長寿番組三本を持つタモリ

タモリは二十五年以上続く長寿番組を「タモリ倶楽部」「笑っていいとも!」「ミュージックステーション」と三つも抱えている。そしてこの三つの番組、大して視聴率が浮き沈みすることもなく延々と続いてきた。これら番組に共通することがある。ワンパターン、そして究極のマンネリであること。本来ならマンネリ=ワンパターン化してしまったものは飽きられるはず。ところが、タモリの場合、決してそうはならない。なぜだろう?

僕もタモリが担当するこの番組を開始当初から飽きることもなく、ずっと見続けてきた。というより、飽きるとか、飽きないとかという軸が全くない状態で、ほとんど日常、ほとんど水のように、ただダラダラと見続けてきたのだけれど……。でも、僕のようにタモリの長寿番組にダラダラと付き合ってきた人間は多いのではないか。そして、それこそがタモリの人気の秘密なのではないか。

そこで、今回はタモリの人気の秘密について考えてみたい。ただし、今回の最終的な目的はタモリ個人の人気を明らかにしようとすることにあるのではない。まあ、それもあるが、一番のねらいはタモリが延々と続けるワンパターン=マンネリズムということばの意味についてメディア論的に考えるところにある。そして、そのための典型的な存在としてタモリを分析しようというわけだ。実は「究極のワンパターン=マンネリズムは最もワンパターンでない」という逆説的な結論、そして「ワンパターンこそ最も偉大な作風・芸風」であることを明らかにしていきたい。

アシスタントや脇役が重要な役割を占める

先ずはタモリの芸風をい見てみよう。上記にあげた3番組(そして、これまで担当してきたほとんど全ての番組)はいずれもほぼ同じパターンで構成されている。構成作家やディレクターによる大枠の構成と進行が用意され、その他はほとんどタモリにお任せというやり方だ。ただし、この「お任せ」というのはタモリにひたすら仕切らせるというのとはちょっと違う。多くは横に進行役としてのアシスタントを用意する。たとえば「ミュージックステーション」では女子アナが、「笑っていいとも!」ではテレフォンショッキングのコーナーを除けば、すべて他のタレントが(SMAPメンバー、爆笑問題、関根勤など)、そして「タモリ倶楽部」では週替わりで准レギュラーのタレント(空耳アワーではソラミミスト・安西肇)が、また「タモリのボキャブラ天国」では小島奈津子が、「トリビアの泉」ではこれを高橋克実と八嶋智人が、「ブラタモリ」では久保田由祐佳がその役を担っている。

ただし、この構成は骨太ではあるが、やはり大雑把。枠だけが用意されるというパターンだ。そして、この「ゆる~い」構成の中、タモリもまたゆる~く番組を展開していく。ただし前者は「カチッとしたゆるさ」、つまり大枠だけはしっかりしているという形式、後者は本当にゆるいそれだ。タモリの座右の銘は「適当」で、スローガンも「明日やれることは今日やらない」と、まさにこのゆる~い展開を確信犯として展開していることを臆面もなく言い放っている。実際、番組中もよく休んでいるし、他のタレントから「休むな!」と指摘されることもしばしば(笑福亭鶴瓶がよくこうやってつっこんでいる)。しかし、このゆる~い展開こそが、実はタモリの本領、そしてマンネリズムの極値=キモになっているのだ。

タモリの芸風はジャズの「モード手法」

タモリは早稲田時代ジャズ研に属し、トランペットを担当していたが、仲間から「マイルスのトランペットは泣いているが、オマエのは笑っている」と指摘され演奏者を断念。MCに回ったという経歴を持っている。しかし、タモリをジャズマンとして捉えると、その芸風はむしろくっきりと見えてくる。とりわけ前述のマイルス・デイビスがビバップを基に完成したと言われる「モード手法」(典型的なスタイルは59年のアルバム”Kind of Blue”で聴くことができる)に例えるとよくわかる。ビバップはコード進行やメロディ、ハーモニー、リズムに合わせて各パートがアドリブを展開するのだけれど、こうすると結局のところリこれらに拘束されて自由な表現ができない。そこでこれらをある程度無視して自由に演奏するというスタイルが採られた。これがモード手法だ。

ただしそうした場合、もし全員がコードなどの規則を無視して演奏したらこれはメチャクチャになる(モード手法の後に現れたフリージャズがこれに該当する)。だから、自由に演奏できるのは原則的にはソロパートを取っているときで、それ以外はコードやリズムをキープする必要がある。

