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いまや、熊本県内はくまモンだらけだ!



熊本にはくまモンがいっぱい

久しぶりに熊本を訪れた。で、とにかくびっくりしたのは、もうあっちこっちがくまモンだらけであったことだ。たとえば九州自動車道の宮原サービスエリア。おみやげグッズの一角が全てくまもんグッズで占められていた。カウンターに行くと、横にあったぬいぐるみ(お話しするくまモン)を10個単位で購入しているお客が。いや、とにかく熊本をドライブするとあっちこっちにくまモンが出没するのだ(黄色いくまモンなんて”珍種”もあった)。こういった「くまモンだらけ現象」は著作権フリーにしたことで、地元の人々がどんどん利用していった結果と分析されているが……はたして、そうだろうか。僕はこの分析は、明らかに的外れだと思う。というのも、著作権フリーのご当地キャラ・ゆるキャラは他にもあるからだ。もし著作権フリーでブレイクするなら、くまモン以外のキャラクターも同様にブレイクしていなければならないはず。つまり、そのキャラクターを要する地域は、熊本みたいにあっちこっちにご当地キャラが出没するという現象が起きていておかしくないはずだ。しかし、必ずしも、というか、ほとんどはそうなってはいない。今回、九州で長く滞在した宮崎にはやはり「宮崎犬」という「ひぃ」「むぅ」「かぁ」3匹からなるご当地ゆるキャラが存在するが、このキャラを見るのは土産物屋などの一部の空間に限られる。くまモンみたいに、われもわれもとくまモンを掲げるというふうにはなっていないのである。ということは、くまモンが熊本県内のあちこちに出現する理由は別のところに求められなければならないはずだ。じゃあ、なぜ、熊本県内はくまモンでいっぱいなのだろう。

全国区化したくまモン

以前本ブログで紹介したが、くまモンはゆるキャラのフリをした究極のキャラだ。ツッコミどころ満載の緩さが小山薫堂という稀代のプロデューサーによって意図的に仕込まれている。だからブレイクした(詳細については本ブログ「くまモンはゆるキャラではない」http://blogs.yahoo.co.jp/mediakatsuya/64091214.htmlを参照)。事実、くまモンはとっくに全国区だ。熊本のみならず、今や日本中のあちこちで見かけるし、マスコットやぬいぐるみを買い求めることもできる(宮崎空港ですら売られていた)。僕の勤める関東学院大でもこの現象は明らかで、学生たちのバックにぶら下げられているキャラクターは一年前まではディズニーのダッフィーとその彼女のシェリーメイという感じだったが、最近ではシェリーメイが外され、ダッフィーの横にくまモンがぶら下がっているという風景があたりまえのように見かけられるようになった。「くまモン、かわい~っ!」というわけで、大学内でもあっちこっちでくまモンがいる(そういえば学食でもくまモンのカップ麺”太平燕”が売られていた)。また、このあいだ所要で吉祥寺に出かけたのだけれど、駅近に熊本物産店があって、やっぱりくまモンだらけ。店内はお客さんでごった返していた。

で、実はこういった「全国区的人気」が結果として熊本県内にくまモンを出現させているのではと、僕は考える。

東国原というブランド

もう6年も前のこと。宮崎では「東国原旋風」が駆け抜けていた。タレントから知事に当選したそのまんま東こと東国原英夫が、鳥インフルエンザ事件をきっかけに地元名産品を大キャンペーンを始め、これが全国区になってしまったのだ。東国原は鳥インフルエンザ事件で宮崎鶏(しばし「宮崎地鶏」と表現されている。本当は「地鶏」ばかりではないのだが)がネガティブな意味で全国的に知れ渡ったことを逆利用し、この宮崎鶏を大々的に売り始めてしまう。その結果、宮崎鶏は一気に全国区にのしあがり、やがてそれが全国に定着。現在では塚田農場のような宮崎地鶏を食べさせる宮崎料理の居酒屋があちこちに展開するようになり、宮崎ブランドを作り上げてしまった。

地元を地元民が発見した

こういった東国原旋風がもたらした現象は、翻って県民意識、県民の地域アイデンティティーを大きく変容させることになる。2007年、宮崎に暮らしていた僕は、自分の意識の変化に気づいた。当時、僕が勤めていた大学は宮崎公立大。地方で公演したりして紹介を受ける際にはしばしばその名前を「宮城公立大」と間違えられるということが起きていたのだけれど、これがピタッとなくなってしまったのだ。「あの東国原の、地鶏の、宮崎の」ということで周囲が認知してくれるようになったからだ。これは結構、キモチイイことでもあった。「おっ、みやざき、イケてるじゃん!」ってなわけだ。

で、こういった感覚を覚えたのは何も僕だけではないはずだ。つまり、こういった「恩恵」を感じたのは、実は宮崎県民全体だったろう。そして、こういったかたちで、一旦全国区化した宮崎ブランドを改めて地元宮崎の人間が認知するという現象が生じる。

