前回まではワイドショーが格好のヒマつぶしになること、現代人のプライバシー防衛と嗜好の多様化をヘッジするネタを提供する機能があることを指摘しておいた。ただし、これはある意味「テレビ」というマスメディア全般にも適用可能な特性でもある。だから、テレビの中でもワイドショーが備える特異な社会的機能=必要悪をさらに抽出する必要がある。そこで、最後にこの部分についてツッコミを入れてみよう。

話は再びテレビ≒マスメディアが備えるネタ提供機能に戻る。テレビからは容易に表出=共有コミュニケーション(「伝達」の他にコミュニケーションが備えるもう一つの機能。カタルシスを獲得し、他者との親密性を形成する)のためのネタを取りこむことが可能であることを前回は指摘しておいた。つまり、プッシュ機能(送り手が大量の受け手に一方向的、垂れ流し的に情報を供給する機能。受け手は受動的に情報を受け取る)によって多くの人間がテレビによる一元化した語りに接することになるので、容易にネタとして取り上げることができる。それによって対面の場で情報の共有が可能となり、互いの中に同質性を見出すことで親密性と連帯を感じることが出来るようになるということだった。

ワイドショーは「悪口」を喚起することで強い連帯と優越性を容易に確保可能にする

そして、この機能にさらに拍車をかける、つまりいっそうの親密性と連帯を加えることを可能にするのがワイドショーなのだ。

これまたすでに述べたことだが、マスメディア発達以前、共同体の中で人々のコミュニケーションのネタは共通の隣人だった。ただし、自分がいない場合には自分がネタにされ、プライバシーが常態的に暴露される。だが、それでは人権意識の高いわれわれにとっては困る。そこで、現代では芸能人などのディスプレイ上の有名人をもっぱらネタの対象とすることで、プライバシーを維持しながら表出=共有のコミュニケーションを可能にする、というやり方が生まれたのだ。

さて、ワイドショーの必要悪としてのアドバンテージのポイントは「人をネタにしたコミュニケーションの構造はどうなっているか?」といったところに立ち入ることで見いだすことができる。かつてあった共同体で相手をネタとするとき、そのネタのほとんどは、実はネガティブなもの、つまり「悪口」だった。なぜ、そうなるのか?この構造は単純だ。われわれは他者とネタを共有し連帯感を得たい。ただし、このときそのネタを共有することでコミュニケーションを交わす双方がネタとなる相手に対する何らかの優越性を獲得できれば、一層カタルシスを感じることができる。そのためにはその他者との差異化を図ればいい。つまりネタとなる相手に比べて自分たちが優れていることを示せばよい。しかし、それは簡単なことではない。優越性を獲得するためには差異を示さなければならなければならないが、そのためには何らかの努力が必要となるからだ。そりゃ、しんどい。

しかし、簡単な方法がある。それが「悪口」だ。自分たちの優越性を誇示するのではなく、ネタの相手をこき下ろすことによって、結果として自分の立場が差異化され、努力なくして優越性を獲得することが可能となるのだ。自分をアップさせるのでなく、相手をダウンさせることで差異を獲得するという戦略だ。

そしてこれを二人でやると連帯感はいっそうアップする。まず、ここまで述べてきたようにネタの共有による同質性で連帯感がアップ。さらに話をしている二人はネタになっている相手よりも優越性が高い。そして、それを確認することでもう一つ連帯感が加わるのだ。「あのバカな○○に比べると、私たちってイケてるわよね」ってなことになるのだ。ちなみに、これはコミュニケーションを交わす相手の数が多ければ多いほどその効果は高くなる。自分たちが多数派になり、話題の相手をこき下ろすことに、より正当性が感じられるようになるからだ。

そして、これこそがワイドショーの得意とするところとなる。つまり、有名人のゴシップを取り上げこきおろす、犯罪事件を取り上げ、そこに登場した犯罪者を非難し、その一方で被害者に同情を示す。こき下ろそうが、非難しようが、同情しようが、要するに結果として視聴者側はそのような状況に陥っていない自分に優越性を感じ、上から目線でネタとなる相手を見ることができると同時に、その優越性を対面の場で共有して親密性を高めるわけだ。「ヒトの不幸は蜜の味」とは、実はコミュニケーションの本質に関わることばに他ならないのだ。

いわば、長屋の井戸端会議でやられていた「人の噂コミュニケーション」を今日風に「洗練化」したものが、この「ワイドショーをネタにしたコミュニケーション」に他ならない。

ニュースもまた必要悪?

さて、ここまで必要悪=現代人のコミュニケーションの必需品としてもっぱらワイドショーを取り上げてきたが、実はこれと全く同じ構造を有するテレビのジャンルがもう一つある。それは「一般のニュース」だ。よくよく考えてみればニュースのほとんどは実はどうでもいい内容ばかり。たとえば最近だと橋下徹大阪市長が従軍慰安婦問題について不謹慎な発言をしたなんてのがこれに該当する。一介の市長が従軍慰安婦問題をどのように発言しようと実は大した問題ではない(橋下は首相ではない)。ところが橋下自身がメディアの寵児であり、われわれの表出=共有コミュニケーションのネタとしてはもってこいの存在。そしてそのことをマスコミは知っている。だから、橋下の発言の一部をはしょり、問題視するような文脈に流し込んでねじ曲げ、大々的に報道する。でも、そうすることで「やっぱり橋下さんは~」みたいなかたちでコミュニケーションが盛り上がる。ねじ曲げた方がネタとしてははるかに盛り上がるからだ(見下しやすい)。全てとは言わないが、ニュースもまたその多くが、こんな「マスゴミ」的なトピック、つまりネタになる情報、そして演出で埋め尽くされている。だからその質としてニュースとワイドショーは五十歩百歩だし、われわれのヒマつぶし、表出=共有コミュニケーションを開くという重要な「必要悪」としての機能を備えていることでも五十歩百歩ということになる。そして現在、こういった「どうでもいい報道」パターンが一般のニュースをどんどん浸食しつつある。そう、実は報道自体がどんどんワイドショー化しているのだ(NHKの7時のニュースで被害者の葬式が報道されたことがあったが、これって「伝達内容」としてはほとんど情報価値0%、つまり「必要なし」。しかし、メロドラマのお涙頂戴という「表出=共有」機能なら情報価値100%、つまり「必要不可欠」だ。これをNHKですらやるような時代になったのだ。まあ「みなさまのNHK」というキャッチフレーズがポピュリズムを意味するのなら正しいけれど(笑))。そして、それはある意味、時代の必然。つまり、報道全般のワイドショー化は現代人のコミュニケーションのための重要な社会的機能の一部を担っているということになる(念のために付け加えておくが、この機能を担っているメディアは他にもある。もちろんインターネット上でも。ただし、テレビが最大かつアドバンテージを有することは間違いないだろう)。

だからテレビはなくならない

テレビはジリ貧だ。だが、こういった機能を備えている限りなくならないし、むしろこちらに特化していくことで生き残りが可能になる。だからこれからワイドショー、そしてニュースを含めた報道コンテンツは、テレビ番組の中でますますその比重を増やしていくだろう。これらはわれわれのコミュニケーションにとってきわめて重要なのだから。

ちなみに、この他にもテレビのコンテンツとしてヒマつぶしとネタ供給機能を備えているのはスポーツ中継、そして情報バラエティだ。だから、これらが番組のジャンルとして伸びていくのではなかろうか。