必要なのはボトムアップで構築され、柔軟に変容する民主主義的な大きな<物語>

前回は、物語ること、つまり単語を並べるのではなく、単語をつなぎ合わせ、自らの「語り」として論理を展開できる力の再生が、翻って社会のイメージ、国民が共有できる大きな<物語>を再生可能になることを概念的に示しておいた。しかも、それがかつての皇国史観や高度経済成長神話のようなメディア先導によるトップダウンの物語ではなく、きわめて民主主義的で柔軟性に富んだボトムアップな物語として。そして、このような<物語>の再生はヘタレ日本の再生にも繋がると。ならばどのようにしたらこれは獲得可能になるのだろうか。今回は「歴史教育」という、ちょっと危ないネタを使って考えてみたい。

正しい、真の歴史など存在しない

領土問題や教科書をめぐっては、しばしば歴史の認識が問題とされる。つまり竹島はどこのものかとか、南京大虐殺はあったのかとか、正しい歴史が必要だとかなどの国家の利害を立ち位置とした議論だ。

だが、こういった議論は胡散臭い。そして政治の臭いばかりが漂うものだ。歴史というのは「事実」ではあるが「真実」ではない。歴史とは過去の事実を拾い上げてそれを物語るもの。そしてその物語はイデオロギーによって色づけられる。このイデオロギーは二つの側面から歴史に付与される。一つはあまたある歴上の事実のどれを歴史として拾い上げるかという側面、もうひとつは前述したようにその事実をどうつなぎ合わせるかという側面だ。そしてこのイデオロギーこそが政治的なものに他ならない。つまり、権力を掌握する側が自らの立ち位置を正当化するために、それにふさわしい事実だけをチョイスし、そしてそれをさらに都合のよいようにつなぎ合わせる作業が歴史というものの言説ということになる。だから、そこに「真実」はないのである。加えて述べれば、「歴史的事実」として取り上げられるものは「残されたもの」に限定される。つまり時の権力者が、自らを誇示したり正当化するためにその事実、あるいはフィクションを何らかのかたちでどこかに書き留めたもの。ということは、チョイスされる歴史的事実もまた、すでにその時点で別の権力者のイデオロギーが込められている(ということは三重にイデオロギーが付与されている)。言い換えれば、権力を有していない一般の人々の事実は歴史に直接的に残ることはない(こういった、歴史上に痕跡を留めない大多数の人間たちをポスト・コロニアルの研究者G.スピヴァクはサバルタン(=自らを語ることのできないもの)と呼んでいる)。

トップダウンの大きな<物語>が危険な理由

だから、ようするに歴史とは現代の権力者=ヘゲモニーを握った者・体制が自らの存在を正当化させるために紡ぎ合わせた物語=フィクションに他ならない。そして、権力を掌握するがゆえに、その物語をあたかも真実と思わせるような<物語>化をメディアイベントとしてトップダウン的に繰り広げようとするのだ。つまり歴史とはフィクションなのである。ということは歴史を学ぶ側としては歴史を「どの歴史が正しいのか?」というのは客観性の問題ではなく、もっぱら政治的な問題として捉える必要がある。言い換えればトップダウンの大きな<物語>は危険。だから、歴史を学ぶ側は、これをフィクション、あるいはあまたある歴史の物語=ディスクールの一つとして対象化、相対化して捉えなければならないのだ。

ボトムアップの大きな<物語>を生成し続ける方法

そこで必要となるのが、お仕着せではないボトムアップの民主主義的な、柔軟性のある大きな<物語>の構築ということになる。これを歴史教育に適用するとだいたいこんなやり方が考えられる。

現在、歴史教育といえば、その指導方法は通史、つまり歴史全体を教えるということになるが、先ずこれをやめる。変わって時代史を教える。たとえば江戸時代だけとか、さらにその中でも元禄時代だけとかに絞ってしまい、ピンポイントで学ばせるのだ。ただし深く、さまざまな分野に渡って徹底的にやる。その際、はじめはたったひとつの見方=イデオロギーで歴史をレクチャーするのだが、一段落ついたら、今度はそれと同じ歴史的事実を異なったイデオロギーからレクチャーする。つまり、ひとつの限定された歴史領域についてさまざまな視点からこれを掘り下げることで歴史を相対的に捉え、さらにその中から歴史についての自らのパースペクティブ=イデオロギーを醸成させるのだ。こういった個々人の立ち位置からなる歴史のパースペクティブは一般には「史観」ということばで表現される。そう、ここでやろうとするのは一般的な「歴史教育」ではなく「史観教育」に他ならない。

で、この史観が養われたら、今度は別の時代の歴史をやる。そうすると、歴史は教科書に書かれているような平板な、それでいてトップダウンのイデオロギーに基づく解釈ではなく、史観=個人をイデオロギーを備えたを個人の所有物になるのだ。

こういった個人の歴史の物語は、翻ってその個人の社会についてのイメージの苗床となる。また個人の私的な大きな<物語>の苗床ともなる。そしてこの<物語>が重層的に絡み合いボトムアップ的にまとめ上げられる形で社会大のディスクールとしての民主的な大きな<物語>が形成される。もちろんこの<物語>は1カ所にとどまってはいない。個人の史観、<物語>が不断に変容するなかで、同様に柔軟に変容する。だからこそ民主主義的な大きな<物語>として機能するのだ。そして、それは当然ながら権力者の<物語>ではなく、僕らの<物語>になる。だからこの<物語>に対するアイデンティファイは強い。それゆえ、そこに抱く歴史や社会のイメージについても強いモチベーションを抱くはずだ。そして、それがヘタレ日本に凝集力を復活させる……そんな展開になることを僕は期待している。