物語能力の低下は社会の凝集力の低下

物語を語ることの能力は社会の凝集力と大きく関わっている。物語を語る能力が社会の凝集力を高め、社会の凝集力が物語を語る能力を高めるという「相補関係」になっているのだ。だが、現代はこの関係が崩壊している(だから社会もヘタレ、個人もヘタレてしまっている?)。じゃあ、どうやったらこの関係を再生させることが可能だろうか。今回はこのことについて考えてみたい。

大きな物語と小さな物語

現代思想でよく議論されているタームに「物語の消滅」というものがある。ちなみに、これは前回まで示したきたような、個々人の「物語を語る能力」の物語とは、ことばは同じでも意味は異なるので、区別するためにこちらを山括弧で<物語>と表記しておくことにする。

「<物語>の消滅」は次のように語られる。かつて日本には社会のイメージを形成する大きな<物語>が存在した。これは日本国民全体が共有する社会についてのイメージのことで、たとえば戦前なら「皇国史観」、六十年代なら「高度経済成長神話」、八十年代なら「バブル」がそれにあたる。

もう少しわかりやすく説明するために、一例として高度経済成長神話を取り上げてみよう。六十年代、日本人は年率10%を超える経済成長率に促されるかたちで社会や国家のイメージを描く、いいかえれば社会の<物語>を語ることが可能だった。「今はまだ開発途上。しかし刻苦勉励していけば、やがて一億総中流になり、アメリカに追いつき、さらには追い越すことができる。だからガンバレ」という<物語>だ。そして、こういったイメージを定着させることに貢献したメディアがテレビだった。アメリカのテレビ番組が流れ(番組内で登場するアメリカの生活スタイルは、消費生活に溢れており、これが到達すべき目標と設定された)、また刻苦勉励することがアニメで子どもにまでプロパガンダされたていた(「巨人の星」などの一連の”スポ根もの”と称されるアニメは、まさにストイックなまでにこの神話を後押ししていた)。

ところが価値観の多様化とともに、こういった大きな<物語>はリアリティを失っていく。それぞれがバラバラな嗜好を持つようになると、大きな<物語>はむしろその個別の嗜好を疎外する「ウザいもの」へと転じてしまったからだ。その結果、こういった社会をイメージする<物語>は細分化され、小さな<物語>へと縮小。やがては極小化し雲散霧消するという状況を生んだ。

<物語>の消滅が結果する物語能力の喪失

だが、こういった<物語>の消滅は、翻って人々の物語喚起能力を奪い取ることになる。前回まで示したように、物語喚起能力は少ない語彙をさまざまなシチュエーションで繰り返し運用し、これを織りなしていくことで可能となる。大きな<物語>は、社会を限定された語彙による単純なストーリーに縮減することで了解可能にし、それをクドクドと復習することで、個人が物語を構築する揺籃の役割を果たしていたのだ。大きな<物語>が、学習し、繰り返す語彙として成立していたのは、要するに日本国民全体がこの<物語>を共有していたからに他ならない。つまり、どこに行っても同じ<物語>を前提としたコミュニケーションが交わされる。そして、前述したようにそれ自体は語彙数が少ない。だから安定している。それゆえ日本人はこの大きな<物語>の中に含まれる単語、そしてストーリーをカスタマイズするという作業を続ければ、必然的にそれぞれが物語を織りなすことが可能になったというわけだ。ところが、この<物語>システムが崩壊した。だから個人の物語もまた瓦解していったのだった。

トップダウンでの大きな<物語>の再生はもはやありえない

だったら、こういった大きな<物語>を復活させればいいということになる。大きな<物語>はこれまでメディアを利用してトップダウン的に作られてきた。皇国史観であるならばラジオと新聞、高度経済成長ならばテレビ、そしてバブルはテレビと雑誌と広告が煽動し、国民たちに一元的なイメージを構築することを可能にしてきた。いいかえれば常にメディア誘導型の「メディア・イベント」として作られてきた。

ということは、同じようにメディア・イベントをでっちあげれば大きな<物語>は復活し、それに合わせて人々の物語喚起能力も復活するということになるのでは?と考えたくもなる。実際、現在こういった大きな<物語>として唱道されているのがアベノミクスだ。

しかし、このやり方ははっきり言って×だ。インターネットの時代、もはや価値観は徹底的に細分化されている。だから、かつてあったような巨大な求心力を備えるメディアが出現する可能性は薄い(インターネットは巨大なメディアだけれど、むしろ拡散力を備えるメディアだ)。だからアベノミクスをさまざまなメディアを使ってメディア・イベント的にプロパガンダを展開したところで、すぐさまこのカウンター的な議論が登場する。また、インターネット社会は情報が高速で循環する社会でもある。だから仮に大きな<物語>として盛り上がったとしても瞬間的に終了するような、揮発性の高いものにしかならない。

いや、だいいちこういったトップダウンのメディア・イベント的なプロパガンダは危険ですらある。いたずらに価値観の一元化を促し、国民全体が思考停止に陥る可能性があるからだ。30年前までならともかく、現在では現実性は低いし、現実化してはいけない方法論でもある。

物語から<物語>を紡ぐ

ではどうするか?それはトップダウンではなくボトムアップに<物語>を紡いでいくようなシステムを構築することにあると僕は考える。実は、それこそが前回提案した「情報の断捨離による物語能力の再生」なのだ。つまり、まず若年層に物語を作ることを可能にするような教育を施す。そして、彼らが物語を語ることができるようになり、それぞれが大きな<物語>=社会イメージを語るようになる。そしてその集合体として社会全体を包摂する一元的な大きな<物語>が再生される。しかも、こうやってボトムアップに構築された大きな<物語>はファシズムや価値観の一元化を必ずしも生まない。というのも、その<物語>は固定したもの=言説ではないからだ。むしろ人々がそれぞれの<物語>を物語り、これを運用し、議論し合う中で不断に変更=メインテナンスされていく。だから柔軟性が高く流動性の高い、民主主義的な<物語>となるのだ(言い換えれば、大きな<物語>について個々人全てが責任を担うということでもあるのだけれど)。

次回は、この具体的なあり方を再び教育の議論に戻して考えてみたい。取り上げるのは「歴史教育」だ。(続く)