タモリの芸風からマンネリズム=ワンパターンがいかに重要であるかを考えている。タモリは、番組においては大まかな決まり切った進行を制作側に任せ、そのシナリオ上で自由に立ち回ることに魅力があることを前回は確認した。今回はこれを踏まえ、その内実、つまりマンネリズム=ワンパターンの番組制作上(そしてすべてのコンテンツ)における役割について考えてみたい。ただし、それはマンネリズム=ワンパターンという図式を解体することでもあるのだが

「タモリ倶楽部」は究極のマンネリズム

再びタモリの番組について考えてみたい。おそらく、もっともタモリのスタイル=芸風が反映されている番組は「タモリ倶楽部」だろう。この番組は、ほとんどシナリオというものがない。テーマが決められ、そのテーマについて関係があるような、無いような人物たちが登場し、ダラダラと話を続けるだけだ(ただし、誰もが話術に長けている。ちなみに全てロケ)。テーマは思いつくものならなんでもいい。鉄道がその代表的なものだが、どこかの場所についてのことであっても、グッズであっても、人物であっても、現象であっても、もう、ほんとうになんでもいいのだ(鉄鍋とかハイサワーとかインド人がやっている飲み屋とかがテーマになったこともあった。稜線なんてのもあったが、これはおそらく「ブラタモリ」のヒントになっているのではなかろうか)。典型的なのが「酒飲み」の特集で、ラーメン屋でどうでもいい酒を飲んだり、中野・新井薬師にある日本銘酒会の酒屋・マチダヤで何種類も酒を飲んだりするだけ(試飲する場所も店の向かいの空き地だった)。 で、これは要するに「どうでもいい設定」というワンパターンの形式があるだけなのだ。 いいかえればほとんどコンテンツ無し。ところが、こうやって雑に、そしてゆるくやればやるほど番組はむしろ面白くなる。それぞれが勝手に語り、それにツッコミを入れる。

また、一般のトーク番組だと聞き手と話し手、仕切り手と仕切られる側が分離していることが多いが(「徹子の部屋」「さんまのまんま」がその典型。それぞれ黒柳、さんまが仕切っている)、「タモリ倶楽部」の場合にはこれがほとんどない。ひたすらジャムセッションが繰り返される。だが、こういった「コンテンツ無きに等しいコンテンツ構成」のおかげで、登場人物によって無限のパターンを繰り出すことが可能になる。しかもタモリが仕切らないのでタモリの押しつけがましさもない。強いて表現すればタモリが押しつけるのは「押しつけがましさ」ならぬ「押しつけがましさ無しさ?」といったところ。さながら羊飼いのように出演者を遊ばせるのである(だから、しばしば休んでいる)。言い換えれば、タモリ自身にすらコンテンツがない。

マンネリズムはワンパターンではない

タモリのこの展開は、まさにマンネリズムの極致といっても過言ではない。しかし、面白いことに、これは実はワンパターンではない。むしろ万華鏡のように変化するパターン。そしてそれが番組のダイナミズムを生み、フレッシュさを維持するポイントとなっている。

これは「マンネリズム=ワンパターン」という図式で番組を捉えることが誤りであることを示唆している。マンネリズムは確かに一見するとワンパターンだ。だが、こういったワンパターンを安定して提供することでコンテンツを消費する側は、このパターンに親密性を覚え、アクセスビリティを高めていく。つまりコンテンツそれ自体よりも、コンテンツを作り上げている形式=メディア性に馴染んでいく。だから先ずはワンパターンを作り上げることは、実は重要なのだ。

問題はその先だ。そういったパターン=形式上で番組がどのように展開するか?これが番組の魅力のキモとなる。たとえば「ドラえもん」。そのパターンは九割以上が同じもの(問題状況の出現→解決手段の提示→一旦解決→悪用→因果応報)。そしてこのパターンは子どもですら身体的に馴致可能な素朴なものだ。だから作品に親しみを覚え、ドラえもんに飛びつく。つまり、ワンパターン。しかし、そのワンパターンの中で様々なバリエーションが展開される。毎回異なったひみつ道具が出され、これが様々なシチュエーションで用いられていくのだ。つまり全く同じパターンで様々な展開=変化を生み出す。こうなるとむしろワンパターンの方がいろんな表現がしやすいということになる。そう、これこそがマンネリズムのすごさに他ならない。ちょっと他の長寿番組を見てみよう。ずーっと続けられてきたので有名なのは「水戸黄門」「笑点」「生活笑百科」あたりだが、これらは全てワンパターン。ただし、どこでどのような条件で印籠が出るのか、大喜利で林家木久扇はどんなバカをやるのか、上沼恵美子はいかに荒唐無稽なウソをつくのかといったかたちで形式を踏まえたバリエーションが展開する。この差異が見たくて視聴者はチャンネルを合わせるのだし、これが無限に登場することで継続してこれを見続け、最後は番組を見ることが水みたいな「日常」へと転じてしまうのだ。

つまり、番組を成立させるにあたっては二つの条件が必要ということになる。


1.必要要件としての”コンテンツに対する安定した形式”

2.十分条件としての”形式を踏まえた展開”


前者は原則ワンパターンでなければいけないが、後者は常に変化していく必要がある。これが可能となったとき「マンネリズム=ワンパターン」という図式は崩れる。マンネリズムは永続する魅力的なスタイルに転じるのだ。一方、”2=形式を踏まえた展開”がワンパターンになったときにはまさにこの図式が当てはまり、視聴者たちは飽きてしまい、「ワンパターンだから飽きた」ということになって、番組から離れていく。こうなってしまった典型が「水戸黄門」だ。これは同じ時代劇の必殺シリーズと比較するとよくわかる。必殺は1こそ完全にワンパターンだが、仕事人が頻繁に入れ替わり、繰り出す必殺技も変化していくことでバリエーションの展開に成功している。危機に陥ったのは1の維持が難しくなる恐れがあった中村主水役の藤田まことが死去したときだったが、仕事人の一人である渡辺小五郎役(渡辺もまた中村同様昼行灯というキャラクター設定だった)の東山紀之にこの役割を移すことで切り抜けている。一方、「水戸黄門」の場合、役割設定を固定しすぎ、展開のバリエーションが出尽くしてしまった。

そして、この究極のスタイルがタモリの番組に他ならない。タモリはものすごくシンプルでわかりやすい必要条件(ほとんど展開というものがない形式)を用意して視聴者を惹きつけ、そこにゲストを頻繁に入れ替えるとともに、自らもでしゃばらない程度に「適当」に仕切ることで、見事にマンネリズム=ワンパターン図式を打破している。だから、これからも賞味期限切れになることなく、本人が引退しない限り、タモリは延々とテレビに出続けるだろう。(逆に言えば、さんまやワイドショーのパーソナリティ(みのもんた、小倉智昭など)は仕切っているぶん自らの力量が求められ、最終的には2=十分条件がワンパターンになって飽きられてしまう可能性がある。小倉などはその典型だろう)。

でも、こうやってみるとやっぱりタモリの演出はジャズだなあ!

やっぱり、タモリのマンネリズムは偉大なのである。