タモリのやり方はまさにモード手法と呼ぶのがふさわしい。アシスタントにリズムやコードキープ、つまり進行を任せ、自らはソロイストとして自由にアドリブを展開する。しかも、しばしばこれらは無視だ。だがアシスタントがキープし続けるので自由にアドリブが展開できる。

ただし、ここで面白いのはタモリは必ずしもソロをやりっ放しというわけではないところだ。つまり、時にはバックに回ってコードやリズムをキープし、アシスタントやゲストにソロを取らせる。これがタモリが「休んでいる」時なのだ(実際全く何もしていない=演奏していないで時間が進行することもしばしばある)。だが、こうすることでジャズのインタープレイ(ソロを交互に取り合う)と行ったスタイルが出来上がる。

で、こうすると面白いことが起こる。要するにタモリはジャズバンドのリーダーとしての役割を担うが、ユニットを組んだ他のメンバーに自由にやらせることもできるわけで、その結果、メンバーを入れ替えることで同じワンパターン=形式でありながら、相手のパーソナリティも生かし、無限にパターンを創り出すことが可能になってしまうのだ。

しかも、それぞれのアドリブを展開する場面を用意するだけではない。時にはアドリブに関しては素人的な存在まで無理矢理ソロを取らせ、その能力=パーソナリティを開花させてしまうという離れ業もやってみせる。たとえはNHK「テレビファソラシド」では、ベタにNHK的な女子アナの大御所・加賀美幸子アナに、「ボキャブラ天国」では小島奈津子アナにツッコミを入れ、アドリブを取らせてしまった。そこに、観客=視聴者たちは新しい意味=面白さを発見するのだ。

フリーな側面も

また、そのアドリブはモード手法にあったスタイルとも少し違っていて、ややもするとフリージャズ的な側面もある。モード手法の場合、ソロパートの順番はだいたい決まっている。たとえば60年代当時(“Kind of Blue”は59年)のマイルス黄金期のクインテットだったらトランペット(マイルス)→テナー(W.ショーター)→ピアノ(H.ハンコック)→ベース(R.カーター)→ドラムス(T.ウイリアムズ)→トランペットという順番。ソロを取っていないとき、各パートはバックでコードとリズムを刻み続ける。ところが、タモリの場合は相手がソロを取っているときに介入し、その場でインタープレイを展開する。つまり、つまり相手がトピック=アドリブをすると、これにヒントを得て、今度はそれに関連するトピック=アドリブを語り出す。そして、同じトピックのコントラストがそこで生まれるのだ。 

ひたすら「適当」

ただし、この仕切り方もまた「適当」。こういった掛け合いをするとき、一般のパーソナリティ(たとえばみのもんた、明石家さんま、小倉智昭)などとは異なり、決して相手の話をまとめて「場を締める」ということをやらない。相手のアドリブに対してタモリはその変奏をやってみせるだけなのだ。だから、二人は主題こそ同じだが全く別の話をする。その結果、相手との対話において自らがイニシアチブを取りながら仕切ることをしていない。言い換えれば無理矢理まとめに持っていくことは絶対にしない。しかも、話は唐突に終わる。だから、仕切りが「適当」なのだ。だがこの時、場はタモリ色に染まる。相手に適当に喋らせ、それに対して自分も適当に答える。場はリラックスしたムードに包まれ、それがさらに次の話=アドリブをインスパイアーしていく。そして、このムードが視聴者側にも伝染する。見ている内に、だんだんこの「ゆるゆる」「ダラダラ」ムードのパターンへの中毒症状が現れるのだ。

こういった「適当」な、無責任と言ってもいいほどの「仕切っているようで仕切っていない、仕切っていないようで仕切っている」というタモリ風演出(つかみどころがないゆえ爬虫類=イグアナということになるのだろうか?)が、今回取り上げた三つの長寿番組(そして全てのタモリの番組)に共通しているワンパターン、マンネリズムの魅力なのだ。そして、このマンネリズム、実は長寿番組と呼ばれる全てに共通している。じゃあ、それは何か?次回はこの構造についてみてみたい。この時、われわれが魅力を感じているのは、実は番組の内容=コンテンツではなく形式=フォルム=メディア性なのだ。(続く)