地元の人間が”恥部”とみなした宮崎焼酎

宮崎の人間が一杯やるのは地鶏と焼酎と決まっている。そしてこの組み合わせをあたりまえのように延々続けてきた(もちろん今もそうだけれど)。ただし、ちょっと恥ずかしいものとして。たとえば焼酎。一般の焼酎のアルコール度は25度。ところが県内の焼酎は基本20度だ。今や全国区の黒霧島も、県内ではもちろん20度だ。だが、みなさんが最寄りのコンビニに行って黒霧島をチェックすると意外なことが起こる。すべて25度なのだ。県内はい20度で県外が25度という設定は不可思議な話なのだが、これにはちゃんとした理由がある。

戦後、宮崎は貧困にあえいでいた。それでも酒=焼酎は飲みたい。そこでやたらと密造酒が流行った。一般の焼酎を買い求めたくても高くて買えなかったのだ。これに業を煮やした行政側は密造酒を排除するためにアイデアを思いつく。目をつけたのは酒税法。25度の酒税率では宮崎県民は手が届かない。そこで20度を認可し、税率を下げることで一般庶民が買い求めることができるよう配慮したのだ。その結果、密造酒は駆逐され、県内は20度の焼酎がデフォルトということになったのだ。

だが、これは「負の歴史」でもある。なんのことはない「20度」という記号は「貧乏」という意味を含んでいるからだ。僕はこの二十度焼酎が大変美味しいと思っている。そこで、県外の人間におみやげを持っていこうとして焼酎を求めようと酒屋に行くと、店の主人はなぜか店の奥の方から二十五度を出してくるのだ。「いや、いつものやつでいいんです」と告げると、件の店主は「いや、これは二十度ですよ!」とダメ出しをするかのように言い返してくる。つまり、こんな貧相なものを県外に持ちだされては困るというわけだ。ということは、これとセットになる宮崎鶏も同様のカテゴリーに押し込まれているということになる。つまり、地鶏と焼酎で一杯やるなんてのはみっともないことこの上ないというわけだ。だから、決して表には出さないような、そして外部に自慢することもないような、文化の語彙としては認められない産物だった。

遠心→求心の循環で貧乏の記号である地鶏をふるさとの誇りにしてしまった東国原

ところが、焼酎と同様「貧乏の記号」を伴い、さらに鶏インフルエンザでネガティブがイメージがつけられて「弱り目に祟り目」となってしまったこの宮崎鶏を、東国原はあろうことか、おおっぴらに売り出し大ブレークさせてしまったのだ。

宮崎県民はテレビで宮崎鶏や焼酎が大々的に取り上げられていることを知る。そして、実際県外に行くと「あの地鶏の、焼酎の、東国原の」というかたちで宮崎のことを外部の人間に言われるようにもなる。こうなると「こりゃ、いい気分」ということになった。

そして、この「こりゃ、いい気分」というのは、めぐりめぐってふるさとに対するアイデンティティーを構築することになる。つまり、次のような遠心→求心の循環が起こる。


・地元で地元の名産物(宮崎の場合は宮崎鶏)を大キャンペーンする

・全国でブームになる(ここまでが遠心)

・そのブームを地元の人々が知る。いい気持ちになる。

・地元のよさを発見する(ここからが求心)

・その地元に暮らす自分はイケている。


少し理論的に説明すれば、自らのことについてあたりまえのように捉えていて対象化されていない存在が、全国区になることで外部からそのあたりまえを再認識され(遠心)、それが賞賛されているので、自らの優れた側面として受け入れる(求心)。言い換えれば、自己対象化、地域的な視点から述べれば「地域アイデンティティの再生」いや「創造」「発見」ということになる。つまり、遠心→求心の循環によってアイデンティティが外部から獲得されるのだ。

そして、そういった記号を自らが消費することで、それは結果として自らと地域の同一化が図られる。そう、これこそが地域アイデンティティーの形成に他ならない。

遠心→求心の循環で地域アイデンティティーを構築したくまモン

熊本県内のくまモンだらけ現象は、宮崎で六年前に発生したこの東国原旋風と全く同じ構造に基づいている。まず、くまモンが全国中でちやほやされる、つまりくまモンが「遠心的に」広がる。それを熊本県民=くまもん(くまもともん=熊本の者)が知る。だがそのちやほやされているのは地元のキャラクターだ。「おらがふるさとのくまモンがイケてるぜ」ということは、そこに暮らす自分もまたイケている。ということは、自分の周りにくまモンを配置することは、そこに地域アイデンティティーを構築=確認する作業となる。だから、熊本県民は嬉々としてあちこちにくまモンを飾ったり、看板に掲げたりするというわけだ。つまり、今度は求心的にくまモンが広がる。あとは、この循環がぐるぐる回り続けることで地域アイデンティティーはますます高まっていく。ちなみに、前述した宮崎のゆるキャラ「宮崎犬」にはこの循環がない。遠心がないからだ。もちろん、それは求心もないということなのだけれど。

熊本のくまもんだらけ。これは熊本にやって来た観光客に向けられているようでいて、実は、自分たちに向けられているのだ。くまもん=熊本県民がくまモンに見ているのは自分自身に他ならないのである。