった)。

新人類はいなかった、ということは……

しかし、すでに述べたように、そんな奴らはいなかった。つまり「新人類」は存在しなかった。しかし、その後もメディアと若者の関係は新しいメディア、とりわけ電子メディアが登場する度にデフォルメしたかたちで表現され続けた。たとえばポケベルやケータイ。これも全く同じ脈絡で語られている。ただし、結構ネガティブな文脈が強かったのだけれど。典型的なのが「ケータイ利用によるコミュニケーションの希薄化」という議論で、ヴァーチャルなコミュニケーション関係ばかりだとリアルな人間関係がおかしくなるという警鐘がまことしやかに鳴らされた(これについては松田美佐などの社会学者がこれを否定している)。

つまり、新しいメディアが登場した際に語られる若者に関する議論は、先ず疑ってかかる必要があるのだ。ということはこのデジタルネイティブという考え方も「一部を普遍化する」いつか来た道。だから、とりあえずは「眉にツバ」して見た方がいい。ということはスマホとSNSの急激な普及があったとしても、やはりこういった高感度な若者が出現し、それが若者の大多数になるとは考えない方がいいということになる。

ただし、だからといって新しいメディアの出現と普及が若者の情報行動や思考様式を変えることはない、というわけではないだろう。とりわけ「スマホというコンピューター=インターネット環境」の偏在化は若者に何らかの根本的な変化をもたらしているのでは?と僕は考える。ただし、それは若者論のように偏差値60以上、あるいは40以下を見ても決して明らかにならない。じゃあ、どこを見ればそれが明らかになるのか?それはマス、つまり偏差値50のメディアの使い方を見ることにある。(続く)